ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

「東日本連携センター」 大宮駅東口にオープン

2019年03月04日 17時54分51秒 | 街道・交通

 


JR大宮駅を通過する各新幹線沿いの「東日本14道県25市町村」の地酒などの「美味」や「特産品」「文化」が、一堂に集結する「東日本連携センター」が2021年3月28日、さいたま市大宮区の大宮駅東口(北側)を出てすぐ左手にオープンした。オープニング・ウィークには、上田、魚沼、郡山、函館市、みなかみ町など10市町が出展した。

駅前の「大宮銀座通り」を渡って「さくら小路」入口の左側にあった三井住友信託銀行旧支店(3階建て)を賃貸し、改修、1~2階を利用。整備、運営費はさいたま市が負担、19年度は13万人の利用を目指す。年中無休で午前10時から午後7時まで。市とさいたま商工会議所が共同で運営する交流・情報発信拠点で、センターの愛称は「まるまるひがしにほん」。

1階は、狭いながらイベント会場で、各都市が観光や祭り、食などの情報を発信し、イベントの無い日も各地の地酒飲み比べ(有料)が楽しめる。2階のビジネス交流サロンには、専門のコーディネーターを配置し、ビジネスのマッチングを行う。市は「このセンターを核に連携各都市への誘客を促すとともに、大宮駅で降りてもらうことで、地域のにぎわいにつなげたい」と期待を寄せている。

さいたま市は、北陸新幹線、北海道新幹線の延伸・開業を機に、15年から、各新幹線沿いの自治体の首長らを集めた「東日本連携・創生フォーラム」を開催。地域活性化へ向け、連携して取り組んできた。

参加都市は現在、北海道函館市を初め、新潟、金沢市など、新幹線で大宮駅と結ばれた25市町。各商工会議所、観光協会、産業支援機関など経済団体も加わり、これまで4回にわたって、広域連携施策について具体的な話し合いを進めてきた。

このセンターのオープンで、さいたま市は新幹線の分岐点という地の利を生かした、ヒト・モノ・情報が交流する「東日本の中枢都市」になる可能性も秘めている。

 

 

 


自転車損害賠償保険が義務に 18年4月から埼玉県

2018年04月02日 14時09分05秒 | 街道・交通


平坦地が多い埼玉県は、全国でも自転車保有率は全国でもトップクラス。県警によると、自転車側が過失割合の高い「第1当事者」になる人身事故は17年県内で1103件起きた。

交通事故による死者の中で、自転車がからむものが多い。18年も3月29日現在で、自転車による犠牲者は前年同期より4人多い10人。17年は全国ワースト2位の32人だった。

ところが、昨年の県民の自転車保険への加入率は約45%と半数に満たない。このため自転車事故の被害者になっても賠償金が支払われず、泣き寝入りするケースも多い。

このため県は、自転車事故が起きた際に、被害者の救済と加害者の経済的負担の軽減を図るため、「埼玉県自転車の安全な利用の促進に関する条例」を18年4月1日から施行した。

自転車保険に加入しなくても罰則は設けられていない。自動車保険や火災保険の特約として付帯するものもあるので、自分の保険で自転車事故をカバーできるかどうかまず確かめておく必要がある。

新たに自転車を買う場合には、自転車小売業者は保険の加入の有無について確認することになる。

自転車保険は、大阪府、兵庫県、滋賀県、鹿児島県が義務化されていて、京都府は埼玉県と同様に4月から義務化された。

草加市では保険会社とともに、最大1億円の個人賠償責任などを保障する独自制度「入って安心!RinRinそうか」を創設した。

小学生が高齢の女性に重い障害を負わせ、1億円近い賠償が命じられたケースケースもあり、自転車事故と軽くみては大変なことになる。

自転車保険はまだなじみが薄いので、県防犯・交通安全課では問い合わせも受け付けている(048・830・2955)。県のホームページでも損保会社や共済などの保険の内容を一覧できるようにしている。

 

 

 

 

 

 

 


圏央道が県内全区間開通

2015年11月23日 12時47分12秒 | 街道・交通



首都圏を円状にぐるりと結ぶ、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の桶川北本インターチェンジ(IC、桶川市)と白岡菖蒲IC(久喜市)の10.8kmが15年10月31日午後開通、県内区間58.4kmが全線開通した。(地図は朝日新聞による)

開通区間途中にある桶川加納IC(桶川市)と菖蒲パーキングエリア(PA、久喜市)も同時に供用が始まった。圏央道は、都心から半径40~60kmの環状の高速道路。総延長約300km。神奈川県厚木市、東京都八王子市、川越市、茨城県つくば市、千葉県成田市などを経由する。今度の開通で、供用区間は約241kmとなり、全区間の8割が完成した。

関越道と東北道、中央道、東名高速が圏央道経由で都心部を通らず初めて直結、東名から東北道まで首都高経由より約1時間短縮される。久喜白岡ジャンクション(JCT)と東名につながる海老名JCTまで、首都高速経由よりざっと1時間短縮されて、従来の約2時間10分から約1時間15分で行けるようになった。

沿線では物流施設や工場の新設が相次ぎ、観光へのプラス効果など県内経済への波及効果が期待されている。

本県(武蔵国)は古来、道路とともに発展してきた。知事は開通式で「新しい時代が開かれる歴史的な日だ」と述べた。

圏央道沿線地域は最近10年間で462件の企業が進出、1万7774人の雇用が新たに生まれた。

業種別では、製造業が263、流通加工業が124、食料品製造業が52件という順序だ。

県企業局では07年度から久喜市や白岡市に4産業団地(74ha)を造成、23社が進出した。需要に供給が追いつかない状況で、現在造成中の2か所のうち1か所もほぼ予約で埋まったという。

今年度に完成する幸手中央地区産業団地(47ha)には、家具製造販売大手の「ニトリ」(本社・札幌市)や卸売業「トラスコ中山」(同・東京都)の物流センターなど11社の進出が決定。杉戸町の産業団地(24ha)の造成も今春から始まっている。

