ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

熊谷うちわ祭

2010年07月22日 22時07分46秒 | 祭・催し


うちわ祭りと聞いて、「日本一暑いとこもあったのだから、涼むためにうちわを使う祭りなのだろう」ぐらいに思っていた。テレビでおなじみの京都の祇園祭さえ、まだ見ていないのに、「関東一の祇園」「3日間で75万を超す人出」とPRしているから「関東一とはどの程度のものか」確かめてみようと、2010年7月21日に見物に出かけた。

この日は中日(なかび)で巡行祭に当たっていた。各区からの山車5台、屋台7台が、国道(17号線)を歩行者天国にして、猛暑にもめげず、堂々と練り歩き、「叩き合い」のために市の中央部のお祭り広場に集結する姿は壮観。予想をはるかに上回る見ごたえがあった。

まず、うなったのは、「国道を車両通行禁止にする」というアイデアだった。17号線と言えば、東京から埼玉県の県北にある熊谷を経て群馬県に抜ける大動脈。ドライバーなら誰でも知っている「熊谷バイパス」があるとはいえ、大胆な発想だ。

駅で手に入れたパンフレットの「うちわ祭の由来」によると、江戸時代、参勤交代の大、小名も通行止めに遭い、仕方なく熊谷堤を往来しなければならず、「八坂神社のお祭りは一歩遠ざかって通った」とある。その精神が今も生きているのだろうか

八坂神社のお祭りとは、いうまでもなく祇園祭のこと。熊谷では江戸文禄年間、京都の八坂神社を勧請(かんじょう=神仏のおいでを願う)した。

天保時代(1830 ~4 3年年)には、祭りの期間中、商店は買い物客に赤飯をふるまっていたが、これに替えて、江戸から買い入れた渋うちわを出したところ、大評判になり、「うちわ祭」の名がついた。当時、うちわは現在のような大量生産出来る使い捨て品ではなかったからである。

2015年には、山車・屋台の先頭で振られていた大うちわ(約1・8m)が約40年ぶりに復活した。

行列はさすがに伝統を感じさせる。それぞれの山車・屋台を裃(かみしも)姿の各町の総代など幹部が先導、祭り衣装の若い女性たちもさっそうと続き(熊谷にはなぜ美人が多いのか)、昼間の囃子の太鼓は主に子供たちが上部でたたく。老人も女性も子供も区ぐるみ一丸になっているのが素晴らしい。

山車・屋台に「銀座区」「荒川区」「鎌倉区」「筑波区」と、どこかで聞きなれた地名が出てくるのもうれしい。

これが、星川通りの行宮(本宮からお出ましを願う仮宮)前のお祭り広場に勢ぞろいして、神様に喜んでもらうため「叩き合い」を演ずるのだから暑さも吹っ飛んでくる。

各区の山車・屋台の後ろに氷水などを積んだ「給水山車」がついて行く区があるのが、いかにも暑い熊谷らしい。昔ながらの熱中症対策なのだろう。この日、17号線沿いのデパート「八木橋」正面口の「あついぞ!熊谷」の温度計は、最高37.9度(熊谷地方気象台)にとどまったが、ビールがしきりに恋しくなる暑さ。

残念だったのは、ぜひ一度参拝したいと思っていた、熊谷直実ゆかりの「熊谷寺(ゆうこくじ)」が、堅く門を閉ざし、観光客を拒絶していたことだった。暑い中をせっかく熊谷まで来たのだから、お参りしたい人も多かろうに。

うちわ祭熊谷の夏吹き飛ばす 柳三



「埼玉の日本一風土記」

2010年07月19日 18時09分32秒 | 文化・美術・文学・音楽


行きつけの南浦和図書館で、「郷土資料」の棚を何気なく見ていると、『埼玉の日本一風土記』という新しい本が並んでいるのを見つけた。10年の3月に出たもので、筆者は元埼玉県職員の関根久夫氏。出版は埼玉県関係の本で知られる幹書房。

先に『これでいいのか さいたま市 ”ダサイたま“とは呼ばせない』(マイクロマガジン社)という雑誌を初めて見た時も感じたことだが、さいたま物も商売になる時代が来たらしい。

読んでみると非常に面白い。歴史、民俗、文化財、自然など多くの「日本一」の中から33件を選び、7つの分野に分け、それに準じたものを番外のコラムとして7つ選んで計40件を取り上げたと書いてある。

