ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

高麗神社 高麗王若光

2010年10月30日 18時35分52秒 | 寺社
高麗神社 高麗王若光 日高市

「高麗神社」の額は、よくよく見ると、「句」の字が「高」と「麗」の間に小さな字で挟まっていて、「高(句)麗神社」のことだと分かる。

この神社と近くの高台にある「聖天宮(しょうでんぐう)」は、高麗郡(こまごうり)の基礎を築いた高麗王若光(こまのこきし・じゃっこう)を祀っている。「こま」とは「高麗」の日本読み。「こきし」とは「王」のことだ。

高麗神社前の「天下大将軍」「地下女将軍」の男女一対の守護神も堂々と石像になって立っていた。天下とは「地上」という意味だとか。地上と地下の両方の面倒を見てくれるというのだ。

朝鮮半島では「将軍標(チャンスン)」と呼ばれる魔除けである。

同じ村を守るといっても、道しるべの性格が強くものやさしい感じのわが道祖神よりも、二将軍の歯むき出しの大きなその姿は、頼りになりそうな気がする。

この神社は、朝鮮半島の雰囲気が漂っていて、私の好きなところだ。韓国の国花「木槿(むくげ)」も咲いている。

近くの高台にあるのが、聖天宮。若光の菩提寺である。正式には、「聖天院勝楽寺」。若光に仕えた僧、勝楽らが建立した(751年)。若光の守護仏である聖天(歓喜天=かんぎてん)からその名がついた。

聖天院は2000年に、総檜造りの新本堂が完成、その裏には立派な「在日韓民族無縁仏慰霊塔」が立っている。

山門脇には、朝鮮様式の小さな古い多重塔がある。若光の墓である。境内には若光の像が立っている。(写真)

若光とは何者か――今流に言えば、668年に唐と新羅に滅ぼされた「高句麗」の政治亡命者である。日本の奈良時代のちょっと前の話だ。

若光は難民を率いてきたのではない。高句麗が滅ぶ2年前、訪日使節団の中にいた、まだ若かった「玄武若光」だと考えられている。その上に「二位」がついているから偉かったのだろう、国が滅ぼされたので日本にとどまるほかなかった。

それ以前から日本と高句麗の関係は深かった。推古天皇の時代になると、595年には聖徳太子の仏教の師とされる高句麗僧の慧慈(えじ)が来日、605年には高句麗王から黄金300両が贈られ、飛鳥寺の日本最古の仏像飛鳥大仏を造るのに使われた。610年には同じ高句麗僧の曇徴(どんちょう)が紙や墨の製造技術を伝えたという。

若光は703年、朝廷から「王(こきし)」の名を贈られた。「高麗王若光」である。日本では「従五位下(じゅうごいげ)」という貴族の位階を与えられていた。日本の官人として出仕していたのだろう。

「高麗」は氏、「王(こきし)」は姓(かばね)だという。「こきし」とは、飛鳥時代に作られた姓(かばね)の一つで、百済王族ら少数の帰化人に与えられた。

716年、1799人を率いて高麗郡に移住した時は、来日から50年、若光はすでに白髪の翁であった。「白髭明神」と伝えられるのは、その風貌のせいであろう。没したのは748(天平20)年というから、事実なら32年高麗郡にいたことになる。韓国の田舎を尋ねると、白髭の老人に出会うのは、ご存知のことだろう。

来日以来数十年留まっていたのは飛鳥時代の都「飛鳥」(現明日香村)である。朝鮮半島では百済が滅び(660年)、高句麗が滅び、多くの帰化人が飛鳥に滞在していた。高句麗からの帰化人は高麗人(こまびと)と呼ばれた。

若光一行はどのようなルートで高麗郡にたどり着いたのか――。高麗神社を訪ねた際、神社で「ALOSデータによる渡来人の足跡調査の研究」が展示されていた。

ALOSとは、日本の陸域観測技術衛星「だいち」で、三次元画像で見られるので、地形の細部や建造物の高さも観測できる。そのデータを古文書などと照合して、若光の足跡をたどろうというのである。「宇宙人文学」という新しい学問だという。

