ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

河越館跡 川越市

2015年04月24日 16時38分38秒 | 中世



東武東上線霞ヶ関駅から徒歩15分、川越市上戸にある国指定史跡「河越館(やかた)跡」の常楽寺を訪ねると、河越重頼ら3人の真新しい供養塔が立っているのが目に付く。(写真)

当時のこの館の主、重頼と娘の「京姫(郷姫とも)」、それに源義経のものである。

義経の女性と言えば、静御前が有名で、埼玉県にも墓がある(久喜市栗橋町)。別項(カテゴリー中世「静御前の墓」)参照。

静御前は京の白拍子で義経の愛妾だった。「郷御前」とも呼ばれる「京姫」は、頼朝の斡旋で義経の正妻に選ばれ、1184(寿永3)年、この館から京都にいた義経のもとに輿入れしたのである。

しかし、平家滅亡後、頼朝と義経が不仲になり、1189(文治5)年には義経は奥州平泉の衣川で藤原泰衡に襲われ、自害する。

重頼も、義経の義父ということで、領地を没収されたうえ長男とともに殺されてしまった。

河越歴史博物館のホームページによると、京姫が京都の義経のもとへ嫁いだのは17歳の時。衣川の館で、義経とともに自害、4歳の娘も一緒に死んだ。22歳の時だったという。義経は31歳だった。

義経の平泉落ちに正妻が同行、娘もいたのには驚いた。

重頼が、娘が義経の正妻に選ばれるほど頼朝に近かったのは、重頼の妻が比企尼の娘(河越尼)だったことだった。

比企尼のことは、このブログの別項(カテゴリー中世「比企尼と比企能員」)を見てほしい。頼朝の乳母だったが、単に乳を与えるだけではなく、20年間、伊豆に流されていた頼朝へ食料を仕送りするなど生活のすべての面倒をみていたらしい。

比企尼に恩義を感じていた頼朝は、比企尼を厚遇、比企尼の甥で養子になっていた比企能員(よしかず)も重用した。

頼朝の妻、北条政子が長男頼家(二代将軍)を出産したのは、比企能員の邸で、重頼の妻が乳母に召された。

比企能員同様、河端重頼も比企尼とそれぞれの妻の縁で、頼朝に重用されたのだった。

河越氏は、河越館を拠点に平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で勢力を振るった豪族。桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の秩父氏の嫡流だった。

国司の代理職である「武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)」を継承し、武蔵国の筆頭格だった。

重頼の三男の子孫は室町時代まで続くが、子孫の河越直重は1368(応安元)年、武蔵・相模などの平氏とともに、室町幕府の関東を治める機関「鎌倉府」に対して「平一揆(へいいっき)の乱」を起こした。河越館に立て籠もるが、敗れて、河越家は歴史の表舞台から姿を消してしまう。

常楽寺は、時宗の寺院で河越氏の持仏堂だったが、河越氏の衰退後寺域を広げた。

河越夜戦 川越市

2015年04月23日 14時23分20秒 | 中世



川越市の市街地の最北部にある東明(みょう)寺の門をくぐるとすぐ、「市指定史跡 川越夜戦跡」という大きな石碑が立っているに気がつく。(写真)

河越が川越と表記されるようになったのは、江戸時代以降のようだから、戦国時代16世紀半ばの1546(天文15)年4月20日夜に河越城に近いこの寺周辺で展開された奇襲戦は、「河越夜戦跡」とも呼ばれる。

この奇襲戦は、「戦国時代の三大奇襲戦」と称される。織田信長が今川義元の大軍を破った「桶狭間の戦い」、中国地方の毛利元就が陶晴賢(すえ・はるかた)の大軍を破った「厳島の戦い」と並ぶものだというから驚く。

戦国時代の幕を開いたとされる小田原を根拠地とする北条早雲の北条家(鎌倉幕府の執権北条家と区別するため後北条家と呼ばれる)は、三代目氏康の時代で、すでに河越城は先代の氏綱が攻め落とし、氏綱の養子の猛将・綱成(つなしげ)が城代を務めていた。

河越城は、扇谷上杉家の命で1457(長禄元)年、重臣大田道真、道灌父子が築城したものである。

扇谷(おうぎがやつ)上杉家の上杉朝定は、関東管領・山内(やまのうち)上杉家の上杉憲政、古河公方(こがくぼう 古河を本拠とした足利氏)の足利晴氏(はるうじ)の支援を得て、奪還を狙って総勢8万の連合軍で1545(天文14)年10月から、河越城を包囲した。

城内に籠もる兵力は3000人。氏康は駿河で今川・武田勢と対戦中で動けなかった。

包囲から半年後、今川義元と和睦を結んだ氏康は8000の軍勢で救援に向かった。しかし、氏康は連合軍を欺くため、軍を府中まで後退させた。

1546年4月20日夜、氏康は部隊を四分し、夜陰にまぎれて連合軍の背後から奇襲をかけた。「河越夜戦」である。

察知した綱成も城内から出撃、油断していた連合軍は大混乱に陥り、敗走した。当時はもっと広大だった河越城に近い東名寺境内で特に激しい交戦があったとされる。このため「東明寺合戦」とよばれることもある。

総大将の上杉朝定は戦死、扇谷上杉家は滅亡した。約1万6000人の将兵が討ち取られた。

扇谷上杉家に謀殺された大田道灌が死に際に残した「当方滅亡」の予言は、60年後に現実のものになったのである。

上杉憲政は上州に敗走したが、後に越後の長尾景虎のもとに逃れ、上杉の家名と関東管領の地位を譲り渡した。これで関東一の名門、山内上杉家も滅亡、長尾景虎が上杉を名乗り、出家して「上杉謙信」となった。

古河に退去した足利晴氏は、その後、氏康に攻められ大敗、北条氏綱と血縁のあるその子、義氏(よしうじ)が古河公方を継承、後北条家の支配下に入った。

河越夜戦で、扇谷・山内両上杉家は滅亡、古河公方も支配下に入り、後北条家の武蔵支配が確立されたのである。河越夜戦は、関東の勢力地図を塗り替えたのだった。

しかし、その後北条家も1590(天正18)年、全国統一を狙う豊臣秀吉の小田原城攻めに屈し、落城、5代100年にわたって、小田原を本拠地に関東に君臨した後北条家も滅亡、戦国時代は終わり、中世も終わった。

