ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

渋沢栄一 追悼の和歌

2010年08月31日 07時32分14秒 | 偉人①渋沢栄一
渋沢栄一 追悼の和歌

1931(昭和6)年、栄一が死去した後、短歌誌「あららぎ」に次のような一首が寄せられた。

資本主義を罪悪視する我なれど 君が一代は尊くおもほゆ

この年、日本は満州事変を起こし、中国との泥沼戦争に突入した。東北地方は大凶作で、プロレタリア運動も高まりを見せていた。こういう背景を知ると、この歌の真意がよく分かる。

「日本資本主義の父」として栄一の業績はあまりにも大きい。巨人としか呼びようがない。92年間の人生で、500以上の会社を興し、600余の社会事業に関係した。谷中墓地の葬儀には三万人の参列者があった。

会社では、第一国立銀行(現・みずほ銀行)を皮切りに、東京証券取引所、東京ガス、王子製紙、帝国ホテル、帝国劇場(現・東宝)、日本郵船、日本鉄道(JR東日本の前身)、石川島造船所(IHIの前身)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、秩父鉄道、大阪紡績(東洋紡)、東京海上日動火災保険、アサヒビール、清水建設・・・など、文字どおり枚挙にいとまがない
一つの会社の経営さえ大変なのに、栄一は「日本社会福祉事業の草分け」でもあった。1874(明治7)年、当時の東京市から養育院の委嘱を受けたのを手始めに、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、聖路加国際病院初代理事長など、関係した非営利の社会事業もまた数えきれないほどだ。

名誉職で務めたのではない。死ぬまで院長を続けた養育院を引き受けたのは、35歳の時だった。

養育院は、親も親戚もない不幸な少年少女や、身寄りのない老人を養う施設である。栄一は毎月、菓子を持って院を訪ね、この施設の元々の基金を作った寛政の老中松平定信の命日には毎年、話をしに出かけた。これを死ぬまで56年余続けたのである。

栄一の母親は慈悲深い人で、郷里の共同浴場に癩患者の女性が入ってきた時、入浴者は気味悪がって逃げ出したのに、一緒に入浴して、背中まで流してやった逸話が残っている。死去する年に癩予防協会会頭を引き受けたのも、この話に関係がありそうだ。

栄一が生涯の信条にしたのは、論語にある「忠恕」、つまりまごころと思いやりの心だった。この信念と母親の遺伝子が栄一を社会福祉への道へ進ませたのだろう
当時、商人に社会教育は要らないと考えられていたのに、栄一は商業教育の必要を唱え、一橋大学や東京経済大学の設立に協力した。国学院大學や東大新聞研究所、理化学研究所にも関与した。

不要視されていた女子高等教育にも力を入れ、日本女子大学や東京女学館の設立にも携わった。

栄一は、70歳で大半の営利事業の役職、77歳で第一銀行頭取などを辞し、実業界から引退した後も、養育院などの社会事業は続けた。「財なき財閥」と呼ばれるゆえんである。

明治の文豪幸田露伴は栄一を「時代の児」と呼んだ。栄一が自称していた「血洗島の農夫」は、幕末から昭和初めにかけての日本の激動の時代にもまれ、まさしく「時代の児」として生きた。

参考文献
「評伝 渋沢栄一」藤井賢三郎 水曜社
「澁澤栄一」山口平八 埼玉県立文化会館

渋沢栄一 岩崎弥太郎

2010年08月29日 20時20分30秒 | 偉人①渋沢栄一


海運にも手を伸ばそうとしていた栄一の生き方を考える際、最も印象的なのは、海運業の独占を狙っていた三菱財閥の岩崎弥太郎との物別れに終わった大論争である。

明治11年の夏の終わり、その岩崎弥太郎が栄一を隅田川の舟遊びに招待した。“清談”をしようというのである。舟遊びは当時、最高の接待の一つだったようだ。

大川端(大川とは隅田川のこと。埼玉県人から見れば荒川の下流にしか過ぎない)の料亭で芸者総上げの宴会、屋形船遊びの後、料亭に戻ると、弥太郎が、「二人で手を握り、海運の富を独占しよう」と持ちかけた。いかにも弥太郎らしい発想である。