後ろの参考文献では埼玉関係の目ぼしい本は網羅しており、大変な勉強家であることが分かる。それに加え感心するのは、1件ごとに自分で撮った写真が数枚ずつ付いていることだ。一度だけではなく、何度も関係個所を訪れ、頭と脚の双方を使って、長い時間をかけて書き上げた、頭の下がる労作なのである。

「秩父神社の素敵な動物彫刻」のコラムには、秩父神社本殿の「お元気三猿」は、日光東照宮の「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿と反対に「良く見て、聞いて、話そう」という逆三猿なのだとある。

今度出かける時、じっくりと見てみたい。

塙保己一のコラムでは、昭和12年、三重苦の「奇跡の人」ヘレンケラーが来日して、真っ先に訪問したのは、塙保己一が編纂した「群書類従」を保管している渋谷の温故学会で、群書類従を手で触って、保己一をしのんだ。

子供のころから母親から保己一のことを聞かされて手本にしていたからだという。今さらながら保己一の偉大さを思う。



最小・最強の県庁

2010年07月08日 16時32分09秒 | 県全般

最小・最強の県庁

上田清知事のかけ声の下、県は日本で「最小・最強の県庁」を目指している。

知事の毎月の15年5月のコラムを見ると、県民1万人当たりの職員数は11.0人、全国平均の約半分で、全都道府県の中で最少だ。

喜ばしい限りである。

県職員の総数は同じ時点で6万2479人。県職員は一般行政部門(知事部局)に1割を超える6740人いるほか、教育部門に約4万人、警察部門に1万2000人、それに病院など公営企業部門に約2500人というのが、大まかな内訳だ。

県職員の中で、約3分の2を占める教育のほか警察、消防部門は、国が定員に関する基準を幅広く定めているので、県では手が出せない。つまり、県ができる範囲内で一般行政部門の職員の削減に努め、その結果が「全国最少」になったというわけである。

県職員の総数は、条例定数を約6500人下回っているというから、「よくやった」と拍手したい。知事は「任期中に3000人の職員を削減させた」と述べている

県には出資している指定出資法人が23ある。

埼玉新都市交通(大宮からのニューシャトル)、(浦和美園駅が終点の)埼玉高速鉄道、芸術文化振興財団、国際交流協会、社会福祉事業団、農林公社、土地開発公社、住宅供給公社、公園緑地協会などである。

このような法人を「すぐれた経営体にする」という方針で県が改革を進めている。法人の自主性・自立性を高めていくため、派遣職員の削減、県からの財政支出の削減を図ろうというものだ。

その結果、14年度の県派遣役職員数は03年度に比べ、人数で149人、率で56%の大幅な削減を実現した。天下りも原則廃止したと知事のコラムに書いてある。

14年度予算で出資法人への委託料や補助金の総額は、03年度の439億円から100億円減らした339億円で、削減率は約23%となっている。

こうした経営改善の結果、「さいたまアリーナ」は06年度から黒字経営に転換、12年度には県に約6億3300万円を納付するまでになっている。

「さいたまアリーナ」は、施設は埼玉県が所有し、第3セクターの株式会社さいたまアリーナが指定管理者として、管理運営している。新都心で最も親しまれている施設で、スポーツ、コンサート、講演会、見本市会場、さらにはツールドフランスに至るまで、最大3万7千席を使用できる国内最大級の多目的ホールだ。

浦和競馬も年間23億円の累積赤字を解消し、3億円を県とさいたま市に納付できるようになったという。

ところがである。人件費の削減がこのような形で進んでいる最中、県庁の税務課の主査が11年に、年間2017時間残業し、約740万円の時間外手当を受け取っていたことが明らかになった。

「県庁に住み込んでいるのか」という批判の声も上がった。それも一人ではない。職員一人当たり平均残業時間は135.6時間というから異常な数字だとすぐ分かる。

また、総務省の13年4月時点の公務員の給与状況によると、国家公務員の給与を100とした場合の地方公務員の水準を示す「ラスパイレス指数」は、埼玉県は109.4、都道府県別では全国5位だった。14年4月時点では、101.6で7位に下がった。


本多静六 嵐山渓谷 嵐山町

2010年07月07日 17時25分25秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
本多静六 嵐山渓谷 嵐山町