後北条家の鉢形、忍の両城が開城したのもこの時である。

山吹の里 太田道灌 越生市

2012年10月30日 07時37分44秒 | 中世


 七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞかなしき

大田道潅のこの故事が残る山吹の里は、池袋からの東上線越生駅の終点越生町にある。越生町は花の町である。越生梅林で知られる梅を皮切りに、山吹、つつじ、あじさいと春から夏にかけて花の季節が続く。

ゴールデンウイークも終わった10年5月9日の日曜日、仲間と、「五大尊のつつじ」見物の帰りに「山吹の里」を訪ねた。「五大尊」とは、厳めしい名だ。真言宗でいう仏法護持の不動明王など五明王のことで、祭られている寺があるからだ。

つつじ、山吹とも盛りを過ぎていた。山吹の里を訪ねたのは何十年ぶりのことだろう。水車が回る茅葺の小屋と山吹が3千株あるという。小高い丘を登ると開かれた展望台があり、越生の町と遠くさいたま新都心のビルも見える。(写真)

前の越辺川(おっぺがわ)にかかる橋が山吹橋なら、近くの料理屋は「山富貴」、マンションの名も山吹にちなんだ名をつけている。

この地は、山吹が自生していることから山吹と呼ばれていた。中世には武蔵武士団児玉党に属する越生氏一族の山吹氏の拠点だった。越生の地名はこの越生氏に負っているわけだ。

父太田道真の館「三枝庵」跡もあれば、三枝庵に近い龍穏寺には二人のものと伝えられる墓もある。建康寺の隣には道真が引退後、居館自得軒を構えた旧跡があり、越辺川には道灌橋の名が残る。

東京都の豊島区高田、荒川区町屋など7,8ヶ所も山吹の里として名乗りを上げている。道真の居館や父子の墓に近いことなどから、埼玉県や越生町の主張も納得できるような気がする。

山吹の里の伝説は、道灌が武蔵野で狩りをしていた際、にわか雨に遭い、茅葺の農家に蓑を借りようと立ち寄ったら、若い娘が蓑を「実の」にかけて、「蓑一つさえありません」と古歌を書いて差し出したというものだ。

こんな片田舎に後拾遺和歌集の兼明(かねあきら)親王の歌を知っている女性がいたことが驚きだ。よほど文化の程度の高い地だったのだろう。

道灌の幼名は鶴千代丸。9歳から11歳まで鎌倉五山で学び、英才として知られた。道真同様、連歌や和歌を愛し、師について勉強した。

 我庵は 松原つづき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

後花園上皇が道灌に武蔵野のことを尋ねられた時に答えた有名な歌である。道灌にはこのほかにも名歌が多く、関東屈指の歌人とうたわれた。江戸城の櫓上で創ったとされている。

その江戸城、河越(川越)の二城を、主君扇谷(おおぎがやつ)上杉家のために、道真の指導で築いたのが1457年、26歳の時だった。2007年は、江戸城(皇居)築城から550年で、皇居の近くにその小さな碑が立っていたのを思い出す。

扇谷上杉家の家宰(執事)、武将としても東奔西走、数々の功績を挙げ、道灌の名声は関東に響き渡った。これを快く思っていない上杉定正は、謀反の噂を信じて、現在の神奈川県伊勢原市の居館に招き、風呂場から出てきた道灌を斬殺させた。

道灌は「当方滅亡」(こんなことをすると滅びるぞ)と叫んで息絶えたが、予言どおり扇谷上杉家はまもなく滅んだ。道灌55歳のことである。当時、謀殺は珍しいことではなかった。

道灌の銅像は川越市役所に立っているが、道灌の遺骸、首塚は伊勢原市の寺にあるとする学者もいる。






鉢形城跡 寄居町

2012年10月29日 16時40分13秒 | 中世



天守閣などはないものの、戦国時代の平山城(ひらやまじろ)の面影を濃厚に伝えるという鉢形城跡を12年の秋晴れの日に訪ねた。

東武東上線の終点の寄居駅から入り口まで歩いて20分余。荒川を越え、城跡に通ずる正喜橋から眺める峡谷下の玉淀河原の眺めが素晴らしい。

「田舎教師」で知られる田山花袋が、紀行文で「東京付近でこれほど雄大な眺めを持つ峡谷はない」と激賞しているというのがうなずける。花袋の漢詩を刻んだ大きな石碑が、荒川を見下ろす本曲輪(くるわ)の跡に立っている。

鉢形城は、「遺構の残存状況が極めて良好」な戦国時代の代表的な平山城の跡として、1932(昭和7)年、国の史跡に指定された。(写真)

06(平成18)年には、「日本100名城」の一つに選定されている。

正喜橋から荒川の上流の西岸に広がる城郭跡は約24万平方m。関東で有数の規模を誇る。荒川と、荒川に合流する深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれ、荒川側は天然の要害になっている。正喜橋から見ると良く分かる。

1476年、関東管領(政務を総括)だった山内(やまのうち)上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝えられる。小田原にいた北条氏康の四男氏邦が整備拡充、関東屈指の名城といわれた。

上州や甲斐、信濃をにらむ交通の要衝でもあり、後北条氏が北関東支配の拠点とした。

戦略的に重要な拠点なので、戦国時代の有名な武将もこの城を攻めている。大田道灌、武田信玄、上杉謙信。道灌を除けば攻め落としていない。それは整備拡充の前である。

最も有名なのは、1590年、前田利家や上杉景勝ら豊臣勢5万の連合軍による城攻めである。豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田原の北条早雲の重要な支城だったからだ。

城に籠もった総兵力は3千500。1か月余の攻防戦の後、氏邦は城兵の助命を条件に開城した。

毎年5月中下旬の一日、鉢形城に縁のある人や町民ら約500人が、当時の鎧武者姿で町内をパレードした後、荒川を挟んで攻防戦を展開する。

「寄居北条まつり」と呼ばれる。

8月の第一土曜日には、この河原で数百の提灯で飾られた船山車が川面に浮かべられ、花火が打ち上げられる「玉淀水天宮祭」もある。「関東一の水祭り」と呼ばれる。

城跡は、「鉢形城公園」として整備されていて、エドヒガンの古木や、ソメイヨシノの並木、花木約210種が植えられた花木園、カタクリの群生地もあるので、雑木林の下を歩くのは楽しい。

北西端の三の曲輪には、四脚門と約200mの石積土塁が復元されている。城の内堀だった深沢川沿いは激しい渓流が岩盤をけずり、多くの淵を造っていて、「四十八釜」という町指定名勝になっている。夏など時間があれば、訪ねてみたい。