栄一は激論の挙句、きっぱりと断った。栄一は一歩も譲らず、中座した。弥太郎は当然、立腹し、その後長く反目が続いた。

高崎城襲撃をきっかけに、横浜を焼き討ちし、外国人皆殺しを真剣に考えていたほどの過激な尊王攘夷派だった栄一は、本来は不倶戴天の敵とも言うべき第十五代将軍徳川慶喜の庇護を受けるようになる。

栄一は、慶喜の弟である清水昭武を代表として幕府が万博に参加するためパリに向かう際、庶務担当として同行することになった。27歳。それから一年半、フランスを始め、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどの先進国を訪問した貴重な経験が栄一を根底から変えた。

当時は船しか外国訪問の道はなかったので、帰国した際には幕府は倒れていた。大隈重信に説得され、今の大蔵省に入る。ところが、大蔵卿・大久保利通との予算編成に関する意見の食い違いから大蔵大輔(たゆう)井上馨とともに3年余で野に下る。33歳。1873(明治6)年のことである。

ここから官尊民卑を改め、商工業者の地位を引き上げようとする生涯の戦いが始まる。初めての仕事は「第一国立銀行」だった。国立銀行と言っても日銀のことではない。今のみずほ銀行の前身である。「バンク」を「銀行」と訳したのも栄一だった。

次に手がけたのは、株主の協調の場にしようと「東京商法会議所(後の商工会議所)」を設立。明治11年、発会式には大倉喜八郎、安田善次郎、岩崎弥太郎などが集まり、栄一は会頭に推された。

船会社を持っていたので明治7年の台湾出兵や10年の西南戦争で、巨利を得た「政商」である。

明治11年の夏の終わり、その岩崎弥太郎が栄一を隅田川の舟遊びに招待した。“清談”をしようというのである。舟遊びは当時、最高の接待の一つだったようだ。

大川端(大川とは隅田川のこと。埼玉県人から見れば荒川の下流にしか過ぎない)の料亭で芸者総上げの宴会、屋形船遊びの後、料亭に戻ると、弥太郎が、「二人で手を握り、富を独占しよう」と持ちかけた。いかにも弥太郎らしい発想である。

栄一は激論の挙句、きっぱりと断った。栄一は一歩も譲らず、中座した。弥太郎は当然、立腹し、その後長く反目が続いた。


。そもそも二人は考え方が違うのである。「論語と算盤」の著書があるとおり、道徳と経済は両立しなければならないという「道徳経済合一論」が、栄一が終生貫いた立場だった。

栄一は、よく議論した。直接議論ができない場合は「建白書」を提出した。栄一が野に下ったのは、富を独占せず、株式会社を作り、国民全体の利益にするのが目的だった。
栄一の論争の根底にあるのは、徹底的に学んだ漢学、特に「論語」の素養がある。二人を比較すると、その違いは幼児からの教育と、ヨーロッパを見た体験である。

つけ加えておきたいのは、アメリカや日本のマスコミ好みの「テロリスト」という言葉である。栄一は若い頃にはれっきとした「テロリスト」だった。それが機会が与えられることによって、見事に変身したのである。

「〈さいたま〉の秘密と魅力」

2010年08月19日 07時22分08秒 | 文化・美術・文学・音楽


行きつけの南浦和図書館の郷土資料の棚を眺めていたら、「〈さいたま〉の秘密と魅力」(鶴崎敏康著 埼玉新聞社)と題する真新しい本が並んでいるのに気がついた。手に取るとズシリと重い。普通の書籍よりも大型のA5判で、600ページもあるのだから当然だ。

10年4月に出たもので、定価は2、625円。奥付の著者略歴を見ると、生まれは名古屋。1989年、浦和市と合併した大宮市議会議員に当選以来、5期連続当選。05年にはさいたま市議会議長を務めた。以前は、評論家、記者、ジャーナリストとして活躍したとある。

てっきり政治がらみの本と思ったら大間違い。せっせと図書館に通い、書き上げた学術書とも言うべき大労作なのだ。この本の〈さいたま〉は埼玉県全体ではなく、さいたま市のことである。

