最近の低温傾向で長く続いていた桜の花が、ようやく散り始めた。
サクラが終わると、いよいよ若葉の季節。
畑から見上げる尾白山も芽吹きがぐいぐい進んでいる。
畑では育苗の準備も進めながら、屋根ビニール張りも始まった。
しかし、日中は冷たい北風が強く吹く日が続きなかなかはかどらない…。
早朝の風が無い時間帯がビニール張りのチャンスなのだ!
先日の4月19日、畑の手を休めて専務と南郷の森へ。
今までは檜枝岐方面の森をスキーで訪れることが多かったのだが、鉄砲ぶちになってからは地元南郷の森を彷徨うことが多くなった。
水辺のサワグルミ、端正なブナ森、岩塊の隙間に根を張り成立する森…。
一度手が入ったであろう南郷の森も、すてたもんじゃない。
地元にこんな素晴らしい森があるのに、ほとんどの人は知らない…。これも南郷トマトの水源の森なのです。
さらに4月21日、熊打ち親方と二人で伝説の熊穴、カゴクラへ向かった。
このエリアも南郷の森だ。しかし、標高が高いので熱春の今年でもまだ雪がある。
このエリアは手付かずの原生林。
普通に数時間前の熊の足跡もある。
このエリアはブナ、トチ、ミズナラ、ネズコ、ヒメコマツの巨木の森だ。
この辺りをウロウロしているカモシカも人間が珍しいのか、近づいても慌てない。歩いて逃げる。
尾根に出ると雪が無く、ネズコ、ヒメコのずんぐりむっくりな大木が林立。
そしてこの大木尾根の崖下にその伝説の熊穴カゴクラがある。
崖上に成立するネズコとヒメコ、ヤマグルマ、イヌツゲの常緑ジャングル。
巨岩と絡み合う樹木。これらをアスレチック施設のように乗っ越し&ぶら下がり、熊穴へ向かう。
ようやく下に見えた、伝説の熊穴…。ここまでもかなり難渋。
ここがそのカゴクラの岩ヤス(熊穴)。
当時、つまり親方たちが若かった40~50年前。このヤスには何回も穴熊狩りに来たという。
穴は入口こそ狭いが奥はかなり広いらしい。人が立っても頭が当たらないくらいの空間もあるという。
さらに奥下にも穴が続き、ついには他に抜け道があるらしい。
鉄砲を持って穴に入り、穴奥で撃って仕留めたこともあるというが、そうすると火薬の臭いが残り数年は熊が嫌がって近づかないらしい。
この熊穴には、太古から火を燃やした炭があったという。親方世代よりさらに大昔にもこの穴で火を燃やし、熊をいぶり出したのであろうか…。
たとえここで熊を獲っても、ここから引き揚げて村まで運んだことがまた恐ろしく感服する事実だ。
他にもこのカゴノクラにはこのような複数の岩ヤスがある。
そしてその入口付近にはこのような古い「アデ」があった。冬眠する熊が樹木の幹をかじりはぎ、縄張りを表示する。
尾根を下り、帰り道につく。
念のため、親方と自分と下り道を分かれ、無線を使い獲物を探しながら下ってみた。
下りながら考えた。さっきのカゴクラで親方から「穴に入ってみっか?」と問われたが…。
入らなかった。やっぱ怖かった。
でもいずれは熊打ちの先輩たちが見てきたように、あのカゴクラの穴に入って冬眠中の熊を見てみたい。
そして狩りたい。
奥会津の狩猟文化の起源はやはり秋田阿仁のようだ。組織的な巻狩りもやれば冬眠中の穴熊狩りもやる。檜枝岐や只見田子倉からさらに南会津にも伝わったのだろう。自分の父親も昔ながらの熊狩り後の感謝の作法は続けていたようだ。今後は何らかの形で残していきたいのだが…。
山を下りながら、また自分の父親の言葉を思い出した。「おめえらは簡単に熊が獲れて楽でいいなあ…」
そうなんだ。熊はやっぱり山奥の王様だったはず。ところが、人は山に入らなくなり熊などの大型獣までが里山に降りるようになってしまった。そう、人の生活圏が変わったし、大型獣の生活圏も変わった。
昨年・今年と、まだ奥山とは言えないエリアで熊を獲っていい気になっていた自分が恥ずかしくなる。
こんな広大な広葉樹林の面積を有する山奥の南会津でも、ほとんどの住人の生活圏が家・職場・町を結ぶ線状になってしまった。南会津の暮らしこそ生活圏は「面」でありたい! と思っている。山との関わり方はなんでもいい。植林&伐採、釣り、山菜キノコ取り、狩猟、バックカントリースキー、登山…。
ここ2年ほど、冬に地元小学校の総合学習で「アニマルトラッキング」を担当することになった。この授業ではなるべく身近な野生動物の紹介もそうだが、動物と仲良く?ふれあう?みたいなメルヘンチックな幻想ではなく、南会津の暮らしに欠かせない命を頂く狩猟の話をどんどん盛り込んでいる。人と野生動物との関わり方。みんなが食べる「お肉」は普通に動物として歩いていたんだよ…。
山のブナは結構豊作だった。今年は子連れ熊が多くなるかもね…。