散歩の前か後に「鉢形城歴史館」に立ち寄ると、この城の構造や歴史などが映像で良く分かる。

日本一の板碑(いたび) 長瀞町

2010年09月27日 17時26分49秒 | 中世
日本一の板碑(いたび) 長瀞町

「板碑(いたび)」と言っても、見たことも聞いいたこともない人が多いに違いない。何年前のことだったか、「埼玉県立歴史と民俗の博物館」(さいたま市・大宮公園)を訪ねた際に初めて目にした。読み方はもちろん、何なのかも分からないままに、それが林立する姿に異様な感銘を受けたことだけを記憶している。

「県立嵐山史跡の博物館」(嵐山)で板碑の企画展があり、見に行ったこともあって、ようやく輪郭がつかめてきた。

「板石塔婆(いたいしとうば)」とも呼ばれる。中世、武蔵武士の活躍していた時代のもので、「石塔」の名は墓標を連想させる。

墓石ではなく、故人の供養などのために造立された。鎌倉時代前期に埼玉県西部で生まれ、南北朝時代(14世紀)にピークを迎え、戦国末期まで。「中世に始まり中世に終わる」と言われる石像遺物である。

全国各地で造られたが、埼玉県は質量ともに日本一、“板碑のふるさと”とされる。埼玉の文化遺産の“華”、埼玉中世史の“核”と言えると書いている人もいる。

県の教育委員会は1975(昭和50)年から5年がかりで県内の全調査を実施、2万基を超す板碑を確認、報告書にまとめられた。日本最古や日本最大、最小のものも含まれている。

埼玉県にこんなに多いのは、原材になる緑泥片岩(りょくでい・へんがん・秩父青石)の原産地が小川町や長瀞町にあったためである。緑泥片岩は、ノミを使うと板状に割れ、扁平で文字などを刻みやすかったという。

板碑には中心部に、古代インド文字である梵字を使った本尊、供養年月日、供養内容、被供養者名のほか、偈(げ 仏教の教えを述べる4句からなる詩)が刻まれていることが多い。本尊のほとんどは阿弥陀如来で、武士の間で阿弥陀信仰が強かったことがうかがわれる。

板碑の一般的な大きさは、高さ60~70cmから1mほど。緑泥片岩の主産地でもある秩父の長瀞町野上下郷(のがみしもごう)に高さ日本一の板碑があるというので、10年の秋の彼岸に出かけてみた。

秩父鉄道の樋口駅から東へ国道140号線沿いに約600mのところにある。車がひんぱんに通るので、山側の峠道を選んだほうが安全だ。台上からの高さが5m37cmもある。なかなかの貫禄である。南北朝時代の1369年(応安2年)の作で、国の指定史跡になっている。

この大きな板碑には、この近くの仲山城主の13回忌に、出家した奥方と息子たちが追善供養のために立てたという記録がある。この城主は隣接する城の城主の腰元に恋慕したため、そこの城主に攻められ、討ち死にしたという。横恋慕が元でできた日本一の板碑である。

「秩父の歴史」(井上勝之助監修 郷土出版社)によると、恋慕したのは仲山城の2代目城主の阿仁和兵衛直家。梅見の宴で、山を隔てた秋山城の稀に見る美女の腰元白糸を見初め、秋山城主の体面を傷つけた。

このため戦となり、仲山城は落城、直家は矢を受けて戦死、45歳だった。これより先、奥方は夢枕に立った弥陀のお告げで、愛児とともに直家の姉の嫁ぎ先能登に逃れていて、落命を聞いて尼になった。そして13回忌に二人の子らと立てたのが、この板碑である。

浮気で死んだ亭主のために、日本一の石塔を建ててやった奥方の器量の大きさを思う。

新田義貞ゆかりの地 所沢市

2010年09月25日 14時26分48秒 | 中世



新田義貞――。1333年(元弘3)年、鎌倉幕府を攻め、切腹やぐらで知られる鎌倉・東勝寺で将軍北条高時とその一族280人余を自害に追い込み、幕府を滅ぼした。天皇親政の「建武の中興」に道を開いた武将なのに、知名度が低い。

「太平記」には、狭くて細い「切り通し」に阻まれて鎌倉を攻めあぐねた義貞が、稲村ケ崎で黄金の太刀を海に投じたところ、龍神がこれに応じて、潮が引き、砂浜を踏んで攻め込んだという逸話が残る。

 義貞の勢(せい)はアサリを踏み潰し

という有名な川柳さえあるのに、同時代に生きたライバルの足利尊氏や、戦前の教科書では尊王、忠臣で知られた楠正成にすっかりお株を奪われている感じだ。

この義貞、所沢市とはゆかりが深い。

上野国新田庄(こうずけのくに・にったのしょう=群馬県太田市)の無位無官の御家人だった義貞が5月8日に挙兵すると、文永、弘安の二度の元寇の役の論功行賞に不満を抱いていた武士たちが大挙して参集、利根川を越え、武蔵国に入った。

鎌倉街道を南下するうち、鎌倉を脱出してきた下野の御家人足利尊氏の嫡男千寿王と合流、武蔵国の御家人河越氏らの援護も得て、挙兵時には150騎だったのが、その勢20万7千騎(太平記 この数字は疑問視する向きもある)に膨れ上がっていたという。

5月11日、迎え撃つ鎌倉勢と最初に戦ったのが、所沢市の小手指ヶ原。古戦場跡には、所沢市北野の北野中学校近くの畑の中に石碑が立っている。 (写真)案内板の前に義貞が源氏の白幡を立てた「白幡塚」、近くに部下に忠誠を誓わせた小さな「誓詞橋」がある。その橋の名は国道の「誓詞橋交差点」に残っている。

その日は勝敗が決せず、一進一退、久米川(東京都東村山市)、分倍河原(同府中市)、関戸(多摩市)の合戦と続き、分倍河原で鎌倉勢は敗退する。

久米川の戦いでは、新田勢は、所沢市と東村山市にまたがる八国山に陣を張ったので、陣地跡に将軍塚(所沢市松が丘)、勢揃橋(同市久米)がある。鳩峰八幡神社(同)には「義貞の兜掛けの松」もある。

分倍河原の戦いを記念して、JR南武線と京王線の乗換の分倍河原の駅前に義貞の騎馬像があるのはご存じの方もあろう。もちろん、東武鉄道太田駅の北口駅前にもある。なにしろ挙兵からわずか二週間の早業で22日には、鎌倉幕府を滅ぼした英雄なのだから。

