ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

県知事に大野元裕・前参院議員が初当選

2019年08月29日 16時08分59秒 | 県全般
県知事に大野元裕・前参院議員が初当選

19年8月25日実施された県知事選で、4選16年務めた上田清司前知事(71)の路線の継承と発展を唱えて積極的な支援を受け、立憲民主、国民民主、社民各県連に支持された大野元裕・前参議院議員(55)が、自民、公明党の推薦を受けた、元プロ野球選手でスポーツライターの青島健太氏(61)を約6万票差で破り、初当選した。開票結果は約92万票だった。
 
知事選投票率は11年に24.89%と全国の知事選で過去最低を記録、07年以来過去3回20%台の低水準が続いていたので、事実上の「与野党対決」がどう反映するか注目されていたが、32.31%にとどまった。16年ぶりに30%を超えたとはいえ、上田前知事が初当選した03年の35.80%を下回った。
 
大野新知事は、川口市出身で、祖父は大野元美氏、川口市長だった。このような縁で大野氏も自民党の有力候補の一人で、川口商工会議所の政治組織が、大野氏が無所属で出馬表明前に、自民党県連の新藤義孝会長に自民の推薦を求める嘆願書を提出したほどだった。
 
慶応大卒後、国際大学修士課程で中東地域研究を専攻、外務省の調査員、書記官。中東調査会研究員も。5年間、防衛省防衛戦略委員会委員も務めた。県選出の参議院議員2期。内閣府大臣政務官、防衛大臣政務官も。経営者として(株)ゼネラルサービス専務取締役を務めた。
 
新知事の参院議員辞職に伴い、参院埼玉選挙区補欠選挙(10月10日告示、27日投開票)」があり、上田前知事は9月20日、無所属で参院選に出馬すると明らかにした。前知事は衆院議員2期、知事4期16年を務めた。


渋沢栄一 一万円札の肖像画に登場 「論語の里」に人気 深谷市

2019年08月14日 16時53分26秒 | 偉人①渋沢栄一

 

渋沢栄一 一万円札の肖像に登場 「論語の里」に人気 深谷市

24年に発行される新1万円札の肖像に「日本の資本主義の父」とされる実業家の渋沢栄一を起用すると、麻生財務相が19年4月9日の会見で発表して以来、地元の深谷市の「論語の里」の人気が高まっている。

同市下手計(しもてばか)にある渋沢栄一記念館、7歳の頃から論語を学んだ10歳上の従兄弟で義理の兄、尾高惇忠(じゅんちゅう)が漢学の塾を開いていた下手計の記念館に近い惇忠の生家周辺、栄一が初代頭取を務めた第一銀行を喜寿で辞任した際、行員たちが出資を募って建てた近くの誠之堂、栄一の生家旧渋沢邸のある「中の家(なかんち)」(血洗島)といった栄一ゆかりの地が、深谷市がPRしている「論語の里」である。

記念館には19年度の来館者が20年1月22日、18年度の6倍を超える10万人を突破した。
21年のNHK大河ドラマが渋沢の生涯を描いた「青天を衝(つ)け」に決まったことが拍車をかけた。深谷公民館には「大河ドラマ館」が新設される。

栄一は、惇忠を尊敬していて、後年「藍香(らんこう 惇忠の号)ありて青淵(せいえん 栄一の号)あり」と語っている。栄一は、論語の精神に則り、単なる利益追求ではない「道徳経済合一説」を唱え、約500社の企業の創設や育成に関わる一方、身寄りのない子どもや高齢者のための東京市養育院の院長を務めるなど約600の社会福祉・教育活動にも関係した。「論語と算盤(そろばん)」という著書もある。これも惇忠の論語教育の影響とされる。惇忠は維新後、富岡製糸場初代場長を務めた。

深谷市は人口減少が進み、観光客数も伸び悩んでいる。降ってわいたこのブームを一過性のものに終わらせまいと、市は「生誕の地」として売り出そうとしている。新一万円札の裏面のデザインである「東京駅丸の内駅舎」で使用されたレンガの一部は、深谷市上敷面にあった日本煉瓦製造株式会社で製造されたレンガを使用しており、新一万円札は表も裏も深谷市ゆかりの人とモノが採用されているからだ。日本煉瓦製造は国指定重要文化財になっている。

