ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

さいたま市に日本一のケヤキ並木

2021年05月25日 13時38分06秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
サクラ並木だけではない。さいたま市には日本一のケヤキ並木もある。
JR北浦和駅西口駅前から国道463線に沿って隣の所沢市まで約17㌔にわたって延びる街路樹は、「日本一長いケヤキ並木」とされている。

ケヤキは、県内に古くから自生していて、1966年「県の木」に指定された。駅前の案内板によれば、73年から78年にかけて道路整備に合わせて2417本が植えられた。

21年5月下旬現在で、植えられた当時の約4分の3、約1800本が残っているという。植栽後30年以上経っているので、大木化、老木化、突風などによるなどの倒木、狭い歩道の隆起などの問題が起きているからだ。







日本最大級 東松山ぼたん園

2016年05月02日 12時00分18秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


「スリーデー・ウオーク」や「県こども動物自然公園」ヤキトンの「かしら」で有名な東松山市に、日本で最大級のぼたん園があると聞いて、ゴールデンウイークの16年4月30日、初めて出かけた。

長年、埼玉県に住んでいるのに恥ずかしながら「東松山ぼたん園」のことは全く知らなかった。東松山のぼたんがシーズンを迎えていると広報紙で読んで、好天に恵まれた土曜日、迷わず箭弓稲荷神社のぼたん園に直行した。

 神社には何度も来たことがあるが、ぼたん園の方には一度も入ったことがなかった。

 東上線東松山駅西口から歩いてすぐのこのぼたん園は、残念ながら先立つ日々の雨と風で花びらが散ってしまい、約100種類、約1300株のうち黄色のぼたんしか残っていなかった。

 「ついてないなぁ」と帰ろうとしていたところ、売店の女性が「大谷のぼたん園ならまだ残っていますよ」と教えてくれた。

 駅でもらった「ぼたんまつり」関係のパンフレットをあわてて見直してみると、「東松山ぼたん園」の方が神社のぼたん園の上に書いてある。

 約3万平方mの敷地に約350種、約9100株が植栽され、品種数や株数の多さは「日本最大級」と森田光一市長が自慢している。

 西口から臨時バスが出ていて、所要時間15分、運賃は100円だ。

 「東松山カントリークラブ」に隣接する山の斜面に開かれていて、入場料は500円。1990年3月に開園した。

 山の斜面とあって、神社のぼたん園より花の見頃はいくぶん遅く、今年は4月23日から5月8日までだった。

盛りはすぎていたものの、入り口に近い低い方には、色とりどりの花が残っていて、十分見ごたえがあった。(写真)

桜や梅と同様、風流な名前がついていて、ボランティアのガイドさんが「黄色のぼたんはハイヌーンとか黄冠とかいう名がついてるんですよ」と教えてくれた。

斜面の最上部は、東松山カントリークラブとの柵があり、ゴルフプレーヤーの姿が見える。滑川町の「国立武蔵丘陵森林公園」も西側にある。

 パンフレットには、花は大きさで小輪、中輪、大輪、巨大輪に分かれ、色も白、桃、赤、紫、黒、黄色などがあり、その豪華さと気品の高さで昔から「花王」「花神」などと呼ばれたとある。

盛りこそ逃したものの、その魅力は十分に堪能できた。来年は時期を選んで「花王」に再び会いに来よう。

  ぼたん散りてうち重なりぬ二、三片 蕪村

 

 

 

 


小林もみじ園 川口市安行

2015年12月04日 17時21分16秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



「植木の安行」として知られる川口市の安行の中でも、「小林もみじ園」は特異な存在である。

「東京外環自動車道」の南沿いの安行領家にあり、すぐ近くに「県花と緑の振興センター」、「興禅院」がある。

国内でも数少ないもみじ専門の植木屋で、販売が専門ながら、シーズンには観光客が続々訪れる。“もみじの植物園”といった感じだ。

なにしろ3000坪の敷地に原種、園芸品種合わせて400種類もあるのだから。

15年12月1日に久しぶりに訪ねてみると、園主の小林和治さんが「暖冬で今年はメチャメチャ。冷え込みが必要なのに、冷え込んだのは最近の数日だけ。払い落としたいぐらいだ」とぼやいていた。

いつもの年ならシーズンは11月から12月中旬ごろまで。この季節には、赤を中心に各種のもみじの葉が鮮やかに輝いているはずなのに、早くも枯葉に変わり、落葉寸前の状態だった。

「紅葉狩り」というより、イブ・モンタンのシャンソン「枯葉」を口ずさみたくなるような雰囲気だ。「もみじまつり」ののぼりが可愛そうなくらいだった。(写真)

3日の朝日新聞の「天声人語」にはたまたま、「最低気温が8度以下になると色づき始め、5,6度で一気に進む」と書いてあった。

「10度くらいで2週間から20日冷えないと紅葉しない」と書いてあるものもある。

新聞に、「暖冬で冬物の売れ行きが悪く、百貨店の売れ行きが落ち込んでいる」と書いてあったのを思い出し、初めて暖冬を実感した。

「もみじにも色々あるものだ」と、その奥深さを知ったのは、数年前このもみじ園に来たときだった。

木の葉が色づくのは、葉の老化作用で、紅葉は緑色のクロロフィルが分解して赤色のアントシアニンが増えるため。黄葉は黄色のカロチノイドが増えるためだ。褐葉もあるが、タンニン状の物質などが目立ってくるかららしい。

紅、黄、褐葉は、木の葉の色の違いである。葉の形状が、イロハモミジのように切れ込みが深く人の手に似たものはモミジ、トウカエデのようにカエルの手のように切れ込みが浅いのはカエデという分け方もある。