エピローグに、「さいたまの紹介本」でも、「ガイドブック」でもない。「さいたま私論」、私の目から見た〈さいたま〉であり、私が思う〈さいたま〉論であると断ってある。

地理と歴史 歴史の舞台、その舞台上の文化、文化の自慢話など5部に分かれ、それぞれの部が、氷川神社、中山道、見沼、大宮公園などの場所別、鉄道、人形、盆栽、漫画などの項目別に細分されている。目次が一種の索引を兼ねるという凝った構成である。さいたま百科事典の感がある。

目次が細分されているので、好きなところをつまみ読みできる。この本はさすがプロとあって、書き出しから面白い。浦和は「海」を連想させる地名で、浦和の文字は正しくは、浦回(うらわ)、浦廻(うらわ)、浦曲(うらわ)と書くのが正しい(「埼玉県地名誌」)。市内には「岸町」、「瀬ヶ崎」などの地名が残り、「大谷場貝塚」などの72の貝塚もある。

縄文時代、温暖化で海面が上昇、海の侵入(縄文海進)で、現在のさいたま市の高いところは海に突き出ることになった。首都圏の貴重な緑の空間、さいたま市の見沼田圃(たんぼ)もこの時代、東京湾の海水が入り込む湾だったのだ。

実際、自転車で走り回っていると、浦和には坂が多いのに気がつく。ギア付きでないと登れないようなところもある。日本では長崎、尾道など海に面した街は坂の町なのである。

「歴史の舞台」で「大宮球場」を開くと、日本で初の県営球場であるこの球場の本格的なお披露目は、1934(昭和9)11月29日の読売新聞社主催の日米親善野球だった。

ベーブ・ルースが2本、ルー・ゲーリッグが1本など米軍は10本のホームランをかっ飛ばし、23-5で圧勝した。日本軍のメンバーは沢村栄治、三原脩、水原茂、スタルヒンらであった。野球ファンには身がぞくぞくするような話だ。

よほど資料探しが好きな人のようで、論というより、こんな話がぎっしり詰まっているのだから、読み出したらやめられない。昔の私のように、〈さいたま〉のことは何も知らないのに「ださい」と思っている人たちには一度、開いて欲しい本である。


静御前の墓 久喜市栗橋町

2010年08月12日 10時43分18秒 | 中世


判官びいきの日本では、源義経だけでなく、愛妾の舞姫「静御前」の人気も高い。

 よし野山みねのしら雪ふみ分けて いりにし人のあとぞこひしき

 しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな

鎌倉の八幡宮、頼朝の面前で、義経を慕う歌に合わせて堂々と舞い踊った静御前の心意気は、男もほれぼれするほどだ。

その静御前の墓が、JR東北線と東武線の栗橋駅東口にあると聞いていたので、一度訪ねてみたいものだと思っていた。

産卵のために利根川を逆上る中国原産コイ科の1m近いハクレンが、栗橋駅に近い、国道4号線の利根川橋とJR東北新幹線の鉄橋の間でジャンプする季節なので、どんな所か見ておきたい気持ちもあった。

静御前の墓と称するものは、全国にいくつかあるようで、もちろん、眉に唾をつけながら出かけた。だが、「静御前遺跡保存会」と「栗橋郷土史研究会」を中心とする地元の熱意に打たれて、「ひょっとして本当なのかな」と思いながら帰ってきた。

駅の改札を出ると目の前の壁に、この二つの会による「悲恋の舞姫 静御前 終焉の地」という展示が飛び込んできた。

1925(大正14)年に印刷されたという「静村郷土誌」の一節が掲示されている。よく読むと、静御前は、「下総(しもうさ)の国勝鹿郡伊坂の里で病死した」と書いてある。

この「伊佐の里」が、現在の埼玉県久喜市栗橋町伊坂で、1889(明治22)年、近隣の6村が合併してできた「静村」にあった。どの村の名もとらず、「静村」と決めたというから泣かせる。

