ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

夏目漱石の小説「坊っちゃん」のモデルは熊谷中の先生だった

2021年09月14日 15時47分23秒 | 文化・美術・文学・音楽
現在の県立熊谷高校周辺ではよく知られている話のようだが、夏目漱石の有名な小説「坊ちゃん」の登場人物「山嵐」のモデルは、当時「熊中」と呼ばれた県立第二中学校の先生だった。

漱石が留学先のロンドンから帰って、愛媛県松山市の「松山尋常中学校」で教えた後、「熊中」に赴任した際、同じ職場にいた弘中又一と交友を深め、その破天荒な人柄にひかれて「坊っちゃん」を書く際にモデルにしたのである。

「坊ちゃん」が発表されたのは、熊中時代の1906年のことである。弘中は当初からモデルとされたが、「私の知ったことではない」と無頓着だったという。

弘中は、埼玉県の人ではない。山口県出身で同志社普通高校(現同志社大学)卒業後、1895(明治28)年、松山尋常中学校に数学教師として赴任、たまたま同じ中学職員室の前の前の席にいた漱石と知り会った。

1919(明治33)年、弘中は、熊高の前身埼玉県第二中学中学校(熊谷中=現熊谷高)に着任した。弘中は次に京都の同志社中に移るまで19年間、熊谷市宮町1丁目の借家などに家族と住み、教師を続けた。

熊高同窓会では、弘中先生が熊中に着任して、120周年になるのを記念し、2021年8月リーフレット5千部を発行した。この記事はそれを報じた朝日新聞県版に基づく。












映画「翔んで埼玉」が大ヒット

2019年03月06日 17時11分15秒 | 文化・美術・文学・音楽


「ディスる」という日本語があるのだという。英語の「respect」(尊敬)の反対語「disrespect」(軽蔑)の頭の「dis」をとって、短縮したものでずばり「軽蔑(侮辱)する」という意味だ。

埼玉県や埼玉人を“ディスった”映画「翔んで埼玉」が2019年2月22日公開され、4月中旬までに興行収入約33億円、約260万人が見るという大ヒットぶりを見せた。そのうちの4分の1は県人という。

「翔んで埼玉」の原作漫画は1982年に少女漫画誌「花とゆめ」にギャグ漫画として発表され、2015年に宝島社から新装版が出て注目された。累計発行部数は70万部を超える。作者は、「パタリオ!」で有名な漫画家・魔夜峰央(まやみねお)氏。新潟県出身だが、所沢市に住んでいた1982~88年に描いた。

監督は、「のだめカンタービレ」で、2007年のソウルドラマアワードで最優秀監督賞を得た武内英樹氏。二階堂ふみとGACKTが主演している。

埼玉県民は「手形がないと東京都内に出入りできない」という設定で、「埼玉県民にはそこら辺の草でも食わせておけ」と差別されている。

この映画が公開される直前の2月7日、武内英樹監督、主演の二階堂ふみさん、出演者の一人で県出身のブラザートムさんの三人が県庁を訪れ、知事に「埼玉をディスってごめんなさい」と謝罪、武内監督は「ディスることをテーマにした物語ではない。郷土愛をテーマにした作品」と弁明した。

知事は、埼玉スタジアムなど全国に名を知られた施設や県内経済の成長、豊かな自然環境を列挙、意に介さない様子で「悪名は無名に勝る」と繰り返した(東京新聞)。

この映画の中で、1980年代に県内で人気のあった「なぜか埼玉」の歌が2,3回バックに登場する。「なぜか知らねどここは埼玉・・・」という歌詞を覚えておられる方もいるだろう。

歌ったのは岡山県出身の芸人さいた・まんぞう氏で、18年12月に古希を迎えた。現在、演芸集団ボーイズバラエティ協会メンバーとして、東京浅草東洋館で「歌う審判」として出演している。草野球の審判もしているからだ(朝日新聞)。

18年11月には情報サイト「そうだ埼玉」の中で「埼玉ポーズ」を発表した鷺谷政明氏が徳間書店から「なぜ埼玉県民だけがディスられても平気なのか」という本を出版している。この「埼玉ポーズ」は、この映画の中でもひんぱんに使われている。

 

 


「ムーミンバレーパーク」がオープン 飯能市 

2018年11月14日 20時18分42秒 | 文化・美術・文学・音楽

「ムーミンバレーパーク」がオープン 飯能市

ムーミンは、言うまでもなくフィンランドの童話作家トーベ・ヤンソン女史(1914~2001)が描いた童話漫画の主人公で、日本はもちろん世界中で人気があり、親しまれている。

そのムーミンの世界と北欧の雰囲気を、フィンランド以外では世界で初めて飯能市の宮沢湖畔に再現しようとするテーマパーク「ムーミンバレーパーク」(7.3ha)が、19年3月16日にオープンした。隣接する入場無料の北欧文化の体験施設「メッツァ(フィンランド語で森を意味する)ビレッジ」(16.3ha)は11月9日先行開業していた。この二つを合わせて「メッツァ」という呼び方もある。

「ムーミンバレーパーク}には、ヤンソンの文学や芸術作品に触れられる展示施設「KOKEMUS(コケムス フィンランド語で体験という意味)」、ムーミン、スナフキンら物語に登場するおなじみのキャラクターがショーを見せる「エンマの劇場」、ムーミン一家の住まいを立体的に再現した「ムーミン屋敷」(写真)、湖上にかけたワイヤに滑車でぶら下がって往復400mの空中滑走を楽しむアトラクションなどが設けられている。ムーミンの物語に登場する灯台も園内にある。

先行開業したメッツァビレッジには、北欧をイメージした木造建築物が並び、マーケット棟では、北欧のブランド雑貨、家具や市内産野菜などを販売、レストラン棟には北欧料理「スモーブロー」の専門店など6店が集まっている。湖にはカヌー乗り場も設けられ、地元産木材「西川材」で作られたカヌー10隻が利用できる。施設内には工房もあり、希望者はカヌー作りにも挑戦できる。