1799人はどのような人たちで、どう連絡して、どこに集合したのか、謎は多い。神奈川県大磯に高麗神社(現在は高来神社)があることなどから、若光は奈良から大磯に移り住み、高麗郡に向かったとされているが、宇宙考古学はどこまで謎を解明できるか。

朝鮮半島からの渡来人が武蔵国や関東地域に来たのは、高麗郡が初めてではない。6世紀の末頃から始まったと言われる。

758年には 帰化した新羅人74人を武蔵国に移し、「新羅郡」を置いた(後に新座郡に改称)。新羅郡は、現在の新座、和光、朝霞、志木市あたりである。

武蔵国には、高麗郡、新羅郡より前の7世紀後半から熊谷から深谷市にかけて、新羅系の秦氏と関わりのある「幡羅(はたら)郡」があったようで、渡来人の郡が三つもあった勘定だ。

武蔵国にこのように渡来人の郡が置かれたのは、未開地だったこの地を新技術で開拓させ、東北の蝦夷(えみし)に備える目的があったようだ。

渡来人は、養蚕、須恵器(土器)、瓦づくり、土木工事など新技術を持っている技術移民だった。日高市の巾着田は渡来人が最初に田を作ったと言われ、和同開珎の自然銅を発見したのも渡来人とされる。

古代の武蔵国と朝鮮半島との関係の深さが分かる。


高麗神社 広開土王碑 日高市

2010年10月30日 16時12分28秒 | 寺社
高麗神社 広開土王碑 日高市

巾着田を訪ねた後、高麗神社に足を伸ばした。神社に「広開土王碑」の碑文の拓本を貼った角柱があった。(写真)

この名を聞くのは、中学校の歴史の教科書以来である。「好太王」とも呼ばれる「広開土王」は、4世紀末の391年に即位した高句麗最盛期の国王で、その版図を朝鮮の歴史上最大に広げたことで知られる。

韓流ドラマファンなら、「大王四神記(だいおうしじんき)」という歴史ファンタジードラマを覚えている人もおられよう。人気のペ・ヨンジュンが演じた主役の「談徳(タムドク)」がこの大王である。

このドラマの人気で、高麗神社に参拝客が増え、地元ではおみやげ用に「四神カステラ」や「四神ドレッシング」ができたほどだ。

「高麗」と「高句麗」(こうくり ハングル読みではコグリョ)は同じことで、高麗は古代の日本語。高句麗は現地名だ。当時まだ朝鮮にはハングルはなく、漢字を使っていた。

高麗は、日本語では「こま」と読む。高句麗とともに朝鮮の三国時代を競いあった百済、新羅を「くだら」「しらぎ」と日本読みするのと同じだ。

「こま」には、「狛」、「巨麻」の字も当てられ、東京都の狛江市や山梨県の巨麻郡も高麗と関わりがある。

「四神」とは、中国神話に登場する世界の四方向を守る聖獣。 東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武。日本の大相撲の吊り屋根にも、方向を示す四隅に四色の房が下がっている。これも四神。東の青は青龍、南の赤は朱雀、西の白は白虎、北の黒は玄武で、土俵を守護している。

四神は日本の高松塚古墳、キトラ古墳にも描かれている。四神は高句麗様式の古墳の特徴になっている。高句麗の古墳群は世界遺産に指定されているほどすばらしいもので、ツングース族の騎馬民族が創った国だったので、馬に乗った騎射の姿の壁画など、色も鮮やかで美しい。

「広開土王碑」の碑文は、1802字の漢字からなり、好太王の業績などが記されている。注目されるのは、三国時代の日本の朝鮮半島進出とそれに対する対応が文字で書き残されていることだ。

・日本は391年、海を渡り百済・加羅(伽耶)・新羅を破り、臣下とした

・399-400年には新羅に侵入、太王は5万の大軍を派遣して救援した

・404年には黄海道地方(現在の北朝鮮の南西部)に侵入したので、太王はこれを討ち大敗させた

などと記されている。

この碑は、現在の中国吉林省集安市の好太王陵の近くにあり、高さ約6m、幅約1.5m。日本と朝鮮半島の古代史の貴重な資料である。

この高句麗も、668年に唐・新羅の攻撃で滅亡した。これより8年前の660年、百済も滅んでいる。百済、高句麗の亡国で多くの渡来人が来日することになった。三国のうち、最後には新羅が唐を追い出し、朝鮮半島を統一した。