紅葉で切れ込みが深い代表がイロハモミジである。

モミジはカエデの仲間も含めて総称として使われていることが多い。だが面白いのは、植物分類学上ではモミジという科も属もないことである。正式には「カエデ科カエデ属」だ。

だが、園芸や盆栽の世界では、「葉の切れ込みが多く、深いもの」はモミジ(紅葉)、「切れ込みの浅いもの」はカエデ(楓)と明確に区別されているから、まぎらわしい。

モミジは高木になるが、木の形状から「シダレモミジ」もあるらしい。

尾瀬ヶ原で有名な、草や低木の葉の色が変わる「草紅葉」もある。

盲点になっているのは、ゴールデンウイークとその前後の「春紅葉」である。美しさは「秋紅葉」にひけをとらないという。

今度の「紅葉狩り」は、秋ではなく「春紅葉」の季節に来てみよう。


妙音沢旗桜 新座市

2015年04月06日 16時31分23秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



新座市南東部の市有地「妙音沢緑地」に新種とみられるサクラが見つかり、話題になっている。

地元では珍しいサクラだと言われていた。14年に「日本花の会」に調べてもらったところ、「突然変異の新種と言える」との回答を得た。

須田健治市長は記者会見で、「ミョウオンサワハタザクラ(妙音沢旗桜)」と命名したと明らかにし、市の天然記念物への指定や、その並木作りをしたいと発表していた。

15年、市の観光課に満開の予定を確認、出かけてみると、その名を示す看板も立ち、サクラ好きの花見客やカメラマンの姿が見られた。黒目川にかかる斜長橋「市場坂・橋」が目印だ。

花とともに薄緑の葉も出ており、一見すると「オオシマザクラ」に見える。花びらが真っ白なのは同じだが、枚数が多いのに気がつく。(写真)

「旗桜」は、通常の5枚の花弁のほかに、おしべが花びらのように変化してできる、旗のような「旗弁(きべん)」が5枚ほどあり、花びらが二重についているように見えるので、その名がある。

東京都文京区の白山神社の「白山旗桜」が有名だ。

県内では、志木市柏町3丁目の「長勝院旗桜」がある。東上線柳瀬川駅から歩いて行ける。

1998年、新種と認められ、市民の木に指定されている。樹齢は400年以上、樹高11.2m、目通り3.07mの老桜でヤマザクラの変種だという。今は一本ではなく、近くにも植わっているし、志木市の市役所前にもある。さいたま市桜区の区役所の構内でも見かけた。

寺はすでに解体されて今はなく、この老桜だけが名残を留める。(このブログのカテゴリー「盆栽・桜・・・」参照)

「妙音沢」とは風流な名前だと思っていた。斜面に雑木林が茂る典型的な武蔵野台地のハケ(段丘崖)。崖下から豊富な地下水が湧いていて(毎分1t)、すぐ近くの黒目川に流れ込むまで約100m流れる。そのさらさら流れる音からついた地名だ。

この湧き水は08年、環境省から「平成の名水百選」に選定された。水遊びはOKだが、飲み水には使えない。斜面林は約3.3haでカタクリやイチリンソウも咲く。

「妙音沢緑地保全地域」になっていて、木橋も整備されている。

黒目川の堤のほか、近くの市営墓園の裏の栄緑道の桜並木は素晴らしく、市民の花見場所になっている。


べに花まつり 桶川市

2014年06月23日 10時24分18秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物




 行く末は誰が肌触れむ紅の花

どうやら草食人種だったように思える芭蕉にしては、色気のある句である。

染料として日本で最も古くから栽培されてきた紅花と言えば、まず山形を思い出す。江戸時代から最上川流域は日本一の産地で、今でも加工用や切花用に栽培され、山形県の花に指定されている。

桶川の紅花は、江戸で種を譲り受けて、栽培したのが始まりだった。最上川流域と比べ、気候が温暖なため、一月早く収穫でき、「早場もの」として喜ばれた。

取引価格が反当たり、米の2倍もしたので、栽培農家が増え、「最上紅花」に次ぐ全国第2位の生産量を誇った。

幕末には、最上地方を上回る値で取引された。桶川の紅花は、「桶川臙脂(えんじ)」と呼ばれ、桶川は臙脂景気でにぎわった。

皇女和宮が宿泊した桶川宿は「紅花宿」とも呼ばれたほどだった。

桶川祇園祭の山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れられたのは、京都とも江戸とも取引があったことを物語っている。

市内の稲荷神社には、紅花商人から寄進された石灯籠2基が残されている。

「臙脂」の漢字をつらつら眺めていると、芭蕉の句ではないが、なにか年増芸者の色気を感ずる。臙脂とは、「濃い紅色」「黒味のある紅色」のことである。

梅雨どきに黄色い花を咲かせる紅花は何回も見ているけれど、一本の花としては丈も低く、その色も目を奪うほどではないので、一度群生したべに花を見てみたいものだと思っていた。

新聞を見ると、14年6月21、2の両日、「第19回べに花まつり」が開かれるというので、朝早くから出かけた。なにしろ市農業センター周辺など3か所で約30万本のべに花が楽しめるというのだから。

桶川市には、JR高崎線の東側の加納地区に「べに花ふるさと館」がある。昨年はここがメイン会場だったのに、今年は圏央道・桶川北本インターチェンジ新設の関連工事で道路が混雑しているので、高崎線西側の川田谷地区に移された。

城山公園や、生涯学習センターや農業センターがある。紅花畑が数か所あり、群生した紅花を見ることができた。(写真)

桶川駅から無料の臨時バスを運行させ、公園では熱気球の試乗会もあった。紅花染め体験や摘み取り体験もあった。

恋人や意中の人への思いを絶叫する「べに花畑で愛を叫ぶ」の企画もあった。

桶川の紅花つくりは、化学染料の普及でいったん滅んだものの、愛好家や桶川ロータリークラブが山形県から種子を譲り受け 徐々に栽培を再開、市のイベントで種子の無料配布も行った。

