朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人が現在の日高、飯能両市を中心とする地域に集められて旧高麗郡ができてから1300年を記念する式典とパレードが、16年5月21、22の両日、日高市の文化体育館「ひだかアリーナ」を中心に盛大に行われた。
21日(土)の式典には、日本と韓国の関係者約2500人が参加、谷ケ崎照雄・日高市長、高句麗の一部があった韓国・京畿道(キョンギド)の南景弼(ナムギョンビル)知事らが、日韓友好を未来に引き継ごうとあいさつした。
午後には航空自衛隊中部航空音楽隊の記念コンサートもあった。
晴天に恵まれた22日(日)には、「ひだかアリーナ」から高麗川中まで(1・5km)を往復する「にじのパレード」に3000人余が参加した。
ユネスコ世界遺産に指定されている高句麗の古墳の壁画をモチーフにした、七色(虹)の色鮮やかな古代衣装を身にまとった行進で、保育園の子を振り出しに幼稚園、各区、団地の住民、企業の従業員など市民総出。市長は建郡当時の郡長だった高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)に扮して、リーダーらしく厚着のため車の上で汗をかいていた。(写真)
パレードのルートには、割ると「祝建郡1300年」の札が現れる、くす玉を吊るした七色のアーチが七本立ち、パレードに花を添えた。
「続日本紀(しょくにほんぎ)」によると、零亀2(716)年5月、大和朝廷の命で駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、上総・下総(千葉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)の7つの国から高麗人(こまびと)1799人が移住したとあることから、パレードの参加者をこれと同数にするのが目標だった。
それをはるかに上回る参加者があったわけで、関係者は大喜びだった。
高麗郡は、明治29(1896)年3月、入間郡に編入されるまで1200年近く続いた。当時、高麗郡は1町14村、現在の日高市はもちろん、飯能市、鶴ヶ島市と入間市・狭山市。川越市の一部のエリアまで広がっていた。
この祭典に先立ち、日高市や若光を祀る高麗神社では、歴史シンポジウム、渡来人の里フォーラム、公開歴史講演会、歴史見学会などのほか、建郡まつり、小規模なにじのパレード、高句麗壁画から再現した騎射競技大会など啓蒙行事を続けてきた。
高麗人がたどった大磯市から日高市までの「高麗王若光ウォーク」も16年4月下旬に行われた。4日間95kmに及ぶもので、歩き切った人も95人いた。
新しい名物にしようと、「キムチ味、高麗人参の使用、地場産野菜」を条件として売り出した「高麗鍋」はどうやら定着したようだ。
高麗神社の宮司で、高麗家60代当主である高麗文康氏が書いた「陽光の剣 高麗王若光物語」は好評だったし、秩父のまんが家比古地朔弥氏の手でまんが化もされた(埼玉新聞社)。
市では今後も年に一度、にじのパレードを実施することを検討している。これだけ積み重ねた努力が日高市を中心とする観光に今後どう反映されるか楽しみだ。