高句麗の渡来人は、朝廷の命で、現在の日高市周辺に出来た武蔵国高麗郷(こまごうり)に移され、開拓に当たった。日高市は高麗村と高麗川村が合併して日高町となり、その後、市に昇格した。高麗神社は、そのリーダー「高麗王若光(じゃっこう)」を祀る神社なので、「広開土王碑」を模したものが立っているわけである。

高麗神社は言わば、古代朝鮮と日本との接点なのである。

慈恩寺 三蔵法師の遺骨 さいたま市岩槻区

2010年10月29日 17時18分35秒 | 寺社
慈恩寺 三蔵法師の遺骨 さいたま市岩槻区

西遊記のモデルになった三蔵法師の遺骨が、さいたま市岩槻区にある慈恩寺の玄奘(げんじょう)塔にあると知ったのは、台湾の観光地、日月潭の法師の遺骨のある玄奘寺を訪ねた時だった。玄奘とは、三蔵法師のことである。

帰ってきて、慈恩寺と玄奘塔 (写真)をさっそく見物に出かけたものだ。寺と塔は400mほど離れており、塔は花崗岩の十三重の石塔で高さ18m。5月5日には玄奘祭があり、子どもたちが孫悟空になって行列する。

最近になって地元の人々の間で、この話を町おこしにつなげようとする動きが出てきた。

「玄奘三蔵法師の里づくり実行委員会」では、玄奘とはどんな人で、インドへどんな道筋をたどったのか、なぜ岩槻に遺骨があるのかをやさしくまとめた小冊子「武州岩槻 玄奘塔ものがたり」を10年に出版した。

玄奘塔建立60周年を記念して、10月23、24日には、寺の境内と玄奘塔で、「玄奘三蔵法師の里づくりフェスティバル」が開かれ、講演、法師の道筋だったシルクロードの音楽の演奏などがあった。

これに先立ち9月23日には、テレビ東京は開局45周年記念番組として 役所広司を使って「封印された三蔵法師の謎」と題するドキュメンタリーを放映した。

三蔵法師のことは、孫悟空や沙悟浄(さごじょう)、猪八戒(ちょはっかい)が出てくる西遊記でしか知らなかった。7世紀に17年もの歳月を費やし、長安を出発して、灼熱の50度の砂漠、5000m級の天山山脈を越え、インドのナーランダ寺院からさらに東まで往復3万kmの過酷な旅をして、経典を持ち帰り、翻訳した法師が、にわかに身近に感じられるようになった。その旅の様子は「大唐西域記」に書かれている。

どうして、岩槻に玄奘の遺骨があるのだろうか――。

東武野田線東岩槻駅の北口に近い慈恩寺は、天台宗の名刹。9世紀に慈覚大師(大師とは朝廷から没後に贈られたおくり名。第3代天台座主。円仁)が開いたと伝えられる。

円仁は、最後の遣唐使船に乗り、長安の大慈恩寺で学んだことがある。大慈恩寺は、唐の太宗が三蔵法師のために立てた寺だ。

周囲の風景が大慈恩寺に似ていることから命名されたらしい。

インドから帰った三蔵法師はこの寺に篭もり、持ち帰った657部の経典をサンスクリット語から漢語訳した。法師の翻訳した経典は、64歳で亡くなるまで74部、1335巻に上った。わが国で使われている般若心経を初めとする経典の大半は法師訳だという。

その遺骨は戦乱に紛れて行方不明になっていた。第二次大戦最中の1942(昭和17)年、南京占領中の日本軍部隊が整地中に石棺を発見、法師の頭骨と分かった。

その2年後の昭和19年、南京の玄武山で頭骨を収める玄奘塔の完成式典が行われた際、中国側から日本の仏教界に頭骨の一部が贈られた。

遺骨はまず芝の増上寺に納められた。空襲を避け、埼玉県蕨市の三学院(京都智積院=ちしゃくいん=の末寺)を経て慈恩寺に移った。1950(昭和25)年、当時の根津嘉一郎東武鉄道社長から石塔の寄進を受けて建立された玄奘塔に納められた。