この村は、久喜市の北部にあって、1957(昭和32)年、栗橋町などと合併し消滅した。

伊坂とは、栗橋駅前の大字。駅から50歩も歩けば、「クラッセ くりはし」と呼ぶ一角がある。「クラッセ」とは、栗橋地方の方言で「ください」という意味だという。

入り口の左手にあるのが、静御前の墓である。よくあるようにポツンと一つ寂しげに立っているのではない。ここが終焉の地であることを立証しようとする多くの旧蹟が、これでもかこれでもかと詰め込まれている。

裏に回ると、左右に「旧跡光了寺」と「静御前之墓」の石柱が立つ。

久喜市の指定文化財に指定されていて、分かりやすい絵付きの掲示板が立っている。

静は、義経を慕って、平泉に向かった。途中で「義経討死」を知り、京都へ戻ろうとした。悲しみと慣れぬ長旅の疲れからこの地で死去したと伝えられる。

一人旅ではない。侍女琴柱(ことじ)と侍童がついていた。琴柱が遺骸を葬ったのが、この「光了寺」だというのである。

「光了寺」は、今は対岸の古河市中田にあり、静の舞衣(まいぎぬ)を保存していることで知られる。昔は、伊坂にあったのだという。

琴柱はこの後、京都の嵯峨野から静の持仏「地蔵菩薩」を持ち帰り、「西向尼」と名乗って、静を弔った。琴柱のいた小さな寺「経蔵院」は近くに今も残り、「本尊地蔵菩薩」は栗橋町の指定文化財に指定されている。

この仏像は、和紙と漆の立像で、日本では三体だけという貴重な文化財だという。

「静御前之墓」には、1803(享和3)年に、義経の血縁者である幕府の関東郡代中川飛騨守忠英が建てた「静女之墳」があり、2001(平成13)年、静御前遺跡保存会の手で修復された。

近くに

 舞ふ蝶の果てや 夢見る塚のかげ

という江戸時代の歌人が詠んだ句の石碑もある。村人が建てという。このほか、「静御前七百五十年祭慶讃記念塔」や「義経招魂碑」に並んで「静女所生御曹司供養塔」もある。「所生」とは、生んだ子のことで、頼朝の命で二人の間の子は殺された。

さらに、「静桜」も植わっている。里桜の一種で、五枚の花弁の中に旗弁という、オシベが花びらのように変化したものが交じる特殊な咲き方をすると書いてある。

遺跡保存会では、命日だという9月15日に「静御前墓前祭」、栗橋駅前商店街事業協同組合では、毎年10月中旬、「静御前まつり」を開く。12年で第20回を迎えた。若者たちが静御前と義経に扮した豪華な時代絵巻「静をしのぶ」という歌もできていて、小学生が駅前舞台で歌う。

町を歩くと、「静最中」の看板や「静御前墳塋(ふんえい=墓)参道」の小さな石碑も目に付いた。しずか団地もあるようだ。栗橋町は、静御前で町おこしを図っているようだ。

西行法師見返りの松 杉戸町

2010年08月11日 16時37分05秒 | 中世


14年の初仕事は、杉戸町にある「西行法師見返りの松」にしようと決めていた。桜きちの一人として、この大先輩の足跡をこれまで少しずつ訪ねてきたからだ。

高野山奥の院の西行庵、静岡県掛川市の小夜の中山、大阪府南河内郡河南町の弘川寺・・・などである。

松の内が明けた1月8日。見返りの松は、東武伊勢崎線の東武動物公園駅から一つ目の和戸駅から歩いていける所にあった。定石どおり碑が立ち、柵で囲われ、町指定の文化財史跡第1号になっている。

見返りというほどだからよほど高い木なのかと思っていたが、3代目とかで少し歩くと見えなくなってしまう。

説明板などの情報を総合すると、約800年前の1186(文治2)年のことである。西行は70歳になろうとしていた。

奥州平泉を目指していた西行は、激しく降りしきる雪の寒さと疲労で倒れ、ここ下高野の不動明王の立つお堂に入り込んだが、寒気のため人事不省になった。

午前2時ごろ、参詣の人が倒れ伏せている西行に気づいて騒ぎとなり、医師が呼ばれ、村人の介抱が始まった。

さいたま市の県立図書館にあった、鈴木薫氏の「杉戸町の文化とその源流を尋ねて」によると、倒れ伏す前に西行は
 
 捨て果てて身はなきものと思えども 雪の降る日は寒くこそあれ

詠んでいたというからさすがである。よほど寒さが身にしみたのだろう。

静養中、西行は庭に生えていたこの松が気に入り、病気が治ると、松を振り返り、振り返りしながら旅立っていった。

このため、村人たちは「西行法師振り返りの松」と呼ぶようになったという。(写真)