これに先立ち、菓子メーカーの関東グリコは12年、主力製品のポッキーやプリッツを製造する工場を桶川加納IC近くに新設。建材メーカーのYKKAPも11年、白岡菖蒲ICから約5分の立地に窓専用の工場を稼動させた。

味の素グループは昨年5月、久喜IC近くに物流センターを開設、今年8月には白岡市に化粧品など卸業のパルタックの物流センターが稼動した。
 
米国系のラサール不動産投資顧問は16~17年に狭山市、日高市に物流施設、シンガポールの物流大手グローバル・ロジスティック・プロパティーズ(GLP)の日本法人は15年末に日高市で同じく物流施設を完成させる。

県内勢も負けていない。県内を中心に店舗展開してきた食品スーパーチェーン・ヤオコー(川越市)は、開通を見込んで10年に平塚や藤沢市の神奈川県に初出店した。

県内全区間開通をきっかけに、県は県外企業誘致をさらに進める考えで、大阪市で立地セミナーを開催する。東日本に進出する企業の拠点となれば、投資や雇用の増加で地域を潤すという算段だ。

観光やレジャー面でも期待が大きい。蔵造りの町並みで有名な川越市の場合、群馬・富岡製糸場と約1時間15分、日光東照宮と約1時間50分、鎌倉市と約1時間50分と所要時間が短縮されるからだ。

時短が実現して便利になった反面、県内のレジャースポットが素通りされてしまう恐れもある。日光や湘南の魅力に勝てるか。

県西部のゴルフ場では、プレー料金が安い栃木や東北などに客が流れることを心配する声もあるという。

圏央道の全区間開通は本県のモノやヒトの動きに大きなインパクトを与えようとしている。17年2月26日には、茨城県内の境古河~つくば中央のIC間が開通、同県内も全区間開通する。圏央道の中心にある埼玉県から関東一円を2時間圏内でカバーできるようになるほか、成田空港へのアクセスも改善するため、観光への影響も期待できそう。

茨城県内の全区間開通で1週間後、埼玉県の桶川加納ー白岡菖蒲IC間は、約18%交通量が増えた。

圏央道沿いの公示地価も上昇、17年1月1日時点での県内の地価は、住宅地、商業地、工業地とも上昇、入間インターチェンジ(IC)周辺の工業地では全国一の上昇率10・3%を記録した。


「鉄道のまち」 さいたま市大宮区

2014年06月04日 13時35分39秒 | 街道・交通



なぜ大宮が「鉄道のまち」と呼ばれるのか。

大宮駅2015年3月16日、1885(明治18)年の開業以来130周年を迎えた。金沢に向かう北陸新幹線も2日前の14日から停車を始めており、長野新幹線は北陸新幹線に統一された。これまでの東北、上越、山形、秋田の新幹線に北陸を加えて新幹線5路線が通過することになった。

16年3月26日には、新函館北斗まで開業する北海道新幹線も停車を始め、通過する新幹線は6路線になった。

京浜東北線や埼京線、湘南新宿ラインのJR在来線のほか、東武鉄道の野田線(愛称アーバンパークライン)や埼玉新都市交通「ニューシャトル」の発着駅でもある。

2015年度の新幹線を含む計12路線が通る大宮駅の1日平均の乗降客数は約70万人に近い。

今はやりの言葉で言えば、「ハブ空港」ならぬ「ハブ駅」だ。JRの駅のホーム数では東京、上野駅につぐ第3位の多さである。

旅客サービスのほかに、駅の北側には、「国鉄大宮工場」と呼ばれていた、検査・修繕用のJR東日本大宮総合車両センター(客車)、JR貨物大宮車両所(貨物)がある。

「旧国鉄大宮工場」の敷地の北に「鉄道博物館」と「大宮大成鉄道村」があり駅の南側の1927年にできた旧大宮貨物操車場が「さいたま新都心」になっている。

当初から「鉄道のまち」だったわけではない。

出遅れたのだ。大宮が「鉄道のまち」になったのは、遅れを挽回するため、私財を投げうって尽力した先人たちの努力のおかげである。

名誉市民・白井助七。

この人のことを知ったのは、通っていたさいたま市のシニア大学の総会が開かれた「市民会館おおみや」に隣接する児童公園・山丸公園の一隅に、その顕彰碑が立っているのを見つけた時だった。

西口のソニックシティ前の鐘塚公園にも胸像が立っている。

1883(明治16)年、私鉄の「日本鉄道株式会社」の手で、東京から北へ向かう鉄道が上野・熊谷間に初めて開業した時、浦和駅の次は上尾、鴻巣駅で、大宮駅はなかった。

中山道の宿場町だったのに、明治維新後衰退し、この開業当時は243戸しかなく、無視されたのだった。

高崎線が高崎まで延長され、深谷、本庄の2駅が開設されても、大宮駅はできなかった。

「これでは中山道の交通の拠点だった大宮が取り残されてしまう」。先見の明を持っていた助七は、地元の有力者たちに呼びかけ、時の県令(知事)や日本鉄道に対し、請願・陳情を繰り返した。

助七らは、停車場用地の無償提供を申し出た。

ちょうどその時、日本鉄道では、宇都宮に抜ける東北線をつくるに当たって、分岐駅をどこにするかを検討していた。候補の一つは熊谷、二つ目が大宮だった。

検討の結果、助七らの陳情もあって、宇都宮への距離が短く、鉄橋の工事費が安くつく大宮分岐が決まり、2年後の1885(明治18)年3月、大宮駅が開設された。その4か月後に東北線の大宮―宇都宮間は完成した。

こうして、「鉄道のまち大宮」の基礎が築かれた。助七らは「鉄道のまち」の父といえるだろう。日本鉄道の大宮工場の誘致でも、助七は土地を提供した。その土地を基に工場は、1894(明治27)年操業を開始した。