市も1994年から「べに花」をシンボルにした「べに花の郷(さと)づくり」に乗り出し、96年から「べに花まつり」を始めた。栽培農家は19軒に増え、「べに花生産組合」も出来ている。

市のマスコットキャラクター「オケちゃん」は頭に黄色い花を頂いている。「べに花まんじゅう」も「紅花かすてら」もある。

総合スーパー「ユニー」は14年11月、ショッピングモール「ベニバナウォーク」をオープンした。

臨時バスで駅に帰る途中、最近話題になっている、水着姿の「桶川の美少女」の像も見えた。ライオンとパンダを従えて県道川越栗橋線の傍らに立つ、


清雲寺のしだれ桜 秩父市荒川

2014年04月07日 10時43分19秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



江戸彼岸桜のしだれでは、県内で最大だという秩父市荒川上田野の清雲寺のしだれ桜が見頃だというので、14年4月5日に出かけた。

「夜桜お七)」が持ち歌の坂本冬実がTV番組で夜桜をバックに歌ったこともあるというから、見頃を見ておきたかった。

この日、秩父地方は桜が爆発したかのように一斉に咲いて、まるで桃源郷ならぬ桜源郷のような雰囲気だった。

お寺や通りだけでなく、周りを囲む山の斜面にも桜の白いかたまりが数多く目につき、「秩父にはこんなに桜があったのか」と驚いたほどだ。

清雲寺も近づくと花が盛り上がっていた。

主役は、県の天然記念物に指定されている樹齢約600年といわれる江戸彼岸である。樹高15m、幹周2.72m。清雲寺創建の際に植えられたとか。

木の上部の枝が斜めに伸びていて、そこに花が咲くのでまるで何か彫刻のオブジェのよう。(写真)

このほかに、秩父紅しだれや八重桜など大小30本(うち3本が市指定の天然記念物)が桜の林をつくっているのだから、離れてみると盛り上がっているように見えるのである。

秩父鉄道の武州中川駅から歩いて15分くらいなので、親子連れなどが続々詰めかけていた。

駅を降りて、踏切を渡ると、そこにカメラマンがずらり並んでいる。「都心から一番近い蒸気機関車」が売り物のSL「パレオエクスプレス」(4両連結)の下り列車(熊谷から三峰口駅行き)が駅を通過するのだという。

田舎の駅にはSLがよく似合う。窓から子どもが盛んに手を振ってくれた。帰りは、隣の浦山口駅から乗ろうとしたら、今度は上り列車に出会った。一日1往復だから、何か得をしたような感じだった。

SLはテレビではよく見ても、実物を目の前で見るチャンスは少ないからだ。

しだれ桜は清雲寺だけではない。浦山口駅寄りに18分ほど歩くと、札所29番の長泉院(清雲寺は札所ではない)には、堂々とした「よみがえりの一本桜」がそびえている。

杉の木立の陰になって花をつけなかったしだれ桜が、近くの浦山ダム(秩父さくら湖)の工事で杉が切り開かれ、日当たりが回復したので、再び花をつけるようになったため、この名がある。

この桜は清雲寺の桜を移し替えたものだと言われる。

長泉院の反対方向にある昌福寺にも紅しだれ桜が6本ほどある。「さくら湖」と名づけたわけがよく分かる。「秩父あらかわ」と呼ばれるこの一帯はしだれ桜の里なのだ。

清雲寺は、幕末に京都から来た過激な攘夷派の公家が殺された「清雲寺事件」の起きた場所である。

近くの人でないと知る人はほとんどない事件ながら、今でも本堂内に銃弾や刀痕が残っていて、その墓も裏手にある。

右大臣大炊御門(おおいみかど)家の長男尊正(たかまさ)という若い公家で、大炊御門家の先祖に当たる、後嵯峨天皇の皇子が開山した太陽寺(旧大滝村)に尊王派の拠点を構えようと、近くの上田野村出身の医師の案内で、この地を訪れ、清雲寺に滞在した。

ところが、上田野村名主とこの医師との間には長年の確執があり、秩父の代官所に「一行は偽者だ」と密告した。

尊正は秩父の代官所に表敬のため出頭するよう促していたのに、代官所は武装した16人で寺を包囲した。尊正らは戦ったものの、数で劣り、討たれて医師ともども殺された。

明治になって、生き残りの女性が訴えたため、名主は逮捕され、獄中で死んだ。

秩父の山中にも倒幕の波が押し寄せていたことが分かるエピソードである。






日本五大桜サミット 北本市

2014年03月24日 15時43分52秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



五大桜の一つ「石戸蒲桜」があり、「桜国(おうこく)」を自称する北本市の文化センターで、桜の季節も真近な2014年3月23日午後、日本で初めての「日本五大桜サミット」が開かれ、関係5市町が参加、市民ら約200人が集まった。

五大桜とは、「蒲桜」の他に、「狩宿の下馬桜(静岡県富士宮市)」「山高神代桜(山梨県北杜市)」「根尾谷薄墨桜(岐阜県本巣市)」「三春滝桜(福島県三春町)」で、1922(大正11)年10月12日、日本の桜を代表する名木として同時に国の天然記念物に指定され、「日本五大桜」と呼ばれるようになった。

その中で樹齢日本一の「神代桜」、樹齢が「神代桜」に次ぎ、蕾のときは薄紅色、満開時は白色、散り際に薄い墨を引いたような色にかわる「薄墨桜」、枝垂れ桜として日本最古で大きさも最大級の「滝桜」は、「日本三大桜」「日本三大巨桜}と呼ばれる。