義貞の名前があまり知られないのは、室町幕府を築いた北朝方についた足利尊氏に対し、後醍醐天皇の建武の中興を支持する南朝方についたので、鎌倉幕府滅亡5年後に敗れて、今の福井市で戦死したからだ。30代後半だった。

歴史の表舞台に躍り出たのはわずか5年。悲運の武将だ。どこか、源義経を偲ばせる。

「どっこい、義貞は所沢では生きている」と感じたのは、山口観音を訪れた時だった。

義貞は鎌倉攻めの際、ここで戦勝祈願をしたので、その祈願文と伝えられるものが残っているほか、「義貞誓いの桜」の木と石碑や、義貞が奉納した「義貞公霊馬」もある。

「霊馬の像」には、「義貞公の白馬で、鎌倉攻めの時、供をして、山口観音で余生を送ったものです」という説明に続いて、「勝負する人に験あり」と特記してあった。

義貞は鎌倉幕府を実際に倒した武将として、小手指ケ原は、倒幕の戦いの始まりとなった古戦場として、もっと評価されるべきだ。観光資源としても十分、売り出すに値する。

群馬県の上州かるたには「歴史に名高い新田義貞」とうたわれている。

静御前の墓 久喜市栗橋町

2010年08月12日 10時43分18秒 | 中世


判官びいきの日本では、源義経だけでなく、愛妾の舞姫「静御前」の人気も高い。

 よし野山みねのしら雪ふみ分けて いりにし人のあとぞこひしき

 しずやしず しずのおだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな

鎌倉の八幡宮、頼朝の面前で、義経を慕う歌に合わせて堂々と舞い踊った静御前の心意気は、男もほれぼれするほどだ。

その静御前の墓が、JR東北線と東武線の栗橋駅東口にあると聞いていたので、一度訪ねてみたいものだと思っていた。

産卵のために利根川を逆上る中国原産コイ科の1m近いハクレンが、栗橋駅に近い、国道4号線の利根川橋とJR東北新幹線の鉄橋の間でジャンプする季節なので、どんな所か見ておきたい気持ちもあった。

静御前の墓と称するものは、全国にいくつかあるようで、もちろん、眉に唾をつけながら出かけた。だが、「静御前遺跡保存会」と「栗橋郷土史研究会」を中心とする地元の熱意に打たれて、「ひょっとして本当なのかな」と思いながら帰ってきた。

駅の改札を出ると目の前の壁に、この二つの会による「悲恋の舞姫 静御前 終焉の地」という展示が飛び込んできた。

1925(大正14)年に印刷されたという「静村郷土誌」の一節が掲示されている。よく読むと、静御前は、「下総(しもうさ)の国勝鹿郡伊坂の里で病死した」と書いてある。

この「伊佐の里」が、現在の埼玉県久喜市栗橋町伊坂で、1889(明治22)年、近隣の6村が合併してできた「静村」にあった。どの村の名もとらず、「静村」と決めたというから泣かせる。

この村は、久喜市の北部にあって、1957(昭和32)年、栗橋町などと合併し消滅した。

伊坂とは、栗橋駅前の大字。駅から50歩も歩けば、「クラッセ くりはし」と呼ぶ一角がある。「クラッセ」とは、栗橋地方の方言で「ください」という意味だという。

入り口の左手にあるのが、静御前の墓である。よくあるようにポツンと一つ寂しげに立っているのではない。ここが終焉の地であることを立証しようとする多くの旧蹟が、これでもかこれでもかと詰め込まれている。

裏に回ると、左右に「旧跡光了寺」と「静御前之墓」の石柱が立つ。

久喜市の指定文化財に指定されていて、分かりやすい絵付きの掲示板が立っている。

静は、義経を慕って、平泉に向かった。途中で「義経討死」を知り、京都へ戻ろうとした。悲しみと慣れぬ長旅の疲れからこの地で死去したと伝えられる。

一人旅ではない。侍女琴柱(ことじ)と侍童がついていた。琴柱が遺骸を葬ったのが、この「光了寺」だというのである。

「光了寺」は、今は対岸の古河市中田にあり、静の舞衣(まいぎぬ)を保存していることで知られる。昔は、伊坂にあったのだという。

琴柱はこの後、京都の嵯峨野から静の持仏「地蔵菩薩」を持ち帰り、「西向尼」と名乗って、静を弔った。琴柱のいた小さな寺「経蔵院」は近くに今も残り、「本尊地蔵菩薩」は栗橋町の指定文化財に指定されている。

この仏像は、和紙と漆の立像で、日本では三体だけという貴重な文化財だという。

「静御前之墓」には、1803(享和3)年に、義経の血縁者である幕府の関東郡代中川飛騨守忠英が建てた「静女之墳」があり、2001(平成13)年、静御前遺跡保存会の手で修復された。

近くに

 舞ふ蝶の果てや 夢見る塚のかげ

という江戸時代の歌人が詠んだ句の石碑もある。村人が建てという。このほか、「静御前七百五十年祭慶讃記念塔」や「義経招魂碑」に並んで「静女所生御曹司供養塔」もある。「所生」とは、生んだ子のことで、頼朝の命で二人の間の子は殺された。

さらに、「静桜」も植わっている。里桜の一種で、五枚の花弁の中に旗弁という、オシベが花びらのように変化したものが交じる特殊な咲き方をすると書いてある。

遺跡保存会では、命日だという9月15日に「静御前墓前祭」、栗橋駅前商店街事業協同組合では、毎年10月中旬、「静御前まつり」を開く。12年で第20回を迎えた。若者たちが静御前と義経に扮した豪華な時代絵巻「静をしのぶ」という歌もできていて、小学生が駅前舞台で歌う。

町を歩くと、「静最中」の看板や「静御前墳塋(ふんえい=墓)参道」の小さな石碑も目に付いた。しずか団地もあるようだ。栗橋町は、静御前で町おこしを図っているようだ。

西行法師見返りの松 杉戸町

2010年08月11日 16時37分05秒 | 中世


14年の初仕事は、杉戸町にある「西行法師見返りの松」にしようと決めていた。桜きちの一人として、この大先輩の足跡をこれまで少しずつ訪ねてきたからだ。

高野山奥の院の西行庵、静岡県掛川市の小夜の中山、大阪府南河内郡河南町の弘川寺・・・などである。

松の内が明けた1月8日。見返りの松は、東武伊勢崎線の東武動物公園駅から一つ目の和戸駅から歩いていける所にあった。定石どおり碑が立ち、柵で囲われ、町指定の文化財史跡第1号になっている。

