ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

電力王 福沢桃介 吉身町 川越市

2017年07月31日 11時06分44秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 



埼玉県のことについてはまだまだ知らないことが多い。「福沢桃介」という名前を聞いても、初めは誰のことか分からなかった。インターネットで調べてやっと分かったのだからお恥ずかしい限りである。

「福沢」という姓のとおり、「福沢諭吉」の関係者である。諭吉家の養子になったからである。

明治元年、吉見百穴近くの荒子村(吉見町荒子)で、農業などをしていた岩崎紀一の男女各3人の6人兄弟の次男として生まれた。

紀一は養子で、桃介の幼少時に紀一の本家のあった川越に移住した。紀一は川越の八十五銀行の書記の仕事をしていた。桃介は川越中学校へ進学したが、小さいころから神童と呼ばれるほどの秀才で、学業、スポーツともに抜群。周囲に勧められて慶応義塾に入った。「諭吉」との関係が生まれるのは、入学後である。

視聴率は高くはなかったが、1985(昭和60)年のNHKの大河ドラマ「春の波涛」をご覧になった方もおられるだろう。

その主人公だった川上貞奴(さだやっこ)(松坂慶子)、オッペケペー節で鳴らした壮士芝居の川上音二郎(中村雅俊)に混じって、若き桃介(風間杜夫)も登場する。

桃介は「電力王」としてよりも、義塾時代からこの貞奴のパートナーとして知られた。

貞奴は1871(明治4)年、東京・日本橋の両替商・越後屋の12番目の子として生まれた。生家の没落で、7歳で葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、亀吉の養女となった。「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷に上がった。日舞に秀で、才色兼備の誉れが高かったので、時の総理伊藤博文や西園寺公望など名だたる元勲からひいきにされ、名実共に「日本一の芸妓」となった。

1894(明治27)年、音二郎と結婚、「日本初の女優」になり、1900(明治33)年、音二郎一座とパリの万国博覧会に出演、大人気となり、劇場は連日超満員。「マダム貞奴」と呼ばれ、「日本を代表する世界の大スター」になった。

ピカソは貞奴をモデルにデッサン、ロダンは胸像を創り、アンドレ・ジードはラブレターまがいのファンレターを送ったほどだった。

桃介はこれより先に貞奴と知り合っていた。1885(明治18)年秋、貞奴が一人で趣味の乗馬中、野犬の群れに襲われたのを偶然、桃介が助けた。眉目秀麗な桃介に貞奴も一目ぼれ、恋仲となった。塾生の桃介17歳、「小奴」と名乗っていた貞奴14歳の時だったという。

義塾でも成績優秀、駆け足が得意で運動会でライオンを描いたシャツを着ていた桃介は、諭吉の妻錦の目に留まった。諭吉も乗り気で、諭吉の4男5女の9人の子供のうち次女の房(ふさ)と結婚するため、在学中に福沢家の養子となった。

条件の一つが米国留学(3年)だった。この留学経験で桃介は実業家へ目を開かれた。

米国で知った水力発電に魅せられ、名古屋に大同電力(現・中部電力)を設立、木曾川水系の電力開発に乗り出した。日本初のダム式発電である大井発電所など7か所の発電所を建設、電気は関西方面に売った。この電力開発には反対もあったが、「電力王」と呼ばれたゆえんである。

日露戦争をきっかけに株で大成功し、財をなし、大実業家になった。「相場の神様」とさえ呼ばれたほどである。

名古屋で電気需要を起こすため、日清紡績や大同特殊鋼などの会社を興し、愛知電気鉄道(現・名古屋鉄道)など鉄道にも手を出した。大同グループ、名鉄グループの創業者で、名古屋発展の功労者となった。全国でも70社の大会社を持ち、衆議院議員も1期務めた。

音二郎が1911(明治44)年に死ぬと、桃介は貞奴を事業のパートナーとして呼び寄せ、房と離婚することなく、同居した。

名古屋市東二葉町にあった和洋折衷の豪邸は「二葉御殿」と呼ばれ、政財界の接客にも使われた。今は同市東区撞木町に移築復元され、国の文化財に登録されている。

2度にわたる結核による療養、腎臓の摘出と身体の弱かった桃介は1928(昭和3)年、60歳で引退、約10年間財界評論家として、国民新聞に連載された「桃介夜話」などの著作を残した。

1938(昭和13)年69歳で死去。貞奴は1946(昭和21)年75歳で死去している。

参照 「鬼才福沢桃介の生涯」 日本放送協会 浅利佳一郎著 写真も

 


日本解剖学の父 田口和美 加須市

2017年07月21日 18時36分12秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 


足尾銅山の公害と戦った田中正造に関心があるので、渡良瀬遊水地(谷中湖)にはよく出かける。県の北東端に位置し、この遊水地を一望できる「道の駅きたかわべ」の構内に一つの胸像が立っている。(写真)

これまで余り興味がなかったが、調べてみると、埼玉県出身の指折りの偉人のものと分かった。県北は塙保己一、深沢栄一、本多静六、荻野吟子ら、けたはずれの大物を輩出している。この胸像は幕末から明治初期、「日本解剖学の父」として知られた田口和美(かずよし)のものなのである。

