ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

全国最大級の地ビール祭り さいたま副都心

2014年05月30日 16時49分05秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・
いたま市中央区のさいたま新都心けやき広場で2002年6月1日までの4日間、さいたまスーパーアリーナ主催の「春のビール祭り」が開かれた。

この日は、真夏の暑さで春でもあるまいに、「秋のビール祭り」と合わせて年2回開かれるので、「春の」がついている。

「ビール祭り」と謳っても、アサヒやキリン、サントリーといった大手の全国ブランドではなく、地ビール、クラフトビール(手作りビール)と呼ばれるビール好き向けの祭りである。

今度で11回目。これまで来たことがなかったから、初日(木)、午後4時から始まるというので、定刻に着いたら驚いた。

席の設けてあるテントの中は、あらかた人で埋まっていた。けやき広場には、面白そうなイベントがあれば、見に来る。これほどの人出を見るのは初めてだった。

ビールは男性向きと思い込んでいたのは大間違い。女性グループの姿が目立ち、家族連れが多いのにも驚いた。

13年秋(9月)は、土日に祝日も加えた5日間で、そのうえ第10回目とあって、約7万5千人が来場したという。13年春は、飲んだビールが初めて10万杯を超した。知らないうちに国内最大級のビール祭りに成長していたわけで、不明を恥じた。

すでに「秋のビール祭り」の日程も決まっていて、9月19日(金)~23日(火・祝)の5日間。屋外ではなく、昨年同様、さいたまスーパーアリーナの中での開催になる。

今回はベルギーなど外国ビールの輸入元や北海道から九州までの全国のブルーワリーが参加、79の店が出た。飲めるビールは300種類を超す。

一杯ほとんどが500円。小グラス3、4杯の飲み比べセットで千円のもある。11年春から、東日本大震災の被災地に1杯につき10円を寄贈している。

おつまみも多種多様で、北海道のかき焼き、厚木のシロコロホルモン焼き、鹿児島のさつま揚げなど選び放題。

どれを飲もうか、おつまみにしようかと、人ごみをかき分けぶらぶら歩いてみると、目移りすることおびただしい。世界のビールコンテストで金賞、銀賞組がごろごろしているからだ。

「サンクトガーレン」(厚木市)は日本の最老舗の地ビール会社。国際大会金賞常連。「箕面(みのお)ビール」(大阪・箕面市)は5年連続世界金賞。「湘南ビール」は創業140年以上続く湘南唯一の蔵元。

「富士桜高原麦酒」は富士山の天然水とドイツ仕込の技術が生み出したクラフトビールの最高峰。「大山(だいせん)Gビール」はWBA(ワールド・ビール・アワード)2011で世界一・・・。

眺めたり、もらったパンフレットを読んでいるだけで酔っ払ってしまいそう。

結局、愛県心を発揮して、川越市のコエドブルワリーの「伽羅(きゃら)」をまず飲んだ。

このビールは、14年4月、米コロラド州デンバーで開かれた、2年に1度の世界最大のビールコンペティション「ワールドビアカップ」で銀メダルを受賞したと、新聞で報じられたばかり。

コエドでは、焼き芋にしたサツマイモ「紅赤」から作る「紅赤」など5種類のビールがあり、それぞれ世界のコンペで高い評価を得ている。

ついで、羽生ブルーワリーの「こぶし花ビール」の「ピルズナー」を飲んだ。ジャパン・アジア・ビアカップ(2010年)の金賞を受賞している。

最後に、原料の100%地域自給を目指す小川町の「麦雑穀工房マイクロブルーワリー」の「雑穀ヴァイツエン」も1杯飲んで、締めくくった。

川口オートレース場 入場者数、売上高とも日本一

2014年05月28日 14時59分50秒 | スポーツ・自転車・ウォーキング



公営ギャンブルには競馬、競輪、競艇(モーターボート)、オートレースの4つがある。この4種類が全部そろっているのは全国でも埼玉県と福岡県だけ。埼玉県はけっこうなギャンブル県だと分かる。

このうち、さいたま市南区の浦和競馬場、同市大宮区の大宮競輪場、所沢市の西武園競輪場、戸田市の荒川近くの戸田競艇場は出かけたことがある。

川口市の川口オートレース場は、あることは知ってはいても出かけたことはなかった。最寄り駅のJR西川口駅東口の酒場でよく飲んでいたので、開催日には競艇とオート帰りの客と一緒になる機会が多かったためだ。