この地は後に、奈良東大寺の重源(ちょうげん)も訪ねている。重源は、源平の争いで平重衡の奈良焼き打ちで消失した東大寺再建の寄付を集め、再建した僧として知られる。

重源は、このお堂を「東大寺」と名づけた。またこの松に、僧などが経文などを入れて背負う笈(おい)を掛けたことから、「笈掛けの松」とも呼ばれた。東大寺は廃寺となって今はない。

西行が平泉を目指していたのは、この重源に「平泉に大仏メッキ用の砂金を送ってくれるよう伝えてくれ」と頼まれていたからだった。

1140年、23歳で妻子を残して出家、高野山で修業する前、西行は「佐藤義清(のりきよ)」という御所警護の武士だった。

平将門の乱で功を挙げた俵藤太秀郷(姓は藤原)から九代目の武家の生まれで、秀郷の血をひく平泉の藤原氏とは遠縁の間柄だった。

平泉は藤原秀衡の時代で、西行は約40年前、29歳の頃にも平泉を訪ねている。この時は2回目の訪問だったわけだ。

この訪問の途中、東海道の難所「中山峠」を越えた際に詠んだのが、有名な

 年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山。

である。

鎌倉にも立ち寄り、たまたま鶴岡八幡宮で源頼朝とも会い、招かれて話をした。頼朝は流鏑馬(やぶさめ)や歌道について聞き、細かに聞いた流鏑馬はその翌年から行われるようになったという。

頼朝は土産に銀製の猫を送ったのに、西行は館を出るなり、遊んでいた子供にやってしまったという話が残っている。

この後、鎌倉街道中ノ道(奥州道)を北上して、見返り松に至ったのだろう。鎌倉へ立ち寄ったのは、当時、平泉に向けて逃亡中の義経捕縛のために設けられた多くの関所を通る必要があったので、その通行証を求めるためだったという説もある。

砂金送りの要請はかなえられ、平泉から帰った西行は1190年に弘川寺で73歳で死去した。

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

の歌のとおり2月16日のことだった。

これより1年前の1189年、平泉では、秀衡を継いだ泰衡は頼ってきた義経を殺し、泰衡は同じ年頼朝に滅ぼされ、奥州藤原氏と平泉の栄華は消えた。


薩摩守忠度の供養塔 深谷市

2010年08月09日 20時36分19秒 | 中世



文部省唱歌「青葉の笛」は、忘れられない名曲である。

一の谷の戦いで果てた平家の武将をうたったもので、歌詞の一番は平敦盛、二番は平忠度(ただのり)を偲ぶ。

この二人を討ったのがいずれも、今の埼玉県在住の武蔵武士だったのは、武士発祥の地、武蔵の国らしい。

「青葉の笛」を吹いていた敦盛のことは、熊谷直実のブログで書いたので、今度は忠度と埼玉県との関わりを書いてみたい。

埼玉県は昔の街道沿いに発達した歴史を持っているので、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄と宿場が北上していく中山道のことが気にかかり、いろいろ本を読んできた。

「誰でも歩ける中山道69次 上巻」(日殿言成著 文芸社)を拾い読みしていたら、平忠度、つまり薩摩守忠度の墓が、深谷市にあるというので、14年1月下旬に出かけた。

江戸時代、中山道を行く旅人は知っている人が多かったようなので、「知らぬは・・・ばかり」だったのかもしれない。

更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは 「花や 今宵」の歌

明治39(1906)年に大和田建樹の詞で出来たこの歌は、「平家物語」の中でも名文で知られる「忠度都落」のエッセンスを見事に伝えている。

その書き出し 
 
「薩摩守忠度は、いづくより帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身共に七騎・・・」
の名調子は今でもよく覚えている。

