名 称:太田道真退隠地( おおたどうしんたいいんち)
別 称:自得軒跡、太田道真館跡
種 別:居館跡
時 代:戦国時代前期
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:太田道真退隠地 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
所在地:埼玉県入間郡越生町小杉字陣屋641 建康寺
中世関東の名将太田道灌の父である太田道真(資清)の退隠後の居館である「自得軒」は越生町小杉の
健康寺の傍らと推定されているようです。
そんな自得軒跡(太田道真退隠地)を訪ねてみました。
この写真の地蔵がある背後が自得軒跡のようです。
健康寺への参道
健康寺境内の隅に建立されている『太田道真退隠之地』碑
境内に建てられている「健康寺」説明板
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健康寺
越生町小杉
関東管領上杉家一族の扇谷上杉家の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、
岩付城、河越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒跡と推定され、「太
田道真退隠地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明18年(1486)6月、道灌は友人万里集九を伴って道真のもとを訪れた。万里の詩文集『梅花無尽蔵』には、その折
に詠じた次の七言絶句が収められている。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚会稀(縦へ千声ありと云えども尚会うは稀なり)
況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴未帰(細雨山中に聴きて未だ帰らず)
翌7月、道灌は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。
道真は道灌の菩提を弔い、越生山建康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また、堰と導水路の跡が造る水車「才車」の
「才」は城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
令和2年4月30日
越生町教育委員会
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無住のお寺です。曹洞宗寺院の建康寺は、越生山と号します。
堂宇の前のテーブルには、越生町に所縁のある太田道灌を大河ドラマ実現に向けて他の所縁ある自治体と
ともに署名運動を行っており、その署名用紙が置かれています。
『道灌橋』 この対岸に馬場があったと伝わるようです
散策日:令和3年(2021)5月22日(土)