14年4月、朝日新聞によると、川口オートレース場で「第33回オールスターオートレース」に併せて「競争車の歴史とバイク展」が開かれている、とあるので自転車で出かけた。(写真)

前回優勝者と全国ファン投票で選ばれた精鋭が出場する大レースのはずなのに、思ったほどの人出はなく、高齢者の姿が目立つ。

日本でオートレースが始まったのは1950(昭和25)年、船橋競馬場の中の専用ダート(砂や炭ガラ)コースだった。川口のは1952年に始まった。

川口のコースが舗装(アスファルトコンクリート)されたのは1967(昭和42)年だった。1周500m、幅30mの楕円形で、最高時速150km(平均100km)で通常6周して勝負を競う。

車体には専用エンジンを搭載、公道を走るわけではないので、メーターもランプもなく、ブレーキもない。マシンの整備は選手が一人でする。

オートレースの開催場所は、全国でも少なく、6か所だけ。川口市のほかは、千葉県と船橋、伊勢崎、浜松、山陽小野田、飯塚市の1県・6市が主催していた。

オートレース発祥地だった船橋では、主催者の千葉県と船橋市が15年度末で事業を廃止した。売り上げが落ち込み、スタンド改修など修繕費が売り上げから捻出できなくなると判断したためだ。

06年度から県と市は民間に業務委託していた。売り上げは今後も年5%ずつ減少する見通しで、撤退を決めた。

オートレースは、小型自動車競走法に基づき、「地方財政の健全化」を目的の1つにしており、開設以来、川口市の財政に1200億円以上を拠出、さまざまな公共事業に貢献してきた歴史があるという。それとは別枠で市内小中学校の体育用具などの購入支援にも充てられた。

川口市でも、当初は県と共催だったのに、県は撤退、08年度から川口市だけの単独主催となった。

それでも5つのレース場の中で、4万4千人を収容できる川口は全国で最大、「オートレースのメッカ」と呼ばれている。

入場者数、売上高とも日本一だ。

15年9月5日からナイターも始まった。全国では伊勢崎(群馬県)、飯塚(福岡県)に次いで3か所目。騒音を7~9割カットする消音マフラーを取り付け排気音の7割以上を抑えた。レースは午後3時開始、最終レースは午後8時半スタートした。

ナイターは5~8日と25~28日の8日間行われ、ここ10数年で最高の入場者数と売上高を記録した。気をよくした市は、照明をLEDに変え、16年5月25日からナイターを常時開催することを決めた。10月まで計26日実施する。

公営ギャンブルの最盛期は、1992(平成4)年度頃で、入場者、売上高とも年々減少続き。特にオートレースの落ち込みがひどく、川口の場合、1日当たり平均入場者数、年間売上高とも3分の1程度になっている。

それでも12年度には約5億円が市の一般会計に組み入れられている。

このオートレース場には「川口オートミュージアム」が付属していて、往年の名車「メグロ」「キョクトー」「トライアンフ」「フジ」などが展示されている。

今度の展覧会では、「メグロ」「キョクトー」などの国産車とともに、レース車の原型となった英国製の「ジャップ」が展示されたのが注目された。

所在地の青木は駅から距離があるので、開催日には京浜東北線の西川口駅から無料バスが出ていて、昨年度から入場料もただになった。

オートレース場のエンジンの音と匂いには独特の魅力があるので、それに魅かれてくる長年のファンもいる。

一般市民には、毎年8月のたたら祭りの会場となり、花火を目前で楽しめるので親しまれている。


県東南端の変貌 三郷市

2014年05月20日 17時09分49秒 | 市町村の話題


県の東南端にあり、東京都(葛飾区)と千葉県(流山、松戸市)に境を接する三郷市はこれまで訪ねたことがなかった。

かつて葛飾区を担当していたことがあり、都の東北端にある水郷・都立水元公園には何度も足を運んだことがある。その対岸が三郷市だといった方が、都民には分かりやすいだろう。