これまでの受け身のテーマパークとは違って、入場者が自分の物語が作れる環境づくりを目指した。観光振興のほか、飯能市の地方創生に役立つように、建設工事は市内共同企業体が請け負い(市内の協力事業者も含めると50社以上)、スタッフは市民雇用優先、メッツァへの出品も市内事業者、ふるさと納税ではオリジナルのムーミングッズを返礼品にして、全国から多くの寄付を得た(文化新聞)

メッツァへの最寄駅の西武鉄道飯能駅は、フィンランド風の駅舎にリニューアルされた。駅とメッツァをつなぐ直行バスの運行も始まり、土、日、祝日には同線とJR八高線が通る東飯能駅からも直行バスが運行される。

メッツァビレッジと合わせて年間100万人の入場者を見込んでいる。入場料は大人(中学生以上)1500円、小人(4歳以上小学生以下)1000円。

 


県合唱連盟が創立60周年 記念式典

2018年04月01日 16時20分21秒 | 文化・美術・文学・音楽


埼玉県は全国屈指の「合唱県」として知られる。県内の高校や中学校が、全日本合唱コンクールでほぼ毎年、上位の成績を収めているからだ。

中でも有名なのは戦後間もない1946年に故尾花勇先生の指導の下、音楽部を立ち上げた県立浦和第一女子高である。

最近では、県立松山女子高が16年、県立浦和高が17年、最優秀の文部科学大臣賞を受賞している。中学でも春日部市立武里中が17年に大阪市長賞(2位)を得た。

浦和高の入賞曲は、ラテン語のミサ曲を70人による伴奏なしのアカペラで歌い、17年10月、大阪・フェスティバルホールで大喝采を浴びた。

県合唱連盟は1957年、尾花先生の指導で18団体が集まって設立された。翌58年、第1回県合唱コンクールが浦和一女で開かれ、高校、大学、一般の計12団体が参加した。

連盟主催の大会はその後、おかあさんコーラス県大会やおとうさんコーラスなどと増えていった。毎年6月には県合唱祭も開かれている。現在加盟は約300団体。(朝日新聞参照)

3月21日の記念式典は、さいたま市大宮区のソニックシティ大ホールで開かれ、連盟に協力、貢献した会社や人のほか、60年連続して連盟事業に出演した合唱団として、浦和一女のほか大宮、川越、川越女子の各県立高校が表彰された。

表彰の後、記念演奏会に移り、合唱団単位ではなく、ジュニア、男性、女性、中学生、高校生、一般のブロックに分かれて、「旅立ちの日」「ハレルヤ・コーラス」などが披露され、最後は「N響団友オーケストラ」の伴奏で、エルガーの「威風堂々」を聴衆と一緒に歌って散会した。

「埼玉県は本当に合唱王国なのだ」と実感した午後だった。

 


前衛俳句の旗手 金子兜太さん死去

2018年03月02日 19時45分24秒 | 文化・美術・文学・音楽


秩父の生まれで埼玉県出身の文化人として最も知られ、戦後日本を代表する前衛俳句、社会性俳句の重鎮だった金子兜太(とうた)さん(98)が18年2月20日夜、入院先の熊谷市の病院で長男の真土(まつち)さんとその妻に見守られて、急性呼吸促迫症候群で亡くなった。 

兜太さんは、俳人だった妻の皆子さん(06年81歳で死去)の勧めで、50歳を前に1967年、東京から熊谷に転居していた。

死んだのが埼玉なら生まれたのは、1919年母はるさんの実家の小川町だった。

<長寿の母うんこのようにわれを生みぬ>

という有名な句を09年に出した句集「日常」に残している。母親のはるさんは丈夫な人で、104歳まで生き、6人の子供を産んだ。

兜太さんは、皆野町で開業医だった父の元春さん(俳号・伊昔紅=いせきこう)の長男だった。伊昔紅は助兵衛な歌だった「秩父豊年踊り」を、公募したり、自ら作ったりして、歌詞、振り付けとも全国に通用する有名な民謡「秩父音頭」に創り変えたことで知られる。兜太さんはこの歌が好きで、乞われるとよく歌った。

一番有名な<秋蚕(あきご)仕舞うて麦蒔き終えて秩父夜祭り待つばかり>の部分の歌詞は伊昔紅の手になる。

伊昔紅は上海の東亜同文書院の校医を務めていたので、兜太さんも2歳から4歳まで上海にいたことがある。  

 生まれも死ぬも埼玉県というわけで生粋の埼玉っ子。兜太さんの産土(うぶすな)の地は埼玉県だったのだ。

皆野町皆野小、熊谷中、旧制水戸高、東京帝国大学経済学部で学んだ後、繰り上げ卒業で日本銀行に就職した。すぐ海軍に入り、終戦間近な1944年、海軍主計中尉として、敗色濃いトラック諸島(現ミクロネシア連邦・チューク諸島)に赴任、部下が飢えや機銃掃射、手りゅう弾製造で死んでいくのを目の当たりに見た。

俳句は、水戸高時代に作句を始め、大学時代は加藤楸邨(しゅうそん)に師事した。

終戦で捕虜になり生き延びて、最後の復員船でトラック島を去る際に残した

<水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>

には死んだ戦友への思いが込められている。この句が兜太さんの戦後の俳句創りの原点となった。

東京都出身の加藤楸邨も、同じ埼玉県の粕壁中学校(現県立春日部高校)の教諭を務めたことがある。兜太さんは同僚たちに誘われて俳句を始め、粕壁の駅近くの病院に応援診療に来ていた水原秋桜子に会い、師事するとともに、「馬酔木」に投句を始め、頭角を現した。楸邨と兜太さん師弟はこのような「埼玉県の縁」で結ばれていたのだ。

楸邨は教員を辞して東京文理科大学(現筑波大学)国文科に入学。妻と三人の子を連れて上京し、石田波郷ともに「馬酔木」発行所で編集と発行事務を務めながら大学に通った。

 <曼珠沙華どれも腹出し秩父の子>、<利根川と荒川の間雷遊ぶ>

兜太さんには産土としての秩父を詠んだこのような句も多いが、<美の山に朝日生まれ 両神に夕陽燃える>で始まる皆野中の校歌なども作詞している。熊谷市の八木橋百貨店のカルチャー教室で俳句を教えたこともある。