日本鉄道は後に国有化された。「国鉄大宮工場」では、DC51機関車も作られた。

助七は1895(明治28)年、推されて大宮町長になったが、翌年執務中55歳で没した。

鉄道博物館の場合も、さいたま市は誘致のため25億円の基金を積み上げていて、それが建設費の一部に充てられた。

「鉄道のまち大宮」の駅も工場も「てっぱく」も、住民の協力でできたのである。


120周年迎えたJR東日本・大宮総合車両センター

2014年06月02日 17時12分56秒 | 街道・交通



さいたま市大宮は「鉄道のまち」と呼ばれてきた。大宮駅がJR宇都宮線と高崎線との分岐点で、京浜東北線の始終点、私鉄の東武アーバンパークライン(野田線)、埼玉新都市交通伊奈線の乗換駅と、関東でも十指に入るターミナル駅だからというだけではない。

むしろ、駅に隣接して「大宮工場」という国鉄・JRを裏から支える大きな施設があり、その工員らが近くに住んでいて、国鉄の企業城下町だったことの方が大きい。

さいたま市立博物館が2007(平成19)年に編集・発行した「鉄道の街さいたまー鉄道博物館がやってきた」によると、1928(昭和3)年には工場長以下2800人が働いていて、「鉄道工場中全国一の規模」だと、当時の大宮町が発行した「大宮」には書いてあるという。

大宮工場の前身「日本鉄道汽車課大宮工場」ができたのは1894(明治27)年なので、2014年は設立以来120周年に当たる。駅が出来たのは1885(明治18)年だから9年後のことである。

労働者は開設時には239人だったのが、最盛期の1946(昭和21)年には5千人を超えていたというから驚く。

現在の大宮区桜木町には国鉄の職員宿舎、寮、病院などがあり、一つの町をなしていた。

「大宮工場」はまさしく「鉄道のまち 大宮」のシンボルだった。

国有化に伴い、名称も次々変わり、現在の「大宮総合車両センター」になったのは、04(平成16)年のことである。

毎年5月の第4土曜日には「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」が開かれてきた。14年はさいたま市も120周年を記念して共催に加わり、駅周辺で様々なイベントが催された。

一度、工場の中をのぞきたかったので、この日に見物に出かけると、駅から工場まで長い行列ができていた。子供連れが圧倒的に多い。約3万人の人出だったという。

入り口に大きくどっしりした蒸気機関車が展示してあった。懐かしい「D51187」である。(写真)

「型式D51」は、主に太平洋戦争中、千台以上作られた日本を代表する蒸気機関車で、「デコイチ」の愛称で親しまれた。私にとって蒸気機関車とは「デコイチ」だった。

「187」は、国鉄大宮工場で製造された31両の同型車の第1号機で、1938(昭和13)年に製造された。

私が昭和14年生まれだから、ほぼ同じ歳を生き抜いてきたのかと思うと感慨が沸く。

この日の目玉は、片道1.7kmの蒸気機関車の試乗会だった。「D51」ではなく小型軽量の「C12」型だったが、計1500人分の乗車券はすぐ売り切れ、煙をもうもうと吐いて運行する度にカメラマンが人垣を作っていた。

この「C12」は、真岡鉄道のものだが、この車両センターで手入れしているものだ。

鉄道グッズや駅弁なども売られ、鉄道ファンにとってはうれしい一日だったようだ。

「鉄道のまち」にとって忘れられないのは、日本の貨物輸送に重要な役割を果たし、新鶴見(神奈川県)、吹田(大阪府)と並び、3大操車場と呼ばれた「大宮操車場」である。1927(昭和2)年にできた。

操車場とは、行き先がばらばらな貨車を1か所に集めて列車を編成して、送り出す場所である。

1984(昭和59)年、操車場の機能を停止、敷地のほとんどは「さいたま新都心」に変わった。

「去るものは日々に疎し」。新都心に操車場があったという記憶は年々薄れてきているようだ。


東武東上線開業100周年

2014年05月14日 17時51分21秒 | 街道・交通


東武東上線が14年5月1日、開業100周年を迎え、各地で記念の催しが開かれた。

東武東上線と言っても、分からない人がいるかもしれないので、老婆心ながら説明すると、県央部を北西の方向に、池袋―寄居間75kmを最短約1時間半で結ぶ東武鉄道の一部である。

沿線に川越、東松山、森林公園、小川町がある。終点寄居で秩父鉄道に乗り換え、長瀞などに出かける際よく利用する。1日約100万人が利用するという。

私にとっては大学時代、学生寮が上板橋にあったため、上京以来その歴史の半分以上断続的に使っているので、なじみの路線である。

東武百貨店池袋店でも「東武東上沿線まつり」があったので、見物に出かけたほどだ。

学生時代は、「東上」とは、東京から上越(新潟)を目指したと理解していた。「埼玉鉄道物語」(老川慶喜著、日本経済評論社)によると。「上」は上州で、群馬県の高崎を経て、渋川が目的地だったとある。

将来は長岡まで延長される計画だった。東上線は、寄居で八高線に接続して、高崎まで通じているので、「上州」と結ぶ夢は実現されているという。

1914(大正3)年5月1日、前身の東上鉄道が池袋~田面沢(現在の川越市~霞ケ関間)の33・5kmで開業。1920(大正9)年、東武鉄道と合併、東武鉄道となり、寄居まで通じたのは1925(大正14)年だった。

全線電化が1929(昭和4)年だから、蒸気機関車が走っていたのを覚えている人もいるようだ。

川越と東京を結ぶ新河岸川舟運に代わる交通手段として東上鉄道の建設は促進された。

その中心になったのが、新河岸川沿いの福岡河岸の船問屋「福田屋」の10代目当主・星野仙蔵だった。

入間郡会議員、県会議員を経て、衆議院議員になり、同じ衆院議員の「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎(東武鉄道取締役、後の東上鉄道社長)と知り会った。

