四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

武将らの銅像(3)

2019年12月16日 | まち歩き
最近は、諸々の事情から遠出ができず、近場の城館跡や史跡を巡っています。そのため、当然のこ
とながら新たな武将らの銅像に会う機会はほとんどなくなりました。
ここ数年では6人の武将の銅像しか会っていません。この先増えるここもないようですから、一旦
ここで区切りの意味で・・・



 齋藤実盛公(さいとう さねもり) 【 天永2年(1111)~寿永2年(1183)】

  所在地:埼玉県熊谷市妻沼 妻沼聖天山   齋藤別当実盛開基の寺    
  撮影日:平成29年(2017)1月22日

平安時代末期の武将
藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直)の子越前国の出 
武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県妻沼町〔現・熊谷市〕を本拠とし、長井別当と呼ばれる
大蔵合戦において源義賢を討ち取るも、その子駒王丸(のちの木曽義仲)を助けて木曽に送る
寿永2年(1183)加賀国の篠原の戦いで敗北。義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ①

  所在地:群馬県太田市新田市野井町 生品神社   新田義貞挙兵の地    
  撮影日:平成30年(2018)9月19日

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将
正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ) 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁
鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ②

  所在地:群馬県太田市世良田町  太田市立新田荘歴史資料館  
  撮影日:平成30年(2018)9月19日
  



 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ③

  所在地:東京都府中市科片町2丁目 分倍川原駅前   「分倍河原の戦い」の地  
  撮影日:平成30年(2018)9月5日




 脇屋義助公(わきや よしすけ)  【 嘉元3年(1305)~興国3年/康永元年(1342)】

  所在地:群馬県太田市脇屋 正法寺    脇屋義助の菩提寺   
  撮影日:平成30年(2018)9月23日

鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将
新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄・義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は
南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 左
 脇屋義助公(わきや よしすけ)  【 嘉元3年(1305) ~ 興国3年/康永元年(1342)】 右

  所在地:群馬県太田市東本町 太田駅前広場    
  撮影日:平成30年(2018)10月2日




 太田道灌公(おおた どうかん)  【 永享4年(1432)~文明18年(1486)】

  所在地:埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷 龍穏寺    太田道真・道灌ゆかりの寺
  撮影日:平成30年(2018)12月28日

室町時代後期の武将 武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰
摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで
享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名。また、「山吹の里」伝説でも有名




 大石定久公(おおいし さだひさ) 【 延徳3年(1491)~天文18年(1549)】

  所在地:東京都八王子市下柚木 柚木城跡(永林寺)  定久の居館跡
  撮影日:平成28年(2016)12月17日

戦国時代の武将 山内上杉家、後北条氏の家臣 武蔵国守護代 滝山城主
天文15年(1546)、上杉氏が北条氏康に河越城の戦いで大敗し没落すると、主君の上杉憲政を見限
って後北条氏に臣従する。その後、氏康の3男・氏照を娘・比左の婿養子として迎え入れて滝山城と
武蔵守護代の座を譲り、入道して心月斎道俊と号し多摩郡五日市の戸倉城に隠居。

  過去記事   『武将らの銅像』   『武将らの銅像(2)』

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