江戸川の河川敷にある三郷緊急用船着(ふなつき)場で、14年4月27日、「みさと船着場フェスティバル」が開かれるというので出かけてみた。

母なる川・荒川と県境沿いの利根川を持つ埼玉県は、川の面積が占める比率が日本一なので、「川の県」と呼ばれる。

南北に細長い三郷市は、東は江戸川、西は中川が境界になっていて、その間を南北に大場川、第二大場川、二郷半用水が流れ、江戸川、中川を東西に三郷放水路が結んでいる。

県にならって、「川の市」と呼びたくなるようなまちである。

水が豊かなのでJR武蔵野線の三郷駅の北側に「早稲田」という地名が残る。合併した昔の村の名前である。万葉時代から歌に残るほどの早稲(早場米)の産地で、「葛飾早稲発祥地」の碑が立っている。

緊急用船着場は、三郷駅から徒歩5分のところに国土交通省が整備したもので、災害発生時に救援物資などを搬送・荷揚げする施設である。フェスティバルは、平時に市民に親しまれるよう市が年に一度開いている催しだ。

都心から15-24kmしかないのに、「陸の孤島」同然だったのは昔の話。今では、高速道路は常磐自動車道と外環道、首都高速6号三郷線が三郷ジャンクションで接続、05年につくばエクスプレスも三郷中央駅で停車、人口は1970年の約4万から13万6千人(14年5月)と3倍以上に増えた。

発展のきっかけになったのは、1973(昭和48)年、JR武蔵野線が開通し、三郷駅ができたことだった。

計画当時は「東洋一」と注目された住宅公団の大規模高層「みさと団地」(約9400戸)を皮切りに、都市整備公団の「三郷早稲田団地」(約2400戸)、民間の「パークフィールドみさと」(約2700戸)と巨大団地の建設が相次ぎ、「団地のまち」に変わっていった。

「みさと団地」、民間の「さつき平団地」に近い新三郷駅(1985年)もできた。この駅前の「新三郷ららシティ」には「イケア」、「ららぽーと」、会員制倉庫型店舗「コストコ」など大規模商業施設もオープンした。「ららぽーと」には「ANNEX」も出来た。

大規模商業施設と言えば、駅からは離れるが、3つの高速道が交差する三郷ジャンクションに近い「ピアラシティ」(イトーヨーカドー、スーパービバホームなど)もある。

武蔵野線三郷駅、新三郷駅の開業で起きたことが今、05年に開通した、つくばエクスプレスの三郷中央駅の周辺で再現されている。(写真)

東京側の終点の秋葉原まで約20分という地の利を得て、新住民が流入、高層マンションはもちろん、スーパーの「ヤオコー」、女性衣料品の「しまむら」、ホームセンターの「島忠ホームズ」などが店開き、駅の両側も公園風に整備された。巨大なゲームセンター(パチンコ屋)もある。

新三郷駅と比べて、大型商業施設はまだないものの、東京への通勤距離の短さで高層住宅地として発展しようとしている。10年の国勢調査では、市の東京への通勤率は27.9%だった。

市では「日本一の読書のまち三郷」づくりを目指し、小中の全校27校に司書を配置、「読書フェスティバル」を開いたりして実現に努めている。

松伏町 ゴルフの石川遼選手の出身地 

2014年05月18日 08時34分34秒 | 市町村の話題


県人でも松伏(まつぶし)町(人口約3万人)がどこにあるか知らない人が多い。私もその一人だった。石川遼選手のおかげで、知名度がにわかに高まってくると、一度行ってみたいと気になって、地図を見ると

県の東南部にあり、東は千葉県の野田市、北は春日部市、西は越谷市、南は吉川市に接する。

鉄道の駅がないので、公共交通機関で行こうとすると、東武スカイツリーライン、JR武蔵野線、東武野田線(アーバンパークライン)のいずれかの駅からバスで行くことになる。

町役所やこの町の売り物の「田園ホール・エローラ」に行くには、「東武スカイツリーラインの北越谷駅からのに乗ったらいい」と南越谷駅前のバス停留所で運転手に教わった。

町内に鉄道駅がないのは。さつまいもで有名な三芳町、「日本一長いバラのトンネル」を持つ川島町、「吉見百穴」の吉見町、鳩山町、小鹿野町、県内唯一の村・東秩父ぐらいだろうか。

14年4月、町役所に入ると、「ここは石川選手の町だ」と実感する。大きな等身大の写真が迎えてくれる。

石川選手の実家は、整然と区画された戸建ての建売住宅がならぶ「ゆめみ野」の中にあった。UR都市開発機構が開発したゆめみ野の中にある松伏小学校、中学校はちょっと南の上赤岩の松伏第二中学校に通った。