「下馬桜」は国内最古級のヤマザクラと言われ、1952(昭和27)年、価値が特に高いとして保護・保存される特別天然記念物にも指定されている。

興味を魅かれたのは、15分ずつの各市町からの報告と北本市教育委員会の資料だった。特に「石戸蒲ざくらの今昔」という小冊子は全盛期の蒲桜の素晴らしさを伝えている。

「蒲桜」は指定された当時には順位が1番だったとして、真っ先に報告した。確かに大正11年の内務省地理課長から関係知事宛の文書ではその通りになっていて、このブログの2パラの最初の2行の順番に並んでいる。

この小冊子の序文でも「当時の写真を見ると、中央の主幹を中心にして四本の支幹が四方に伸び、他の桜と比較しても、抜きん出た印象を受ける」と書かれている。

桶川市から見ても、「蒲ザクラは遠くに白い小山のように見えた」という。

江戸時代には、江戸市中でも評判の桜で、多くの文人も訪れた。江戸時代後期に渡辺崋山が来て、絵を描き、滝沢馬琴の書いた「玄同放言(げんどうほうげん)」に掲載されている。

枝が扇の形に広がる見事な樹形で、この頃が全盛期だったようだ。第二次大戦後に衰えが目立つようになり、今では幹が一本と孫生(ひこばえ)が残っているだけだ。

崋山の絵は、開花の様子を創造して描いたもので、「花はひとへ(一重)にしてしろ(白)しといふ」という註がついている。

蒲桜は確かにそのとおりで、指定前に東京帝国大学の植物学者、三好学博士の調査で、ヤマザクラとエドヒガンとの雑種と分類され、和名「カバザクラ」という独立した種として位置づけられた。

カバザクラは石戸の東光寺以外には見当たらず、世界でただ一本の珍種だという。他の五大桜は、「下馬桜」はヤマザクラ、「神代桜」と「薄墨桜」はエドヒガン、「滝桜」はベニシダレ(エドヒガンの変種)である。

カバザクラは「種の保存」の観点から、クローン栽培を試みて石戸小学校など小・中学校や公民館に植えられている。

サミットの会場になった文化センター前の歩道にも、「後継樹」と明記した桜が生長している。

水上勉の小説「桜守」の中に、「石戸の蒲桜は、周囲をみかげ石で囲まれ、せっかく伸ばそうとしても根がはれない」というくだりがある。この石垣もすでに撤去されていて、親桜の樹勢回復の努力が続けられている。

樹齢は、「蒲桜」が約800年、「下馬桜」が800年以上、「神代桜」は推定1800~2000年、「薄墨桜」は1500年以上、「滝桜」は1000年以上。

「蒲桜」には源範頼、「下馬桜」には源頼朝、「神代桜」には日本武尊、「薄墨桜」には第26代継体天皇の伝説が残っている。「滝桜」は、滝が流れるように咲くことからその名があるというのが通説だが、地区の大字が「滝」だからだという。


「石戸蒲桜」 北本市

2014年03月22日 12時28分39秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


10年4月9日の金曜日。「石戸の蒲桜」も満開だった。「日本五大桜」の一つと言っても知名度はいくぶん落ちる。他の四大桜は、天下に名高い「三春滝桜(福島県三春町)」「山高神代桜(山梨県北杜市)」「根尾谷薄墨桜(岐阜県本巣市)」「狩宿の下馬桜(静岡県富士宮市)」なのだから。

あれは何十年前のことだったか。この桜を見たくて石戸(いしと)の東光寺を訪ねたことがあった。花もほとんど終わっていて、風か落雷か、一本の幹しか残っておらず、無残な姿をさらしていた。それ以来来たことはない。

蒲桜は見事に蘇っていた。生き残った幹にも孫生えにも白い花がびっしりと咲き、春を謳歌していた。「人は老いても桜は若返るのだ」と実感した。「今年は、花も大きく元気。樹医さんの面倒がいいんじゃろか」と地元の老人が話しあっているのが聞こえた。

エドヒガンとヤマザクラの雑種で、「カバザクラ」という世界で唯一の種類の桜だという。染井吉野より数日遅く咲くとのことだが、並んでケンを競っていた。樹齢約800年。1922年(大正11年)に国の天然記念物に指定された時には、4本の大きな幹があり、根本も周囲が11mあった。

江戸時代から有名で、1820年の瀧澤馬琴の随筆には、渡辺崋山が描いた全盛時の桜の絵が載っている。

蒲桜は、源頼朝の異母弟の源範頼がこの地に隠れ住んでいたとう伝説に基づく。範頼は遠江国蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたため、「蒲冠者(かばのかんじゃ)と呼ばれていた。

範頼は幼少期を近くの吉見町で暮らし、妻も鴻巣の武士の娘だったと話もある。

範頼のついていた杖が根付き、蒲桜になり、その根元にある石塔は範頼の墓石というのが蒲桜のいわれなのである。

北本市は桜のまちである。JR高崎線北本駅には出口案内板に「さくらと範頼伝説のまち 感動桜国きたもと」とある。東口の広場には見事に育った蒲桜のクローンが見事な花を咲かせていたし、公園にも同じクローンが何本も植わっている。蒲桜のまちといった風情である。

素晴らしいのは「高尾さくら公園」。全国に呼びかけて集めた30種約200本の桜が植えられていて、染井吉野一色でない桜の美しさを堪能できる。

1959年に伊豆半島船原峠付近で見つかった「船原吉野」(オオシマザクラとエドヒガンの雑種)は、染井吉野をしのぐ豪華さ。長崎県の菊咲き、二段咲きの「大村桜」、伊達政宗が植えたという「貞山桜」など珍しい桜でいっぱいだ。

