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inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

父の思い出の歌

2006-01-25 20:47:19 | 父の懐・母の懐
昨日父の思い出の歌を見つけました.土井晩翠の詩で、星落秋風五丈原という題の歌!有名な「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という場面の、まさに孔明の死に直面しようという悲愁な歌です.父は帰宅すると和服に着替え、私達子供を膝に乗せて歌を歌ったり、話を聞かせてくれたものです.以前にも書きましたが、ハンニバルや、ナポレオンの話、平清盛の話、義経の話、楠正成の話、日本海海戦の話、目の輝いた楽しい父の顔を思い出します.子供達の顔も輝いていたに違いありません.孔明の話もまた同じですが、この悲哀に満ちた五丈原の歌は、子供にも深い思い出となりました.私はこういう風にして父から、美しさというものを学びました.

父親が子供に父性の美しさというものを教えられないから、こんな世の中になっているのではないかと思います.世の中がお金本意になってしまって、法律も事件の表面だけしか規制できない.美しさも何もかも何処かへ行ってしまって、法律に触れなければいいという世の中になっているのではないのでしょうか.だから毒とわかっているものも平気で売ることが出来るし、裏を隠して表だけを主張することが出来る.すぐには死なないけれども、徐々に体を蝕んでいって発病する.因果関係を証明できないから、罰せられることもない.世の中が自分の偽善に気がつかない.安部司さん(食品の裏側の著者)は、自分の作ったものを自分の子供が食べているのを見て愕然としたと書かれています.でも世の中はそうしたものなのです.自分が他人に投げつけたものは、遅かれ早かれ自分に戻ってくるものなのです.自分が食べられるものを売るべきなのです.そうしたら、こんなにマクロビオティックを実践することに苦労しなくてもいいのです.

父は特攻隊の生き残りです.明日死ぬはずだったのが生き残って私がいます.特攻隊の皆様の、「天皇陛下万歳!」は、「おかあさーん」と一緒なんだと父は言いました.武によって平和を守る意志が父性の源泉だと思います.字面ばかりを追いまわしても、心はわからなくなるばかりです.今の世の中は父性の精神性を忘れています.母性は今日のご飯でいいのです.今を生かす母と、明日を生かす父がいて、家庭は成り立つのですから.母は今日を明日に繋ぎ、父は明日のために今日を生きる.明日のために耐える父の、やさしさと厳しさの混じった顔が子供に見えなければいけません.男の美しさを見せることが必要です.男の美しさはお金に埋まってはいないのだと思います.真っ先に貧乏をしのばねばなりません.お金ばかり追及する男なんて!! さもしい心,貧乏な心は恥ですが、貧乏は恥ではないと教えられました.
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靖国裁判

2005-10-01 09:50:57 | 父の懐・母の懐
大阪高裁で首相の靖国参拝について違憲との意見が添えられました。これを前述したローマ人が聞いたらなんというでしょうか。多くのそれこそ真の血税(防衛の義務)で守り通した国家という民族の運命共同体に奉仕し殉職した人に対して、国家の最高責任者が参拝したらば、それが国家最高法である憲法に違反するというのです。

その殉死者の祭祀の仕方が気にくわないと言うのでしょうか?そもそも神道とは一体何なのでしょうか?私達日本人はおおかた各家庭に仏壇と神棚とを持っています。カソリックの人たちだってお正月の年神様をお迎えするのではありませんか?外国の新年は日本のように特殊ではありません。お正月の行事は完全に神道の生活風習です。厳密にいって神道は宗教ではありません。神道は先祖の祭祀です。祭祀というのは形ある人と形亡き人との交流の仕方の儀式で、その生活版が神道、神ながらの道です。今ある自分達と神に還った人達との共同生活が神道による生活風習です。仏教伝来は奈良時代、キリスト教伝来は戦国時代、色々な人がそれを受け入れてきましたが、もっともっと古い日本人固有の先祖達との共有意識は、決して忘れていないのです。それを忘れる事は、先祖との交流の断絶なのです。いいではありませんか。神道こそ太古の昔からの日本人と交わることの出来る方法なのですから。それに先の大戦でなくなった方達は、各家庭の持仏壇とは別に、靖国で会おうと誓って逝かれた人達なのです。靖国に降っていらっしゃるに違いありません。

そもそも宗教と祭祀は違います。宗教は真理の道(?)かもしれませんが、祭祀は真実の道です。あの方々が生きておられたという真実の道です。あの方々が生きておられなかったら私達はないのです。日本人の祭祀の心は、感謝と畏れです。感謝は先人達のお蔭様で、畏れは心残りへの鎮魂です。ですから共に直会いを楽しんで、心のつかえを解いて頂くのです。日々鎮魂の祈りを捧げるのです。形亡き人達の心のつかえは、ちょうど血液ドロドロみたいなものです。ドロドロの血液が私達の身体によくないのと同じように、心(波動)の世界のつかえという滞りも私達子孫の身体に波動の滞りをもたらします。子孫は先祖のお祭りをしなければならないのです。なぜって私達は先祖の一部だったのです。

靖国に祀られておられる方々は、国のためと固く信じて亡くなられました。そして子孫を残さずに若い命を捨ててくださった方が多いのです。その方達の鎮魂をする事は、国家の最高責任者の務めです。それは現国民の幸せのためなのです。そもそも死者を捨ててしまう国家とは、歴史を捨ててしまう国家です。そんな国家は国家ではなく、利益団体です。
国民とは、少なくとも過去2千年、未来2千年の国民全てを含むと思っていたほうが良いのです。選挙や国民投票が意味のあるものかどうかは、歴史を背負っているかどうかの一点につきます。政治は国民の幸福のためにあるのです。信教の自由とは、政治から人間性を消し去って、無機物的にすることではないはずです。

私達は子供から捨ててしまわれたいでしょうか?私達は親なくして生きていられたでしょうか?死んだ途端忘れてなかったことにしてもらいたいでしょうか?神道は素朴な日本人の心から生まれた生活習慣です。だから私達は今でも除夜の鐘を聴くと初詣に駆り立てられるのです。もっと素直に生きましょうよ!
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