信用金庫に勤めていた父親の指導で、小学校からゴルフを始め、車で30分ほどかかる野田市のゴルフ場に通ったのは有名な話。

「松伏っ子」なのである。ゆめみ野の中にある松伏記念公園にはすでに記念碑が建っているというから驚く。

08年、東京・杉並学院高校に入学、高校1年の16歳3か月でツアープロになり、内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞を受け(09年も)、09年には賞金王になった。いずれも「史上最年少で」がつく。アマチュア時代15歳で世界最年少優勝のギネス・ワールド・レコードも持つ。

記念碑が立ってもおかしくない記録の持ち主である。ニックネームはご存知「はにかみ王子」だ。

松伏町は、ゆめみ野にある中央公民館の中の町立の音楽の殿堂「田園ホール・エローラ」で知られる町である。

外観は一見、倉庫のような建物だ。(写真)

1989(平成1)年に町制施行20周年を記念して建設された。作曲家・故芥川也寸志氏のアドバイスとプロデュースで、日本初のコンピューターによるデジタル音響設計を取り入れ、音響効果が優れていることで知られる。

「エローラ」の名は、氏の代表作「エローラ交響曲」からとった。曲想を得た、巨大な岩をくり抜いて造られたインドのエローラ石窟院にちなむ。

観客数525、室内楽に適した残響時間に調整されていて、演奏した世界各国の音楽家たちの評価も高い。

目の前の県立松伏高校には、音楽科があり、エローラ混声合唱団や少年少女合唱団もある。音楽が盛んな町になった。

中央公民館の壁面や役場、小中学校には、町の金杉小学校出身で、町内にアトリエを持つ日本画家・後藤純男氏の作品が展示されている。後藤画伯は、院展で内閣総理大臣賞を受賞、東京藝術大学の教授を務めた。

町内には鉄道の駅がないせいか、例えば北越谷からエローラに向かう場合、バスの便が頻繁にあるのに驚く。

東から江戸川、中川、大落古(おおおとしふる)利根川の三つの川が、南北にそれこそ川の字に流れる「川のまち」である。中川や大落古利根川の岸辺に、黄色く群生する、アブラナに似た「からし菜」が町の春の風物詩だ。

「からし菜」は、よく知られているとおり食べてもおいしい。

東武東上線開業100周年

2014年05月14日 17時51分21秒 | 街道・交通


東武東上線が14年5月1日、開業100周年を迎え、各地で記念の催しが開かれた。

東武東上線と言っても、分からない人がいるかもしれないので、老婆心ながら説明すると、県央部を北西の方向に、池袋―寄居間75kmを最短約1時間半で結ぶ東武鉄道の一部である。

沿線に川越、東松山、森林公園、小川町がある。終点寄居で秩父鉄道に乗り換え、長瀞などに出かける際よく利用する。1日約100万人が利用するという。

私にとっては大学時代、学生寮が上板橋にあったため、上京以来その歴史の半分以上断続的に使っているので、なじみの路線である。

東武百貨店池袋店でも「東武東上沿線まつり」があったので、見物に出かけたほどだ。

学生時代は、「東上」とは、東京から上越(新潟)を目指したと理解していた。「埼玉鉄道物語」(老川慶喜著、日本経済評論社)によると。「上」は上州で、群馬県の高崎を経て、渋川が目的地だったとある。

将来は長岡まで延長される計画だった。東上線は、寄居で八高線に接続して、高崎まで通じているので、「上州」と結ぶ夢は実現されているという。

1914(大正3)年5月1日、前身の東上鉄道が池袋~田面沢(現在の川越市~霞ケ関間)の33・5kmで開業。1920(大正9)年、東武鉄道と合併、東武鉄道となり、寄居まで通じたのは1925(大正14)年だった。

全線電化が1929(昭和4)年だから、蒸気機関車が走っていたのを覚えている人もいるようだ。

川越と東京を結ぶ新河岸川舟運に代わる交通手段として東上鉄道の建設は促進された。

その中心になったのが、新河岸川沿いの福岡河岸の船問屋「福田屋」の10代目当主・星野仙蔵だった。

入間郡会議員、県会議員を経て、衆議院議員になり、同じ衆院議員の「鉄道王」と呼ばれた根津嘉一郎(東武鉄道取締役、後の東上鉄道社長)と知り会った。

仙蔵は、郡会議員になる前からいくつかの鉄道開設の運動を進めていた。

東上鉄道は1911(明治44)年に会社を設立、根津は社長、仙蔵は監査役になった。仙蔵は用地買収を担当、私財を投じて上福岡駅の実現に努めた。 47歳で急死。駅東口の石碑は仙蔵の功績を伝える。(写真)