新札の発行は、24年度上期からだが、市では栄一ゆかりの施設巡回バスの運行を始めたほか、ふるさと納税のサイトにアクセスが殺到しているので、返礼グッズに、栄一の似顔絵と文字がなつ印できるスタンプ型印鑑や写真を使ったお札型のセット、雅号が入った純米酒とグラスのセットなどを用意している。栄一のロゴマークも91種制作した。

「道の駅おかべ」には、栄一にちなんだ食品やグッズの渋沢コーナーが設けられ、菓子店ではフードプリンターで顔を描いた「渋沢栄一最中」が登場、駅近くでは栄一の顔をミルクの上に描いたカフェオレを飲める店もある。栄一のネーム印、写真を印刷した手作り封筒などもよく売れている。市では観光客が毎年400万人前後と伸び悩んでいるので「観光の起爆剤に」という期待も高い。

深谷市は、容姿や動きを精密に再現し、遠隔操作などで動く栄一のアンドロイド(人間型ロボット)2体の製作にとりかかった。

同市出身のドトールコーヒー創業者の鳥羽博道名誉会長(81)からの寄付金1億円によるもので、一体は新1万円札の肖像に近い、70歳ごろの洋装で立ち姿で等身大の1m53cm、もう一体は和服でくつろいだ80歳ぐらいの座り姿にする。

洋装のアンドロイドは、新札の肖像決定からほぼ1年後の20年6月30日に除幕(写真)、渋沢栄一記念館(同市下手計)の2階講義室で 7月3日から「論語と算盤(そろばん)」に代表される「道徳経済合一説」などの栄一思想の講話を肉声の録音をもとに身振り手振りを交えて始めた。

和装の方は、22年春完成、旧渋沢邸「中の家(中んち)」で生い立ちや家族の話をする予定。遅れるのは、「中の家」が改修に入るためだ。

アンドロイド制作の第一人者とされ、二松学舎大が16年に作らせた「夏目漱石アンドロイド」を手掛けた石黒浩・大阪大教授が監修、アンドロイド制作会社「エーラボ」(東京都千代田区)が現存する栄一の写真や音声を参考にして作業に当たる。

紙幣の刷新は04年以来、20年ぶり。1万円札の人物変更は聖徳太子から福沢諭吉に代わった84年以来。1963年、千円札の顔を選ぶ際、栄一は伊藤博文と最終選考まで残ったものの、当時の技術では、ひげがないと偽造されやすいという理由で伊藤博文が選ばれた・・・など話題も豊富だ。

 


渋沢栄一  "小さな巨人”  深谷市血洗島

2019年08月13日 12時00分00秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 “小さな巨人” 血洗島 

血洗島――。なんと凄まじい名前だろう。

「日本資本主義の父」「近代日本経済の父」と呼ばれた。1840(天保11)年に生まれ、1931(昭和6)年、91歳で没した“小さな巨人”渋沢栄一(写真は深谷駅前の像)。米国の経営学者ピーター・ドラッカーが「最も尊敬する人物」として挙げたこの人は、埼玉県だけでなく、全国に知られている。

義太夫、囲碁、将棋、なんでもござれ。それに女性も大好き。身長は150cmしかなかったので、礼服のフロックコートの銅像を造ろうとしたら、見える足が余りに短いので坐像に変えたという逸話の持ち主。ビジネスマンとして初の子爵になった。

資料を読んだり、足跡を訪ねたりし始めて、一年を超す。まず驚いたのが、生まれ故郷の「武蔵国榛原郡血洗島村」という地名のおどろおどろしさだった。

昔の地名が、あっさり現代風に改名される浅薄な風潮の中で、「血洗島」は深谷市の大字として残っているのが本当にうれしい。埼玉県の「彩の国お出かけMAP」の上にも、「渋沢栄一生家」「渋沢栄一記念館」の所在地名として明記されている。

二度ほど生家付近を歩き、全国に知られる深谷名物のネギの香りが、風に漂うのをかいだ時もこの地図を手にしていた。

地図を見れば明らかな通り、血洗島は、埼玉の北の果て、県北中の県北、群馬県と境を分ける利根川の近くにある。

若い頃、群馬県で2年ほど仕事をしていたので、利根川にはひとしお思い入れがある。群馬・埼玉県境、茨城・千葉県境をつくり、銚子で太平洋に注ぐ信濃川に次ぎ日本で2番目に長い川である。