仙蔵は、郡会議員になる前からいくつかの鉄道開設の運動を進めていた。

東上鉄道は1911(明治44)年に会社を設立、根津は社長、仙蔵は監査役になった。仙蔵は用地買収を担当、私財を投じて上福岡駅の実現に努めた。 47歳で急死。駅東口の石碑は仙蔵の功績を伝える。(写真)


鉄道誘致で舟運の家業の方は衰退した。1910(明治43)年、荒川・新河岸川の大水害では、保有米を放出、握り飯を伝馬船に満載し、被災者救助に当たった。剣道家(8段)としても知られた。

「福田屋」の一部は福岡河岸記念館として保存されている。

学生時代、東上線は「おんぼろ電車」のイメージが強かった。「イモ電車」とさえ呼ばれていた。最近のピカピカの車両をみると、今昔の感を禁じえない。

東上線は、東京の近郊路線として発展してきた。東武伊勢崎線には劣るものの、沿線には西大和、鶴瀬、霞ヶ丘、上野台などの千戸を超す大団地が出現、刺激を受けて、個人住宅や高層住宅が造られ、東京への通勤・通学路線の性格が強かった。

13年3月、東京メトロ副都心線を介して、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線と相互直通運転が開始され、西武池袋線を含めて5路線の乗客が乗り換えなしで埼玉県と横浜市の間を往来できるようになり、観光客が横浜から川越に来るという新しい動きも見られるようになった。

明治百年事業として作られた「国営武蔵丘陵森林公園」(森林公園駅)は、さすが国営だと思わせる貫禄だし、「県立こども自然動物公園」(高坂駅)も広大で、武蔵野の面影が残り、大人にも面白い。寄居経由の長瀞もミシュランにも紹介されるなど、秩父鉄道には観光地が多い。

一方、東上線と並ぶ西武池袋線は、前身の「武蔵野鉄道」が池袋ー飯能駅間で開業してから、15年4月15日で100周年を迎えた。飯能市の人口は、当時の約8700人から約8万3500人へと10倍近く増加した。

県西部が横浜元町・中華街と直通に

2013年03月18日 18時48分16秒 | 街道・交通


浦和駅に「湘南新宿ライン」が全便停車するというので、お祭り騒ぎをしている一方で、川越や飯能、和光市などは横浜の元町・中華街まで直通・乗り換えなしで行けるようになったと大喜びだった。

県西部の東武東上、西武池袋、それに東京メトロ副都心、東急東横、横浜高速鉄道みなとみらいの5路線の乗客が乗り換えなしで埼玉県と横浜市の間を往来できるようになるのだから画期的だった。

東急東横線の渋谷駅のホームが、地上2階から地下5階へ下がり、東京メトロ副都心線(和光市―渋谷)と東急東横線(渋谷―元町・中華街)が「相互直通運転」を始めたおかげである。

例えば、川越―元町・中華街間は、寝ていても1時間半で結ばれるようになった。

念のために和光市駅は、東京メトロ副都心線と有楽町線(和光市―新木場)の埼玉側の始発駅である。

「海なし県」の埼玉では、海と接続するというニュースはいつも大ニュースなのだ。

一昔前、東武東上線が地下鉄の有楽町線で東京の新木場までつながり、「埼玉がついに海(東京湾)に出た」という記事を書いたことをなつかしく思い出す。

だが、県にとってもっと切実な問題は、直通で行けるようになったので、県民が海を、横浜を目指してサイフォン現象のように一方的に出て行くようになるのか、それとも、横浜周辺の神奈川県民が、どれくらい川越や飯能や、余り知られていない和光市までわざわざ来てくれるのか、ということだった。

東急東横線には、自由が丘、田園調布、日吉などブランド力のある駅もある。

知名度は落ちるとはいえ、埼玉県側の川越、飯能、和光市はそれぞれ、横浜市からの観光客を呼び込もうと、活動を始めている。

3市の中では川越が「小江戸川越」でリードしている感じだ。3月30日~5月6日の「小江戸川越春まつり」の観光入り込み客数は全体で約17万6千人。前年比11万近く増え、2.6倍の客足となった。うれしいことに神奈川県からの来訪者が急増している。

14年2月末の発表では、13年の川越市への入り込み観光客は約630万人(前年比1%増)で1982年の統計開始以降で過去最高を更新、神奈川県からの観光客が前年比5.7%増加した、という。

15年2月の発表では、14年は657万7千人と最多を更新した。散策したい歴史ある町並みランキングで全国3位だとか。

奥武蔵野ハイキングが売り物の飯能は「エコツーリズム」で売り出そうとしているし、横浜直通の終点は、武蔵丘陵森林公園(滑川町)になっているのが頼もしい。

さすが国立公園とあって、一度足を運ぶと、季節ごとに行きたくなるところだ。

直通運転は、飯能、森林公園までながら、乗り換えれば、その奥にはまだまだ開発の余地がたぶんにある埼玉県の観光の宝庫「秩父と奥秩父」が広がる。

この冬には、ほとんど知られなかった奥秩父にある荒川源流の岩清水が凍りついた「三十槌(みそつち)の氷柱(つらら)」(秩父市大滝)が脚光を浴び始めた。

ライトアップされた氷の芸術は幻想的で、多くのマイカー族でにぎわった。

春は羊山公園の芝桜に、美の山公園の桜。「埼玉県に桜の名所をつくろう」との発想から秩父市と「秩父音頭」の発祥の地、皆野町にまたがる蓑山(みのやま)に10年かけて約8千本桜を植えたもので、ツツジ、アジサイなども植え、花の名所になっている。

秋には、埼玉県最西端に近い中津峡のモミジの美しさは驚くばかりだ。

東武東上線、秩父鉄道寄りの長瀞は、岩畳や夏の「長瀞ライン下り」で昔からよく知られていて、ジオパークや一つ星ながらミシュランのガイドにも紹介されて、新しい名所作りにも力を入れている。