俳句を通じた故郷への貢献に感謝して、皆野町名誉町民、熊谷名誉市民の称号や埼玉文化賞などを贈られている。

 現代俳句協会会長、名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者、菊池寛賞、朝日賞・・・朝日俳壇の選者も1987年から務めたが、兜太さんを失ってポッカリ穴が開いた感じだ。

4月2日、熊谷市内で営まれた告別式で、長男の真土(まつち)さん(69)は、「父は意思疎通には支障はなかったものの、16年冬にアルツハイマー型の認知症と診断されていた」と明らかにした。

 

 


銭湯の「富士山のペンキ絵」描き さいたま市

2017年10月29日 18時41分02秒 | 文化・美術・文学・音楽



よく出かける近くの「鹿島湯」で、「17年10月28日の土曜日午後、お風呂は休業にして、男湯の浴室の奥の壁に”世界で唯一の女性銭湯絵師 ”が富士山を描くのを公開する」というので、出かけてみた。富士山のペンキ絵は15年ぶりの復活という。女湯の方からも富士山は見られるようになっていて、女湯の方には埼玉県で一番高い武甲山も描かれている。男湯は3つに分かれていて、泡風呂が売り物だ。

県庁に近いこの湯は、1986年12月の開業当時「鹿島台」と呼ばれていたのでこの名がついた。井戸水を薪で沸かす昔ながらのお風呂やが売り物。毎月26日の「ふろの日」には、客にプレゼントを渡す。石鹸をもらって驚いたこともある。

入口の右手の駐車場にテントが張られ、缶ビールやお酒、焼き鳥も売っていて、浴場の着替えの間は子ども連れなどでいっぱいだった。子供のお絵かきもあるからだ。

NHKworldで海外に放送(日本ではインターネットだけ)されるとかで、女性スタッフの姿もあった。

着いた時には、男湯の富士山の絵描きは終わっていて、あわてて撮ったのがこの写真。水色のペンキで下絵を描き、その上にカラーをつける。空などはローラーを使って一気に塗るとかで、仕上がりまで3時間足らずで済んだようだ。

女性絵師は、田中みずきさんという若い長身の美人だった(写真右)。1983年生まれとあるから、まだ30代半ばである。

インターネットで「銭湯 絵師」を引いてみると、色々のことが書いてあって、それを総合すると・・・

日本で銭湯絵師として現役で活躍しているのは、現在たった3人しかいない。その中の一人が田中さんである。筑波大学付属高校を出て、明治学院大学で美術史を学んでいた3年の時(03年)、銭湯の絵と初めて出会って魅せられ、卒論のテーマに決めた。

始めてローラー使いを考案したベテラン銭湯絵師中島盛夫さん(1945年生まれ)に弟子入り、9年修行して13年に独立した。中島さんは「現代の名工」にも選ばれている。

田中さんは銭湯のペンキ絵はもちろん、個人宅のお風呂、旅館の風呂の壁なども手がけている。

もう一人忘れてならない銭湯絵師の長老は丸山清人さん(1935年生まれ)。1万点以上の銭湯絵を描いてきた。もちろん富士山だけではない。

35年間で全国の銭湯3000件以上を回った銭湯研究家・町田忍さんが書いたシリーズ・ニッポン再発見2の「銭湯」(ミネルヴァ書房、2016年発行)にも「最盛期に数十人いた絵師も、現在職業としている人は全国に二人となってしまった」とあり、中島、丸山さんの二人の名前が出ているから、この30半ばと70代、80代の3人が日本の銭湯絵師の全てなのだろう。

富士山の新しいペンキ絵の下で泡風呂につかれるのが楽しみだ。1970年代に流行った南こうせつの「神田川」を口ずさみながら。あの頃は筆者も若かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


梅雨空に「九条守れ」の女性デモ  さいたま市

2017年10月23日 11時47分05秒 | 文化・美術・文学・音楽


何の変哲もない俳句のように見えるが、14年6月に詠まれたこの句の「公民館だより」への掲載をめぐってさいたま市と作者の女性(77)と支援する市民有志の双方が、さいたま地裁に続いて、東京高裁さらに最高裁で争い、最高裁は18年12月下旬、「不掲載の違法性を認める一方で、掲載は命じない」という女性側を支持する判断を下した。

これを受けて市の細田真由美教育長は「義務はないとしても作者の気持ちに配慮する」と19年2月1日発行の「公民館便り」に掲載した。

各新聞の報道を読むと、さいたま市大宮区の三橋公民館には句会があった。句会が選出した秀句は3年8か月にわたり、毎月、この公民館が発行する公民館だよりに掲載されていた。

この句を選出したところ、公民館は「世論を二分する題材を扱っている」「公民館の考えであると誤解を招く」と掲載を拒否し、公民館便りの俳句コーナーも閉鎖した。

女性側は、不掲載の撤回を求める請願をしたものの、市側は「公平・中立であるべき」と掲載拒否を続けたため、女性は1年後の15年6月、市を相手取りさいたま地裁に、「表現の自由を保障した憲法21条などに違反する」「掲載を期待する権利を侵害された」などとして、その掲載と慰謝料200万円余の支払いを求めた国家賠償請求訴訟を起こした。

口頭弁論は、同年9月から始まり、原告側は、表現の自由だけでなく、憲法と主に成人に対する教育活動について定めた社会教育法を根拠に、句会の活動と、成果を発表する場である掲載が、行政によって阻害されたと主張した。

市側は「公民館だよりは公民館側に発行、編集の権限がある」と請求棄却を求めていた。

さいたま地裁は17年10月13日、「思想や信条を理由に俳句を掲載しないという不公正な取り扱いをしたのは国家賠償法上、違反」として、市に5万円の賠償を命じた。

不掲載が発覚してから3年4か月、提訴以来2年4か月経っていた。

裁判長は俳句には句会や作者の名が併記されるので「公民館が俳句と同じ立場にあるとは考えがたい」「公民館の中立性や公平性を害するとは言えない」と判断、女性の思想や信条を理由に不公正な扱いをし、不掲載には正当な理由がないと指摘した。また、掲載への期待を「法的保護に値する人格的利益」と位置づけ、これを侵害したと結論づけた。