サクラソウ さいたま市田島ケ原 絶滅の危機

2014年01月16日 12時20分00秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


暖かさと寒さが毎日のように入れ替わったお蔭で、11年4月10日の土曜日、田島ケ原のサクラソウと染井吉野の満開が重なった。

荒川の河川敷にある田島ケ原は、サクラソウの自生地として知られる。1920年、日本で最初に指定された天然記念物の一つで、サクラソウで国の特別天然記念物になっている(1952年)のは全国でここだけ。植物の天然記念物に「特別」がつくと仏像などの国宝に匹敵するとか。計約4.12haが2か所で低い柵に囲まれて保護されている。

どうして数えるのか。10m四方の定点11か所を、7人が3日がかりで一つ一つ数え、推定するという。鳥や動物だと動き回るので数えるのも大変だが、サクラソウは動かないから可能だ。

自生のサクラソウと言っても、いろいろな違いがある。花びらの形も色も中心紋の大きさ、切れ込みも微妙に異なっている。確かに目を近づけてよくよく見るとそのとおりだ。

興味がある人は、現地で配られている小さなパンフレットを見ると、よく分かる。サクラソウは施肥しない。その代り、オギやヨシが2~3mまで伸び、日当たりが悪くなって、サクラソウの成長を妨げるので、毎年1月下旬に野焼きする。一つの風物詩になっていてカメラマンが押しかける。

サクラソウには地下茎があり、種子も地下に埋まっているので、火を生き延び、焼けた灰を肥料に成長する。芽を出し 茎や葉が伸びても、年によって違うが、開花するのは3割程度、一株に6つほどの花をつけるという。

18年6月には市議会で株数の急激な減少が取り上げられ、03年にピークの235万株から、17年に72万株、18年に66万株と3分の1以下に減少、「危機的状況」にあることが明らかになった。

気候温暖化や周辺河川の改修に伴って、河川敷への反乱がほとんどなくなったため、乾燥地に適した植物の増加、外来種の侵入がサクラソウを圧迫していることなどが原因で、市としては自生地保護のため、19年度から本格的な実態調査に乗り出す。


サクラソウ自生地の野焼き さいたま市

2014年01月15日 17時35分18秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



さいたま市南西部荒川左岸沿いの田島ヶ原のサクラソウ自生地には、季節に花が咲くとほとんど毎年出かけている。ざっと4haに約100万株あるという。

これに先立ち厳冬期に、一面に伸びたアシやオギを焼き、肥料にして発芽を促す野焼きが毎年行われるのは、知ってはいたもののこれまで見たことがなかった。

世界的に厳しい冬になった14年1月15日、野焼きがあるというので、出かけてみた。

今年一番の冷え込みで雪が舞うとの予報もあったので、朝9時過ぎ念のため「さいたまコールセンター」に電話してみると、「予定通り朝9時から始まってますよ」。

このコールセンターは、毎日朝8時から夜9時まで開いているので、イベントなどの問い合わせに便利。出色の市民サービスだ。これまで何度かお世話になった。

堤の上で遠くから眺めたらさぞ良かろうと、自転車で堤を登り、目的地付近を見下ろしてみても煙らしきものは見えない。

あわてて降りて、「サクラソウ自生地」の石塔の立つ中心部に着いた時は、辺りはすでに黒焦げの地面が残っているだけだった。

通りかかった関係者に聞くと、「もっと川よりでまだやっています」とのことで、自転車を進めると、ちょうど火が燃え上がろうとしていた。(写真)

聞くと、一度に火をつけると危ないので、いくつかのブロックに分けて、小型のガスバーナーで点火する。乾ききっているので、小さなブロックのアシはすぐに燃え尽きてしまう。

2m余にのびたアシが盛んに燃えると、放射熱が冷え切った体を温めてくれるのが快い。

サクラソウを守る会」の人たちのほかに、今ではさいたま市の冬の風物詩の一つになっているこの野焼きを、カメラに収めようとする風流人が取り囲む。

たまたま近くのスポーツセンターから先生に引率された園児たちが、バスで見物に来ていたので、格好の被写体になっていた。

サクラソウは種子ではなく、根茎の状態で地下で生き延びているので、地上の火にもめげず、春になると忘れずに可憐な花を咲かせる。

染井吉野の満開期と重なると、素晴らしい光景だ。「桜草公園」と名づけられたこの地では「さくら草まつり」が開かれる。さいたま市桜区は桜の花ではなく、このサクラソウにちなんで命名された。

野生ではなく、大切に守り育てたサクラソウの品評会が市役所の構内などで開かれるのも見逃せない。

この地が、国の「特別天然記念物」に指定されているのもうなずける。サクラソウは埼玉県の花、さいたま市の花でもある。

ちなみに2000年10月、宇宙飛行士若田光一さんとともに宇宙を飛んで話題になったサクラソウの種子は、荒川のちょっと上流のさいたま市西区二ツ宮の「錦乃原自生地」のもので、ここのものではない。

「錦乃原宇宙桜草」と名づけられて育てられている。


盆栽のたどった物語 大宮盆栽美術館

2013年11月19日 16時16分37秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物



17年4月末に第8回世界盆栽大会の開催が決まったさいたま市の大宮盆栽美術館で「<盆栽>の物語ー盆栽のたどった歴史」と題する企画展が開かれているというので、13年11月中旬の日曜日に見学に出かけた。

今度の大会で主役を務めることになる大宮盆栽村は、1923(大正12)年の関東大震災で被害を受けた東京都文京区千駄木周辺の盆栽業者が、盆栽に適した関東ローム層の赤玉土(あかだまつち)に魅かれて移住して来たことまではよく知られている。