春の桜、秋の紅葉の季節になると一種の強迫観念にかられる。「今年はどこを見に行こうか」。今年の紅葉は嵐山渓谷と前から行先を決めていたので、気楽にその時期だけを待っていた。

「ちょっと遅れている」とのことだったので、10年11月24日「もう大丈夫だろう」と満を持してパソコンで確かめると、「見頃」とある。前夜来の雨も朝方にはあがって、天気も良くなりそう。

日が照っているかどうかで、紅葉の美しさは大きく左右される。喜んで東武東上線の「武蔵嵐山」駅に降り立った。駅から徒歩で40分とあるから、ハイキングにはもってこいだ。

杉林を歩いて見晴台に着くと、「嵐山町名発祥の地」の記念碑があった。

その裏には、「武蔵嵐山」の名称は、「日比谷公園」を設計した本多静六林学博士が昭和3(1928)年、この地を訪れ、紅葉の秋が京都の嵐山そのままだったので、思わず「これは武蔵嵐山」といったのが、そのまま地名となった。

昭和42(1967)年、町制施行の際、公募したら町名も「嵐山町」と決定した。

――と書いてある。

京都の嵐山は、四、五回訪ね、橋の上から眺めたことがある。埼玉県出身の本多博士は、私が敬愛する人の一人なので、埼玉の嵐山を一度訪ねてみたいとかねがね思っていた。

武蔵嵐山の秋は、蛇行する槻川(つきがわ)の渓谷とその斜面、大平山のふもとに点在するいろはもみじの紅葉がすばらしい景観をつくり出す。(写真) 槻川の青い淀みと澄んだ川の流れがいい。 

桜もそうだが、紅葉の美しさも水とのコラボレーションで引き立つ。桜の東京の皇居のお堀端や弘前公園の堀の水は淀んでいる。岩に当たり、白く輝く川の流れにはとてもかなわない。

「見頃」とは難しい。本当の見頃、盛りに訪ねると、「花酔い」としか言いようのない至福に包まれる。西行法師が桜に魅せられたのは、そんな光景に出くわしたからだろう。

そんな貴重な経験をしたのは、一度だけだ。長野県の高遠にコヒガンザクラを見に行った時。大混雑で城址公園から遠くで観光バスから下ろされ、歩いて行った。今でも妻と「あれほどの桜を見たことはなかったね」と言い合っている。

ソメイヨシノは勤務地に近い上野公園を何度も見に行って、見頃に会えたこともある。

そういう意味から言えば、武蔵嵐山の見頃は数日前だったかもしれない。紅葉とは、シャンソンではないが、しょせん「枯葉」である。日が当たる所は、早く紅葉し、日陰では遅れる。

奥まで行くと、狭いながら美しいすすき原があり、与謝野晶子の歌碑もある。この人は、よほど旅の好きだった人だったようで、秘境好きの私が温泉などを訪ねるたびに“ご当地ソング”というべき石碑が立っている。

晩年は肥満体なのに駕籠に乗って訪ねた姿が、群馬県の秘境が売りの法師温泉の壁に貼られているのを見たことがある。

この歌碑は、「槻の川 赤柄の傘を さす松の 立ち並びたる 山の しののめ」とあった。私の好きな歌人の一人だが、残念ながら紅葉の時期の歌ではない。

本多博士は「関東平野にまれにみる景勝地」と折り紙をつけている。「さいたま緑のトラスト基金」が、「埼玉を代表とするすばらしい景観」だと、保全第3号地として取得した所でもある。

絶好の「見頃」に一度訪ねたい。

「埼玉」 県名の由来

2010年07月06日 15時58分35秒 | 県全般

「埼玉」 県名の由来

「埼玉」という名はどこから来たのだろうか。いつも気になっていることだった。行田市の「埼玉古墳群」のある「県立さきたま古墳公園」(さきたま風土記の丘)を歩いているうちに、「埼玉県名の由来」という石碑に出会った。

1987(昭和62)年4月に埼玉県が建てたこの石碑によると、現在の埼玉県の区域が定まったのは、1876(明治9)年8月。県の管轄区域の中で最も広いのが、埼玉郡だったから、「埼玉」が県の名称とされたのだという。