鉄道誘致で舟運の家業の方は衰退した。1910(明治43)年、荒川・新河岸川の大水害では、保有米を放出、握り飯を伝馬船に満載し、被災者救助に当たった。剣道家(8段)としても知られた。

「福田屋」の一部は福岡河岸記念館として保存されている。

学生時代、東上線は「おんぼろ電車」のイメージが強かった。「イモ電車」とさえ呼ばれていた。最近のピカピカの車両をみると、今昔の感を禁じえない。

東上線は、東京の近郊路線として発展してきた。東武伊勢崎線には劣るものの、沿線には西大和、鶴瀬、霞ヶ丘、上野台などの千戸を超す大団地が出現、刺激を受けて、個人住宅や高層住宅が造られ、東京への通勤・通学路線の性格が強かった。

13年3月、東京メトロ副都心線を介して、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線と相互直通運転が開始され、西武池袋線を含めて5路線の乗客が乗り換えなしで埼玉県と横浜市の間を往来できるようになり、観光客が横浜から川越に来るという新しい動きも見られるようになった。

明治百年事業として作られた「国営武蔵丘陵森林公園」(森林公園駅)は、さすが国営だと思わせる貫禄だし、「県立こども自然動物公園」(高坂駅)も広大で、武蔵野の面影が残り、大人にも面白い。寄居経由の長瀞もミシュランにも紹介されるなど、秩父鉄道には観光地が多い。

一方、東上線と並ぶ西武池袋線は、前身の「武蔵野鉄道」が池袋ー飯能駅間で開業してから、15年4月15日で100周年を迎えた。飯能市の人口は、当時の約8700人から約8万3500人へと10倍近く増加した。

日本神社 本庄市児玉

2014年05月12日 17時30分25秒 | 寺社


百体観音堂の後、次は有名な長泉寺の「骨波田の藤」に向かっていると、右手の商店の前に、「日本神社入口」と赤字で書かれた新しい石柱が目に入った。

本庄市のキャラクターにちなんだ予約バス「はにぽん号」の停留所にも「日本神社入口」とある。

その名前には覚えがあったので、山道をたどると、小高い丘の上に鳥居と神社が見えてきた。日本神社という語や、小さいながらピカピカの石柱から連想されるような豪壮な社ではなく、小さく古ぼけた社である。

瓦屋の一階建てで、瓦も古ければ、側面はトタン板で覆われている、長方形の敷地の左手に、これまた古びた神楽殿がある。

社務所は無人で、本殿の前に狛犬がいる。近づいてみると、横板に「日本神社」と右から左に墨書されている。(写真)

その左側に神社のいわれを書いた説明板がある。下の方は字が薄れて、読めない字もある。判読すると、その内容(大要)に驚いた。

この地は、西小平という地の中央にあり、791(延暦10)年、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の折り、この地を訪れ、戦勝祈願のため神武天皇を祀った。蝦夷からの帰途、この地を再訪、社殿を建立、当初は『神武神社』と称していた。

しかし、「(武蔵)風土記稿」の小平村の項には当社の名前を見ることはできない。

この地は「神山郷」と言われ、鎮座地として信仰されていたようだとある。

ところが、明治になって東小平の石神神社が村社になったため、西小平にも村社が必要になり、1881(明治14)年、稲荷神社、桜木神社、駒方神社、黒石神社、石神社、山神社の6社を合祀し、「日本神社」と改名した。

以後120年、地元では「合社(ごうしゃ)さま」と言われ、親しまれてきた。

というのである。

県立図書館の郷土資料室にあった「埼玉の神社」や「児玉町史」の「日本神社」の項にも同様な記述があった。

日本には約8万の神社があるとされているが、「神武神社」はいくつかあっても、そのものずばり「日本神社」はここだけで、ほかにはない。

この貴重な名前を、本庄市の知名度アップに使わない手はないと、こだま青年会議所、児玉商工会青年部、地元の秋平小学校と市などは、サッカーワールドカップの日本代表に、「日本神社」で祈願した必勝ダルマの寄贈を始めた。