それ以前に盆栽がどのような歴史をたどったのかを知りたかったためだ。

入り口に、さる11月4日、来館者が20万人に達したという掲示があった。10年3月開館だから3年半余かかっている。

企画展示室に入ると、物語の始まりは8世紀の中国で1300年前の壁画にさかのぼるとある。日本の文化の起源のほとんどは中国なので、今さら驚くことはない。

驚いたのは、その壁画が「李賢という王子のために築かれた墓の内部にあった」という説明だ。

中国の歴史の面白さの一つに悪女物語がある。李賢と言えば、「中国三大悪女」の一人に数えられる即天武后(そくてんぶこう)の第2子。即天武后は唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わり武周王朝を建てた悪名高い中国唯一の女帝である。

李賢は聡明で、学者を集めて「漢書」に注釈をつけた際、漢の高祖劉邦の妻、呂后(りょこう)が天下を奪った史実を書き入れた。則天武后はこれを自分に対する当てこすりと受け取り、李賢が31歳の時、自殺に追い込んだ(人を使って殺させたとも)。呂后は三大悪女の中の初代悪女である。

李賢の墓は陝西省乾県にある高宗の稜の近くにある。

壁画の中で従者が両手で持つ盆の上に石のような塊が二つ載せられていて、それぞれ植物が勢いよく伸びている。(写真)

これが盆栽についての最も古い証拠の一つだというのである。

当時は何と呼ばれたか明らかではないが、中国では今では「盆景」と呼ばれている。

山水の景色を二次元化したのが「山水画」なら、盆の上で三次元に縮小したのを「盆景」というわけだから、盆の上で栽培する「盆栽」よりももっと芸術的な感じがする。

これが日本に伝わったのは平安時代の末頃。山水の景色を愛でる高尚な趣味として公家や武家に歓迎され、最も古いのは春日神社の由来を語る鎌倉時代を代表する絵巻物「春日権現験記」などに見られる。

室町時代には「盆山」と呼ばれていたようで、「盆栽」の語が生まれるのは江戸後期以降のことである。

「盆栽」という言葉とともに現代の盆栽の基礎が築かれたのは明治時代になってからで、内閣総理大臣を務めた早稲田大学の創設者・大隈重信は代表的な盆栽愛好家だった。

邸宅には盆栽置き場があり、写真帳には屋敷の盆栽を飾った写真も残されている。

盆栽をたしなむことが政財界人のステータスシンボルになり、太平洋戦争後の吉田茂首相も好きだったのは記憶に新しい。

面白いのは、盆栽が女性の教養の一つとして奨励されたことで、女性の生活の中の教養やしきたりを学ぶ「女礼式」の教養の一項目に盆栽が取り入れられていた。

盆栽は単なる園芸趣味ではなく、絵画や彫刻同様、造形芸術であると主張する「盆栽芸術運動」が起きたのは昭和の1930年代。盆栽専門誌「盆栽」の発行人の小林憲雄(としお)が、その先頭に立った。

この運動は、上野に建設された旧東京府美術館で1934年に開かれた「国風盆栽展」で実を結んだ。この展覧会は今でも毎年開かれている。

また、忘れてはならないのは、世界ではロンドンの王立植物園やワシントンの国立植物園に盆栽コレクション、韓国ソウルには韓国盆栽研究所の盆栽博物館がある。

もう一つは、日本でも盆栽の生産量が一番多いのは香川県で、高松市の鬼無町には「盆栽通り」、国分寺町には日本で唯一の「盆栽神社」があって、国内外に盆栽愛好者は多いーーという事実である。

2017年世界盆栽大会 さいたま市

2013年11月13日 17時25分07秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物
2017年世界盆栽大会 さいたま市

さいたま市は、4年後の2017年、「第8回世界盆栽大会」を迎える。

1989年に開かれた第1回大会は、合併前の旧大宮市が主催、大宮ソニックシティを主会場にして、32か国から愛好家や研究者など約1200人が訪れた。さいたま市開催は2度目で28年ぶりになる。

世界盆栽友好連盟(WBFF)が設立されたのは、その時である。初代会長には、「蔓青園」3代目園主だった加藤三郎氏(故人)が選出された。加藤氏は、この大会でエゾマツの寄せ植えの剪定(せんてい)の実演を披露、拍手を浴びた。

加盟しているのは日本、インドの2か国と欧州、中国、台湾など7地区。オリンピック同様、4年ごとに開催される。

第2回は米国オーランド、第3回は韓国ソウル、第4回はドイツ・ミュンヘン、第5回は米国ワシントンDC、第6回はプエルトリコ・サンファン、13年の7回は中国金檀市で9月末に開かれた。

開催地は、理事会の各国と各地区の理事計9人の投票で決まる。第8回には12年9月、さいたま市がイタリアで開かれた理事会で誘致を表明、ついで台湾が立候補の動きを見せ、一騎打ちになりそうだった。

このため、大宮盆栽村の園主らでつくる誘致委員会の竹山浩委員長(芙蓉園2代目園主)らは豪州など海外の展示会に出かけ、プロモーションを展開、清水勇人さいたま市長も13年7月にロンドンで欧州地区理事らに支持を訴え、協力の約束を取り付けていた。

9月27日に開かれた理事会では、台湾がプレゼンテーションを辞退したので、全理事が賛成、さいたま市で2度目28年ぶりの開催が決まった。

第8回大会は、17年4月27~30日の4日間、前回同様大宮ソニックシティや大宮盆栽美術館、盆栽村など6か所が会場になる。

大宮盆栽美術館は、世界の盆栽ファンの聖地を目指す盆栽村の目玉施設として、10年に世界初の公立の盆栽美術館としてオープンした。

4日間の会期中、盆栽の剪定の様子をインターネット中継するイベントや一般展示、即売会などがあり、大会参加者1200人、約7万人の来場者と5億円を超す経済効果を見込む。