見返りというほどだからよほど高い木なのかと思っていたが、3代目とかで少し歩くと見えなくなってしまう。

説明板などの情報を総合すると、約800年前の1186(文治2)年のことである。西行は70歳になろうとしていた。

奥州平泉を目指していた西行は、激しく降りしきる雪の寒さと疲労で倒れ、ここ下高野の不動明王の立つお堂に入り込んだが、寒気のため人事不省になった。

午前2時ごろ、参詣の人が倒れ伏せている西行に気づいて騒ぎとなり、医師が呼ばれ、村人の介抱が始まった。

さいたま市の県立図書館にあった、鈴木薫氏の「杉戸町の文化とその源流を尋ねて」によると、倒れ伏す前に西行は
 
 捨て果てて身はなきものと思えども 雪の降る日は寒くこそあれ

詠んでいたというからさすがである。よほど寒さが身にしみたのだろう。

静養中、西行は庭に生えていたこの松が気に入り、病気が治ると、松を振り返り、振り返りしながら旅立っていった。

このため、村人たちは「西行法師振り返りの松」と呼ぶようになったという。(写真)

この地は後に、奈良東大寺の重源(ちょうげん)も訪ねている。重源は、源平の争いで平重衡の奈良焼き打ちで消失した東大寺再建の寄付を集め、再建した僧として知られる。

重源は、このお堂を「東大寺」と名づけた。またこの松に、僧などが経文などを入れて背負う笈(おい)を掛けたことから、「笈掛けの松」とも呼ばれた。東大寺は廃寺となって今はない。

西行が平泉を目指していたのは、この重源に「平泉に大仏メッキ用の砂金を送ってくれるよう伝えてくれ」と頼まれていたからだった。

1140年、23歳で妻子を残して出家、高野山で修業する前、西行は「佐藤義清(のりきよ)」という御所警護の武士だった。

平将門の乱で功を挙げた俵藤太秀郷(姓は藤原)から九代目の武家の生まれで、秀郷の血をひく平泉の藤原氏とは遠縁の間柄だった。

平泉は藤原秀衡の時代で、西行は約40年前、29歳の頃にも平泉を訪ねている。この時は2回目の訪問だったわけだ。

この訪問の途中、東海道の難所「中山峠」を越えた際に詠んだのが、有名な

 年たけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山。

である。

鎌倉にも立ち寄り、たまたま鶴岡八幡宮で源頼朝とも会い、招かれて話をした。頼朝は流鏑馬(やぶさめ)や歌道について聞き、細かに聞いた流鏑馬はその翌年から行われるようになったという。

頼朝は土産に銀製の猫を送ったのに、西行は館を出るなり、遊んでいた子供にやってしまったという話が残っている。

この後、鎌倉街道中ノ道(奥州道)を北上して、見返り松に至ったのだろう。鎌倉へ立ち寄ったのは、当時、平泉に向けて逃亡中の義経捕縛のために設けられた多くの関所を通る必要があったので、その通行証を求めるためだったという説もある。

砂金送りの要請はかなえられ、平泉から帰った西行は1190年に弘川寺で73歳で死去した。

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

の歌のとおり2月16日のことだった。

これより1年前の1189年、平泉では、秀衡を継いだ泰衡は頼ってきた義経を殺し、泰衡は同じ年頼朝に滅ぼされ、奥州藤原氏と平泉の栄華は消えた。


薩摩守忠度の供養塔 深谷市

2010年08月09日 20時36分19秒 | 中世



文部省唱歌「青葉の笛」は、忘れられない名曲である。

一の谷の戦いで果てた平家の武将をうたったもので、歌詞の一番は平敦盛、二番は平忠度(ただのり)を偲ぶ。

この二人を討ったのがいずれも、今の埼玉県在住の武蔵武士だったのは、武士発祥の地、武蔵の国らしい。

「青葉の笛」を吹いていた敦盛のことは、熊谷直実のブログで書いたので、今度は忠度と埼玉県との関わりを書いてみたい。

埼玉県は昔の街道沿いに発達した歴史を持っているので、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、深谷、本庄と宿場が北上していく中山道のことが気にかかり、いろいろ本を読んできた。

「誰でも歩ける中山道69次 上巻」(日殿言成著 文芸社)を拾い読みしていたら、平忠度、つまり薩摩守忠度の墓が、深谷市にあるというので、14年1月下旬に出かけた。

江戸時代、中山道を行く旅人は知っている人が多かったようなので、「知らぬは・・・ばかり」だったのかもしれない。

更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
残れるは 「花や 今宵」の歌

明治39(1906)年に大和田建樹の詞で出来たこの歌は、「平家物語」の中でも名文で知られる「忠度都落」のエッセンスを見事に伝えている。

その書き出し 
 
「薩摩守忠度は、いづくより帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身共に七騎・・・」
の名調子は今でもよく覚えている。

「わが師」とは藤原俊成のことで、「千載和歌集」の選者だった俊成は、託された百余首を収めた歌の中から

 行(ゆき)くれて木(こ)の下かげを宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし

を「詠み人知らず」として収録したのは、余りに有名な話である。

わが武蔵武士、岡部六弥太正澄が登場するのは「忠度最期」のくだりである。

その名も岡部駅(JR高崎線)で降りると、駅前に看板があり、錦絵付きで手短かに要約してある。

「六弥太は、落ちていく忠度に戦いを挑んだが、危ういところを駆けつけた従者の童(ここでは旗持・田五平となっている)が、忠度の右腕を切り落とした。覚悟を決めた忠度は念仏を唱えながら首を討たれた。箙に結び付けられていた短冊から忠度と分かった」

名乗りを上げた一対一の正々堂々の戦いではなく、名も知らぬ平家の大将に挑戦し、従者の助けを借りて金星を挙げたことが分かる。忠度41歳。短冊の歌は「花や 今宵」だった。

六弥太は、忠度の菩提を弔うため、自分の領地内で一番見晴らしのいい清心寺(深谷市萱場)にその供養塔を建てた。(写真)

清心寺の掲示板には、忠度の妻菊の前が京都からこの塔を訪れ、その際持ってきた杖を土に挿したら芽をふいて、紅白の花が重なる夫婦咲きとなり、「忠度桜」として知られた、とある。今ではその孫桜になっている。