箱根のように広い湖も温泉もなく(鉱泉が多い)、日光のような歴史的建造物もないものの、秩父の自然にはもっと多くの観光客が訪れてもいい。

今回の直通運転の開始が、秩父を含めた埼玉西部の本格的な観光の夜明けなるように県も自治体も鉄道各社も知恵を絞ってほしい。 

JR浦和駅と周辺の新世紀

2013年03月17日 05時47分05秒 | 街道・交通

2013年3月16日、県庁所在地の表玄関なのに、かつて「列車が停まらない」とか「特急が停まらない」駅とからかわれたこともあるJR浦和駅が、ようやく名実ともに“埼玉県の首都”(上田埼玉県知事)としての体裁を整えた。

この日のダイヤ改正で、これまで通過していた湘南新宿ラインも、新ホームが完成したため、始発から全列車134本が停車するようになった。横浜まで直通で約55分で着く。

同じ日、県庁のある東口と、「パルコ」もできて開発が進む西口の間も、13年にわたる工事で、高架下に幅25mの東西連絡通路が全面開通した。

湘南新宿ラインに加え、JRと東武鉄道の直通特急「日光」「きぬがわ」「スペーシアきぬがわ」の上下8本も停車し、日光・鬼怒川エリアへの観光も便利になった。

湘南新宿ラインは、朝夕の通勤時間帯の混雑緩和のため、それぞれ1本増発された。

浦和駅は1883(明治16)年、当時の日本鉄道が上野―熊谷間を開業した際に開設された。13年で130周年を迎えた。

1932(昭和7)年、赤羽―大宮間の電化で省線電車が開通したものの、浦和駅には電車だけで列車が停車しなくなった。このため大宮以北から県庁へ来るのに、大宮で乗り換えなければならなかった。

「列車が停まらない県庁所在地」と呼ばれたゆえんである。

この事態は、1968(昭和43)年の赤羽―大宮間の3複線工事の完成で、列車が再停車するまで続いた。

浦和駅にはもう一つ問題があった。通り抜ける連絡通路が無いので、駅が「ベルリンの壁」のような形になって東と西口が分断され、浦和の都市づくりの大きな妨げになっていたのである。反対側に出るには、遠回りしなければならず、急ぐ人は入場券を買って、出るほどだった。

広くなった連絡通路を歩いてみると、自由に行き来できるので、東西浦和が一体化したことを実感できる。駅が障害物ではなく、東西を融合させる媒体となった。人の流れが変わり、21世紀の浦和づくりに貢献することになるだろう。

残念なのは、駅の東西連絡通路には東西の土地の高低差のため階段があり、「自転車お断り」になっていることだ。

せっかく、「ツール・ド・フランス」の誘致に成功するなど、自転車による町づくりを目指しているのに、なにか良い知恵は無かったのだろうか。

高架下には、この連絡通路のほか、駅南側の田島大牧線が幅25mに拡幅され、その南に幅8mの自転車・歩行者道が新設される。駅北側の階段のある幅10mの自転車・歩行車道は、自転車に乗ったまま通行できる緩やかなスロープに改善、そのすぐ南には幅10mの歩行者道が新設される。

合わせて5本の東西通路ができるわけである。

JR東日本は14年度開業を目標に、高架下計8600平方mに大型商業施設の「アトレ」や、西口の旧駅舎跡地に17年度完成見込みで6階建て駅ビルを新設する。西口にはまた、国道17号に至る県庁通りを、歩道をバリアフリー化、自転車レーンも設置する予定。

隣接する約1.8haの南高砂地区には、27階地下3階の高さ約99mのタワービル(4階までは商業と業務)が建設される。5階から27階は約520戸のマンションで1500人以上が入居する。15年度に着工、早ければ18年度に完成する。

浦和駅周辺には19の商店会があるという。全部が完成すると、川口駅前に劣らず浦和駅周辺の光景は一変するだろう。


吉川美南駅 JR武蔵野線に新駅

2012年03月31日 19時07分19秒 | 街道・交通

JRの「武蔵野線」と言っても、東京都や千葉、神奈川県の住民にはピンと来ないかもしれない。埼玉県人が同じJRの「横浜線」「南武線」に実感が湧かないのと同じだ。

これに「京葉線」の東京寄りの路線を加え、4つの線を合わせて「東京メガループ」という呼び名があるらしい。2012年3月17日からのJRのダイヤ改正のパンフレットで初めて知った。

「ループ=Loop」は「輪」、「ループライン」とは「環状線」のこと。JRのループラインの代表は、東京の「山手線」だろう。

地図を見ると分かるとおり、京葉・武蔵野・南武・横浜の各線を結ぶと、山手線よりはるかに大きなメガループ(大環状線)、東京外郭環状線になっている。

これより輪の小さい「東京外環道路」は、住民の反対でなかなか全線開通できないでいるのに、JRでは「外環」はとっくに完成していたのだ。

武蔵野線は東京都、千葉県、埼玉県を結ぶ。もともとは貨物線だったから、鶴見駅(東海道本線)から千葉県の西船橋駅を結ぶ約100kmと鶴見駅と東京都の府中本町駅は今でも貨物専用で、旅客線は府中本町駅と西船橋駅間。三都県の中で埼玉県の区間が一番長い。

武蔵野市を通る線ではない。武蔵野の線なのだ。車窓には昔の面影はないものの、田んぼが広がっているところがよく見える。

府中本町駅には「東京競馬場」「多摩川競艇場」、船橋駅の一つ手前の船橋法典駅には「中山競馬場」のほか、競輪場やオートレース場にも近い駅があるので、ギャンブル好きの人にはなじみの路線のはず。

