四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

浄泉寺城(東京都八王子市)

2018年08月20日 | 100名城以外の城館跡


城 名:浄泉寺城(じょうせんじじょう)
別 名:近藤砦・近藤出羽守屋敷
形 態:丘城(居館)
時 期:戦国時代
築城主:近藤出羽守助実
城 主:近藤出羽守助実・伝鎌倉権五郎景政
遺 構:土塁?
指 定:―
現 状:寺域・住宅地
所在地:東京都八王子市館

戦国時代に、八王子城主北条氏照の家臣近藤出羽守助実が城を構えていた。更に伝承ながらも平安時代には鎌倉景政が館を構
えていた言われる浄泉寺と御霊神社を訪ねて来ました。

鎌倉氏は村岡五郎(平良文)の子孫で、鎌倉郡を領有していたことから父の代より鎌倉姓を名乗ったようです。

戦国時代には近藤出羽守助実が城を構えていました。助実は近藤綱秀とも名乗り、下野国・榎本城の城代を務めていましたが、
天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には八王子城を守備し、最前線にあった曲輪で壮絶な討死を遂げました。




湯殿川に架かる朱色の明神橋 明神は御霊神社(御霊大明神)からきている
御霊神社を含む浄泉寺城域の北側から東側に回り込むように流れる湯殿川は天然の要塞であった




明神橋を渡り坂道を南に進むと浄泉寺の寺号標が建っていますが、このあたりから坂が急になっています。




坂を上り切った右手に堂宇と駐車場があります。
左が本堂 真ん中が客殿ですが繋がっています。右に半分だけ見えるのが観音堂(法要等を行うセレモニーホール)




駐車場前に建てられている「浄泉寺の歴史」説明板

浄泉寺は戦国時代末期のころ御霊山浄泉寺城と称し近藤砦とも呼ばれていました。天正初年、八王子城主北条氏照の家臣、近
藤出羽守助実公が、この寺を創建されました。過去帳によると龍洞院殿一渓浄泉大居士、天正18年6月23日寂すと記され
ていることから浄泉寺の開基とされております。また、お寺をお開きになった僧は入間郡久米村(現、所沢市)永源寺の末、
当時開山、獄應儀堅禅師(天正15年10月17日寂)であります。この寺の二世、照鑑圓應禅師(慶安1648-1658)
は、当時は10石の御朱印を賜っていた名僧でもありました。
この寺と武士とが関わった歴史は古く、今から900年前、平安末期に醍醐天皇の系統貴族の子孫、鎌倉権五郎景政という武
将が本拠を構えておりました。しかし、三年の役(1068-1088)1083年の時、景政は右目を矢で射られ、それで
も敵を追い払い、又矢を抜こうとする者に「無礼者、弓矢で死するは武士の道」と叫んだことは有名で、諸行無常にして景政
は寛治元年(1087)9月9日33才で無念なる人生を閉じたのでした。勇敢な武将として讃えられその景政を祀る神社が
寺のすぐ下にあり当時は寺の守護神として建られ明治に入り神仏分離によって絶学天真禅師ご親筆により御霊山を釈尊山と山
号を改めまた御霊神社を明神様と称するようになったのであります。浄泉寺は武将の館に相応しく、周囲には川が流れて人の
往来をさえぎりやすく、その上、切り立つような丘のため、城砦としては申し分のない場所であったのです。今も土塁(土盛
り)や空堀の跡が残された歴史ある古いお寺でございます。
 平成10年5月吉日
                                             釈尊山 浄泉寺 山主

この説明文の中にある景政が右目を射られた三年の役(後三年の役)1083年は、16歳の時の事のようです。




本堂




山号「釈尊山」扁額




本堂大改修記念碑
浄泉寺城についても記されています




客殿 本堂と繋がっています




土塁?
上掲の浄泉寺の歴史の中に、土塁・空堀跡が残るとあります。しかし、その場所についての説明がないので、本堂周囲は無論
のこと霊園の一番上まで捜し歩きましたが、それらしきものは説明板の裏にあったこの土塁のみ。堀跡らしきものは見つかり
ませんでした。




逆方向から見ていますが、果たして土塁と呼べるものなのかは正直分りません。
他の場所にあったのかもしれませんが、探し方が悪かったのか、或いは霊園造営や住宅地へと変ったことににより消滅したの
かもしれませんが・・・




アジサイの季節です。お寺さんを歩きますとどこにもアジサイが。折角ですから1枚




もう1枚




本堂の更に南側の斜面は何段かに区画された霊園となっています




墓石が並んでいる状態を載せるには抵抗がありましたので本堂の屋根が見える程度にとどめておきました




一番上の区画の下には噴水もあります  アンパンマンとバイキンマンですね。
霊園も公園化しないとやっていけないのかも知れませんね。

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「御霊神社」については、この記事から分離して別投稿としました。
なお、御霊神社の社殿の浄財箱の脇に「御霊神社の由緒」の印刷物が置いてありましたので一部頂いてきました。
以下はその内容です。参考までに・・・

  御霊神社の由緒
御霊神社の創建は詳らかではありませんが、天正時代(1573年から1592年)に八王子城主北条氏照の家臣 近藤出羽
守助実が、この地に「御霊大明神」としてお祀りされたと伝えられています。
御祭神の鎌倉権五郎景政公は、醍醐天皇の御子孫にあたる貴族武士であります。
「後三年の役」(1086年)の際に、源義家に従って奥州に出陣し、その折に、この地に立ち寄ったとされています。その
際、流れ矢が右目に当たるも怯むことなく、敵を追い詰め、切り散らしたという武勇が伝えられています。
また、文武に秀でた剛勇比類なき武士であったところから、当神社は眼病平癒・必勝招来・除災招福のご神徳があるとされて
おります。
なお、鎌倉権五郎景政公や 近藤出羽守助実の館(やかた)があったところから、このあたりは「館町」(たてまち)と呼ば
れるようになったという言い伝えが残されています。 

散策日:平成30年(2018)6月14日(木)

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