盆栽は「BONSAI」として欧州を中心に世界では人気が高まっているのに、国内では愛好者が減り、1965年設立の日本盆栽協会の会員数は、ピーク時の約1万5千人が今では約6千人に落ち込んでいる。

1923年の関東大震災で被災した東京・千駄木周辺の盆栽師が移住してできた、90年の歴史を誇る盆栽村も、戦前には30軒ほどあった盆栽園が現在6軒だけ。周辺を合わせても9軒だ。

大宮盆栽美術館の入場者数も12年度は5万人弱と人気は低迷している。

それでも樹種の多彩さと高い技術から高級盆栽として世界に知られている。経済産業省は「大宮盆栽」を「JAPANブランド育成支援事業」の一つに選び、さいたま市とともに12年度から海外展開への支援を始めた。

この海外展開に協力している東京都の盆栽関連輸出業者によると、「欧州だけで数百万、世界で1千万人を超える巨大マーケットがある」とのことで、土付き盆栽の輸出に必要な検疫体制も整った。

これまでの輸出が苗木中心だったのに、育てた盆栽そのものの輸出が可能になり、平均単価も最低10倍以上に跳ね上った。最高は何百万円もするのはご承知のとおりだ。

「大宮盆栽」の輸出は13年11月から本格的にスタートした。11月17日には盆栽村で日本貿易振興機構主催の輸出商談会が開かれた。

輸出額は2年後が1億、3年後が5億円が目標という。盆栽だけでなく、育てたり、剪定したりする技術の輸出も検討されているので、盆栽師の育成も課題になっている。

さいたま市国際観光協会は、14年3月14日から9日間、パリのルーブル美術館やオペラ座に近い雑貨店の約35平方mに盆栽4点を独自で出店、富裕層への売り込みを狙う。

さいたま市は17年を目指し、世界で活躍する盆栽の伝道師を育成するため「国際盆栽アカデミー(仮称)」の開設を目指している。

世界盆栽会議の開催は、大宮盆栽の輸出にも好影響を与えることは確実で、国内でも盆栽見直しの機運が高まることになるかもしれない。



大宮盆栽村 さいたま市盆栽町

2013年11月11日 12時42分07秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

大宮盆栽村 さいたま市盆栽町

さいたま市北区の盆栽町で毎年開かれる「大盆栽まつり」(5月3~5日)が、13年に30回を迎えた。

市民盆栽展やセリ市、盆栽、盆器、山谷草の即売会などが開かれ、愛好者でにぎわった。

「大宮盆栽村」と呼ばれるこの町の中には現在、開村当時からあり、国後島で手に入れたえぞ松で知られる「蔓青園」、著名人の来訪が多く、皇居の盆栽管理責任者を務める「九霞園」、ケヤキやカエデなどの「雑木盆栽」が多くそろっている「芙蓉園」、種類の違う植物や花木も使う「彩花盆栽」の「清香園」、庶民的な「藤樹園」、鉢の品揃えが豊富な「松涛園」の6園がある。

最盛期の1930年代には盆栽園は約30あった

江戸時代から現在の東京都文京区千駄木の団子坂、同区駒込の神明町などには、植木屋の盆栽業者が多かった。

ところが、1923(大正12)年の関東大震災で大打撃を受け、より広い土地と適した土壌(水はけのいい関東ローム層の赤土)、豊富な地下水を求めて、当時、「源太郎山」と呼ばれていたこの雑木林に白羽の矢を立て、集団移住、盆栽作りの理想郷建設を目指した。

1925(大正14)年に盆栽村が誕生した。「蔓青園」が開園したのは、この年である。白い幹が大きくうねる、推定樹齢2千年を超す真柏(しんぱく)の盆栽があるので有名。当初の盆栽園約20園のうち唯一今も続いている。

1928(昭和3)年には、盆栽業者と盆栽愛好家のための町を作るため,盆栽村組合(組合員20人)は、盆栽村に住む条件として、「盆栽を十鉢以上持つ」「二階家は建てない」「垣は生垣とする」「門戸を開放する」などの規約を決めた。

盆栽愛好家のほとんどは都内に本宅があり、盆栽村の家は別荘で、贅を凝らした造りだった。その中には、森鴎外の長男・於兎(おと)のしゃれた洋館もあった。
移住組ではなく、1929(昭和4)年開園したのが「九霞園(きゅうかえん)」。趣味が高じて盆栽師になった初代園主・村田久造は、1931(昭和6)年から,宮内庁・大道(おおみち)庭園の盆栽仕立場を手伝った。