「ギャンブル線」との呼び名もある。開催日には、それらしき人たちで混雑する。

武蔵野線の前置きが長くなった。

この武蔵野線、東京近郊ということもあって、日本の人口減少の中で、最近、新駅が二つできた。この近くではまだ人口が増えているのである。

08年に「越谷レイクタウン駅」ができたのに続いて、今度は12年3月17日に「吉川美南(みなみ)駅」が開業した。26番目の駅である。

千葉県に接する埼玉県の東端吉川市の「吉川駅」と三郷市の「新三郷駅」の中間にある。「越谷レイクタウン駅」は、「吉川駅」の西側にある。

南流山駅で「つくばエクスプレス」に乗り換えれば、終点の秋葉原経由で東京駅、西に向かって武蔵浦和駅で埼京線を利用すれば新宿駅まで、いずれも1時間以内で行ける。

操車場跡地にできた駅だから、折り返し運転もできるので、将来、始発・終点になる可能性もある。

雨の中、17日に新駅を訪ねた。駅西口に「ケーズデンキ」や建売住宅の建設が進んでいるぐらいで、新開地の印象が強い。東口はまだ田んぼのままだった。

東隣の新三郷駅前には09年に大型商業施設「ららぽーと新三郷」がオープン、大きな調節池があるのでその名がついた越谷レイクタウン駅前には、国内最大級の「イオンレイクタウン」がある。

この一帯は「お買い物路線」の印象が強くなっている。

かつて武蔵野線は、強い風や雨でよく運休した。これも、荒川、中川、江戸川の橋に防風策を取り付け、路線の路盤ののり面を強化したので、運休が激減したという。

埼玉県内の武蔵野線は、千葉県寄りを中心にようやく脚光を浴びようとしている。

「東武スカイツリーライン」 東武伊勢崎線

2012年03月15日 05時04分36秒 | 街道・交通


昔と比べて、浅草がすっかり落ち込んでいるので、「東武伊勢崎線」といっても、どこが始発か分からない人さえ増えてきている。

浅草が全盛だった頃は知らない。沿線に竹の塚、草加、越谷、武里とずらり並んだ第二次大戦後の団地ブームの時期に比べると、地盤沈下が目立つ草加は入居当時、約6千戸、「東洋一のマンモス団地」と言われた。

春日部市の武里団地に住んでいて、始発の浅草駅や地下鉄日比谷線の乗換駅北千住を毎日通勤に使っていたことがあるので、よく分かる。

この線は、埼玉県東部を走り、栃木、群馬県を結ぶ大動脈ながら、西部を走る同じ私鉄の東武東上線や西武池袋線(池袋始発)、西武新宿線と比較すると、いま一つ活気がない。

“西高東低”の感じがある埼玉県だが、2012年5月22日開業の世界一の高さを誇る東武鉄道の東京スカイツリーのおかげで「東武伊勢崎線」にもようやく日が当たろうとしている。

スカイツリーは、この線の業平橋駅の脇にある。業平橋は浅草を出て最初の駅である。

開業に先立ち3月17日から、この駅は「とうきょうスカイツリー駅」に変わった。平安時代の日本一のイケメン在原業平は、武蔵国(むさしのくに)との縁が深い人なので、その名が駅名から消え去るのはさびしい限りだ。

 名にし負(お)はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと (古今和歌集)

駅名の変更とともに、東武伊勢崎線の浅草駅から東武動物公園駅までは「東武スカイツリーライン」の愛称で呼ばれることになった。

県内は谷塚から東武動物公園までの17駅。東武動物公園駅以北は東武伊勢崎線のままだ。沿線には草加、越谷、春日部の3市と宮代町がある。

浅草駅と日光・鬼怒川を結ぶ観光特急「スペーシア」は、東京スカイツリーのイメージに合わせて、車体が紫、青、オレンジを基調にした塗装に変わった。「とうきょうスカイツリー駅」にも停車し、観光客呼び込みを狙う。

松並木の続く草加市の「草加松原」には、松ノ木が623本あった。あと11本植えれば634本になるというので、商工会議所や観光協会など関係3団体が高さ2・5mのクロマツ11本を贈呈、植樹。スカイツリーの高さと同じ数になった。

これにちなんで、「草加武蔵(634)松原」などと名づけたら、ここを歩いた芭蕉ともども再評価されることになるかもしれない。草加せんべいにもスカイツリーせんべいが出てきそうだ。

東武伊勢崎線を春日部駅で東武野田線に乗り換え、岩槻、大宮方面に向かって二番目の駅、豊春の近くには、小さいながら「業平橋」があり、「古隅田川」に架かっている。明治時代に架けられた県道の橋だが、もとは百メートル上流にあり、付近に在原業平の舟塚があったという。

一番目の八木崎駅近くの八幡神社には「名にし負はば・・・」のいわれを彫った都鳥の碑がある。都鳥とはユリカモメのこと。古隅田川は、かつての隅田川で、武蔵国と下総国(しもうさのくに)の境界だったという。

業平がこの歌を詠んだのは、現在の隅田川に架かっている「言問橋」ではなく、春日部市のこの橋だったかも知れないのだ。

業平橋駅の名が消えるなら、春日部市の業平橋を売り出したらどうか。

隅田川といえば、有名な謡曲「隅田川」がある。京都の貴族の子、梅若丸が人買いにさらわれて隅田川のほとりで落命。追ってきた母がそのことを知り、池に身を投じて死ぬ悲劇である。

その梅若丸をしのぶ梅若塚も近くの満蔵寺にある。




日光御成道 川口市

2012年02月09日 14時23分12秒 | 街道・交通



江戸時代の中山道や中世の鎌倉街道・・・の通路だったので、道沿いに都市が発達した“道の県”埼玉で、「日光御成道(おなりみち)」が脚光を浴びようとしている。

この道沿いの宿場町だった川口市と鳩ヶ谷市が合併して川口市になったのを記念して、12年1月下旬から2月初めまで、市の中央図書館と市民ホールで「日光御成道展」とシンポジウム開かれた。11月11日には、日光への将軍行列を再現した。

この道のことは、余り知らなかったので、展覧を見に出かけた。

御成道とは、江戸幕府を開いた徳川家康を祭る「日光東照社(東照宮)」に将軍や将軍の世継ぎ(大納言)などが、その命日(4月17日)に行われる例祭に、参詣(日光社参)する道として整備された。

