公営ギャンブルには競馬、競輪、競艇(モーターボート)、オートレースの4つがある。この4種類が全部そろっているのは全国でも埼玉県と福岡県だけ。埼玉県はけっこうなギャンブル県だと分かる。
このうち、さいたま市南区の浦和競馬場、同市大宮区の大宮競輪場、所沢市の西武園競輪場、戸田市の荒川近くの戸田競艇場は出かけたことがある。
川口市の川口オートレース場は、あることは知ってはいても出かけたことはなかった。最寄り駅のJR西川口駅東口の酒場でよく飲んでいたので、開催日には競艇とオート帰りの客と一緒になる機会が多かったためだ。
14年4月、朝日新聞によると、川口オートレース場で「第33回オールスターオートレース」に併せて「競争車の歴史とバイク展」が開かれている、とあるので自転車で出かけた。(写真)
前回優勝者と全国ファン投票で選ばれた精鋭が出場する大レースのはずなのに、思ったほどの人出はなく、高齢者の姿が目立つ。
日本でオートレースが始まったのは1950(昭和25)年、船橋競馬場の中の専用ダート(砂や炭ガラ)コースだった。川口のは1952年に始まった。
川口のコースが舗装(アスファルトコンクリート)されたのは1967(昭和42)年だった。1周500m、幅30mの楕円形で、最高時速150km(平均100km)で通常6周して勝負を競う。
車体には専用エンジンを搭載、公道を走るわけではないので、メーターもランプもなく、ブレーキもない。マシンの整備は選手が一人でする。
オートレースの開催場所は、全国でも少なく、6か所だけ。川口市のほかは、千葉県と船橋、伊勢崎、浜松、山陽小野田、飯塚市の1県・6市が主催していた。
オートレース発祥地だった船橋では、主催者の千葉県と船橋市が15年度末で事業を廃止した。売り上げが落ち込み、スタンド改修など修繕費が売り上げから捻出できなくなると判断したためだ。
06年度から県と市は民間に業務委託していた。売り上げは今後も年5%ずつ減少する見通しで、撤退を決めた。
オートレースは、小型自動車競走法に基づき、「地方財政の健全化」を目的の1つにしており、開設以来、川口市の財政に1200億円以上を拠出、さまざまな公共事業に貢献してきた歴史があるという。それとは別枠で市内小中学校の体育用具などの購入支援にも充てられた。
川口市でも、当初は県と共催だったのに、県は撤退、08年度から川口市だけの単独主催となった。
それでも5つのレース場の中で、4万4千人を収容できる川口は全国で最大、「オートレースのメッカ」と呼ばれている。
入場者数、売上高とも日本一だ。
15年9月5日からナイターも始まった。全国では伊勢崎(群馬県)、飯塚(福岡県)に次いで3か所目。騒音を7~9割カットする消音マフラーを取り付け排気音の7割以上を抑えた。レースは午後3時開始、最終レースは午後8時半スタートした。
ナイターは5~8日と25~28日の8日間行われ、ここ10数年で最高の入場者数と売上高を記録した。気をよくした市は、照明をLEDに変え、16年5月25日からナイターを常時開催することを決めた。10月まで計26日実施する。
公営ギャンブルの最盛期は、1992(平成4)年度頃で、入場者、売上高とも年々減少続き。特にオートレースの落ち込みがひどく、川口の場合、1日当たり平均入場者数、年間売上高とも3分の1程度になっている。
それでも12年度には約5億円が市の一般会計に組み入れられている。
このオートレース場には「川口オートミュージアム」が付属していて、往年の名車「メグロ」「キョクトー」「トライアンフ」「フジ」などが展示されている。
今度の展覧会では、「メグロ」「キョクトー」などの国産車とともに、レース車の原型となった英国製の「ジャップ」が展示されたのが注目された。
所在地の青木は駅から距離があるので、開催日には京浜東北線の西川口駅から無料バスが出ていて、昨年度から入場料もただになった。
