ださいたま 埼玉 彩の国  エッセイ 

埼玉県について新聞、本、雑誌、インターネット、TVで得た情報に基づきできるだけ現場を歩いて書くエッセー風百科事典

越谷アリタキ植物園 越谷市

2010年12月31日 17時48分50秒 | 博物館



海外の赴任地が、三か所ともいずれも英国の元植民地で、必ず植物園があった。それが植物に親しむきっかけで、「さすが英国は世界のプラント・ハンターの発祥地だけある」と感心したものだ。

越谷市に植物園があると知ったのは、海外から帰って間もない頃で、「埼玉県にも植物園があるのか」と驚いた。

当時、「アリタキ・アーボレータム」と呼ばれていたこの園は、越谷高校の元教諭で植物学者だった有瀧龍雄氏が収集したもので、その名を冠している。「アーボレータム」とは植物園のこと。

01年に没後、02年に市に寄贈され、10年10月1日、「越谷アリタキ植物園」の名で開園した。新聞で知り、さっそく出かけてみると、きれいに整備されて、こじんまりした緑の空間が生まれていた。面積約7200平方m。

動物園や水族館を好きな人は多くても、植物園が好きという人は少ない。この園は、世界の珍しい植物を集めているのではなく、暖温帯性の樹木、つまり日本ではおなじみの木を中心に収集いているので、親しみのあるものが多い。

ていねいに木ごとにその名前が付いているのがうれしい。里山を一緒に歩いていても、杉と檜の区別さえつかない人が少なからずいる。それにサワラを加えると、「降参」というのが実情だからだ。

日本は俳句愛好者だらけ。最低百万から最高1千万人の間とも言われているのに、この3つの区別がつかないようでは観察に基づくはずの「写実」が泣く。

朝日新聞の埼玉版によると、ここには地元の「埼玉県東武自然観察会」の調査で、約300種、約1200本の樹木と約130種の草本類(草)があるという。

幹の周囲が約4.2mと大きい中国原産の巨樹シナサワグルミは二股で、入り口に大きくそびえているし(写真)、呼吸根を地上に出すのが特徴の北米原産のラクウショウもある。通路の中央部にはツバキ通りがあり、多くの種類が植わっている。季節には楽しみだ。


素晴らしいのはその所在地である。フジで有名な久伊豆神社の参道に面する。有瀧さんの父親が1898年(明治31年)に庭園として整備したものだとか。東武伊勢崎線越谷駅から約1.7kmで徒歩約20分。

一帯は市の「環境保全区域」に指定されていて、近くの元荒川沿いを散歩するのも楽しい。

「あんたがたどこさ」 川越市

2010年12月31日 11時53分14秒 | 文化・美術・文学・音楽
「あんたがたどこさ」 川越市

住んでいる所から近い、さいたま市の六辻公民館で毎年、「すこやかクリスマスコンサート」が開かれる。10年末も出かけた。もう9回目になるという。

この席上で、このコンサートのリーダーから「あんたがたとこさ」で始まる、あの懐かしい手まり歌が川越市生まれだという話を初めて聞いた。初めてというのは、私ぐらいなもので、知る人ぞ知ることらしい。いかに埼玉のことに無知なのか、われながら感心する。

そう言えば、先に「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ」という童謡も川越市生まれだと聞いて、どんな所かなと見に行ったこともある。

「あんたがたどこさ」の歌は、「肥後さ」「肥後どこさ」「熊本さ」「熊本どこさ」「センバさ」「仙波山には狸がおってさ・・・」と展開していく。

センバのところが、熊本版では「船場」、川越版では「仙波」になっている。

熊本には「船場川」はあっても、「船場山」「仙波山}はないという。歴史をみると、川越版に分がありそうなのだ。

戊辰戦争当時、上野の寛永寺で抵抗した彰義隊の残党を追って、官軍が川越城の近くの仙波山に駐屯していた。

平地の埼玉県だから、川越にも山らしい山はないものの、喜多院の隣の現在の仙波東照宮あたりは仙波山と呼ばれた。おまけに東照宮の主、徳川家康は「狸親父」があだ名だったので、歌詞にもぴったりだ。