一方、表現の自由の侵害に関しては「公民館だよりという表現手段を制限されたに過ぎない」などとして退け、公民館は提出された句をそのまま掲載する義務も負っていないとし、句の掲載請求も認めなかった。

東京高裁は18年5月18日、一審と同じく「思想、信条を理由に不公正な取り扱いをした」と違法性を認めたが、賠償額は5千円に減額、掲載については「公民館は秀句をそのまま掲載する義務はない」と一審判決を支持し、訴えを退けた。

双方は同年5月31日、市側に続いて女性側も最高裁に上告した。

同年12月20日最高裁は、不掲載の判断を違法と認め、市に慰謝料5千円の支払いを認めた高裁判決を支持した。 


第8回世界盆栽大会 さいたま市

2017年06月15日 17時11分40秒 | 文化・美術・文学・音楽


4年に一度の世界の盆栽の祭典「世界盆栽大会」が17年4月27~30日、メーン会場のさいたま市のスーパーアリーナ(中央区)、大宮盆栽美術館(北区)、大宮ソニックシティなど6か所で開かれた。国内開催は1989年旧大宮市で開かれた第1回大会以来、28年ぶり2度目。ソニックシティの開会式には、満員の約1500人(うち外国人600)が参加した。期間中約40の国と地域から1215人の外国人が参加登録した。

式には大会名誉総裁の秋篠宮殿下が出席、挨拶した。開会式直後には、“盆栽界の錬金術師”として知られる世界的な盆栽作家木村雅彦さん(77)が、記念実演、創作盆栽「真柏の石付」を1時間で完成させた。

メインの展示会「日本の盆栽水石至宝展」はスーパーアリーナで開かれた。会場入り口には、樹齢1000年以上の日本を代表する名作真柏  銘「飛龍」などの名品や宮内庁所蔵のものなど貴重な盆栽のほか、さいたま市内の11の小学校の児童約1000人が育てた盆栽も展示された。入場約4万5千人だった。

サブ会場の盆栽美術館では「盆栽界の至宝」と呼ばれる五葉松「日暮し」(推定樹齢450年)が6年ぶりに特別公開された。(写真 美術館資料から) 「日暮し」は、大小二つの幹の間の空間が絶妙な余白の美しさを生み出し、日没まで見ても見飽きないので、その名がある。

戦前、新潟の石油王・中野忠太郎が命名した。盆栽の見方には「表」からと「裏」からがあり、通常は「表」から観察するが、どちらから見ても優れたものなので「日暮し」の形は「名樹に表裏なし」の名言を生んだ。評価額は1億円を超すとの声もある。入場者は1万2350人だった。

大会後の5月以降は同美術館が初、中級の専門講座「さいたま国際盆栽アカデミーを開講、19年度には上級コースや外国人向けのコースも設置する。

氷川神社(大宮区)では、「奉納盆栽展」を開催、県内外の愛好が神社にまつわる盆栽約30点が出典した。神社ではまた、氷川盆栽マルシェが開かれ、地元グルメの販売などがあった。


さいたまトリエンナーレ2016 さいたま市

2016年10月23日 15時13分15秒 | 文化・美術・文学・音楽


トリエンナーレのブームである。16年は国内8か所で開かれ、年々増えているという。

遅ればせながら、さいたま市が初めて開く現代アートの国際芸術祭「さいたまトリエンナーレ2016」が、10月24日から12月11日まで79日間の日程で始まった。

トリエンナーレとは、イタリア語で「3年に1度」という意味。3年に1度開国際芸術展である。

10か国34組の内外のアーティストが参加、「JR与野本町駅―大宮駅周辺」、「武蔵浦和駅―中浦和駅周辺」、「岩槻駅周辺」の3エリアの、彩の国さいたま芸術劇場や別所沼公園、旧県立民俗文化センター(岩槻区)など17会場で行われる。

インスタレーション(空間芸術)、映像、演劇ダンス、音楽演奏など、48の展示・イベントなどが予定され、このほか市民グループが40、市内の文化施設も21の企画を実施する。

インスタレーションとは、現代アートの新しい表現方法の一つで、屋内や屋外の床などの展示空間に作品を置いて、空間全体を芸術作品として見せる。元は「設置」という意味。

さいたま市は12年に「文化芸術都市創造条例」を施行、そのシンボルとなる事業としてトリエンナーレの開催を決めていた。

関東大震災後には、画家が東京から居を移して、40人もの画家が浦和在住と新聞に報じられ、「鎌倉文士に浦和絵かき」と呼ばれた時期もあったのだから。

テーマは「未来の発見」で、アーティストたちは開幕前からさいたま市を訪れ、市民の協力で作品制作に当たった。

人口175万人のさいたま市を「生活都市」としてとらえ、アートを鑑賞するだけでなく、「共につくる」「参加する」ことに力点を置いたという。手伝いをする市民サポーターは600人以上が登録している。

市では、16年度までの3年間で7.9億円をかけ、来場者30万人、経済効果22億円を見込む。

美術館にはよく行くが、トリエンナーレは初めてなので、好奇心から説明会を聞きに行ったり、現場に足を運んだ。

武蔵浦和駅と中浦和駅の間に最近できた「西南さくら公園」にある巨大彫刻が前から気になっていたので、初日に出かけた。このトリエンナーレの目玉の一つだという。

埼京線と桜の名所「西南桜通り」の間の小さな公園の中に、上下黒のスーツ、黒のネクタイ姿のビジネスマンが、右ひじに頭を乗せ、穏やかな表情で芝生に横たわっている。

「さいたまビジネスマン」と題するもので、全長9.6m、高さ2.5m。ラトビアの彫刻家アイガルス・ビクシェ氏(47)の作品だ。強化ポリウレタンと鉄材でできたとある。

さいたま市を下見に訪れて、埼京線の混雑ぶりやスーツ姿のビジネスマンの多さに驚き、タイなどのお寺にある「寝釈迦像」にインスピレーションを受けて、創ったものだとのこと。