オートレース場のエンジンの音と匂いには独特の魅力があるので、それに魅かれてくる長年のファンもいる。
一般市民には、毎年8月のたたら祭りの会場となり、花火を目前で楽しめるので親しまれている。
武蔵国二の宮とされる県北の児玉郡神川町の金鑚神社は、昔から気になる神社である。30年ほど前に妻の運転する車で訪ねたことがある。記憶も薄れてきたので、猛暑の13年夏の終わりに今度は一人で電車とバスと徒歩を使って再訪した。
「金鑚(かなさな)」とは珍しい名前である。うどんの「讃岐」は言べんだから、金へんの「鑚」とは違う
すぐ西方を流れる群馬県との県境の神流(かんな)川で、刀などの原料になる砂鉄がとれたことから、「金砂(かなすな)」がなまって、「かなさな」と呼ばれるようになったようだ。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、天照大神と素戔男尊(すさのおのみこと)を祀って創建したという。801年には坂上田村麻呂が東北への遠征前に戦勝祈願に訪れた。
1051年には八幡太郎源義家も奥州出陣の際祈願したとされ、境内には「駒つなぎ石」「旗掛杉」「義家橋」が残る。延喜式神名帳にも「金佐奈神社」として記載されている古社である。
中世には武蔵七党の丹党に崇敬された。1534年に建立された多宝塔は国指定重要文化財に指定されている。
珍しいのは、拝殿の奥に本殿がなく、御獄山(みたけさん)の一部をなす御室山(みむろさん)がご神体になっていることである。自然崇拝のいかにも神道らしい神社で、全国でも奈良県の大神神社(三輪神社)と長野県の諏訪神社の3社しかない。
御室山には登れないので、登山道のある御獄山の山頂(343m)を目指すと、中腹に国の特別天然記念物の「鏡岩」がある。(写真) 赤鉄石英片岩の岩肌が平らで鏡のようにみえるので、この名がある。断層活動でできたすべり面で、約1億年前に生じたとされ、地質学的に貴重。
江戸時代の平戸藩主松浦静山の随筆集「甲子夜話」には、「鏡岩に向かえば顔のシワまで映る」と書かれており、高崎城落城の時に火炎の炎が映ったという伝承もあるという。
金鑚神社の目の前にある「大光普照寺(たいこうふしょうじ)」は、神仏分離までは、金鑚神社の別当寺(神社に付属して設けられた寺院、神宮寺)だった。明治維新までは神社と寺は一体だったのである。
聖徳太子が創建、平安時代初期に天台宗第三代座主の慈覚大師円仁(えんにん)が入山し、天台宗に改め、「金鑚山一乗院大光普照寺」と名づけ、開基となった。慈覚大師は、栃木県岩船町生まれ。最後の遣唐僧で、 日本の天台宗を大成させ、朝廷から「大師号」を最初に授けられた高僧である。
9年半にわたる唐での数奇な体験を、日本人による最初の本格旅行記「入唐求法巡礼行記」で自ら執筆した。玄奘の「大唐西域記」、マルコポーロの「東方見聞録」と並ぶ世界三大旅行記とされる。ライシャワー駐日米大使の研究で欧米にもその名を知られている。
慈覚大師が開山・再興したと伝えられる寺は、川越の喜多院、浅草の浅草寺、目黒不動として親しまれている龍泉寺、松島の瑞巌寺、平泉の中尊寺、毛越寺、山形の立石寺といった有名寺院など関東・東北で500を超す。
平安中期には慈恵大師良源が大光普照寺に一時滞在、教えを広めた。慈恵大師は、第18代天台座主で、火事で焼けた比叡山を復興させ、中興の祖と仰がれている。正月3日に没したので、元三(がんざん)大師の名で親しまれ、この寺は「元三大師の寺」として知られるようになった。
元三大師には、「角(つの)大師」「豆大師」「厄除け大師」などの呼び名があり、信仰を集めているほか、社寺の「おみくじ」の創始者とも言われている。
この神社と寺を訪ねると、今ではひなびたこの町がかつて、奥州平定の基点であったこと、また、天台宗を代表するような座主二人が、寺の開山以来深くかかわっていたという歴史的事実の重さに圧倒される。