私同様、知らない人もいるだろうから、輝かしい略歴を挙げてみよう。

1877(明治10)年、東大医学部初代解剖学教授、明治10年から15年にかけて、日本語で書かれた初めての体系的な解剖書「解剖攬要(らんよう)」全13巻14冊を刊行した。1887(明治20)年、47歳でドイツに私費留学、留学中の翌年、日本で初の医学博士の一人となった。

帰国後、1893(明治26)年、日本解剖学会初代会頭、1902(明治35)年、日本連合医学会(現在の日本医学会)初代会頭といった具合。

日本では「腑分け」と呼ばれた人体解剖は8世紀初頭の大宝律令以来かたく禁じられていて、江戸時代まで刑場で刑死者にしかできなかった。明治になって間もなく、病死者の遺体を刑場以外でも解剖できるようになり、その希望による「篤志解剖第1号」になったのが、美幾女という梅毒患者の遊女だった。

日本の近代医学史上特筆すべき出来事で、その解剖者の一人になったのが、和美だった。

和美は1839(天保10)年、現在の加須市北川辺町の漢方医の長男として生まれた。父親の教育もあって、1853(嘉永6)年、蘭方(オランダ医学)を学ぶため上京した。いったん帰郷して、佐野市で開業、30歳でまた上京して、東大医学部の前身「大学東校」に入学、美幾女の解剖に立ち会ったのは、その頃だった。

和美は、小塚原刑場の番人から罪人の死体を得ることに成功していた。明治3年から処刑された死体で身元不明なものはすべて解剖が可能になると、27か月間で49体を解剖するという熱の入れようだった。

明治3年から18年までに和美が解剖した体数は実に1699体を数えたという。「解剖学の鬼」と呼びたくなる人である。教え子には森鴎外や北里柴三郎らがいる。

和美は1904(明治37)年、喘息発作に襲われ、64歳で東大附属病院で死去した。わが国の解剖学を大成させた功績が讃えられ、葬儀には陸軍歩兵2個中隊の儀仗兵も参列した。

生前の意思で病理解剖が行われた。和美らしい最後だった。「道の駅」の胸像はレプリカで、東大解剖学教室から無償で永久貸与された本物は、加須市のライスパークの中にある北川辺郷土資料館に展示されている。

 

参照 「わが国 解剖学の父  田口和義博士」 北川辺町教育委員会     

 

 

 

 

 

 

 


「足袋蔵のまち行田」 県内初の日本遺産に

2017年07月13日 18時01分15秒 | 市町村の話題


 文化庁は17年4月27日、地域の有形、無形の文化財をテーマでまとめる「日本遺産」に「足袋蔵のまち行田」など23道府県の17件を新たに認定した。

 15年から毎年認定しており、今回の第3弾で計54件となった。初年度は19件、16年度は19件を認定、行田市では当初から申請していた。県内、関東での認定は初めて。オリンピックが開かれる20年までに全都道府県に少なくとも1件、100件を認定する予定。

 今回認定された中には、北海道から福井の7道県にまたがる「北前船寄港地・船主集落」、三重、滋賀両県の「忍びの里 伊賀、甲賀」、国内最北の「サムライゆかりのシルク」(山形)、景勝地と食、温泉が楽しめる「やばけい遊覧」(大分)などが含まれている。

 行田市では江戸時代中期から足袋を生産してきた。

 1890(明治23)年頃からミシンを導入、製品を保管する倉庫として昭和30年代前半まで足袋蔵が立ち続けた。

 足袋蔵は、商品や原料を扱いやすいように、壁面に多くの柱を建てて中央の柱を少なくし、床を高くして床下の通気性を高めるなど、内部の造りに特徴がある。当初は土蔵だったが、土蔵の小屋組みは、石蔵、鉄骨煉瓦造り、鉄筋コンクリート、モルタル、木造、戦後は石蔵と多様化していった。

行田には現在、多種多様な足袋蔵が約80棟現存している。

市内には、足袋製造関連事業者が約20社ある。4社が13工程ある足袋の全工程を市内の自社工場で生産、出荷している。出荷額や出荷額は減っても現在も「日本一の生産地」であることに変わりはない。

 その一つのユニフォームと足袋の製造販売会社「イザミコーポレーション」は1907(明治40)年創業。現在も年間20万足を製造している。

 行田市は、市や商工会議所、自治会連合会などで構成する「行田市日本遺産推進協議会」(仮称)を立ち上げ、情報発信、人材育成などに取り組む。

 一方、従来の足袋業界には属していない同市の衣料品販売会社「武蔵野ユニフォーム」では、5年前からスーツやジーンズのスニーカーやサンダルにも合うような水玉や花柄のカラフルなデザインの足袋を開発した。(写真は同社のホームページから)

 「SAMURAI TABI」と命名して、仏パリを皮切りに海外進出に踏み切ったところ好評で、アジアやヨーロッパ、米国などでも営業を始める予定だという。

 タイミング良く、10月には行田の老舗足袋業者の奮闘ぶりを描いた池井戸潤氏の小説「陸王」もTBSでテレビドラマ化される。

「日本遺産」への指定が「行田の足袋」復活のきっかけになるかどうか。