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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

山口城(埼玉県所沢市)

2018年09月16日 | 100名城以外の城館跡


城 名:山口城(やまぐちじょう)
別 名:児泉城
形 態:平山城
時 期:平安時代末期
築城主:山口家継
城 主:山口家継・高清・高治・高実
遺 構:土塁
指 定:県指定旧跡(昭和37年〔1962〕10月1日)
現 状:商業施設ファッション市場サンキ
所在地:埼玉県所沢市山口1517番地ほか

山口氏は、平高望を祖とする桓武平氏の流れを汲んだ武蔵七党のひとつ村山党の支族です。平良文(村岡五郎)の後裔である
平頼任が武蔵国多摩郡村山(現在の東京都武蔵村山市)を領し村山氏(村山頼任)を名乗り村山党の祖となる。その子・頼家
の子息は入間郡各地に分散し、大井・宮寺・金子を称した。そのうちの一人村山家継が武蔵国入間郡山口(現在の埼玉県所沢
市山口)に在して山口氏(山口家継)を名乗ったのが始めで、その居城が山口城であった。なお、その子・家信が川越市仙波
に居館を構えて仙波氏(仙波七郎)を名乗った。

城跡は、県道55号線の交差点に「山口城趾前」の名称がつけられたのみで長年放置されていた。平成12年(2000)になり
商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画であったが、遺構の保存を求める運動が
起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城跡であった部分の殆どは
整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。




山口城趾前交差点  山口城址の標柱脇の議員の看板や山口城跡説明板の上の大きな看板が目障りですが、保存に至る経緯を
考えれば仕方ないことでしょう      城趾・城址・城跡  3通りの漢字が使われていますので忠実に(笑)




県道55号線沿いにある「山口城跡」の標識




山口城跡の説明板
今年新しくなったようですが、内容は以前のものとほとんど変わっていません。




左側を走っている道路が埼玉県道・東京都道55号 所沢武蔵村山立川線




現在残っているのは、第1号土塁の一部 第2号土塁 第3号土塁のようです




土塁が現存する辺りが城の中心部であったようです




山口文化財案内図
全部散策できれば良いのでしょうがそうも行きませんので興味ある場所のみを散策しましょう(後日になりますが)




第1号土塁を北側から




第1号土塁を西側から




第2号土塁を北西側から




第2号土塁を北側から




第3号土塁を北側から




第3号土塁を北東側から




第3号土塁を東側から




第2号土塁を南西側から




山口城跡から東へ2km弱行った所にある山口氏の菩提寺として創建されると伝えられる瑞岩寺




山門と山号「祥雲山」の扁額




門前にある瑞岩寺の指定文化財の説明板   山口氏の墓搭についての説明もあります




山門をくぐると大きな石灯篭が一対  その先に本堂が
この石灯篭は例の石灯篭です・・・そう、徳川将軍家の墓所である増上寺にあったもの。




本堂に掲げられた寺号「瑞岩禅寺」の扁額
寺紋は曹洞宗の宗紋(大本山総持寺)である五七の桐紋




六地蔵尊  これが目的ではないのですがいつものお約束事ですので




鐘楼




覆屋の中の山口氏の墓搭3基  
これが目的で瑞岩寺を訪ねたわけで、この写真だけでも良かったのですが折角ですから他の写真も載せた次第です。



確かに3基には間違いありませんが・・・ちょっと考えてしまいます。

山口城跡の訪問は今回が2回目でしたし、内容も前回と変わり映えしませんが、
ここしばらくの間、武蔵七党の関係個所、特に村山党関係の城館跡を散策してきたものの、山口城跡だけが数年前(平成24年
(2012)1月15日(日))の訪問でしたので再度の散策となりました。

再散策日:平成30年(2018)8月19日(日)