06年のドイツ大会の男子を皮切りに、10年の南アフリカ大会の男子、11年のドイツ大会の女子に贈呈した。

ドイツ大会で優勝した「なでしこジャパン」は、監督と選手たちが署名したサッカーボールを贈ってきた。

これまでに贈った必勝ダルマとその署名入りボールは市役所1階市民ホールに展示された。このダルマは14年5月12日夕のNHK首都圏ネットワークでちょっぴり紹介された。14年のブラジル大会にも贈った。

市は、代表応援のため「日本サッカーを応援する自治体連盟」に加盟した。市のホームページの1ページ目には、「本庄市はサッカーワールドカップ2014日本代表を応援しています」と書いてある。

青年部と市は、16年と20年の東京オリンピック招致にも、応援の「日本神社」名入りの大ダルマを東京都に贈った。

たどり着いた長泉寺の骨波田の藤は、「日本最大級の藤寺」と宣伝している。有料。藤の咲き具合で入場料が変わる。

「骨波田(こつはた)」とは、すごい名前だ。日本神社でも登場した坂上田村麻呂が、大蛇を退治したことが地名の由来という。大蛇の波打つような骨を田んぼに埋めたとでも言うのだろうか。

県の天然記念物に指定されている樹齢650年と推定されるムラサキナガフジなどがある。東国花の寺・百ケ寺にも選ばれていて、見物客でにぎわう。

塙保己一の生誕地で知られる児玉は面白いところが多い。





成身院百体観音堂 本庄市児玉

2014年05月08日 17時40分00秒 | 寺社
成身院百体観音堂 本庄市児玉

埼玉にも「さざえ堂」があるというので、14年のゴールデンウィークに本庄市児玉の成身院(じょうしんいん)百体観音堂を訪ねた。(写真)

会津で見た「さざえ堂」に建築から見て興味を魅かれていたのと、ここには1層に秩父34観音、2層に坂東33観音、3層に西国(さいごく)33観音が安置されているというので、一寺で百体を拝めるという怠け者なりの計算があった。

少しずつ歩いている秩父はともかく、坂東や西国は回るつもりがないからだ。

会津若松市の正宗(しょうそう)寺、群馬県太田市の曹源寺と百体観音堂を、「日本三大さざえ堂」と呼ぶようだ。(さざえ堂は他にもある) 仏像が安置されている回廊がさざえの殻の中を歩くような形になっていることから「さざえ」の名がついている。

平面六角形で二重らせんの斜路を持つ特異な構造の正宗寺とはいくぶん違う。曹源寺と百体観音堂は外から見ると2階なのに、内部は3層になっている。茨城県取手市の長禅寺三世堂とともに「関東系」とよばれるとか。

回廊を順序どおり進むと、本尊を三巡りして、仏を礼拝する作法としては、最もていねいな「右繞三匝(うにょうさんそう)=右(時計)回りに三巡りする」になるという。

参拝人が多くても一方通行になっていて、鉢合わせしないようになっているというから有り難い話である。

この観音堂の前に立っている説明板や堂に置かれているパンフレットにも心を奪われた。

1783(天明3)年、浅間山の大噴火で流出した溶岩と引き起こされた洪水は、吾妻川、利根川沿岸の30数か村を埋めた。焼死、溺死する者数知れず、川辺に近づくと、うめき声が聞こえ、人々はただおびえ、弔うものもなかった。1500人以上が死亡、多くの遺体が利根川を流されていったという。

この噴火は日本の火山噴火の災害としては最大の出来事とされている。

当時の成身院69世元真は、死者のため現在の坂東大橋付近に檀を築き、近くの僧とともに供養に努めた。永代にわたって供養するため百体観音堂建立を発願したものの、果たさずに死んだ。

その遺志をついで弟子の元映は、度々江戸まで出かけて募金した。百体のうち6割はその募金によって江戸で鋳造されたもので、中山道の宿場の人々の手で順送りに成身院に運ばれてきた。

観音堂と周囲が整備されたのは1795(寛政7)年。各地にある浅間山噴火犠牲者供養の建造物の中で、最も大きく荘厳なものだったという。

その後、明治になって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のために無住寺になり、住み着いた放浪者の失火による火災、再建、花火がもとでの本堂の焼失、観音像の半数の盗難と数多くの災難に遭いながら、近辺の信者による観音像の寄進などで現在の形になったのは1980(昭和55)年だった。