岩槻の慈恩寺から台湾の玄奘寺や奈良の薬師寺へも分骨された。

慈覚大師は、遣唐使船の難破などでやっと唐に入り、入唐から帰国までの9年半の旅行記「入唐求法巡礼行記」は、日本人が書いた初めての旅行記とされる。

玄奘の「大唐西域記」、マルコ・ポーロの「東方見聞録」と並んで東洋の三大旅行記とされる。この2著は口述なのに、円仁のは自著である。

元駐日大使ライシャワー博士は、「東方見聞録」より歴史的に価値が高いと評価、世界に紹介した。

二人の偉大な求法の大旅行家が、一人は遺骨として、もう一人は開祖として岩槻の寺で相まみえるのは、因縁、いや仏縁を感じさせる。

慈覚大師とその弟子たちは、関東から東北にかけて500以上の寺を開山したり、再興したりした。その中には、浅草の浅草寺、松島の瑞巌寺、中尊寺、立石寺などが含まれている。

SKIPシティ 川口市

2010年10月29日 09時28分02秒 | 文化・美術・文学・音楽


埼玉県庁や川口市の関係者、川口市の住民を除いて、県や市が主催する「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2010」と聞いて、すぐに分かる人がどれほどいるだろうか。

埼玉県に長く住んでいる人なら、川口市の郊外にNHKのラジオ送信所があり、高い塔が二本あったのを覚えておられるかもしれない。川口市上青木のその跡地を開発したのが、「SKIPシティ」で、SKIPとは、SAITAMA KAWAGUCHI INTELLIGENT PARKの略語だという。

日本で最大規模の映像・情報産業の拠点にしようとする施設。INTELLIGENT PARKは、全国で一時、大はやりだった情報産業(IT)の拠点の意味である。JR京浜東北線の川口や西川口駅からバスで10分程度のところにある。

「Dシネマ」とは。旧式のアナログではなく、デジタルで撮影・制作された映画のこと。その映画祭が10年7月23日から8月1日まで開かれた。デジタル映画が、4Kデジタル・プロジェクターで世界最高水準の映像と音質を楽しめる。

4Kデジタル・プロジェクターとは何か。デジタル用語でKは1000を意味する。KmやKgのKと同じである。このプロジェクターを使えば、フルHD(HIGH DEFINITION=高解像度)の4倍を超える約885万画素(4096×2160)(横×縦)の4K映像を投影できる。

もらった資料を見ると、この映画祭はすでに7回目。若手Dシネマ制作者の登竜門になっているとか。10年は過去最高の85の国と地域から長・短編映画合わせて810本がエントリー、一次審査を通過した23作品を含む44作品が期間中に上映された。(写真)

候補作品以外にも、映画祭を身近に感じてもらおうと、山田洋次監督の名作「幸福の黄色いハンカチ」のデジタル・リマスター(デジタルへの作り直し)版を目玉として初日にオープニング・セレモニーで上映した。山田監督は、吉永小百合主演の「母べえ」(松竹)をこのSKIPシティの空き地にオープンセットを組み、ロケしたゆかりがある。

この広大な空き地ではまた、NHKのドラマ「坂の上の雲」に登場する巡洋艦の大型セットが組まれ、撮影に使われた。

“シネマ歌舞伎”と銘打って「怪談 牡丹灯篭」も上映された。私は避暑を兼ねてこの怪談を見に出かけた。片岡仁左衛問、坂東玉三郎、坂東三津五郎らが出演、その名演に怖いというより歌舞伎を特等席で見るような楽しさだった。昔の映画キチも十分に堪能した。

映画祭は、SKIPシティの「彩の国ビジュアルプラザ」4階の映像ホールで開かれた。このビジュアルプラザの2階には、NHKが過去に放送した番組(約6千6百本)と埼玉県の映像(1万点以上)が楽しめる「公開ライブラリー」(無料)と映像の歴史、原理、制作のプロセスが分かる「映像ミュージアム」(有料)もある。