仙波東照宮は、家康を祀る日本三大東照宮の一つである。

歌詞が熊本弁ではなく、関東弁だというのもこの問答歌の川越説の根拠になっている。

官軍の兵士に川越の子供たちが出身を聞いている様子を思い浮かべると分かりやすい。

一方、「通りゃんせ」の方は、川越城本丸御殿近くの「三芳野神社」 (写真)が舞台のようだ。境内の一角にある石碑には「わらべ唄発祥の所」とある。

三芳野神社は川越城の鎮守で、城内にあったため、一般には開放されていなかった。
天神さまを祭るこの神社に、城内に入って参詣できるのは、年一度の大祭と七五三の祝いの時だけだった。だから、「この子の七つの お祝いに お札を納めに 参ります」なのだ。

「通りゃんせ」とか「細道じゃ」という歌詞は、関東弁ではなく、関西や西日本方面のものではないかという指摘もあり、「うちこそ発祥地」の声はほかにも聞かれる。

「行きはよいよい 帰りはこわい」と庶民がおずおずと城内から出て行く姿も、実感があり、歌詞の内容が歴史的な事実とぴったりなのが、三芳野神社ではないだろうか。

幻のいも「紅赤」 さいたま市

2010年12月29日 17時10分30秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・



“サツマイモの女王”と呼ばれた「紅赤」というサツマイモ (写真)を食べたことがありますか。

サツマイモと言えば川越が有名。ところが、この紅赤は、旧浦和市(現・さいたま市)で見つかった突然変異種。見た目がきれいで、美味なので、明治中期から昭和の初め頃まで東日本を制覇した。約JR北浦和駅に近い17号線に面する廓信寺の入り口に、「紅赤発祥の地」の立て札と看板(写真)が立っている。その前に北浦和図書館があることから、この図書館では紅赤を始めとするサツマイモの本や資料を集めている。地域図書館の一つの生き方だろう。

その北浦和図書館で10年12月、「第2回・紅赤ふれあいまつり」との名で、「紅赤復活! ~さいたまは紅赤のふるさと」という映画と講演、「埼玉のサツマイモ『紅赤』と山田いち」展が開かれるというので、さっそく出かけた。

開会に先立ち、図書館の二階で、サツマイモの権威である井上浩先生とお会いした。川越サツマイモ資料館の館長時代からの知り合いで、サツマイモの生き字引。「川越いも友の会」のメンバーで、サツマイモに関する著作も多い。映画でももちろん、登場された。この人を抜いてサツマイモのことは語れない。

この紅赤を発見したのが山田いちさん。サツマイモづくりの名人で、この人の努力がなければ紅赤が世に出ることはなかった。詳しいことは、「紅赤ものがたり」(青木雅子著 ケヤキ社)を読んでほしい。感動的な話である。

サツマイモの歴史をひもとくと、最も有名な青木昆陽を筆頭に、出てくるのは男性ばかり。なぜ女性のいちさんが登場するのか。早く畳職の父を失ったいちさんは長女だったから婿をとった。婿も廓信寺の畳替えなどを請け負うほどの腕利きの畳職人だった。いちさんは、自分の畑でサツマイモづくりが好きだった。

いちさんは、おいしいと評判の「八つ房」という名の種イモを近所の名人から拝み倒して手に入れ、植えてみた。3年目の1898(明治31)年に皮は赤く、身は黄色で、ホッコリとして甘く、熱の通りが早く、舌にとろけるようにうまいのが、見つかった。突然変異のたまもの。高値を呼んで紅赤が誕生した。

紅赤の普及に貢献したのはおいの吉岡三喜蔵だ。さつまいも栽培にかけてはいちさんに負けないほど詳しかった。この新しい芋に会い、種苗農家の家系を活かした。「あかイモ」と呼ばれていたのを、口紅の紅にあやかって「紅赤」と命名、種苗を売りに売った。

皮の色が鮮やかな紅で、身は黄金色。ホクホクとした食感と上品な甘さが特徴。油と相性がよく、大学いもや天ぷらにして食べられた。「きんとんが最高」という人もいる。


見た目がすばらしく、美味しいので、注文が殺到、大正から昭和の初めにかけて埼玉のサツマイモの9割、全国の生産高の約7割は紅赤だった。西日本の白いサツマイモ「源氏」をしのいだ。「紅赤」の埼玉の主産地は、江戸時代からのサツマイモの産地、川越だった。

いちさんは、1931(昭和6)年、紅赤の発見で毎日新聞が主唱する富民協会の第一回「富民賞」の5人の受賞者の一人に選ばれた。女性はいちさん一人。この時68歳、紅赤の発見から33年経っていた。

