名 称:権現坂埴輪窯跡( ごんげんさかはにわかまあと)
種 別:埴輪窯跡
時 代:古墳時代
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:権現坂埴輪窯跡 昭和44年〔1969〕10月1日選定)
熊谷市指定史跡(名称:権現坂埴輪窯跡群(西群) 平成10年〔1998〕2月10日指定)
所在地:埼玉県熊谷市千代 (旧・大里郡江南町)
旧・江南町に権現坂埴輪窯跡があるということを最近知りましたので訪ねてみました。
しかし、おおよその場所は分っても地図等には載っていませんし、具体的にどこなのかは分りませんでし
たのでいろいろ調べたところ現地に説明板が建っていることが分りました。取り敢えず説明板を見つけれ
ばと2度足を運んでやっと辿り着きました。
権現坂埴輪窯跡のあるおおむねの位置です
県道47号(深谷東松山線)から権現坂埴輪窯跡のある方向を・・・住宅が並んだ後方の山林の中
何カ所かありそうな山林への道の中から取敢えずここを進んでみることに
少し歩いた所にありました『権現坂埴輪窯跡群』の説明板が(やったー)
前回は上の写真の少し手前まで捜し歩いたのに見つけられませんでした
『権現坂埴輪窯跡群』説明板
この説明板によると昭和37年(1962)に、埼玉県教育委員会の発掘調査で5基の埴輪窯跡を確認されたと
ありますが、この部分が「権現坂埴輪窯跡跡」の名称で埼玉県選定重要遺跡に選定されたものと思います。
その後の江南町の発掘調査によって確認された開析谷西側の約10基の埴輪窯跡の部分を江南町が「権現坂
埴輪窯跡跡群(西側)」の名称で江南町指定史跡としたようです(合併により現在は熊谷市指定史跡とな
っています)
しかし、この東西2群の埴輪窯跡を統括した史跡指定等は現在のところありません。
上の写真の案内板には見取図の類いのものがありませんから、「開析谷」というのはどこを指すのか。
また、埴輪窯跡のある場所も全くわかりませんので、案内板の後方や周囲の写真を何枚も撮ってみまし
た。もしかしたらこの堀のようなところが開析谷?
【窯跡】、【住居】」などと言った立て札なり杭でも建っていれば助かるのですが、私有地ですし色々と
難しい問題もあるでしょうから・・・
埴輪窯ですと登り窯になりますので斜面を利用することになりますが、この斜面では無理があるのではな
いかと素人ながら思いますので窯跡は別の場所かも知れません?
いずれにしろ案内板が建っているということはこの辺りが権現坂埴輪窯(群)の場所であることは間違い
ないことでしょうから。【場所の確認』という所期の目的は達成できたと思いましょう。
考古学の難しいことは分りませんので・・・
2020.11.1撮影
権現坂埴輪窯跡から出土した「盾持人埴輪」 古墳時代後期 所蔵:熊谷市教育委員会
昨年秋のさいたま史跡の博物館の企画展「盾持人埴輪の世界」見学の際に展示されたものを偶々撮影して
いました。
散策日:令和3年(2021)5月24日(月)
踊る埴輪が、実は馬子埴輪だったとは。鉄劍も多数出ています。
埴輪窯が有ると言う事は、それだけ有力な豪族とそれを支える生産基盤が有ったと言う証拠ですね。
これからの調査は、熱中症と雑草との戦いですね。密にはなり得ませんし。十分ご注意下さい。
拙句
馬の嘶きはにわの踊る老いうぐひす
これまでに馬室埴輪窯跡(鴻巣市)、名和埴輪窯跡(吉見町)、宥勝寺裏埴輪(本庄市)、桜山窯跡(東松山市・埴輪も焼いていた)を訪ねています。
まだ行ってはいませんが群馬県には大きな古墳が幾つもあるようですので、それなりの豪族がいたのかと思います。
埴輪窯跡ではなく瓦窯跡もあと2,3か所訪ねていますので追って投稿したいと思います。
考古学という難しいことは分りませんが、現地を探し訪ねて満足しています(笑)