演歌狂いなので、利根川といえば、田端義夫が歌う「大利根月夜」が好きだ。道場仕込みの侍ながら、ヤクザの用心棒に身をやつした平手造酒の舞台は、もっと下流だ。

軽率な思い込みが身上だから、血洗島もヤクザ同士の血で血を洗う血戦が展開されたのだろうと勝手に思っていた。

これはとんでもない思い違いで、利根川の氾濫で土地が洗われるので、「チアライジマ」、土地が荒れているから「チアレジマ」が転じて「チアライジマ」と呼ばれるようになったというのが、最も有力な説のようだ。無知ほど怖いものはない

この他にも、赤城山の地霊(ムカデ)が日光の山の地霊(大蛇)と戦場ヶ原で闘って、片腕をくじかれ、その血を洗った。平安時代、八幡太郎義家の奥州遠征の際、この辺で合戦があり、家臣の一人が切り落とされた片手を洗った。アイヌ語で「ケッセン」は「岸、末端、」という意味で、その当て字「血洗」から・・・といったいろいろな言い伝えがある。

ところが、合理主義者だった栄一は「田舎者の話であることは言うまでもない」と、にべもなくこだわらなかったという。

「血洗島」の「島」は、利根川の氾濫原に4つの瀬と8つの島があったからだという(以上、深谷市のホームページによる)。

実際、私のような好奇心の持ち主は、いつの時代にもいるようだ。栄一も各地で「よく由来を聞かれた」と語っており、辟易していたことだろう。

赤城山と日光の山が戦ったという言い伝えは、群馬でも聞いたことがある。この言い伝えにはストーリーとしての魅力はあるものの、氾濫説やアイヌ語説の方に説得力がありそうだ。

血洗島は赤城山を仰ぎ、冬には「赤城おろし」をまともに受けるところにある。栄一の生家の裏には「十六文たんぼ」という赤城おろしが吹き抜ける田んぼがあったという。十六文出して酒を一杯ひっかけても、通るとたちまちさめてしまうほど寒いのでその名があったとか(「埼玉の偉人 渋沢栄一」韮塚一三郎著による)。

栄一とともに埼玉県の誇る「群書類従」を編んだ全盲の大学者、塙保己一の生まれた現在の本庄市児玉もやや西側だが、同じ県北で「赤城おろし」にさらされるところだった。

この二人に日本初の公認女医、荻野吟子を加えて、「埼玉出身の三偉人」と称えられる。吟子の出身地も、現在の熊谷市俵瀬で、利根川からわずか南の県北中の県北。この三人がいずれもぎりぎりの県北出身なのは単に偶然だったのだろうか。

ところが、講演などを聞いていると、渋沢一族は1500年代に、現在は山梨県の小渕沢近くの渋沢村から移住して来たのだというのだ、生粋の武蔵人ではないらしい。

藍づくりや質屋も営む豪農、渋沢市郎右衛門の長男として生まれ、幼名市三郎。19歳で結婚、栄一と改名。22歳で江戸に出て塾に通い、剣道は千葉道場で北辰一刀流を学んだ。

尊王攘夷派として24歳で高崎城乗っ取りを図るが、説得されて京都に逃れ、一橋慶喜に仕官した。28歳で慶喜の弟の徳川昭武の随員でパリの万博に参加、新しい世界に触れ、新しい人生が始まる。

18年の県内の認知症不明者 全国で2番目

2019年08月05日 15時07分57秒 | 医学


埼玉県は18年に、認知症か、その疑いで行方不明になって警察に届け出があったのは、17年より48人多い1782人(男性984人、女性798人)で、全国で2番目に多かった。統計のある12年以降、毎年増加し、過去最多を更新している。

県警と警察庁の調べによるもので、全国では前年比1064人増の1万6927人。12年と比べ1.76倍、毎年増え、過去最多を更新している。都道府県別に見ると、大阪が最多の2117人、2位が埼玉で、兵庫の1585人が続いている。