別館には天文台、プラネタリウム、展示室付きの「サイエンスワールド」、消費者向けの県の「彩の国くらしプラザ」もある。暇を見つけて、また訪れたい施設だ。







見沼 その移り変わり さいたま、川口市

2010年10月25日 18時28分45秒 | 川・水・見沼

見沼 その移り変わり さいたま市

さいたま市の中央部にある「見沼」は、東京都心から北へ20-30kmのところにあり、自然や農地が色濃く残る1260haの「首都圏最後の広大な緑地空間」。東西10km、南北14km。日光の中禅寺湖よりちょっと大きい広さである。東京ドームの270倍もあるそうだ。

私の好きな散歩場所だ。と言っても、歩いては大変。ママチャリでも周回するだけで半日、冬などは日が暮れてしまう。

見沼に最も近いところにあるさいたま市立浦和博物館が「見沼のうつりかわり」と題する特別展を開いていたので、建物見物を兼ねて初めて出かけた。

その建物は、「鳳翔閣」と呼ばれる洋風建築で、1878(明治11)年に建てられた県師範学校の校舎の玄関部だった。老朽化で解体されたのを復元したもので、2階バルコニーの柱頭にはアカンサスの葉の彫刻もある。

キツネノマゴ科のアカンサスは、よく目にするが、そんな使い方もあったのかと見直した。東京の日銀本店、赤坂離宮(迎賓館)、三井本館ビル、明治生命館などでも見られるという。念入りに庭にアカンサスが植えてある。

小さな博物館で、展示は二階の回廊部分だけなので、多くは望めないものの、その歴史が簡潔に分かった。

〈縄文時代から中世〉

・約6千年前の縄文時代 地球温暖化の時代で、海が浦和や大宮の方まで入り込み(縄文海進)、見沼は海の底。周辺には貝塚が見つかっている。その後、海が退き(海退)、東京湾と分離し、弥生時代には見沼は大きな沼に変わった

〈江戸時代になって〉

・1629(寛永6)年 徳川家光の命で関東郡代だった伊那半十郎忠治が八丁堤(約870m)を築き、見沼を灌漑用水池とし、平均水位約1mの「見沼溜井」ができ、下流域を潤す。反面、溜井周辺の水田が水没した。大雨の時には周辺部の水田に被害が及んだ。溜井の上流部は排水不良に苦しみ、周辺や上流の村々から何度も溜井廃止の請願が出されていた。

・1728(享保13)年 享保の改革の一環として新田開発を進めた「米将軍」八代徳川吉宗の命を受け、紀州藩の井沢弥惣兵衛為永(写真)が八丁堤を切り、溜井を干拓して見沼田んぼが誕生した。周囲約40km、約1200ha。「見沼代用水」(約60km)を開削、必要な水は利根川(行田市)から取水した。取水地には今、利根大堰が建設されている。着工からわずか6か月で完成した。この用水は、見沼溜井の北端(現上尾市)で東縁(16km)と西縁(22km)と東西二本の用水に分け、田を順々に潤し、最後は最も低い中央の芝川に流し込む。現在も使われている日本でも指折りの農業用水で、関東平野では最大。現在の総延長は84km。

・1731(享保16)年 為永は江戸と水路で結ぶため、東西の見沼代用水とその中央を流れる芝川を結ぶ全長約1kmの運河「見沼通船堀」(国指定史跡)を八丁堤の近くに作った。見沼通船堀は代用水と芝川の水位差が約3mあったので、4か所の関門で水位を調整しながら船を通す、パナマ運河と同じ「閘門式」。パナマより59年早かった。平成17年(2005年)、皇太子殿下はこの堀を視察、メキシコの第4回世界水フォーラムで「江戸と水運」のタイトルで基調講演された

〈第二次大戦後〉

・1958(昭和33)年 狩野川台風で見沼たんぼ全面冠水。その貯水機能は約1千万立方mで、下流の川口市などの洪水被害を和らげ、その治水効果が注目される

・1965(昭和40)年 治水の観点から「見沼3原則」。原則として農地の転用、つまり田んぼの宅地化は認めない。緑地維持のためのいわゆる「見沼についての憲法」とされる