「寝釈迦像」とは、釈迦が入滅する様子を描いた仏像のことである。「涅槃(ねはん)像」と呼ばれる。

若い頃仏教のことなど何も知らず、バンコックの有名な寺で初めて見たときには、「タイは暑いので昼寝しているんだろう」と思ったのが懐かしい。

頭を右ひじで支えている姿は同じだが、気になることがある。眼を閉じていることだ。

寝釈迦像には眼を閉じているのと、眼を開けているのがあって、閉じているのは入滅後の釈迦の像ということになっている。

ちょっと見た時には、「昼寝してるんだろう」と思ったが、上下のスーツにも、黒い髪の上、靴の底にもクモやハエがたかっていて、煩わしかろうに、振り払ったりしていないところを見ると、このビジネスマンはすでに「御入滅後」なのだろうか。

遠くから見ると、「のんびり昼寝風」だったこの像は、近寄って見ると、違った意味を帯びてくる。

掲示板には、「本作品は、悟りの境地を開き、唯物志向から解き放たれたビジネスマンの姿を表現しました」と書いてある。

仏様なのである。畏れ多くも合掌か、お線香の対象なのだ。

満員電車で埼京線で通勤する背広のサラリーマンも悟りの境地に達することができるという教えなのだろうか。

近くの別所沼公園には、ちいさな船が2隻浮かんでいたが、アサガオの種をモチーフにしたものだという。

「彩の国さいたま劇場」には、花びらが空気圧で膨らんだり縮んだりする「息をする花(蓮)」、大宮区の山丸公園には空っぽの大きなエアドーム、大宮市民会館前地下の元食堂の調理室には豚の像が7体天井から吊るされていた。

岩槻駅から無料バスに乗って、旧県立民俗文化センターまで足を延ばすと、正面の床に枕がずらりと並んだ作品が歓迎してくれ、室内にはさいたま市で発掘されたという触れ込みの犀(さい)の埴輪・・・などもあった。

物珍しさから面白さはあっても、相手がモダンアートだけに、「分かったか」と聞かれると、「見ることは見ましたが」と答えるほかはない。

視覚的なものだけではなく、「相撲聞芸術」とか動く電車の中のパフォーマンスも披露されたようだ。

演劇や音楽交流などの「市民プロジェクト」も開かれていて、11月12日、与野本町コミュニティセンターの「ダンスパフォーマンスコレクション」を見た。モダンアートとは関係がないようで、面白かった。

12月11日、79日間の幕をとじたが、主要6会場と期間限定のイベントを合わせ、約10万8千人が訪れたという。目標の3分の1で、市は17年1月20日、約36万人に達していたと発表した。当初より25万人上積みされたわけである。

 


橋本雅邦と川越市

2015年07月05日 17時50分15秒 | 文化・美術・文学・音楽


絵はからきし描けないのに、見ることは人一倍好きだ。学生時代から銀座の画廊にひんぱんに出入りし、新聞記者になり、定年になっても都内の美術館や美術展の目ぼしいのはほとんど見た。

最初は日本画が好きで、日本画革新の先頭に立った橋本雅邦の名は狩野芳崖とともに忘れられない。その雅邦が川越市に縁があったとは露知らなかった。

雅邦は1835(天保6)年、今の東京・銀座木挽町の幕府の御用絵師狩野家の邸で生まれた。

父の橋本晴園養邦(せいえんおさくに)が狩野家の門下で、後に川越藩主になった松平周防守の御用絵師だったからだ。門弟の中でも位は高かったようだ。

千太郎と名づけられた雅邦は、7歳ごろから父の手ほどきを受け、12歳で狩野派の一派の門に入った。くずしくも狩野芳崖と入門が同日だった。

23歳で芳崖とともに塾頭となり、26歳で独立を許され、雅邦と称した。

1866(慶応2)年、周防守が川越藩主となり、父とともに川越藩士として御用絵師となった。約2年間、幕末維新の動乱を避けて一家で川越に避難したのである。(家族だけで本人が来た証拠はないという専門家もいる)

当時、日本画の需要は少なくなり、俸禄もままならなくなって、生活は窮乏を極めた。中国輸出用の扇面に絵を描いたり、三味線の駒を削る内職までした。不安な世情で妻が精神異常をきたし、3人の子供をかかえた辛苦は想像に余りある。

1871(明治4)年の廃藩置県で、川越藩が廃止されると、御用絵師としての禄を立たれて、生活を支えるため、後の海軍兵学校に製図掛として明治19年まで15年間勤務した。

明治6年ごろから日本画など伝統美術の見直しが始まった。明治12年、伝統美術復興に取り組む「龍池会」が創立され、明治15年、第1回内国絵画共進会が開催され、雅邦の出品した「琴棋書画」などが最高賞の銀印を授章した。雅邦の画壇デビューである。

この雅邦や芳崖を世に送り出したのが、東京大学のお抱え教師アーネスト・フェノロサだった。

雅邦は明治17年、フェノロサが組織、指導した「鑑画会」に属し、第1、2回大会で3、2等賞を受賞した。伝統的な狩野派絵画と西洋画法を融合させ、独自性を打ち出した日本画だった。

明治22年、東京美術学校が創設され、雅邦は校長の岡倉天心を助け、教授として、横山大観、菱田春草、下村観山らを指導した。

「白雲紅樹図」や「龍虎図屏風」(いずれも重要文化財)が雅邦の最高傑作とされる。

明治31年、岡倉天心を排撃しようとする東京美術学校騒動が起こり、天心を初め雅邦、大観、観山、春草らが辞職、「日本美術院」を創立した。年長の雅邦は主幹となって天心を支えた。

「日本美術院」は茨城県五浦(いずら)に移転したが、高齢の雅邦は東京に留まった。

一方、雅邦の画名が高まるにつれ、川越の人々は、雅邦が川越藩の御用絵師だったことや、二年間滞在した親近感もあって深く尊敬するようになり、愛好家や支援者が明治30年、雅邦の名にちなんで、「画宝会」という後援会を立ち上げた。