埼玉郡は、大宝の律令によって国郡制度が定められた当初から設置された郡とみられ、当初は「前玉(さきたま)郡」の表示もあった。

正倉院文書に「武蔵国前玉郡」の表記があり、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とあるという。延喜式神名帳とは、927年にまとめられた当時の「官社」のリストである。

この「前玉神社」の一つは、確かにこの古墳群の中にある。

古墳群の南東部にある直径約50m、高さ8.7mの円墳「浅間古墳塚」の墳頂にある「前玉神社」だ。全国で唯一、古墳の上に建てられた神社だという。中腹には浅間神社が祀られ、この古墳の名になっている。

前玉神社の祭神は前玉彦命(さきたまひこのみこと)と前玉比売命(さきたまひめのみこと)の2柱で、人と人の縁を結ぶご利益があるとか。

古墳群の所在地は、今でも大字は「行田市埼玉(さきたま)」である。石碑は「この地は、埼玉郡の中心地と考えられるので、県名発祥の記念とする」と結ばれている。

万葉集には「さきたまの津」と記述され、風土記にも「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」と書かれている。「さきたま」が「さいたま」となったというのである。

他にも、武歳国多摩郡の先の方にあるから「さきたま(前多摩・先多摩)」、「さき(前)」「たま(湿地の意味)」が転じた、「さきたま(幸魂)」が転じた――などの説もある。いずれも魅力はあるものの、確証はなさそうだ。まあ、この石碑に書いてあることぐらいが穏当なところだろうか。


本多静六 勤倹貯蓄

2010年07月05日 14時54分30秒 | 偉人② 塙保己一 荻野吟子 本多静六・・・ 
本多静六 勤倹貯蓄

静六は「東大教授」にして「百万長者」だった。造林学や造園学の権威というよりも日本史上最大の「蓄財の神様」として崇める人も多い。「私の財産告白」「私の生活流儀」「人生計画の立て方」(いずれも実業の日本社)の三部作などがあり、その蓄財法や処世術を分かりやすく後世に伝えている。

静六は25歳の時に
①25-40歳 主に蓄財 
②40-60歳 学を究める 
③60-70歳 社会へのお礼奉公 
④70歳以上 温泉に隠居、晴耕雨読
という人生計画をたてた。

その計画どおり、40歳で利息の方が、官庁の事務次官クラスだった東大教授の給料をしのいだ。60歳(1972=昭和2年)で教授を退官したのを機に、蓄えてきたほぼすべての資産を匿名で教育、公共の関係機関に寄付、85歳(1952=昭和27年)で狭心症のため静岡県伊東市で死んだ。

そのモットーは「勤倹貯蓄」だった。超低金利の今ではすっかり死後になった言葉だ。「4分の1天引き貯金」といって、通常収入の4分の1と臨時収入のすべてを貯蓄し、倹約して生活、投資に回す方法である。

もうひとつは、「一日一頁原稿執筆」。子供が生まれると、毎日1頁原稿を書くことを自分に課し、印税を養育費や後には埼玉県内の森林購入に充て、その著作は生涯で370冊に上った。

貯蓄だけでなく投資では、基本的には「先物買い」(成長を見込んでの長期投資)。「2割利食い、10割益半分手放し」(買値の2割の利益が出れば、売って利食いして定期預金に、2倍の利益=10割益が出れば半分を売って損をしないようにする)を原則とした。

オハコの山林にも投資、「財産3分投資法」(株式、預貯金、不動産に3分割投資)をとった。

処世のモットーは「人生即(すなわち)努力 努力即幸福」。「人生の最大幸福は職業の道楽化」だとして、公園の設計(造園)は造林学の余暇とみなしていたようだ。

1930(昭和5)年、現在は秩父市の旧大滝村の中津川地域の森林約2700haを県に寄贈して設けられた奨学金は、1954(昭和29)年から貸与を開始、12年でも年間約30人が利用しているという。

埼玉県の嵐山町(らんざんまち)は、1928(昭和3)年、嵐山渓谷を訪れた際、京都の嵐山(あらしやま)に似ていると、静六が「武蔵嵐山(むさしらんざん)」と命名したことに由来している。武蔵嵐山の名は東武東上線の駅名として残っている。

人生を改良するのはアイデアだと、寝床まで手帳を持ち込み、生涯、メモをとり続けた。

静六は埼玉県にも大きな足跡を残した。巨樹、いや巨人としか呼びようがない。