「わが師」とは藤原俊成のことで、「千載和歌集」の選者だった俊成は、託された百余首を収めた歌の中から

 行(ゆき)くれて木(こ)の下かげを宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし

を「詠み人知らず」として収録したのは、余りに有名な話である。

わが武蔵武士、岡部六弥太正澄が登場するのは「忠度最期」のくだりである。

その名も岡部駅(JR高崎線)で降りると、駅前に看板があり、錦絵付きで手短かに要約してある。

「六弥太は、落ちていく忠度に戦いを挑んだが、危ういところを駆けつけた従者の童(ここでは旗持・田五平となっている)が、忠度の右腕を切り落とした。覚悟を決めた忠度は念仏を唱えながら首を討たれた。箙に結び付けられていた短冊から忠度と分かった」

名乗りを上げた一対一の正々堂々の戦いではなく、名も知らぬ平家の大将に挑戦し、従者の助けを借りて金星を挙げたことが分かる。忠度41歳。短冊の歌は「花や 今宵」だった。

六弥太は、忠度の菩提を弔うため、自分の領地内で一番見晴らしのいい清心寺(深谷市萱場)にその供養塔を建てた。(写真)

清心寺の掲示板には、忠度の妻菊の前が京都からこの塔を訪れ、その際持ってきた杖を土に挿したら芽をふいて、紅白の花が重なる夫婦咲きとなり、「忠度桜」として知られた、とある。今ではその孫桜になっている。

六弥太は自分で創建した普済寺(同市普済寺)の北方の館跡の一角に葬られ、一族とともに五輪塔が立っている。

一方、戦いのあった兵庫県では、明石市に忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。忠度公園という小さな公園もある。神戸市長田区駒ヶ林には、平忠度の腕塚と胴塚があるという。


比企尼と比企能員

2010年08月07日 17時52分09秒 | 中世

比企尼と比企能員 

平安時代の末期の源平合戦、鎌倉幕府の成立からその初期まで、武蔵武士は栄光の時代を迎えた。だが、その期間は短かった。

源平合戦における武蔵武士の活躍ぶりは「平家物語」に詳しい。武蔵国男衾郡畠山を「名字の地」とする畠山重忠の武勲、子の直家とともに源頼朝に「本朝無双の勇士」と紹介された熊谷郷の開発領主・熊谷直実の話などは、中学時代、週刊朝日に吉川英冶の「平家物語」が連載され、愛読していたこともあって、懐かしい限りだ。

武蔵武士の歴史を振り返って、面白かったのは、桓武平氏の流れを汲んだ「坂東八平氏」という言葉があるとおり、この地域はもともと平氏の地盤だったのに、源頼朝が平家打倒の兵を揚げると、一旦は平家寄りに動くものの、一斉に頼朝になびいていく姿だった。

なかでも秩父牧(馬の牧場)を基盤として発展した秩父平氏の一族の去就が戦局を大きく左右したとされる。

合戦では鎌倉幕府の成立に大きく寄与したのに、武蔵武士の幕府での政治生命は短かった。

その典型が比企一族である。

比企一族と源氏との関係は、比企尼(ひきのあま)が、頼朝が生まれた時から乳母になったことに始まる。

比企尼は、比企遠宗の妻だった。遠宗は源為義、義朝父子に仕え、義朝に頼朝が生まれると、比企尼は乳母になった。

頼朝が13歳で伊豆に流されると、遠宗は比企郡の郡司職を得て、比企尼と共に、比企郡に来た。遠宗は先に死んだが、比企尼は頼朝が33歳で平家追討の兵を挙げるまで20年もの間、比企一族とともに比企ー伊豆の遠い道を生活物資を背負って届けた。乳母とは単に母乳を与えるだけではなかったのだ。

頼朝の生母由良御前(実家は熱田大神宮)は、頼朝が12歳の時に死んでおり、熱田大神宮からは何の援助もなかった。頼朝を支えたのは比企の尼だけだった。尼は実の母のような愛情を注いだのだった。