・1969(昭和44)年 国の減反政策始まる。稲作から野菜、生花、植木への転換活発化

・1995(平成7)年 「見沼田圃の保全、活用、創造の基本政策」。開発はせず、治水機能を保持しながら、農地、公園、緑地等の土地利用を図る。土地の公有化、借り上げの促進

このような長い歴史を持つ見沼は、「見沼三原則」以降も、市営霊園計画、代用水の三面護岸化、ゴミ処分場設置など、何度も開発の波にさらされてきた。

その中で見沼田んぼの大半が、市街化調整区域で開発が規制されている。この貴重な大規模緑地空間を守ってきたのは、粘り強く、息の長い多くの市民運動だった。

見沼代用水の支線を含めた総延長は約190km。見沼の真価を理解するためには、一度でも歩いたり、自転車に乗って回ってみることだ。「東京にこんなに近いところにこれほど広い緑地が広がっているとは」と驚くのは必至である。絶滅(準絶滅)危惧種55を含め、700種の野草があると、自分の足で歩いて確かめた研究者もいる。


高麗の里 ヒガンバナ(曼珠沙華) 日高市

2010年10月07日 06時15分34秒 | 名所・観光

高麗の里 ヒガンバナ(曼珠沙華) 日高市

朝鮮半島と埼玉県との関係が深いことを知ったのは、大学時代だった。学生寮住まいでまだ埼玉に関係していない頃、金達寿の「日本の中の朝鮮文化」を読んだ時である。

地方勤務を終えて、埼玉に住み始めた時、はやばやと訪ねたのが、高句麗からの渡来人が開拓した日高市の高麗の里だった。

高麗と呼ばれた高句麗は地理上では、朝鮮半島の旧満州の南部から遼東半島、現在の北朝鮮のすべて、さらに韓国に大きく食い込み、朝鮮半島の大半を支配していた国。668年、唐と新羅に滅ぼされた。

渡来人とは、現在の難民のことで、先進文化と技術を持っていて、国づくりが本格化しようとしていた当時の日本では、歓迎された。

10年のシーズンに久しぶりにヒガンバナの名所を訪ねた。ヒガンバナは田んぼの土手や畦によく植えられている。ところがここでは、雑木林(ニセアカシアが主)の中にある。昔の田んぼが雑木林に代わっているのである。

この地は「巾着田(きんちゃくだ)」の名がある。ハイキングコースの近くの日和田山(305m)の頂きから見ると、昔の巾着(財布)の形にみえるからだという。高麗川がそのような形に迂回しているのだ。

総面積は16.7ha。500万本群生しているという。ヒガンバナは湿った場所が好きで、群生するのは、主に巾着の底と右の部分に当たる川沿いの地。2kmの散策路ができている。

巾着の開け口の右の方には、平成8年に完成した歩行者専用の歩道橋「あいあい橋」がある。長さ91mの日本で最長の木製トラス(Truss)橋。トラス橋とは、橋下を三角形に組み合わせた梁で支える構造になっている。

なぜここにヒガンバナが群生するようになったか。最初は球根が流れ着いて、それを人手で増殖、日本でも有数の群生地になった。30万人を超す見物人が押し寄せるので「巾着田の詩」という歌謡曲も売り出されている。

ところで、ヒガンバナは一般に、田んぼの土手、畦や墓場の周囲に生えていることが多い。根に「リコピン」という毒があるので、モグラや野ネズミが穴をあけないよう、人工的に植えられたのだという。稲や土葬だった遺体を損傷から防ぐためだ。その根茎が強いので、畦補強のために植えたという説もある。

地下茎にはデンプンが含まれ、長時間水にさらせば無毒化して食用になるので、昔は飢饉対策に植えられたと聞いたこともある。薬にもなるそうだ。

墓場の連想から「死人花」「幽霊花」「地獄花」とも呼ばれる。日本では不吉な花のイメージが強いのに、外国ではリコリスと呼ばれ、いろいろな品種が開発されている。

それにしても曼珠沙華とは難しい名前だ。サンスクリット語の仏教用語。「天上界の花 赤い花」という意味だそうだ。おめでたい事が起きる兆しに赤い花が天から降ってくるという法華経などに由来するとか。

「マンジュウシャカ」という読み方もあるようで、山口百恵の「曼珠沙華」では、「恋する女はマンジュウシャカ」と歌われているのを、覚えている方もおられよう。


埼玉県のクイズ王は? 