明治32年には、「画宝会」主催の第1回の雅邦翁絵画展覧会が開かれ、4,500点、翌年には旧作を含む5、600点が展示された。

会費の積み立てで雅邦の作品が安価で手に入る会で、雅邦は毎月10枚ほどの制作に追われたという。

川越市の蔵のまちの山崎美術館などに愛好家の所蔵作品が残されているのはそのためである。

雅邦は明治41年、74歳で死亡したが、「画宝会」の活動はその前年まで続いた。

田舎教師 羽生市

2014年05月06日 16時21分54秒 | 文化・美術・文学・音楽


羽生は田舎教師のまちである。

どこに行っても田舎教師で、「田舎教師最中」の広告さえ電信柱にあった。

若い頃は文学青年気取りで、野田宇太郎の「新東京文学散歩」を手に東京を歩き回った。今は小説もほとんど読まない日々だが、14年5月思いたって羽生市を訪ねた。

なぜ隣県の館林市出身の小説家・田山花袋が利根川を隔てた羽生の青年のことを書いたのか、気になっていたからだ。

その謎はすぐ解けた。東武東上線羽生駅のすぐ近くにある建福寺に、この小説のモデルになった小林秀三の墓があるというので、真っ先に訪ねると、この寺の第23世住職の大田玉茗(ぎょくめい)が大きな役割を果たしたことが分かった。

この名前は、明治文学史の中でかすかに記憶に残っていた。新体詩人で、花袋、尾崎紅葉らと交友があり、花袋はその妹里さと結婚していたから、花袋は義兄に当たる玉茗の寺をしばしば訪れた。

建福寺には秀三の友人たちが立てた新しい墓があり、寺に下宿したことのある秀三の日記が玉茗の手元に残されていたことから、小説の構想を得て、その短い生涯を描いた。

秀三は埼玉県第二中学校(現・県立熊谷高校)を卒業した。向学心にあふれていたのに、家貧しく、三田ヶ谷村(現・羽生市弥勒)の弥勒高等小学校の助教(准教員)になった。

大学に進学していく友人らに比べ、田舎教師に埋没していく自分に悶々とする中、肺結核を患い、3年余りの教師生活の後、20歳で死んだ。1904(明37)年、日露戦争の勝利(遼陽占領)に羽生の町では提灯行列をしていた時である。

花袋も幼い頃父を亡くし、苦労した経験があるので、他人事とは思えなかったのだろう。

秀三は、建福寺に下宿した後、通うのに時間がかかるので、小学校に移り住んだ。すでに廃校になっている小学校の前に銅像が立っているというので、駅前から市のあいあいバスというマイクロバスに乗って出かけた。

かれこれ30分、その名も「田舎教師像前」というバス停で降りると、目の前の三叉路の真ん中にその像は立っていた。1977年に建立された。(写真) 県営さいたま水族館、羽生水郷公園や東北自動車道の羽生ICも近くにある。

近くの円照寺の境内には、当時の村の面影を伝える「お種さん資料館」がある。秀三が勤める学校へ弁当を届ける、料理屋小川屋の娘として登場する「お種」のモデル小川ネンさんにちなんだものである。

この小説には、ネンさんのように実在した人物が色々登場している。関訓導の名前になっている速水義憲氏は、食虫植物ムジナモを埼玉で初めて発見した人だった。

学校近くの宝蔵寺沼ムジナモ自生地は国指定の天然記念物になっている。

1938年、片岡鉄平、川端康成、横光利一の3人が「田舎教師遺跡巡礼の旅」称して、羽生を訪れた写真もあった。この寺には89歳まで生きたネンさんの墓もある。

バスの便数は少ないので、駅まで歩いて帰った。市立図書館・郷土資料館に立ち寄ると、1909(明治42)年、左久良書房(東京・神田)から出版された「田舎教師」の初版本が展示されていた。

箱入りの美装本で、秀三が死亡時にもらっていた月給14円で換算すると、その値段は現在なら2万円するという説明があって驚いた。

色々勉強になった文学散歩の一日だった。




「荒川のうた」コンサート 戸田市

2014年01月20日 13時30分57秒 | 文化・美術・文学・音楽
「荒川のうた」コンサート 戸田市

埼玉県の母なる川、荒川―――。この川の流域を詞にして曲にした「荒川のうた」がすでに百曲以上できていて、「荒川のうた合唱団」の百曲記念コンサートが開かれるという。

そんなチラシに気がついて、14年1月19日午後、会場の戸田文化会館大ホールに出かけた。有料(999円)なのに定刻前には長い列が出来ていて、広いホールもほぼ満員だった。

作詞家が実行委員長として、司会兼合唱団団長として歌い、作曲家が合唱を指導し、自ら指揮をとる。こんなコンサートを聴いたのは初めてだった。詩も曲も見事だったので、すべて「荒川のうた」34曲を2時間半堪能した。

1999年、旧建設省荒川工事事務所が荒川放水路完成70周年記念事業で荒川にまつわる歌を募集した。その際委嘱されて創った、源流から東京湾までの12曲の合唱組曲「荒川のうた」が川口市リリア音楽ホールで発表された。

翌年、この発表会に戸田市関係者がいた縁で市に「荒川のうた合唱団」が設立された。その後も創り、歌い継がれて発表から15年、「荒川のうたコンサート」も5回目になる。

10年には「1千人で歌おう荒川のふるさと」と名づけた10周年記念コンサートも開かれた。

作詞はいずれも、看護師の経験もある高野美代子さん(福島県出身、鴻巣市在住)、作曲はうたごえ運動に関係する作曲家として有名な大西進氏(三重県出身、横浜市在住)である。

大西氏は、「大漁」などで知られ、若くして自殺した山口県の女性詩人金子みすずの残した全ての詩515編に曲をつけるなど作曲活動40年、作曲したのは約2千曲に上る。

海外でも歌われる「青い空は」、NHKみんなのうたの「カメレオン」などでも親しまれている。

コンサートには、大西氏の知り合いの著名なバス歌手岸本力氏も特別出演、得意のロシア民謡のほか、「荒川のうた」の中の最初の曲「荒川のふるさと」を披露した。

岸本氏は、1972年に日本音楽コンクールで第1位になり、第5回チャイコフスキー国際コンクールで最優秀歌唱賞を受けるなどデビュー以来40年余。今度のコンサートでも発声を指導した。