恩にきた着た頼朝は、比企尼を鎌倉に呼び寄せ、尼の甥で養子の比企能員(よしかず)を御家人に取り立て、特に重用した。
北条政子が頼家を出産したのは、比企尼の邸だったほどの親密さだった。
能員の娘は、頼朝の長男頼家の側室になり、長男一幡(いちまん)を生むと、能員の妻は頼家の乳母になった。頼朝没後は外祖父として北条氏を上回る権力を持つようになった。

1203年、病弱な頼家が急病で危篤になると、北条時政は、頼家を廃嫡し、頼家の弟実朝に関西38か国の地頭職を、関東28か国の地頭職と総守護職を頼家の長子一幡にと家督を分与すると定めた。

この決定に不満を持った能員は、病床の頼家に時政の専横を訴え、時政追討の許諾を得た。

これを障子を隔てて聞いていた政子が時政に通報、時政は先手を打って、能員を仏事にかこつけて呼び出し、殺害した。

比企一族は、一幡の屋敷に立てこもったが、一幡とともに滅亡した。「比企氏の乱」「比企能員の変」である。

能員が仏事にかこつけて呼び出された際、平服だったことなどから、この変は北条氏側の陰謀だったのではないかと見る向きも多い。

頼家は将軍の地位を奪われ、時政のために伊豆の修善寺へ幽閉され、殺害された。

比企一族を殺戮した北条氏は、その後比企氏の怨霊に悩まされることになるが、当然のことであろう。


武蔵武士 畠山重忠

2010年08月05日 12時08分50秒 | 中世
武蔵武士 畠山重忠

「武蔵武士」と言われて、思い出すのは、畠山重忠、熊谷次郎直実、それに、いくぶん時代が下がって太田道潅の三人であろう。

私にとっては、「坂東武士の鑑(かがみ)」と称えられた畠山重忠である。源義経の鵯(ひよどり)越えの逆(さか)落としで、椎の木を杖に愛馬「三日月」を背負って坂を下りる重忠の印象が強烈だからである。

日本の馬は、土壌や草にカルシウム分が少ないので、体躯が小さい。このため、後の日露戦争でロシアのコサック騎兵に対抗するため、秋山好古が苦労する話は、司馬遼太郎の「阪の上の雲」に詳しい。

実際、日本の野生馬を見ると、なるほど小さいので、「さもありなん」と思っていた。ところが、重忠の怪力ぶりは、事実ながら、重忠が逆落としに加わった史実はなく、後世の作り話と考えられるという。

それがなくとも、重忠の勇猛さは、源頼朝が武蔵から相模の国に入った際や奥州平泉攻めでも先陣を務め、義仲討伐では義仲との一騎打ちなどと戦功を挙げたことなどから明らかだ。頼朝の信頼も厚かった。

畠山重忠、熊谷次郎直実らの武蔵武士は、一の谷の戦では源氏の軍勢の重要な部分を占めた。一の谷の戦の後、武蔵国は頼朝の知行国となった。頼朝時代には、武歳武士は幕府の要職を占め、その体制を支えた。頼朝時代は武蔵武士の全盛時代だった。

重忠は音曲にも堪能で、鶴岡八幡宮で静御前が舞を披露した際、現在のシンバルに似た銅拍子で伴奏したことでも知られる。

ところが、北条時政の時代になって、武蔵武士の運命は暗転する。時政は頼朝に近く、現在の比企郡を支配していた比企能員(よしかず)を、自邸に招いて謀殺、比企氏一族を皆殺しにした。能員は、頼朝の後を継いだ頼家の庇護者だった。頼家は修善寺に幽閉され殺された。

能員は、頼朝の乳母の一人だった比企尼(ひきのあま)の甥で養子だった縁で、頼朝に重用された。比企尼は頼朝が旗揚げするまで、生活を支援した。能員の妻も頼家の乳母だった。能員の娘は頼家の長男を生み、能員は外祖父として権勢を振るった。

このような関係で、比企氏は北条氏を上回る権力を持つようになり、時政が危機感を持ったのが、比企氏の滅亡につながった。

畠山重忠も時政による頼朝派の御家人つぶしの犠牲者だった。きっかけはささいなことだった。時政の後妻牧の方の女婿だった平賀朝雅(ともまさ)の邸で開かれた酒宴で、重忠の子重保(しげやす)が朝雅と喧嘩したのである。