2010年10月01日 15時16分18秒 | 県全般

 

テレビを見ていると、クイズだらけである。真面目そうな番組にもクイズが組み込まれている。

このクイズの時代に、埼玉県のクイズ王を決める「埼玉クイズ王決定戦」が13年の春分の日、大宮ソニックシティの階段広場で開かれるというので、「埼玉について何をどれだけ知っているのだろう」と確かめるため、見に出かけた。

隣の鐘塚公園では、「自治体では初めて」が売り込みの「埼玉サイクリングショー」も同時に開かれているので、一石二鳥だ。

このクイズ大会は県観光課などが企画、これも自治体初めての試みだという。行く気になったのは、司会者とは別に壇上で出題役に当たるのが、県庁職員だということだった。

その人が問題を監修したという。埼玉新聞の特集記事には「県庁が誇るクイズ王」とあって、好奇心をそそられた。

環境部環境政策課放射線対策担当主査(当時)の能勢一幸さん(44 当時)。越谷市出身でさいたま市在住。

日本テレビの第15回アメリカ横断ウルトラクイズで優勝、フジテレビのクイズ$ミリオネア全問正解など多くのクイズ番組で優勝した経歴の持ち主という。

このクイズは3人1組で、予選が埼玉スタジアム2002など4か所で開かれ、県内外(岡山からも)から439チーム、1317人が参加した。決定戦には、予選を勝ち抜いた12チームが臨んだ。

驚いたのは、この日最初の子どもの部で勝ち進んだ、埼玉大付属4年生の「大中小」チームが、全体で見事6位に食い込んだことだった。秩父事件の発生の年を、早押しクイズ方式で「明治17年」と先んじたのである。

接戦の末、優勝して「埼玉博士」の栄光を獲得したのは、秩父市役所の職員3人でつくる「チームくろちゃん」だった。(写真は優勝の瞬間) 地元の「秩父検定」で鍛えられたのだろう。

出題は、歴史、文化 社会、芸能、スポーツ、ゆるキャラ・・・と埼玉県に関するあらゆる問題に及んだ。

けっこうな頭の体操になった。テレビ埼玉でも放映するという。

表彰式で、この企画の言いだっしぺだった上田知事は「(他の県のようにテーマは)一つだけではなく、埼玉にはいくらでもあるのだ」と述べた。

700万県民がまずそれを知り、訪ね合うことが埼玉の観光の始まりだろう。その意味で、この「埼玉クイズ」は大成功だった。

ミスユニバース県代表の麗姿も拝めて、視力も良くなった。

第2回決勝戦は14年2月16日(日)、さいたま新都心のスーパーアリーナで開かれた。大雪のため秩父の「チームくろちゃん」は、3人そろわず失格、県庁の3人組が優勝した。

3回目の大会には3人1組の314チームが参加した。15年3月8日(日)のアリーナの決勝戦には、予選を勝ち抜いた12チームが出場、大接戦の末、「三度目の正直」チームが、文字通り3回目の出場で念願の優勝を果たした。会社の元同僚でテーマを分担して勉強した。

4回目は275チームが参加、予選を勝ち抜いた9チームが16年2月14日の決勝に参加、前回3位の武南高校同窓の男性3人組「武南3A}が優勝した。

5回目は17年2月26日、12チームがアリーナの決勝に参加、第1回優勝の「チームくろちゃん」が優勝した。能勢さんは交通政策課に移っていた。

6回目は18年2月18日の決勝には12チームが参加、秩父市役所の「チームZ」が優勝した。リーダーの金田幸宏さん(48)は、昨年に続き、3度目の優勝。予選には227組681人が参加した。

7回目は越谷市のイオンレイクタウンMORI 木の広場で開かれた。

いずれもよく聞いていると、埼玉についてまだまだ知らないことが多く、いい勉強+になった。