江戸の本郷追分(東京都・文京区)から、幸手宿で日光道中(日光街道)と合流するまでの12里(48km)。追分とは、道が左右に分かれるところを指す。

本郷追分は、現在の東大農学部前にある。中山道の起点日本橋からちょうど1里(4km)で、1里塚があった。御成道はここで中山道(現国道17号線)と分かれるのである。

5つの宿場があった。岩淵の後、川口、鳩ヶ谷と続き、大門、岩槻(いずれもさいたま市)の各宿を経て、幸手宿の手前の幸手追分で日光道中に合流した。日光道中の脇街道というわけだ。

日光道中は、芭蕉が「奥の細道」の第一歩として、日光へ向かって千住から草加、粕壁(春日部)と、曾良を連れてたどった道である。

将軍は社参の際、岩槻城を宿泊地にしたため、御成道は、江戸時代初期には「日光道中岩槻通り」「岩槻道」などとも呼ばれていた(11年の浦和博物館の「日光御成道」特別展による)。

当初から整備されていたわけではなく、3代家光の時代までは、日光道中の越谷から岩槻に向かい日光に向かっていたようだ。将軍社参にふさわしい道として整備されたのは、1640(寛永17)年頃だという。

日光社参は、片道3泊4日で計17回行われた。始まりは、1617(元和3)年、2代将軍秀忠の時。将軍時代2回、引退して大御所になってから1回と計3回。家康への崇敬の念の強かった三代家光は、実に9回も社参を繰り返している。

社参の狙いは、徳川家の威信を天下に知らしめることだった。このため莫大な費用がかかった。お供をする大名や旗本、御家人、その随伴員、動員される人馬の数・・・。

先頭が岩槻に到着した頃、最後尾が江戸城を出発するというほど大規模なものだった。

幕府財政の悪化を理由に、4代家綱(2回)の後、日光社参は一時休止されていたのは当然のことだ。

ところが、享保の改革を断行、幕府や庶民、農民に倹約を強制したはずの8代吉宗も1728(享保13)年、供奉者13万3千人、人足22万8千人、馬30万5千頭の規模で大掛かりな社参をした。

1776(安永5)年の10代家治の社参では、前回から48年ぶりということもあり、吉宗の社参の規模を真似た。

社参は1843(天保14)12代家慶を最後に終わった。すでに失墜しつつあった幕府の威信回復を図ろうとしたため武家等の供奉(ぐぶ)者は15万に及んだという。

このおびただしい人馬の調達は、沿道の宿場や村々に押し付けられた。それだけではない。道の修理、掃除、藪の刈り取り、荷物の輸送や宿の準備など大変な負担である。

このような過大な沿道への負担が、街道こそ違うが、幕末の埼玉県下を揺るがす「伝馬騒動」につながっていくのである。



中山道

2012年02月07日 18時36分31秒 | 街道・交通


「中山道」は、東京と京都を結ぶ大動脈ながら、「東海道」に比べて、知名度は低い。東海道が海沿いなのに対し、中山道は、「木曽街道」「木曽路」とも呼ばれた。

島崎藤村の「夜明け前」の書き出しで有名なように「木曽路はすべて山の中にある」からである。碓氷峠、和田峠、塩尻峠もある。

「木曽街道69次」は、「東海道53次」より宿場が16も多いのだから、当然距離も長い。

135里余あるから、東海道より9里余長かった(1里は約4km)。「中仙道」「仲仙道」とも書かれるが、幕府は「中山道」に統一した。平坦な埼玉県内は例外で、中山道の一般の印象は、「山の中の道」なのである。

江戸日本橋を基点に、板橋を最初の宿場として、荒川を戸田の渡しで越え、埼玉県に入り、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄の9つの宿場を過ぎ、神流川を渡って群馬県に入る。

道筋は、ほぼ現在の国道17号線に沿っていて、県内の道幅は5間から6間(9~11m)だった。

5街道の一つだから参勤交代に使われた。幕府は各街道を通行できる大名の規制をしていて、1821(文政4)年には49藩が利用した。

中山道を順路とする加賀藩など41藩と、東海道が順路ながら幕府の許可を得た彦根藩など8藩である。徳川御三家の尾張藩や紀伊藩も何度か通行している。

百万石の加賀藩の行列は、最も多い時で3500人、普通の時で2000人前後だった。

江戸から金沢まで約120里(480km)、日数は平均して11、12泊だった。1日平均で約10里(40km)歩いたことになる。

金沢新幹線が走る時代、まさに今昔の感がある。東海道より道程が長いのに、利用されたのは、通行量が少なく、難所も少なかったからだった。これらの数字は、「埼玉・歴史の道50話」(県立博物館編著 埼玉新聞社)による。

さいたま市のシニア大学に通ったので、中山道の講義も聞いた。

「中山道」をなぜ、「なかせんどう」と読むのか初めて分かった。昔、「山陽道」も「山陰道」もいずれも、「さん」ではなく「せん」と読んでいたのだという。

中山道を使うと、大きな川越えがなく、日程の計算がしやすい利点もあった。

また、川の多い東海道は、渡る際、かごを人夫に担がれて下から見上げられる。このため京都から江戸にお輿入れする姫君に嫌われて、川が少ない中山道は、『姫街道』と呼ばれた、という講師の話が面白かった。

中山道の宿場の中で、本庄が一番人口と建物が多い宿場だった。

今は日本一面積が小さい市として知られる、さいたま市の南隣の蕨の方が浦和宿より大きかった。

蕨宿の方が大きかったのは、ご承知の通り、幕府が反乱の江戸への波及を恐れて、川に橋を架けさせない政策をとったためだ。

荒川の「戸田の渡し」が川留めになった際、宿泊の施設が必要だったので蕨宿の方が栄えたのである。

歌川広重の浮世絵版画「東海道53次」は、海外にも名をとどろかしている。この広重が「木曽街道69次」(全71景)にも手を染めていることは、余り知られていない。

江戸日本橋から京都三条大橋までを69の宿場で結び、全行程約135里2町(約534km)。「次」とは「宿る」「泊まる」という意味だったという。71景とは宿は板橋から始まるのに、基点の日本橋が第1景になっていて、中津川(岐阜県)が2景あるからである。