「女王」は気難しい。栽培が難しいのだ。土質を選び、肥料の加減が大変。蔓が伸びるのが遅いので生育が遅く、収穫量も少なく貯蔵も難しい。「幻のサツマイモ」になっていった。18年の栽培面積は三芳町が約4ha、川越、さいたま市で約0.5haずつ、生産量見込みは計約100tと少ない。

最近では、作りやすくて、収穫量も多く、味もいい「紅あずま」などに取って変わられ、県内で栽培農家は非常に少なくなった。しかしその味の良さ。天ぷらやきんとん、和菓子には欠かせないと紅赤にこだわる人もいる。

18年は、紅赤が浦和で発見されてから120年経ったのを記念して、川越のサツマイモ商品振興会、川越いも友の会、川越いも研究会、三芳町いも振興会の4団体は、120年にちなんで12月1日を「紅赤いもの日」と定めることを決めた。

記念日を制定した8月30日には、現在の川越市にはサツマイモ関連のいも菓子やいも料理など約260種の商品があることなどを理由に、「川越地方のサツマイモ商品文化は世界一」という宣言も出した。

 

 


浦和のうなぎまつり

2010年12月28日 21時57分17秒 | 食べ物・飲み物 狭山茶 イチローズモルト 忠七めし・・・
浦和のうなぎまつり

浦和のうなぎはてっきり、浦和の「う」とうなぎの「う」が頭韻を踏んだごろ合わせに過ぎないと思っていた。

しかし、暇になって地元のイベントなどに顔を出しているうち、「浦和のウナギを育てる会」の幟をよく見かける。もらったチラシなどを読んでみると、けっこう歴史も由緒もあることがだんだん分かってきた。

10年5月29日の土曜日、「さいたま市浦和うなぎまつり」が市役所前広場や駐車場で開かれるというので、出かけてみた。今年で9回目。本命の蒲焼きや弁当には大行列。蒲焼きの香りを鼻にしながら寿司商組合がつくったうなぎ寿司で我慢することにした。

寿司ならまだいい方で、うなぎヤキソバ、うなぎオニギリもあり、遠路参加した三島うなぎ横町町内会(静岡県三島市)はうなぎまんじゅう、浜名商工会(同県浜松市)はうなぎネギマ、うなぎのまち岡谷の会(長野県岡谷市)はうなだれだんごを出品していた。

うなぎ関係に限らず、浦和工場産の文明堂のカステラや舟和の芋ようかん、それに手焼きせんべいやこんにゃく、鴨川市物産交流協会はさざえの壺焼きを売っているという具合で、3万5千人のにぎわいだった。

もらったチラシの「浦和のうなぎの履歴書」によると、始まったのは1700年頃で約300年の歴史がある。

はるか昔、浦和付近は海。地勢変化で沼や湿地帯が残ったので、たくさんとれるうなぎを中山道を通る旅人に提供し、好評を得た。「蒲焼き発祥の地」と赤字で強調しているものの、確たる証拠はないようだ。現在、約30店ものうなぎ料理専門店が営業しているという。

このため、さいたま市浦和区では、“うなぎのまち浦和”を推進しようとしている。

「育てる会」のマスコットは、アンパンマンの漫画でおなじみだった故やなせたかしさん(日本漫画家協会理事長も務めた)がデザインした「浦和うなこちゃん」。

JR浦和駅の西口に小さなおにぎり頭の石像がうちわを手にして立っている。女性や子供たちに大の人気、記念撮影する人も多い。さいたま市の観光大使でもある。もちろんこの日も登場した。

やなせさんは「うなぎ小唄」と「ウナギヌラヌラソング」を作詞、作曲、歌まで吹き込む打ち込みようだった。「やなせたかしとアンパンマンコンサート」が特設舞台のフィナーレだった。

皇女和宮降嫁の大行列 桶川市

2010年12月18日 18時43分57秒 | 近世



新聞で「皇女和宮降嫁150年記念前夜―切り絵とゆかりの品々でたどる旅」と題する展示が、桶川市の歴史民族史料館で開かれているのを知った。10年のことである。

出かけてみると、こんな大事(おおごと)だったのかと驚き、これまでの不明を恥じた。

桶川宿の当時の人口1444人、家数347軒、本陣1,脇本陣1,旅籠36の桶川宿に、朝廷と幕府の威信を賭けた総勢4万人とも伝えられる大行列が通過して一泊した。県内では本庄、熊谷宿に次ぐ宿で、桶川から戸田の渡しを越えて江戸・板橋宿を目指した。