朝雅はこれを根に持って、「重忠父子が謀反を企てている」と牧の方を通じて時政に讒言、時政はまず重保を謀殺、ついで何も知らず鎌倉に向かっていた小人数の重忠一行に、大軍を派遣して滅ぼした。重忠42歳の時だった。

大軍を率いたのは、時政の後継者の義時。義時は後に重忠の無実を知るが、すでに後の祭り。武家政治というと聞こえはいいが、武士とは人殺し集団だということがよく分かる。

熊谷直実は出家、太田道潅は55歳で主家の家臣に入浴中に謀殺されるなど武蔵武士の典型たちの末路はいずれも哀れである。

埼玉県嵐山町には、畠山重忠が住んでいたと伝えられる館が残っている。はっきりとした証拠物は見つかっていないものの、近くの寺院から重忠の曾祖父秩父重綱の名前を書いた経筒が発見されており、この地が畠山氏の拠点だったとされている。


嵐山町の菅谷館と呼ばれるこの平山城は、総面積約13万平方mの広大さで、都幾川と槻川の合流地点を望む台地上にある。「比企城館跡群菅谷館」という名で国の史跡に指定されていて、重忠の銅像がある。

一方、畠山氏は深谷市畠山にも住んでいたとされる。同地には重忠が生まれたという畠山館跡もあり、畠山重忠公史跡公園になっていて、重忠の墓、産湯の井戸なども残り、銅像も立っている。

畠山氏は桓武平家につながる「坂東八平氏」の一つ秩父氏の一族。本来は平家なので、重忠らは頼朝の旗揚げの際に、当初は敵対した後、頼朝に帰順、忠臣となった。

「埼玉合唱団」

2010年08月02日 10時38分07秒 | 文化・美術・文学・音楽
「埼玉合唱団」 

下手の横好きで、さいたま市で公民館などの歌う会に顔を出していると、その指導者は「埼玉合唱団(混声)」のメンバーであることが多い。県庁前の喫茶店「蔵王」で開かれていた「歌声喫茶」もその一つだった。

その埼玉合唱団が、第3回合唱講座の修了式とみんなでうたう会、ミニコンサートを開くというので、10年7月31日夜、浦和コミュニティセンターのホールに出かけてみた。

前年の「日本のうたごえ祭典合唱コンクール」で日本一に当たる金賞を受賞したと聞いていたからだ。1961年に創立、11年には50周年を迎える。団員はざっと50人前後で、20代から70代まで、職業もさまざま。

第3回講座の研修生は19人。5ヶ月間12回にわたって楽譜の読み方など楽典をみっちり教え込まれたようだ。

最初に講座の紹介や研修生の演奏があった後、ほぼ満員の聴衆と「みんなで歌いましょう」を30分間。これがうたごえの本領だ。

最後のミニコンサートで、各方面での活動で注目されているオペラ指揮者、金井誠氏の指揮で「We Shall Overcome」など7曲を披露した。

壇上に立った女性団員に向けて「おばあちゃん!」というお孫さんのかわいい掛け声が会場からいくつか上がるのが、いかにも市民合唱団らしい。

曲の中で興味深かったのは、日本の「赤とんぼ」と韓国の「アリラン」を一つにまとめた「赤とんぼ~アリラン」。団員と研修生が一緒に歌った。

日本と朝鮮半島の歌がこんなに似ているのかとしみじみと思った。そう言えば、韓国の歌謡曲が日本で大流行した時代があった。日本の歌謡曲の基礎を創った古賀政男のメロディーが、半島仕込みだったこともふと思い出した。

この合唱団は、「日韓併合100周年」を記念して8月28と29日、ソウルで現地の合唱団とジョイント・コンサートを開いた。

曲目は、原爆の悲劇を伝える「墓標」、南北分断の悲劇を歌った「イムジン河」などで、最後にはこの「赤とんぼ~アリラン」を日韓の合唱団が共に歌った。