小平と呼ばれるこの地域は養蚕が盛んで、農家が裕福だったことがその背景にある。今でも屋根の上に蚕のための暖気通風用の高窓を頂く家「高窓の家」(今では養蚕はやっていない)が数軒残っているのが、その証である。

高さ20mの百体観音堂正面の鰐口(わにぐち)は、直径180cm、厚さ60cm、重さ750kgで、直径を除けば日本一の大きさという。この鰐口は観音堂が整備された1795年に鋳造されたもので、奇跡的に建立時のまま残っていて、市の有形文化財に指定されている。

建立時、同じ所に発注されていたので、同じ大きさのものが越谷市の浄山寺に残っている。

群馬県では、浅間山噴火の痕跡をいくつも見た。埼玉県で見たのはこれが初めてで、浅間山、いや富士山が火を噴いた時、埼玉はどうなるのか、考えざるを得なかった。百体観音堂から遠く浅間山が望める。

無住寺なので、百体観音堂を管理している本庄市観光農業センターの担当者の話では、「児玉33霊場」の第1番札所が成身院で、他の32箇所も浅間山噴火の犠牲者の慰霊のために建てられたのだという。




金鑚神社 武蔵国二の宮 神川町

2014年05月06日 17時36分45秒 | 寺社
武蔵国二の宮金鑚神社 神川町

武蔵国二の宮とされる県北の児玉郡神川町の金鑚神社は、昔から気になる神社である。30年ほど前に妻の運転する車で訪ねたことがある。記憶も薄れてきたので、猛暑の13年夏の終わりに今度は一人で電車とバスと徒歩を使って再訪した。

「金鑚(かなさな)」とは珍しい名前である。うどんの「讃岐」は言べんだから、金へんの「鑚」とは違う

すぐ西方を流れる群馬県との県境の神流(かんな)川で、刀などの原料になる砂鉄がとれたことから、「金砂(かなすな)」がなまって、「かなさな」と呼ばれるようになったようだ。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、天照大神と素戔男尊(すさのおのみこと)を祀って創建したという。801年には坂上田村麻呂が東北への遠征前に戦勝祈願に訪れた。

1051年には八幡太郎源義家も奥州出陣の際祈願したとされ、境内には「駒つなぎ石」「旗掛杉」「義家橋」が残る。延喜式神名帳にも「金佐奈神社」として記載されている古社である。

中世には武蔵七党の丹党に崇敬された。1534年に建立された多宝塔は国指定重要文化財に指定されている。

珍しいのは、拝殿の奥に本殿がなく、御獄山(みたけさん)の一部をなす御室山(みむろさん)がご神体になっていることである。自然崇拝のいかにも神道らしい神社で、全国でも奈良県の大神神社(三輪神社)と長野県の諏訪神社の3社しかない。

御室山には登れないので、登山道のある御獄山の山頂(343m)を目指すと、中腹に国の特別天然記念物の「鏡岩」がある。(写真) 赤鉄石英片岩の岩肌が平らで鏡のようにみえるので、この名がある。断層活動でできたすべり面で、約1億年前に生じたとされ、地質学的に貴重。

江戸時代の平戸藩主松浦静山の随筆集「甲子夜話」には、「鏡岩に向かえば顔のシワまで映る」と書かれており、高崎城落城の時に火炎の炎が映ったという伝承もあるという。

金鑚神社の目の前にある「大光普照寺(たいこうふしょうじ)」は、神仏分離までは、金鑚神社の別当寺(神社に付属して設けられた寺院、神宮寺)だった。明治維新までは神社と寺は一体だったのである。

聖徳太子が創建、平安時代初期に天台宗第三代座主の慈覚大師円仁(えんにん)が入山し、天台宗に改め、「金鑚山一乗院大光普照寺」と名づけ、開基となった。慈覚大師は、栃木県岩船町生まれ。最後の遣唐僧で、 日本の天台宗を大成させ、朝廷から「大師号」を最初に授けられた高僧である。

9年半にわたる唐での数奇な体験を、日本人による最初の本格旅行記「入唐求法巡礼行記」で自ら執筆した。玄奘の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」と並ぶ世界三大旅行記とされる。ライシャワー駐日米大使の研究で欧米にもその名を知られている。

