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靖国神社

2010-08-14 08:54:44 | 父の懐・母の懐
今週日曜日、主人と靖国神社に参詣しました。何度かご紹介した事がありますが、私の父は陸士56期の生き残りです。昭和20年の8月14日に特攻に出陣するはずでした。そしてたまたま生き残りました。同期のお仲間、先輩方たくさんの方々と「靖国で会おう」との固いお約束を残して、父は生き残り少数派になりました。

それからの父の人生は、価値観のひっくり返った戦後を、亡くなったお仲間たちと思いを交換し合うことで生きたと思います。父の憂国の情は多くの場合世の中に受け入れられなかったけれど、子供達には、特に私には大切な人生の基盤になりました。娘の目にはこの世で最も素晴らしい人に映った父が、こんなに心つつましく市井の片隅で細々と生きている!片時も昔のお仲間の事を忘れない!

故郷平戸ではまだまだ昔気質の人がいて、父に敬意を表して父の活動を許してくれました。でも誰一人として父程の心の叫びを持ちませんでした。持っていたにしても世の中は金権の趨勢に抗うことは出来ませんでした。父は父らしく死んだと思います。憂国の情もだし難く、熱い血を吐いて死にました。娘が最初にもっとも敬愛した人でした。

それで私は父の叫びを心の中に聴き続けています。父が昔朋友とかわしたお約束も生き続けています。

      『靖国で会おう。』

父は生き残りとして死にましたが、ことあるたびに、お仲間の方々と靖国に舞い降りて集っていると思います。私達はその思いの波動を尊重しなければ日本人として生きていけないのだと思います。国民とは過去未来にわたって生きているその国の人々の事であって、顕微鏡のサンプルのような切片ではないのだと思います。今の人だけの都合で何もかも軽々しく変えてはいけないのだと思います。時にはたやすくなくても歯を食いしばって美しい日本の心を守らなければならないと思います。多くの方々が敬愛してやまないご両親や家族、そして背後に続く子孫を守るために死んでいかれた事を思い続けなければなりません。これが歴史を背負った国民のあり様だと思います。

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Unknown (たま)
2010-08-15 12:17:13
今の人だけの都合というものが、多くは誰かの得のために操作されているものであったり、どこかに利潤が動くためのものであったり。

国民って誰の事でしょう?っていわれた和子先生の言葉を思います。

65年前の今日、日本人がどんな思いであったのかを忘れてはいけないことだと思います。

知覧や江田島でみた特攻隊の遺書は、思い出すと今でも涙があふれます。

日本には素晴らしい若者達がいたのですね。

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Unknown (keitan49)
2010-08-16 00:18:25
いつも有り難うございます。
今日明日は、阿南惟幾 大西滝次郎大将等日本を支えた 侍が自決なされた日です。
先日、家内と 靖国神社に出向きました、九州にいる時も 上京したら なるだけ靖国神社には参拝するようにしてましたが 今回は たまたま特攻潜水艇回転に乗られた方の肉声の遺書が残っており そのお声を聞く事が出来ました。
文字にするには あまりにも不謹慎ですが 涙がでるとかではなく その後も、今もあまりにも衝撃が強く 本当に恥ずかしい事ですがコンディションを崩してしまいました。
一週間たった今でもやはり もとの調子には戻れません。英霊に方にはあまりにも情けなく、申し訳ないのですが 骨が溶けそうな衝撃を受けました。

私の父は この特攻回転を運ぶ 伊号の潜水艦に勤務して、潜水艦は魚雷で沈没しましたが運命のいたずらみたいに父は助かり 私が生まれました 特攻潜水艇回転は、飛行機に比べ速度が遅く 一気には体当たりできず じわじわ 敵艦に体当たりする この時間的恐怖は如何ばかりであったかと父が話してくれてました。

それを息子より若い 20以下の若い人なされた事 毎年の事とはいえ 本当にこの方たちに申し訳ない日々を過ごしていると苦しくなります。
本当にこのような皆様の御命のお陰で我が国がなりったていることを 子に 孫に永遠に伝え
国家なるものが何たるものか 
しっかりと教えていくことは何よりも大切です。来年は子供、孫皆 全員集合して参拝したいと思ってます。


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keitan先生 (たま)
2010-08-16 00:26:32
とても大切なお話をありがとうございました。
謹んで日々の暮らしに生かしてまいります。
一人息子にも、しっかりと伝えてまいります。
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義父の思いで (keitan49)
2010-08-16 12:15:26
家内がよく義父の事を記事にしてますが、私から見ても私の生涯で会った人の中で一番素晴らしい人でした。

実は私の父と義父は中学校の同級生でした。父は生月島の神童と呼ばれる秀才でしたが、旧制中学では何時も二番で、義父に勝てなかったと言っておりました。義父は秀才の誉れ高い幼年学校、陸軍士官学校出で、運動でもオリンピックに出てもいいほどではなかったかと思うのですが、足も速く『カモシカの足』のあだ名がついていたそうです。昔の日本の精鋭がそろった陸士でのあだ名ですから、どんなにすごかったかなんとなく想像がつきます。

義父は戦後自衛官となり、日本で最初のジェットパイロットの一人となりました。また『国防と国体』という私には難しい冊子を残してますが、相撲の柏戸(大鵬のライバル)が大好きで、自己に厳しく他人にやさしい性格で、娘婿の私を『親孝君 親孝君』と呼んで可愛がってもらいました。晩年の義父から、『国家とは。国体とは。主権とは。』を教わりました。正座をしての授業でしたから、足の辛さと共に忘れられない思い出となりました。

厳格ではありましたが、ただただやさしく本当に鑑のような人でした。義父の実像は 今風にいえば ハンサムですごいジェットパイロットです。それでも傍にいると 自分の心まできれいになるような人でした。私の知っている範囲の中で義父は現代でも切腹出来る人だったように思います。
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和子先生が受けついで。 (たま)
2010-08-16 22:12:09
素晴らしいお父さまに学ばれた和子先生に教えをいただいている私は本当に幸せですね。
どんなに和子先生がお父さまを慕われていたかが、keitan先生の思い出のお話でよくわかります。

和子先生はハンサムなお父さま似なんですね。

今日息子と、丁度彼と同い年くらいの青年達が65年前にどんな気持ちでいたのかを話し合いました。

息子は特攻隊の若者が残した遺書を読み、涙を流しておりましたが、真実を刻むことが出来たのかどうかはわかりません。

少しづつ、日本人であることを感じてくれたら嬉しいと思いました。

よい機会を頂き、ありがとうございました。

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