日本橋から6番目の宿場で、当時の成年男子が一日に歩く平均的な距離10里(約40km)という立地の良さが、桶川宿がにぎわった理由だった。

仁孝天皇の第八皇女で孝明天皇の妹である和宮は、公武合体のかけ声の下、第14代将軍家茂に嫁ぐため京都から江戸に下った。1846年生まれだから下向の1861年から引くと、数えで16歳、満で15歳。今で言えば中学三年生の歳である。

江戸下向の際

 惜しまじな君と民とのためならば身は武蔵野の露と消ゆとも

と詠んだと言うのは有名な話だ。

一行の総数は、「京都方約1万、江戸方約1万5千、通し人足約4千、警護の各藩1万・・・」という記録が残っている。嫁入り道具は東海道経由の別便で一足先に送られていた。

まさに長蛇の列で、一つの宿を通りすぎるのに4日かかったという。50kmにもなり、先頭が桶川に着いたときには最後尾はまだ熊谷だったという記述も、最初は「誇張だろう」と思っていたのに、信じられるようになった。

この大行列は、中山道69次、いや江戸時代の5街道始まって以来の出来事だったと言われるゆえんである。

なぜ中山道が選ばれたのか。中山道は大きな川がなく川止めの心配がないため、「姫街道」と呼ばれたとおり、それまでも京都の姫君の幕府へのお輿(こし)入れには、利用されていた。

今度は初めての皇女なので、長い行列が旅人や外国人が多い東海道より往来の妨げにならないことに加えて、警備がしやすいのも大きな理由だった。尊皇攘夷派の和宮奪還などもうわさされたからだ。

ほかに、東海道には「薩埵(さった)峠」(静岡市)や、浜名湖の「今切(いまぎれ)の渡し」など、「さった=去った」「切れる」と、婚姻には縁起の悪い地名があったのも理由の一つとされる。

染めた撚糸(より糸)で飾った和宮を乗せた輿(こし)の前後に、警護の藩士を含めて総勢ざっと4万人。これが1861(文久元)年10月20日、京都を出発、約530kmの道のりを24泊25日の日程で、11月15日に江戸に入った。

桶川宿に泊まったのは11月13日。本陣到着は午後2時、出発は翌午前nえむ時。早暁の出で立ちである。こんなに早く起こされる和宮もさぞ眠たかったろう。これに先立ち、県内の中山道宿で最も大きかった本庄宿は11日、熊谷宿は12日の宿泊だった。和宮ももうクタクタだったに違いない。

ひたひたと津波のように近づいてくるこの大行列を前に、桶川宿は戦争のような騒ぎだった。次の板橋宿までの宿は小休止だけで、直行することになっていたからだ。桶川で全部の人馬の乗り換え、荷物の継ぎ送りをしなければならなかった。

このため板橋までの間の上尾、大宮、浦和、蕨宿の人足はすべて桶川に集められた。人足3万6450人、馬1799頭に上った。桶川宿では人馬を提供する義務のある助郷(すけごう)59村に112村が加えられ、飯能、所沢からも人足が徴発された。

人足とは馬や牛でさえ「頭」と数えられるのに、「人足」は、人間を「頭」ではなく、足を二本で一本と数える方法。人口の「口」や人手の「手」と並んで人を数える漢字の面白さである。

人馬だけではない。和宮の泊まる本陣はもちろん改装。普通の参勤交代では最大でも3千人ぐらいなので、その十倍を超す一行の夜具布団、膳や椀は他の宿場からその人数に見合うよう借用料を払って調達した。

宿泊当日には、旅籠はもちろん、商家、農家などすべての家が宿所として徴発された。

通行の前後の三日間は公用以外の通行禁止、通りに面する二階の窓は目張りして、上から見下ろしてはならない、道端で正座して迎える、寺などの鐘を鳴らすのも禁止――など細かいお触れが出た。

関係の村々や沿道の人々にとって、江戸時代を通じて最大の出来事で、その負担や苦労も最大だった。

桶川には本陣遺構(写真)がある。県内の中山道筋で残っている本物の本陣はここだけ。建坪207坪のうち、和宮が泊まった上段の間、次の間、湯殿、御用所(トイレ)が保存されている。(非公開)