「荒川のふるさと」は

♪ 荒川のふるさとは緑豊かな 奥秩父の甲武信岳
  白樺シラビソ橅の木が 静かに息づく原生林 ♪

と始まる。歌詞も曲も素晴らしいものだ。

「荒川のふるさと」には、「大滝村」「長瀞のうた」「宝登山蝋梅音頭」や戸田市周辺では「芝川の十三夜」「笹目川」「戸田橋花火」など、県民には親しい題材が歌われている。

私がこのコンサートに行く気になったのは、今では遊歩道が春は花見の名所になった「笹目川」が曲目に入っていたからだ。毎日越えている川である。、

岸本氏のほか、アルトのソロ歌手田中優子さんが率いる寄居町の女声合唱団「コーロさくら」も応援にかけつけた。

「コーロさくら」は、12年に日米桜交流100年を記念して、「荒川のうた合唱団」とともに訪米、ワシントンのポトマック河畔やニューヨークのカーネギーホールでも歌っている。

大地震で埼玉県などで避難生活を送っている福島県浪江町の混声合唱団も「荒川のうた合唱団」とともに、ふるさとの歌2曲を披露した。

「荒川のうた」シリーズは、祖父母から孫まで3世代の愛唱歌を目指しているので、幼稚園から高校生で構成されている「戸田市児童合唱団」も、秩父鉄道を走る蒸気機関車「パレオエクスプレス」をテーマにする「SLパレオ」など7曲を歌った。

最後は「荒川のふるさと」の大合唱・・・。

埼玉県には、正式な県歌がある。この美しい曲を聞きながら、県歌と並ぶ「県民歌」にしたら、県の知名度も高まるのではないかと、ふと思った。秩父市の影森中学校起源の卒業式の定番ソング「旅立ちの日に」のように。

ベン・シャーン展 県立近代美術館 さいたま市

2012年11月25日 11時13分48秒 | 文化・美術・文学・音楽

県立近代美術館で12年11月から13年1月までの日程で「ベン・シャーン展」が始まり、さっそく見に行った。(写真はポスター)

ベン・シャーンといっても若い人にはなじみが薄いかもしれない。先にこの美術館で展覧会が開かれたアンドルー・ワイエス同様、20世紀のアメリカを代表する画家の一人。

震えるような繊細な線で戦争、人種差別、迫害、貧困で虐げられた人々の悲しみや怒りを優しく描き続けた。

「線の魔術師」とも呼ばれる。

ユダヤ系リトアニア人で米国へ移住、社会的テーマを中心に制作を続け、1930年代から60年代に活躍、1969年に死亡した。

驚くのは、今回展示された約300点が、他館から借りたものではなく、朝霞市のコレクション「丸沼芸術の森」のものだということだ。

芸術の森コレクションによるこの美術館のベン・シャーン展は、2006年以来二度目。前回より約百点も増え、小品が多いとはいえ、その点数に圧倒される。

11年から12年にかけて、日本の各地で回顧展が開かれるなど、ベン・シャーンへの関心が高まっているようで、平日でもけっこう見に来る人が多いのも驚きだ。

この美術館のアンドルー・ワイエス展も、この芸術の森のコレクションの所蔵品だった。

この芸術の森は長年、若手芸術家の支援を続けており、ベン・シャーンの作品もその参考になるようにと集められた。

ベン・シャーンには、社会問題をテーマにした作品が多い。今回の展示でも、フランスの「ドレフュス事件」、米国の「サッコとヴァンゼッティ事件」といった有名な冤罪事件や、キング牧師を中心とする米国の「公民権運動」、ナチズム反対のためのポスターなどもある。

1954年に日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験で被爆、無線長だった久保山愛吉さんが死亡した「第五福竜丸」事件も、雑誌のための挿絵原画などが見られる。

ベン・シャーンは「福竜丸(ラッキー・ドラゴン)・シリーズ」として、約10年描き続けたという。

このような社会的事件を題材としたものに限らず、シェークスピアや聖書を題材にしたものなどにも、素晴らしいものがあり、その多才さをうかがわせる。社会派リアリズムの画家という評価にはおさまり切らない幅の広さだ。

初めてベン・シャーンの作品に接したのは、大学の図書館の画集で見た「解放」だった。この展覧会にはない。

第二次世界大戦後のフランス解放のニュースを聞いて1945年に描かれたもので、戦争で吹き飛ばされたアパートと瓦礫を背景に、残っていた回転柱にぶら下がって遊ぶ三人の子どもたちの光景である。

白い風が強く吹きつける中で、顔がはっきり見えるのは一人だけ。だが、ぶら下がっているだけで、その表情は決して解放の喜びではない。

以来、ベン・シャーンといえば、この絵がいつも頭に浮かんでくる。

「解放」は、ニューヨーク近代美術館所蔵で、回顧展の際、放射能汚染を心配して福島県立美術館には貸し出されず、話題になった。

福竜丸事件を対象にしたベン・シャーンが存命なら、「どう対応したかな」とふと思った。

アンドリュー・ワイエスのコレクター 朝霞市

2012年11月23日 19時46分10秒 | 文化・美術・文学・音楽

アンドリュー・ワイエスのコレクター

絵を見るのは大好きだ。東京に通っていた頃は、上野の国立博物館を筆頭に目ぼしい美術館の主要な展覧会はほとんど見た。

どこの県にも県立美術館はある。わが埼玉県にも、JR北浦和駅からほど遠からぬ北浦和公園のなかにあり、この公園は昔から私の好きなところだ。

会社通いを止めて、暇つぶしに加入させてもらったシニア大学の教室は、この公園に道路を隔てて向かい合った公民館の中にある。

その大学のカリキュラムの一つに「県立美術館見学」があり、一緒に美術館に出かけた。“学生”が125人もいるから大変だ。

学芸員の説明を聞くと、大変面白い。開館以来よく来ているとはいえ、企画展を見に来る程度だから知らないことが多い。

一番興味を惹かれたのは、この美術館が女優・若尾文子の夫だった黒川紀章の設計だということだった。黒川紀章はこれをきっかけに各県の美術館、ついには遺作の東京・六本木の「新国立美術館」に至ったのだというである。建築には絵と同様、昔から関心がある。