六弥太は自分で創建した普済寺(同市普済寺)の北方の館跡の一角に葬られ、一族とともに五輪塔が立っている。

一方、戦いのあった兵庫県では、明石市に忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。忠度公園という小さな公園もある。神戸市長田区駒ヶ林には、平忠度の腕塚と胴塚があるという。


比企尼と比企能員

2010年08月07日 17時52分09秒 | 中世

比企尼と比企能員 

平安時代の末期の源平合戦、鎌倉幕府の成立からその初期まで、武蔵武士は栄光の時代を迎えた。だが、その期間は短かった。

源平合戦における武蔵武士の活躍ぶりは「平家物語」に詳しい。武蔵国男衾郡畠山を「名字の地」とする畠山重忠の武勲、子の直家とともに源頼朝に「本朝無双の勇士」と紹介された熊谷郷の開発領主・熊谷直実の話などは、中学時代、週刊朝日に吉川英冶の「平家物語」が連載され、愛読していたこともあって、懐かしい限りだ。

武蔵武士の歴史を振り返って、面白かったのは、桓武平氏の流れを汲んだ「坂東八平氏」という言葉があるとおり、この地域はもともと平氏の地盤だったのに、源頼朝が平家打倒の兵を揚げると、一旦は平家寄りに動くものの、一斉に頼朝になびいていく姿だった。

なかでも秩父牧(馬の牧場)を基盤として発展した秩父平氏の一族の去就が戦局を大きく左右したとされる。

合戦では鎌倉幕府の成立に大きく寄与したのに、武蔵武士の幕府での政治生命は短かった。

その典型が比企一族である。

比企一族と源氏との関係は、比企尼(ひきのあま)が、頼朝が生まれた時から乳母になったことに始まる。

比企尼は、比企遠宗の妻だった。遠宗は源為義、義朝父子に仕え、義朝に頼朝が生まれると、比企尼は乳母になった。

頼朝が13歳で伊豆に流されると、遠宗は比企郡の郡司職を得て、比企尼と共に、比企郡に来た。遠宗は先に死んだが、比企尼は頼朝が33歳で平家追討の兵を挙げるまで20年もの間、比企一族とともに比企ー伊豆の遠い道を生活物資を背負って届けた。乳母とは単に母乳を与えるだけではなかったのだ。

頼朝の生母由良御前(実家は熱田大神宮)は、頼朝が12歳の時に死んでおり、熱田大神宮からは何の援助もなかった。頼朝を支えたのは比企の尼だけだった。尼は実の母のような愛情を注いだのだった。

恩にきた着た頼朝は、比企尼を鎌倉に呼び寄せ、尼の甥で養子の比企能員(よしかず)を御家人に取り立て、特に重用した。
北条政子が頼家を出産したのは、比企尼の邸だったほどの親密さだった。
能員の娘は、頼朝の長男頼家の側室になり、長男一幡(いちまん)を生むと、能員の妻は頼家の乳母になった。頼朝没後は外祖父として北条氏を上回る権力を持つようになった。

1203年、病弱な頼家が急病で危篤になると、北条時政は、頼家を廃嫡し、頼家の弟実朝に関西38か国の地頭職を、関東28か国の地頭職と総守護職を頼家の長子一幡にと家督を分与すると定めた。

この決定に不満を持った能員は、病床の頼家に時政の専横を訴え、時政追討の許諾を得た。

これを障子を隔てて聞いていた政子が時政に通報、時政は先手を打って、能員を仏事にかこつけて呼び出し、殺害した。

比企一族は、一幡の屋敷に立てこもったが、一幡とともに滅亡した。「比企氏の乱」「比企能員の変」である。

能員が仏事にかこつけて呼び出された際、平服だったことなどから、この変は北条氏側の陰謀だったのではないかと見る向きも多い。

頼家は将軍の地位を奪われ、時政のために伊豆の修善寺へ幽閉され、殺害された。

比企一族を殺戮した北条氏は、その後比企氏の怨霊に悩まされることになるが、当然のことであろう。


武蔵武士 畠山重忠

2010年08月05日 12時08分50秒 | 中世
武蔵武士 畠山重忠

「武蔵武士」と言われて、思い出すのは、畠山重忠、熊谷次郎直実、それに、いくぶん時代が下がって太田道潅の三人であろう。

私にとっては、「坂東武士の鑑(かがみ)」と称えられた畠山重忠である。源義経の鵯(ひよどり)越えの逆(さか)落としで、椎の木を杖に愛馬「三日月」を背負って坂を下りる重忠の印象が強烈だからである。

日本の馬は、土壌や草にカルシウム分が少ないので、体躯が小さい。このため、後の日露戦争でロシアのコサック騎兵に対抗するため、秋山好古が苦労する話は、司馬遼太郎の「阪の上の雲」に詳しい。

実際、日本の野生馬を見ると、なるほど小さいので、「さもありなん」と思っていた。ところが、重忠の怪力ぶりは、事実ながら、重忠が逆落としに加わった史実はなく、後世の作り話と考えられるという。

それがなくとも、重忠の勇猛さは、源頼朝が武蔵から相模の国に入った際や奥州平泉攻めでも先陣を務め、義仲討伐では義仲との一騎打ちなどと戦功を挙げたことなどから明らかだ。頼朝の信頼も厚かった。

畠山重忠、熊谷次郎直実らの武蔵武士は、一の谷の戦では源氏の軍勢の重要な部分を占めた。一の谷の戦の後、武蔵国は頼朝の知行国となった。頼朝時代には、武歳武士は幕府の要職を占め、その体制を支えた。頼朝時代は武蔵武士の全盛時代だった。

重忠は音曲にも堪能で、鶴岡八幡宮で静御前が舞を披露した際、現在のシンバルに似た銅拍子で伴奏したことでも知られる。

ところが、北条時政の時代になって、武蔵武士の運命は暗転する。時政は頼朝に近く、現在の比企郡を支配していた比企能員(よしかず)を、自邸に招いて謀殺、比企氏一族を皆殺しにした。能員は、頼朝の後を継いだ頼家の庇護者だった。頼家は修善寺に幽閉され殺された。

能員は、頼朝の乳母の一人だった比企尼(ひきのあま)の甥で養子だった縁で、頼朝に重用された。比企尼は頼朝が旗揚げするまで、生活を支援した。能員の妻も頼家の乳母だった。能員の娘は頼家の長男を生み、能員は外祖父として権勢を振るった。