上段の間では、壁に吊り具をつけ、ハンモックのように寝具を吊るして、下から槍などで襲撃されないようにしていたというから大変だ。

近くに観光協会の「中山道宿場館」がある。当時の宿場をしのぶ資料がいろいろ展示されていて、その全貌が分かる。興味があるなら訪ねるといい。館員も親切で面白い。

この歴史的大イベントを記念して桶川市では、文化の日の桶川市民まつりで中山道で「皇女和宮行列」のパレードを再現する。和宮は16歳から18歳の女性を市民から公募する。


画鬼・河鍋暁斎 その真価

2010年12月16日 09時53分47秒 | 文化・美術・文学・音楽


私がびっくりしたのは、この「釈迦如来図」を、日経新聞紙上で見た時だった。日経が、毎日曜日連載している2ページ通しの「美の美」欄で、10年7月に「画鬼、河鍋暁斎」と題して、上、中、下三回の特集を組んだのである。

釈迦が苦行中、やせ細り、あばら骨があらわな像には、仏教書などで何度かお目にかかった。だが、その手足の爪が、この図のように猛禽類か、猛獣のように伸びているは初めてだ。

「これはただ者ではない」と実感した。

その顔も西洋人風で、衣装や背景を変えれば、キリストの修行中と言っても通用するだろう。考えて見れば、釈迦は、インド原住民ではなく、西洋と同じインド・アーリア民族出身だから、当然と言えば、当然のことだが。

楠美さんが講演用に準備した資料を読むと、この絵は、前回に書いた肖像画の速描き競争に関係がある。

フランス・リヨンの富豪で、宗教の研究家でもあったエミール・ギメは来日中の明治9年(1876)、暁斎の絵と名を知り、お抱えの画家を連れて、暁斎宅を訪れた。その時に速描き競争があったのだという。

ギメとすっかり仲良くなってお土産に届けたのがこの図。ギメはその時の様子などを「日本散策―東京・日光」というタイトルで、帰国後1880年に出版。暁斎は生存中に海外でその名を知られる存在となった。

「修行していれば、爪が伸びるのは当たり前だろう」というのは、暁斎のユーモアに富む落語的な発想。釈迦の顔を西洋人風にしたのは、相手が西洋人だからという彼のサービス精神の表れだろう。

この絵は今、パリのフランス国立ギメ東洋美術館が所蔵。10年に金沢21世紀美術館に里帰りした。

「美の美」によると、これを再発見したのは、埼玉大学で教えていた山口静一・名誉教授と及川茂・日本女子大教授の二人。1987年と翌年、オランダのライデン国立民族博物館、大英博物館、米国のメトロポリタン美術館などを巡り、1千5百点もの暁斎を確認したという。

暁斎と交友のあった外国人は、お雇い外国人のフェノロサ(米)、キヨソーネ(伊)といった美術関係者のほか、医師のベルツ(独)など30人近い。

当時の日本人では、山岡鉄舟と親しく、勝海舟や栗本鋤雲、成島柳北、さらに徳富蘆花らとの付き合いもあったという。

楠美さんは、これほど外国で認められているのに、日本での評価が低い理由について①どの流派にも属さず、余りにも多才で何でもこなす画域の広さ②持ち前のユーモアや自分のことより客のことを考えるサービス精神の過剰が不真面目と受け取られた③小心者で酒の上で行き過ぎがあり、一貫した思想を持ちあわせなかった・・・などを挙げた。

描くことが根っから好きで、「過ぎたるは及ばざるが如し」の感があるという。

その真価は、内外の美術館で開かれた展覧会のキャッチフレーズを見れば分かる。「幕末明治の天才絵師」「鬼才」のほか、大英博物館のジャパニーズ・ギャラリー(1993年)では、「Demon of painting」とずばり「画鬼」。京都国立博物館(08年)では「絵画の冒険者」、東京ステーションギャラリー(04年)では「なんでもこいッ展だィ!」、東京都板橋区立美術館(85年)では「矯激な個性の噴出」だった。

「酔うて候」「酔郷に遊ぶ」を売り物にした書画会の展覧会もあった。

記念館は、今回、資料の表紙から借用したこの「文読む美人図」(明治21年頃)を初め、ざっと3千2百点を所蔵。住居を改造しているので、手狭で、一度に展示できるのは40~50点。2か月毎にテーマを変える方式で展示している。