もう一つ飛び上がるほどびっくりしたのが、9月25日から12月12日(10年)までこの美術館で展示している「アンドリュー・ワイエス展 オルソン・ハウスの物語」の出品作約200点のすべての所有者が、埼玉県は朝霞市の倉庫業者だということだった。

ワイエスの絵は渋谷の文化村などでこれまで二回見た。それが埼玉県に関係があったとは露知らなかった。

アンドリュー・ワイエス(1917-2009)は2007年、ブッシュ大統領から芸術勲章を受けたほどの米国の国民的画家。米北西部のメーン州などで、米国の原風景とそこで暮らす身近な人々を、主に水彩やデッサンで描いた。

代表作はニューヨークの近代美術館にある「クリスティーナの世界」。メーン州でスウェーデン系のオルソン家の、モデルになった姉クリスティーナと弟のアルヴァロをモチーフにして30年描き続けた「オルソンハウス・シリーズ」は有名で、世界的にも高く評価されている。

「クリスティーナの世界」は、そのシリーズの一つ。今度の展覧会には「クリスティーナの世界」の最初の習作など約2百点が展示されている。

クリスティーナはポリオで生まれつき足が不自由だったが、独立心が強く、車椅子や松葉杖は使わなかった。アルヴァロは漁師だったのに、クリスティーナ看病のため、ブルーベリー栽培に転向した。

ワイエスは、二人が亡くなるまでその生活の断面の全てを描いた。シリーズ最後の年の絵は、誰もいなくなった寂しいオルソン・ハウスである。

体育の日の10月10日(10年)、県立美術館で、この朝霞市のコレクターの講演があった。須崎勝茂氏(写真)。朝霞市の貸倉庫会社「丸沼倉庫」の社長である。1978年に27歳で家業を継いだとき、父親に「経営に携わるものは何か趣味が持ったほうがいい」と言われた。

陶芸の手ほどきを受けていたとき、芸術家たちが仕事場がなくて困っていることを知り、朝霞市に母と「丸沼芸術の森」を設立、外国人を含め十数人が制作に励んでいる。238点のワイエス・コレクションもこの森の所有だ。

ワイエスの絵も、この画家たちの役に立てばと伝えたところ、応じてくれたものだった。この森は1985年に始まったが、世界的なアーティスト村上隆もこの村育ち。約20年間ここで制作に当たった。

「オルソン・ハウス物語」は、日本各地の美術館で展示されたほか、米国各地、さらにスウェーデンでも開かれた。「巨匠の作品を自分の絵だけで世界で展覧会ができる」人物は現在、日本にはまず見当たらない。


映画「のぼうの城」 行田市

2012年11月23日 14時05分59秒 | 文化・美術・文学・音楽


ほんとに久しぶりで「映画館」で映画を見た。

学生時代は映画キチで映画評論家を目指していた。昼夜6本を見ることも珍しくなかった。白黒時代のフランス映画から、当時はやりの次郎長ものまで映画は手当たりしだいに見た。

「映像万年筆論」などという迷論にだまされて、本さえ読まず映画に没頭した

その反省もあって、最近は、テレビで古い名画をたまに見るだけだ。

それでもなぜ映画館まで足を運んだのか 

「のぼうの城」のためである。その映画の舞台になった行田市の古墳群や古代ハス池も何度も訪ね、背景については百も承知だ。

そこへ来たのが

「堂々! 2週連続・第1位! 」「空前絶後のとんでもない《大逆転》に驚き笑う! 興奮と感動の劇場内、これを見ないと今年は終わらん! 」

という朝日新聞の広告である・

「戦国最後の大合戦、驚愕の実話!200万部を越える大ベストセラー映画化! 」とも付記してある。

最近、小説にも興味がないので、読んではいない。「それほどならば」と、重い腰を上げた。
浦和駅前のコルソ内のユナイテッド・シネマ浦和。60歳以上の老人は1800円のところを1000円で見られると聞いて驚く。

昔、ションベンの匂いのする三本立て映画館に慣れていたので、座席も素晴らしく、座席が階段状に並んでいるのにも驚く。

ウイークデーの昼間だったので、ガラガラかと思っていたら、老人が仲間連れで来る姿が多く、真ん中の席は埋まっていた。

約2時間半、紙芝居的な面白さは十分で、観客は終わって、配役の名前が流れても席を立たない。

全国公開から3日間で観客動員数41万人弱、興行収入5億円余、埼玉県内20の映画館では、知事を初め、県人口比6%を上回る約12%にあたる約5万人が観賞したという数字がうなずける。

観客動員数ランキングでは、1位が地元「ワーナーマイカルシネマズ羽生」、2位が「熊谷シネティアラ21」だったという。5位にはさいたま市の各シネコン(複合映画館)が入ったという。

「ぶぎん地域経済研究所」は12月中旬、この映画の公開に伴う県内への経済波及効果を約38億円とはじいた。

筋書きは、忍(おし)城に石田光成の大軍2万が攻め込み、水攻めにめげず、「のぼうさま」と呼ばれる臨時城代・成田長親(ながちか)が奮戦するというもの。

開城のはずだったのに、戦いの発端は、交渉に来た使者のなめきった傲慢な態度に対する反発だった。

北条氏の小田原城の支城の中で、最後までただ一つ開城しなかった忍城への共感がこれだけの県内の観客を動員したのだろう。

日頃「ださいたま」と呼ばれている埼玉県民の屈折した感情が背景にある。

映画は斜陽といわれて久しい。しかし、年々増える老人たちを惹きつけるテーマを持つものなら、たとえローカルなものでもまだまだ頑張れると、テレビにはない素晴らしい音響を聞きながら思った。

研究所によると、週末に大型バスが訪れるなど、観光客が増えているほか、関連グッズや土産物の売れ行きは公開前に比べ5~10倍になっているという。

人口減少率が非常に高い行田市の活性化の起爆剤になることを期待したい。この映画には行田市民のそんな願いが込められている。