このような関係で、比企氏は北条氏を上回る権力を持つようになり、時政が危機感を持ったのが、比企氏の滅亡につながった。

畠山重忠も時政による頼朝派の御家人つぶしの犠牲者だった。きっかけはささいなことだった。時政の後妻牧の方の女婿だった平賀朝雅(ともまさ)の邸で開かれた酒宴で、重忠の子重保(しげやす)が朝雅と喧嘩したのである。

朝雅はこれを根に持って、「重忠父子が謀反を企てている」と牧の方を通じて時政に讒言、時政はまず重保を謀殺、ついで何も知らず鎌倉に向かっていた小人数の重忠一行に、大軍を派遣して滅ぼした。重忠42歳の時だった。

大軍を率いたのは、時政の後継者の義時。義時は後に重忠の無実を知るが、すでに後の祭り。武家政治というと聞こえはいいが、武士とは人殺し集団だということがよく分かる。

熊谷直実は出家、太田道潅は55歳で主家の家臣に入浴中に謀殺されるなど武蔵武士の典型たちの末路はいずれも哀れである。

埼玉県嵐山町には、畠山重忠が住んでいたと伝えられる館が残っている。はっきりとした証拠物は見つかっていないものの、近くの寺院から重忠の曾祖父秩父重綱の名前を書いた経筒が発見されており、この地が畠山氏の拠点だったとされている。


嵐山町の菅谷館と呼ばれるこの平山城は、総面積約13万平方mの広大さで、都幾川と槻川の合流地点を望む台地上にある。「比企城館跡群菅谷館」という名で国の史跡に指定されていて、重忠の銅像がある。

一方、畠山氏は深谷市畠山にも住んでいたとされる。同地には重忠が生まれたという畠山館跡もあり、畠山重忠公史跡公園になっていて、重忠の墓、産湯の井戸なども残り、銅像も立っている。

畠山氏は桓武平家につながる「坂東八平氏」の一つ秩父氏の一族。本来は平家なので、重忠らは頼朝の旗揚げの際に、当初は敵対した後、頼朝に帰順、忠臣となった。

熊谷次郎直実 熊谷市

2010年05月25日 21時30分55秒 | 中世
熊谷次郎直実 熊谷市

埼玉県北部の熊谷は「くまがや」と読むのか、「くまがい」と読むのが正しいのか、いつも迷っている。市のホームページをのぞいてみると、ローマ字で「kumagaya」と書いてあるから、地名としては「くまがや」と読むのだろう。

埼玉県の北部の雄「熊谷市」(人口約20万)は、夏には日本で最高気温を記録したこともあり、水がおいしいことで知られる。

自分の息子と同じ年頃の平家の若き公達平敦盛の首を討ち、出家した武人、熊谷次郎直実(くまがい・じろう・なおざね)は、熊谷の人たちも埼玉県人も、この地で生まれ、この地で死んだと思っている。墓所は熊谷市仲町の「熊谷寺(ゆうこくじ)」にある。

同じラン科の熊谷草も敦盛草も私の好きな花だ。もちろん「青葉の笛」もふと曲が浮かんでくるほど好きな歌である。

一の谷の 軍敗れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

JR熊谷駅前には「永崎の平和記念像」を創った彫刻家北村西望氏による騎馬像が立っている。熊谷市は直実のまちなのだ。

熊谷市立図書館が「郷土の雄 熊谷次郎直実」という本を出したという新聞記事を見て、さっそくいつものとおり、行きつけのさいたま市中央図書館に頼んで取り寄せてもらった。(写真)

立派な本である。編集後記によると、この図書館が直実物を出すのは四冊目とあるからなるほどと思う。そこで、かねて抱いていた疑問を電話で担当者に聞いてみた。「名前は“くまがい“読むようですが、なぜ地名と読み方が違うのですか。地名が名前になるのが普通のようですが」。

「熊谷と読む時と、熊谷次郎直実と名前を続けて読む時の読み癖の問題ではないでしょうか」との返事だった。音韻学には詳しくないが、「KUMAGAYA JIROU」よりも「KUMAGAI JIROU」の方が、確かに読みやすそうだ。

武士としては源頼朝に「日本一の剛の者」、あるいは「本朝無双の勇士」、出家して「蓮生(れんしょう、れんせいとも)法師」となってからは、師の法然上人に「坂東の阿弥陀仏」と言わしめた直実は、全国各地に寺を開き、「熊谷(くまがい)さん」として親しまれている。

武士時代の直実は、平治の乱では源義朝に従ったが、1180年の源頼朝挙兵当初は、多くの武蔵武士同様、平家方として参戦した。石橋山の戦いで、逃げる途中の頼朝を直実が助けたとされ、頼朝との深い関係が生まれた。

頼朝が勢力を盛り返すと、直実らは頼朝に帰順した。武士は強い方につくのである。

当時、「一所懸命」という言葉があった。「一か所の領地を命をかけて守る」という意味である。戦功の報酬は土地だった。直実も自分の領地を守り、さらに増やすため命をかけて戦った小武士の一人だった。

一の谷の戦いでは、須磨口へ進み、息子直家とともに平家の陣に先陣の名乗りをあげた。直家は左腕を射られたが、直実は息子をいたわりながら戦ったという。

出家した直接の理由は、鎌倉で開かれた流鏑馬(やぶさめ)で、射手でなく、的を立てる役を命じられ、頼朝と対立、領地の一部を没収されたのに立腹したのと、長年、直実を養育してくれた母方の義理の叔父との地元の領地争いで、頼朝の面前で意見を述べたのに、直実の意見が入れられなかったためともいわれる。

法然上人の弟子になり、法師になった後も、京都から熊谷に帰る際、浄土宗の教えである「不背西方(西方浄土のある西方には背中を向けない)」の教えを頑なにまもり、馬の背に鞍を逆さまに乗せて向かったという「東行逆馬(とうこうぎゃくば)」の逸話は、いかにも直情径行の直実らしくて面白い。

源氏の故郷 鴻巣市 吉見町

2010年05月23日 15時14分59秒 | 中世
源氏の故郷 鴻巣市 吉見町

NHKの12年の大河ドラマ「平清盛」をご覧になった方は、平安時代の後期に平家とか源氏とかの武士が台頭、保元の乱、平治の乱を経て、平清盛が権勢を握るに至る過程をご承知のことだろう。