訪ねる際は、「河鍋暁斎記念美術館」のホームページがあるので、場所や展示品を確かめるのに便利。木曜日定休。

画鬼・河鍋暁斎 「狂斎」

2010年12月15日 11時15分50秒 | 文化・美術・文学・音楽


なぜ、暁斎は普通の読み方であるはずの「ぎょうさい」ではなく、「きょうさい」と読むのか。

「狂斎」と書いていた字を「暁斎」に改めたからである。漢和辞書を引いてみると、暁には「きょう」という読み方もある。

それには1870(明治3)年10月に起きた一つの事件が関係している。

その頃、江戸時代から続いている「書画会」という催しがあった。著名な絵描きや書の達人が大きな料亭に集まり、入場料を払って入ると、好きな人に好みの絵や書を目の前で書いてもらえるという即売会である。「席画」とも呼ばれた。

最近でも街頭で似顔絵描きを時に見かける。これを大掛かりにしたものと考えればいい。筆の速さでは定評のある暁斎は書画会の人気者で、一日に150枚から200枚も描いたという。

西部劇は学生時代、何でも見た。そのヒーローは速撃ちのガンマンだ。暁斎は訪ねてきたフランス人画家とお互いの肖像画を描き合い、速撃ちならぬ速描きを競ったことがある。残された作品を見ると、フランス人のは暁斎の顔だけなのに、暁斎のは服を着た全身像である。どちらが速かったかは自明だろう。出来栄えもはるかに優れている。

狂斎はいつも「絵師は何でも描けなければならない」と言っていたとおり、浮世絵、美人画、錦絵、仏画、さらに戯画、狂画、風刺画、本の挿絵まで、どんな注文にも即座に応ずることができた。

余りにも多才で作品数が多いので、生涯何点描いたかは不明。「その百分の一も見つかっていなのでは」と楠美さん。3,4歳の頃見た曽祖父の描く速さを覚えているという。

速描きだけではなく、それぞれの完成度も高い。書画会では、客からすすめられる酒を2,3本空け、次の日に何を描いたか覚えていないこともあったとか。こんな暁斎を「まるでバッカス(ギリシャ神話の酒の神)がとりついているようだ」と、弟子のコンドルは評したほどだ。

コンドルとは、お雇い外国人の英国人建築家ジョサイア・コンドルのことで、東京のニコライ堂、美術館として復元された丸の内の三菱一号館、鹿鳴館などを設計した。コンドルは暁斎の下に入門して熱心に修行して腕を上げ、「暁英」の雅号をもらったほど。

暁斎は、「酒乱斎」「酒中画鬼」「雷酔」という画号もあったというから、まさにバッカスだったわけだ。

事件は、上野不忍池の畔にあった料亭であった書画会で起きた。その席で狂斎は泥酔して、政府高官を小馬鹿にした戯画(一説には春画とも)を描いたとして捕まり、牢獄に入れられ、「笞(むち)50の刑」を受けて、釈放された。

これを機に、「暁斎」と改名したのである。暁には「さとる」という意味があるからだという。笞打ちの刑は、オーストラリアの歴史でよく知っているので、「日本にもあったのか」と感心した。

しかし、その後、狂画や風刺画を止めたかというと、そうではないのが、いかにも暁斎らしい。

幼名を周三郎。3歳でカエルを写生したほど、幼い頃から絵が好きで、7歳で浮世絵師で名高い歌川国芳に入門。10歳で駿河台狩野派の前村洞和に鞍替えした。

周三郎は、熱心なので、「餓鬼」ならぬ、狂ったように絵を描く「画鬼」と呼ばれて可愛がられた。洞和が病気になったので、駿河台狩野派の当主洞白のもとで19歳まで修行した。

安政2年(1855)の大地震の翌日、戯作(げさく)者として有名な仮名垣魯文と組んで、地震にちなんで鯰絵「老いなまづ」を出版、人気を博した。その後、「猩々(しょうじょう)狂斎」の画号で、戯画、狂画、風刺画で人気者になった。

