泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、小さな旅で出会った風景等を紹介したいと思います!

飛鳥時代最大の方墳「小山田遺跡第10次調査(小山田古墳)」現地説明会

2019年02月04日 17時11分42秒 | 歴史

奈良県明日香村にある「小山田(こやまだ)古墳」が、飛鳥時代の「方墳(ほうふん)」としては、国内最大であることがわかりました。

「小山田古墳」は、2014年、学校の立て替え工事に伴って発見されて以降、毎年調査が行われていて、これまでに大規模な石積みの塀などが見つかっています。この古墳は四角い形をした「方墳」で、北側の一辺が約70メートルであることがわかっていましたが、2018年12月末から始まった今回の発掘調査で、東西の幅が推定で80メートルを超えることがわかりました。飛鳥時代に造られた「方墳」としては、国内最大となり、当時の最高権力者の墓の可能性が高いということです。

現地説明会が、2019年2月3日(日)10時から行われ早速行ってきました。

今回は、飛鳥時代最大の方墳「小山田遺跡第10次調査(小山田古墳)」現地説明会の様子を紹介したいと思います。

この古墳は、7世紀中頃の飛鳥時代に造られた四角い形をした「方墳」で、これまで1辺の長さはおよそ70メートルとみられていました。
今回、奈良県立橿原考古学研究所が、古墳の外側の発掘調査を行ったところ、大きいところでは幅が80メートル以上あることが確認できたということです。
これまで飛鳥時代の方墳では、千葉県の「龍角寺岩屋古墳」が幅がおよそ78メートルで国内最大規模とされていました。
橿原考古学研究所によりますと「小山田古墳」は、それよりも大きく国内最大規模とみられるということです。これまでの調査では、1辺70メートル程度とされていました。今回の調査で、古墳の北西角から約60メートル南側の地点で西辺の墳丘盛り土を確認。墳丘端の石積みまで含めると、東西幅が約80メートルに及ぶことが判明しました。方墳は正方形ではなく、約72メートルの北辺に比べ南辺がわずかに長い台形とみられることから、正確な長さが確認されていない南辺の長さは80メートルを超えることがわかりました。

また、7世紀後半から8世紀初めの土器棺(口径約20センチ・器高約21センチの長胴甕と胴部約16センチ・器高11センチ以上の口縁部を欠いた甕を合わせ口にしたもの)が埋められていました。石積みは古墳築造後、数十年ほどで壊されていたことも分かりました。短期間で古墳の機能が終わっていたとみられます。

「小山田古墳」は、これまでに横穴式石室への通路(羨道部)や石室の入り口部分の遺構が見つかっています。(2017年8月27日のブログ・飛鳥時代で最大級の石室があったとみられる「小山田古墳」の現地説明会で紹介させていただきましたが、今回この時の写真も、一部載せさせていただきます。

「小山田古墳」の被葬者を巡っては、「舒明天皇」の初葬墓とみる専門家がいる一方で、「蘇我蝦夷」が埋葬されているという指摘もあり、議論が続いています。
この古墳に葬られた人物について専門家は、古墳が造られた7世紀中頃の飛鳥時代に強大な権力を持っていた天皇や、豪族の名前をあげています。
その一人がが天智天皇や天武天皇の父親で、641年に亡くなったとされる「舒明天皇」です。
ある専門家は、「舒明天皇は、大寺院の百済大寺をつくるなど天皇としての権威を高める政治を行っていて、強大な権力を持っていた。そうした政治的背景を踏まえると、舒明天皇の可能性がある」と話しています。
一方、絶大な権力を誇った豪族で645年に自害したとされる「蘇我蝦夷」が葬られたとみる専門家もいます。「古墳は蘇我蝦夷と入鹿親子の邸宅があった本拠地、『甘樫丘』のすぐ近くにある。同じ時期か、あるいは少し前の畿内にある王の墓より大きなものであることからも、蝦夷が生前に築いたとされる墓と一致するのではないか」と話しています。

さて、「小山田古墳」に眠る人は一体誰なのでしょうか・・・  「飛鳥は、何とロマンに満ちた場所なのでしょうか。歴史好きな私にとっては、最高の地ですね~!」

                                          

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