保元の乱で崇徳上皇側について敗れた源氏の源為義、子の為朝(ためとも 鎮西八郎)、この乱では平清盛と組んで、父や弟を敵に回した為義の子で、為朝の兄の源義朝(よしとも)の名も覚えておられよう。

義朝は、3年後の平治の乱では、平清盛の失脚を狙い、破れて長男義平(悪源太)とともに殺される。

その義朝の遺児が、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝(三男)、後に頼朝に殺される異母弟の範頼(のりより 六男)、義経(九男)である。

まるで歴史のおさらいのようで申し訳ない。

「ふれあい鴻巣ウオーキング」のCコースを歩いていて、この源氏の面々の祖と範頼の旧跡があるのを初めて見て驚いた。

鴻巣市と比企郡吉見町は源氏の故郷なのだというのだから。

まずお目にかかったのが、「伝・源経基(つねもと)館跡」である。源経基とは何者か。

この館跡は、埼玉県指定史跡になっている。立て看板の説明によると

経基は、(平安時代初期9世紀後半の)清和天皇の皇子貞純親王の第六子で、弓馬の道に長じ、武勇をもって知られた。(臣籍降下で)源姓を賜って、「源朝臣(あそみ)」と称した。938(天慶元)年、武蔵介(むさしのすけ 後に武蔵守=むさしのかみ)となって、関東に下り、この地に館を構えた。

とある。清和天皇の孫というわけだ。

「城山」と呼ばれる山林で、森林公園になっている。発掘調査でも経基の館だという証拠は見つかっていない。

帰ってから調べてみると、「清和源氏」の中で、経基の子孫の系統が最も栄えた。ここに出てくる源氏の名は、いずれも経基の系統である。


Cコースの折り返し点は、吉見観音(安楽寺)。上る階段の脇に「蒲冠者(かばのかじゃ) 源範頼旧蹟」の石柱がある。

上ると立派な三重塔が立っていた。説明書には、「鎌倉時代、範頼は約18mの三重大塔と約45m四面の大講堂を建設した」とあった。

近くに範頼の館跡だと伝えられる「息障院(そくしょういん)」(写真)もある。この地には今でも、大字に「御所」という地名が残っている。

範頼は確か、義経とともに平家を滅ぼした後、頼朝に謀反の疑いをかけられ、伊豆の修善寺に幽閉されて殺されたはずではなかったか。

だが、吉見町のホームページなどによると、平治の乱で、一命を助けられた頼朝が伊豆に流され、義経が京都の鞍馬の寺に預けられた際、範頼は安楽寺に身を隠して、この地の豪族・比企氏の庇護を受けて成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館の周辺を御所と呼ぶようになった、と書かれている。

範頼の子孫は五代にわたってこの館に住んでいて、「吉見氏」を名乗った。
範頼については不明なことが多く、吉身町の東側の北本市には、「範頼は生き延びて、北本市石戸(いしと)宿で没した」という説もある。

石戸の東光寺には、大正時代に日本五大桜の一つとされた天然記念物に指定された「蒲ザクラ」の一部が残っている。お手植えのサクラで樹齢8百年。根元にある石塔は、範頼の墓と伝えられる。

埼玉県内には、このような源氏ゆかりの旧跡がいくつかある。

 
 

秩父氏のこと

2010年05月20日 16時36分19秒 | 中世


「秩父市の薬局店主が10年続けてコラムで地元の魅力を紹介している」という記事を朝日新聞で見つけた。10年のことである。

「江戸東京開拓者は秩父氏の一党」とか「東郷元帥の先祖は秩父氏」といったことが書いてあり、小冊子にまとまったとある。

知らないことなので、さいたま市の中央図書館に頼んで、秩父の図書館から取り寄せてもらった。図書館に他館からの取り寄せサービスがあるのを知り、利用したのは初めてだった。ありがたいことである。

秩父ガスの広報誌に連載しているコラムと同じ「ふるさと発掘」というタイトルだった。寛政以来200余年秩父市で営業している片山薬局の店主の片山誠二郎氏の手になるものである。

「江戸開拓者」の中では、

東京都の開都は大田道潅が1457年に江戸城を築城した時とされる。
ところが実際は、道潅より約400年も前の平安時代に、荒川の源流から来た
秩父氏の一党(分家)である江戸、豊島、葛西の3氏が、現在の東京に進出してその所領は東京23区のほとんどと埼玉県南部、千葉県西部に及ぶ広大なものだった。
 
東京都はなぜ、この3氏を東京開発の恩人として顕彰しないのでしょうか。

と書いてある。、


「東郷元帥」のくだりでは、

(この)江戸氏から渋谷氏が別れ、東京の渋谷もその領地の一つだった。渋谷氏は鎌倉時代に九州に移り、薩摩の東郷に住んで東郷氏を名乗った。そして幕末に東郷平八郎が出た。

とある。そう言えば、豊島も葛西も東京の地名として残っている。

調べてみると、秩父氏は平安時代に、鎮守府将軍・平良文の孫、将常が、武蔵権守(ごんのかみ=長官)として秩父に定着して以来、その名を名乗った。

別な資料によると、その居館を秩父市中村から下吉田に移したころから名乗ったとある。

将常は桓武天皇六代の孫、桓武平氏である。秩父氏の館跡は、現在の吉田小学校周辺と伝えられている。樹齢800年のケヤキが残り、市の天然記念物の指定されている。

将常の孫、武綱は源義家に従って後三年の役を戦った。その子、重綱以降、一族は武蔵国各地に分散、その開発領主となった。武綱の子孫は畠山・豊島・江戸・葛西・河越氏等の有力な武蔵武士に分かれた。

重綱以降は、「留守所総検校職(るすどころそうけんぎょうしき)」(京都にいる国司の代理)を世襲、武蔵国の行政機関のトップであり、武士を統率・動員する権限を持っていた。

畠山氏からは畠山重忠が出た。

重綱の四男重継は、武蔵国江戸郷を相続して「江戸四郎」と称し、江戸氏を起こした。重継は、後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていた。

坂東(関東)武者というと、ふつう源氏を思い浮かべる。平安時代の関東は、「坂東八平氏」といわれる平家の舞台だった。その祖とされているのが平将常というわけである。

江戸は、秩父氏の子孫の江戸氏が開発、江戸城は埼玉県ゆかりの大田道灌が築城した。東京都と埼玉県のつながりは深くて長い。