少年時代の「画鬼」の愛称から影響を受けたのか、独立後の「狂斎」という画号にも、絵師ながら、江戸時代の物書きに多い戯作者のポーズが感じられる。魯文に感化されたのだろうか。赤ら顔の「猩々」は、飲ん兵衛の自分を卑下しているようだ。(写真は資料から借用した「文読む美人図」)

画鬼・河鍋暁斎 蕨市

2010年12月13日 20時24分43秒 | 文化・美術・文学・音楽


「画家」という名前がつく前に、「絵師(絵の職人)」と呼ばれていた江戸時代の「絵かき」には、今の日本では想像もできないほど、桁違いにスケールが大きい巨人がいる。巨人というより「怪人」いや、人間を超えた「怪物」と呼んだほうがいい。

「画狂人」と名乗った葛飾北斎はもちろんその一人。その北斎に習って「狂斎」を画号とした「河鍋暁斎」。日本では知名度はまだ低いものの、欧米では浮世絵の葛飾北斎、安藤広重に次ぐ評価を得ている。

1831(天保2)年、茨城県古河市に武士の二男に生まれた暁斎は、明治中期の1889(明治22)年に東京・根岸で59歳で死んだ。

本人は、埼玉県や蕨市には全く縁はなかった。孫娘の代から第二次大戦中の強制疎開で赤羽へ、さらに1944(昭和19)年蕨市に移転した。

暁斎の遺作のコレクターであり研究家でもある、暁斎のひ孫に当たる蕨眼科医院長の河鍋楠美さん(医学博士)が1986(昭和61)年、蕨市南町4丁目に「河鍋暁斎記念美術館」 (写真)を立ち上げた。日本一小さな市の貴重な文化施設だ。

私が暁斎を知ったのはいつごろだろう。岩波文庫の「河鍋暁斎戯画集」が埃をかぶったまま本棚に積んであるので、第一冊が出た1988年ごろのことだ。 

急に身近になったのは、10年の文化の日、蕨宿商店街が開いた宿場まつりを見に行ったら、店に暁斎の作品が飾ってあった。昔を思い出して、人に尋ね尋ねて記念美術館まで自転車の脚を伸ばしたからだ。

自分では線も円も描けないのに、人の絵を見ることだけは大好き。これまでいくつの展覧会を見に行ったことだろう。現役時代、文学探訪ということで、現役時代ゴーギャンを訪ねてタヒチまで行ったこともある(終焉の地には行けなかったのが残念)。

その河鍋楠美さんが12月12日(日)に「蕨市立文化ホール くるる」で「河鍋暁斎 その人と美」と題する講演をされるという。一か月前からカレンダーに書きこみ、楽しみに待っていて、さいたま市から隣市に出かけた。

「くるる」は駅前で、誰でも分かる。市長も出席していて、挨拶した。なかなか暁斎のこともご存知のようで、その後も静聴していたのに感心した。

こんな面白い話を聞いたのは初めてだった。江戸っ子の楠見さんの歯切れのいい解説もさることながら、暁斎のすごさにほとほと感じ入った。

ウグイス色の和服が似合いの楠見さんは、結構のお年のよう、それでもパソコンのパワーポイントを駆使した見事なプレゼンテーション。私は、本業の後、10年近くPR稼業をやっていたので、うまさがよく分かる。講演の始まりは、「暁斎」を「ぎょうさい」ではなく、「きょうさい」と読んで下さい、だった。

暁斎の本質を一言で突いた言葉だ。私も前に、このブログで「蕨市 日本一のまち」を書いた時。あわてて「きょうさい」と書き直したことを思い出した。

楠美さんの話は、実に説得力があった。話を基に、私流に解釈すれば、暁斎の素晴らしさは、浮世絵、狩野派の基礎の上に、「速く何でも描ける」独自の画風と、酒好き。それにサービスとユーモア精神の過剰だろう。それがオーソドックスな画壇や評論家に排斥され、日本ではあまり知られていない。

私も酒好きなので、酒を飯代わりに飲んでいた横山大観に惚れ込んで、茨城県の五浦海岸まで日本美術院の研究所の跡を訪ねたこともある。暁斎と大観。「一緒に飲めば、どっちが強かったのか」と思うだけで楽しい。

NHKの「坂の上の雲」を見ていると秋山好古は毎晩、欠け茶碗一つで5合酒を飲んでいたという。当時はアルコール度が低かったのだろうか。「ほんとかな」と気になっている。飲ん兵衛の私もその量に圧倒されるばかりだ。