広重が47景、美人画で知られた渓斎英泉が24景を描いている。埼玉関係9景は栄泉の筆になる。

浦和宿は煙が立つ浅間山の遠望、大宮と鴻巣宿には富士山の遠望付きである。

埼玉県最後の宿場本庄は、利根川の水運で栄えていたので、天保年間、家数1212、宿内人口4千人超、旅籠屋70軒で、中山道最大規模の宿場だった。

深谷宿は、中山道の中で旅籠屋が一番多く80軒あった。飯盛旅籠が多かったという。(「中山道69次を歩く」 岸本豊著 信濃毎日新聞社」による)

日本橋を早朝4時に出発(七つ立ち)して、一泊目は上尾宿、2泊目は深谷宿で過ごす人が多かった。桶川宿は、江戸から約40.8km。
当時の旅は1日約40kmだったから、参勤交代の大名は桶川で一泊、板橋宿で衣服を改め日本橋に向かった。桶川宿は一般人の最初の宿になることも多かった。(「木曽街道六拾九次 望月義也コレクション(合同出版)」による)

(写真は浦和本陣跡)

芭蕉 奥の細道 草加

2011年10月07日 15時41分46秒 | 街道・交通


学生時代に桑原武夫の「俳句第二芸術論」の洗礼を受けたおかげで、今どきの季節に合わない季語などにこだわる俳句には素直な気持ちで接しきれない。

最近劣化がとみに目立つ川柳に比べると、まだましかと、せっせと「朝日俳壇」などを読むようになったのは歳のせいだろう。

俳句全体ではなく、芭蕉、蕪村、一茶の御三家となると、学生時代から解説書をほとんど読んだので、今でも別格という感じだ。

歩く時間も金もなかったので、当時はやりの国鉄の割安周遊券で芭蕉の足跡をたどってみようとしたこともある。草加松原に何度も来たのは、そのためだ。

芭蕉も歩いた、松並木の遊歩道「草加松原遊歩道」は、いつ来ても素晴らしい。日本の道百選にも認定されている。大流行した松枯れ病にもめげず、これだけの松の木を守り、育ててきたのには感心する。

綾瀬川沿いのこの道は、旧日光街道で、現在は足立越谷線と呼ばれる県道だ。東京都の足立区と、「草加、越谷、千住の先」と呼ばれた草加の北隣越谷を結ぶ道である。

この松並木は、1630(寛永7)年に綾瀬川改修の際、植えられたという説もある。千住・越谷間の宿として草加宿ができた年だ。資料の上では1792(寛政4)年に1230本の苗木を植えた記録があるという。

芭蕉が「奥の細道」の旅に出たのは、1689(元禄2)年。46歳の時だった。

東京スカイツリーの高さに合わせて植え足した634本でもこれだけなのだから、その倍近くの松並木が続いていた頃はと、想像するだけで楽しい。当時の画家や文芸家が多くの作品を残しているのもうなずける。年代から見ると、芭蕉が見たのはその松並木ではない。

松並木は一時60数本まで減った。それを634本まで回復させたのは市と住民の力による。

東武伊勢崎線は、北千住乗換えで銀座への通勤に使ったことがあるので、浅草、千住や草加、越谷には土地勘がある。

いつも不思議に思っていたのは、千住から草加はそれほど離れていないのになぜ日光街道第二の宿、草加宿に芭蕉らが泊まったのか、ということだった。

いろいろ読んで調べてみると、芭蕉は、出発した3月27日(弥生も末の七日=太陽暦では5月16日)、早起きして(明けぼの)、弟子の曾良、見送り人とともに芭蕉庵から舟に乗り、約10km離れた千住で降りて、前途3千里(12000km)の旅を始めた。

実際には600里(2400km)、150日間の旅だったようだ。千住で読んだのが

 行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)

である。この句は「矢立(やたて)の初(はじめ)」とある。隅田川にかかる千住大橋にちかい大橋公園に「矢立初めの碑」が立っている。

松原遊歩道にある木橋「矢立橋」はこれにちなむ。もう一つの木橋「百代橋」(写真)は、もちろん「奥の細道」の書き出しにある「月日は百代の過客にして」による。

読み進むと、「その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり」とあるから、てっきり草加に泊まったのかと思っていた。

千住宿から草加までは2里2町(約8.2km)しかない。今の脚でも徒歩で2時間の距離で、「やうやう(ようよう)」というほどの距離ではない。

芭蕉の日程を記した「曾良日記」によれば、この夜泊まったのは、越谷を越した春日部(当時粕壁)。どこに泊まったかは書いてない。日光街道沿いの東陽寺に山門脇に「伝芭蕉宿泊の寺」の石柱があり、境内に「廿七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」と刻んだ碑がある。

春日部の別の寺(小渕山観音院)にも芭蕉宿泊の言い伝えがあるという。草加には「着いた」とあっても、「泊まった」とは書いてないので、春日部泊だったのだろう。

芭蕉と草加についてもう一つ興味があるのは、芭蕉は今のような草加せんべいを食べたのだろうかということだ。

草加市のホームページを見ても、「醤油が普及し始めた幕末から、焼いたせんべいに醤油が塗られるようになった」とあるから、残念ながら芭蕉は、今のような草加せんべいを食べていない ようだ。

泊まっていなくても、せんべいを食べていなくても、芭蕉がらみの草加の松並木は、一度は歩いてみたいところだ。

草加駅前の観光協会でもらえる「草加市案内図や『草加まち歩きマップ』、それに草加市のホームページは出色で、面白い。この稿でもお世話になった。