慈覚大師が開山・再興したと伝えられる寺は、川越の喜多院、浅草の浅草寺、目黒不動として親しまれている龍泉寺、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺といった有名寺院など関東・東北で500を超す。

平安中期には慈恵大師良源が大光普照寺に一時滞在、教えを広めた。慈恵大師は、第18代天台座主で、火事で焼けた比叡山を復興させ、中興の祖と仰がれている。正月3日に没したので、元三(がんざん)大師の名で親しまれ、この寺は「元三大師の寺」として知られるようになった。

元三大師には、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」などの呼び名があり、信仰を集めているほか、社寺の「おみくじ」の創始者とも言われている。

この神社と寺を訪ねると、今ではひなびたこの町がかつて、奥州平定の基点であったこと、また、天台宗を代表するような座主二人が、寺の開山以来深くかかわっていたという歴史的事実の重さに圧倒される。

田舎教師 羽生市

2014年05月06日 16時21分54秒 | 文化・美術・文学・音楽


羽生は田舎教師のまちである。

どこに行っても田舎教師で、「田舎教師最中」の広告さえ電信柱にあった。

若い頃は文学青年気取りで、野田宇太郎の「新東京文学散歩」を手に東京を歩き回った。今は小説もほとんど読まない日々だが、14年5月思いたって羽生市を訪ねた。

なぜ隣県の館林市出身の小説家・田山花袋が利根川を隔てた羽生の青年のことを書いたのか、気になっていたからだ。

その謎はすぐ解けた。東武東上線羽生駅のすぐ近くにある建福寺に、この小説のモデルになった小林秀三の墓があるというので、真っ先に訪ねると、この寺の第23世住職の大田玉茗(ぎょくめい)が大きな役割を果たしたことが分かった。

この名前は、明治文学史の中でかすかに記憶に残っていた。新体詩人で、花袋、尾崎紅葉らと交友があり、花袋はその妹里さと結婚していたから、花袋は義兄に当たる玉茗の寺をしばしば訪れた。

建福寺には秀三の友人たちが立てた新しい墓があり、寺に下宿したことのある秀三の日記が玉茗の手元に残されていたことから、小説の構想を得て、その短い生涯を描いた。

秀三は埼玉県第二中学校(現・県立熊谷高校)を卒業した。向学心にあふれていたのに、家貧しく、三田ヶ谷村(現・羽生市弥勒)の弥勒高等小学校の助教(准教員)になった。

大学に進学していく友人らに比べ、田舎教師に埋没していく自分に悶々とする中、肺結核を患い、3年余りの教師生活の後、20歳で死んだ。1904(明37)年、日露戦争の勝利(遼陽占領)に羽生の町では提灯行列をしていた時である。

花袋も幼い頃父を亡くし、苦労した経験があるので、他人事とは思えなかったのだろう。

秀三は、建福寺に下宿した後、通うのに時間がかかるので、小学校に移り住んだ。すでに廃校になっている小学校の前に銅像が立っているというので、駅前から市のあいあいバスというマイクロバスに乗って出かけた。

かれこれ30分、その名も「田舎教師像前」というバス停で降りると、目の前の三叉路の真ん中にその像は立っていた。1977年に建立された。(写真) 県営さいたま水族館、羽生水郷公園や東北自動車道の羽生ICも近くにある。

近くの円照寺の境内には、当時の村の面影を伝える「お種さん資料館」がある。秀三が勤める学校へ弁当を届ける、料理屋小川屋の娘として登場する「お種」のモデル小川ネンさんにちなんだものである。

この小説には、ネンさんのように実在した人物が色々登場している。関訓導の名前になっている速水義憲氏は、食虫植物ムジナモを埼玉で初めて発見した人だった。

学校近くの宝蔵寺沼ムジナモ自生地は国指定の天然記念物になっている。

1938年、片岡鉄平、川端康成、横光利一の3人が「田舎教師遺跡巡礼の旅」称して、羽生を訪れた写真もあった。この寺には89歳まで生きたネンさんの墓もある。

バスの便数は少ないので、駅まで歩いて帰った。市立図書館・郷土資料館に立ち寄ると、1909(明治42)年、左久良書房(東京・神田)から出版された「田舎教師」の初版本が展示されていた。

箱入りの美装本で、秀三が死亡時にもらっていた月給14円で換算すると、その値段は現在なら2万円するという説明があって驚いた。

色々勉強になった文学散歩の一日だった。