終戦直後には,宮内省(宮内庁)の要請で,枯死寸前だった皇居内の盆栽の救済に当たった。二代目の村田勇さんも、皇居の盆栽管理の責任者を務めている。

初代は吉田茂元首相ら政界要人や,皇族・秩父宮家などの盆栽の管理・育成にも当たった。

1965(昭和40)年、「日本盆栽協会」発足で初代会長になる吉田首相は1955(昭和30)年、九霞園を訪ねたこともある。

国内で最も有名な盆栽の一つとされる吉田首相遺愛の欅(けやき)や池田首相の蝦夷松(えぞまつ)などの名品が園内に残っている。

初代は1937(昭和12)年のパリ万国博覧会に盆栽を出品、会場の最高の人気を呼んで、金大賞を受賞した。

1950(昭和27)年には日本盆栽組合(日本盆栽協同組合の前身)の組合長に就任した。

国際的にBONSAIの人気は高まり、1963(昭和38)年、西ドイツのハインリッヒ・リュプケ大統領が九霞園を訪問している。


盆栽×漢詩のコラボレーション 大宮盆栽美術館

2013年11月09日 16時01分37秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物


さいたま市大宮区の盆栽村が開村90周年を迎えたという。

これを記念して、盆栽と漢詩をコラボレート(原義は協力する)させたら、つまり、掛け合わせたらどのような効果が生まれるか。

こんな珍しい催しが盆栽村のはずれにある「さいたま市大宮盆栽美術館」で、13年2月1日から13日まで美術館と大宮盆栽協同組合、県漢詩連盟の協力で開かれた。

盆栽は見るのは大好きで、この村に通ってすでに半世紀を超す。漢詩も唐詩選には学生時代からほとんど目を通している。

盆栽村周辺で営業する6つの盆栽園が所蔵、提供した名品に、県在住の漢詩人たちが詩をつけた。

13年2月9日(土)の午後開かれたギャラリートーク「園主が語る」に参加した。

ギャラリーは、館に入って左手にあり、ここに出品作品が詩とともに展示されている。

トークとは、盆栽園の園主が出品作品の見どころなどを紹介するもので、これまで各園を訪ねた際、園主と立ち話ぐらいは交わしたものの、こんなまともな話を聞いたことは無い。

この日、語ったのは、大宮盆栽協同組合理事長の山田登美男氏(清香園園主)だった。

漢詩とのコラボだからまず漢詩の句から始めるのが筋だろう。
 
館の入り口に展示された「松雪園」の「野梅(やばい)」には

「園主説諭盆景趣 騒人舐筆獨敲詩」

園主は説諭す 盆景の趣 騒人(詩人)は筆を舐(ねぶ)りて 
独り詩を敲(たた)く

と、このイベントの趣旨を述べ、

ギャラリーの中の、雑木の盆栽で知られる「芙蓉園」の「欅」には、

「莫道樹高 纔一尺 恰如巨木偉容奇」

道(い)うなかれ樹の高きこと わずかに一尺(いっせき)と
恰(あたか)も巨木の如く、偉容奇なり

と、盆栽の真髄を説く。

「盆栽は、腰をかがめて見上げてみると木ぶりがよく分かる」とよく言われるが、まさにそのとおりである。

吉田茂首相も欅の盆栽を好んだとか。

ギャラリーの奥には、書にあやかって、「行の間」、「草の間」(茶席)、身分の高い人が座る格式高い「真の間」が再現されていて、それにふさわしい盆栽と掛け軸が置かれていた。

「盆栽が最も輝くハレの舞台は座敷なのだ」という。

一番奥の「真の間」には「清香園」の「真柏」が置かれていた。450年という古木でその間にふさわしい貫禄だった。

「雪肌枝幹放輝光」

雪肌(せっき)の枝幹(しかん) 輝光を放つ

という漢詩の句に魅かれた。

漢詩に限らず、手を変え、品を変え、このようなコラボを繰り返していけば、盆栽ファンの裾野も広がっていくことだろう。



大宮盆栽美術館

2013年11月07日 10時04分07秒 | 盆栽・桜・花・木・緑・動物

大宮盆栽美術館

なにしろ、観光資源に乏しいさいたま市に公立では日本で初めて、いや世界で初めてという新しい施設が出来たというのだから、好奇心の塊としては出かけねばなるまい。

”生きた芸術品“盆栽を展示する「大宮盆栽美術館」である。観覧料の安値に魅せられて、10年3月28日の開館日、またママチャリに乗って出かけた。

大宮の盆栽村(通称)には何度も見物に出かけているので、勝手は分かっている。盆栽町(地名)の中ではなく、通り越してすぐの土呂町(北区)に出来ていた。

盆栽村に電車で行く場合は、東武野田線の大宮公園駅から歩くのが普通。ところが、美術館はJR宇都宮線土呂駅の方が近く、徒歩5分。大宮公園駅なら10分だ。

08年2月に閉館した栃木県下野市の高木盆栽美術館から5億円で購入した高級盆栽を中心に盆栽約120点をはじめ、盆器(鉢)、水石(鑑賞石)など660点を所蔵。屋内と屋外に、盆栽は季節に合わせて約50鉢を展示、盆栽を描いた江戸時代の歌川豊国らの浮世絵、歴史資料も見られる。

日本一とも言われる五葉松の「日暮し」(評価額約1億4千万円)も室内で見られる。めったに公開されないが、これが目玉である。一日中見ていても飽きないというので「日暮し」の銘がつけられている。

佐藤栄作、岸信介両元首相が所有し、日本盆栽協会による「貴重盆栽」認定第1号となった花梨(かりん)、大隈重信愛蔵の黒松もある。

盆栽の種類や見方が素人にも分かるように、壁に写真やイラスト入りで説明してある。館に行く通りには「日本の伝統芸術」と英語で書いたノボリがかかっているのに、「厳密に言えば盆栽が芸術として謳われるようになったのは昭和初期」という正直な記述もあって面白い。

ところで、この美術館は開館までにさまざまな話題を提供してきた。ケチの付き始めは、この盆栽を預けた地元の業者のもとで3鉢(購入時評価額計5700万円)が枯死したこと。

開館が迫ると、年間5万人が入場しても収入は約1000万円、運営費が1億2000万円ほどなので約1億円の赤字になることが大きく報道された。

開館当日には、館長に委嘱されていた大熊敏之氏(51)が突然、辞意を表明、清水勇人市長が面談してやっと撤回する騒ぎもあった。大熊館長はさいたま市在住、工芸デザイン史が専門で、富山大准教授、盆栽を美術的な観点から論ずる数少ない研究者という。

来館者は15年6月、開館以来5年3か月で30万人を突破した。16年月10月には来場40万人となった。17年度は4月に世界盆栽大会が開かれたため、前年度より27%多い9万6001人が来館、外国人は82か国・地域から前年度比37%増の6225人に上った。