三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「美食家ダリのレストラン」

2024年08月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「美食家ダリのレストラン」を観た。
映画『美食家ダリのレストラン』公式サイト | 8月16日(金)新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほかにて公開

映画『美食家ダリのレストラン』公式サイト | 8月16日(金)新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほかにて公開

その料理は、全ての人を幸せにする― | 大都市 -バルセロナ- を追われた天才シェフ ダリの住む海への街を舞台に、人生と料理の“美味しい”レストラン革命! | 監督:ダビッド...

映画『美食家ダリのレストラン』公式サイト | 8月16日(金)新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、シネ・リーブル池袋ほかにて公開 - その料理は、全ての人を幸せにする― | 大都市 -バルセロナ- を追われた天才シェフ ダリの住む海への街を舞台に、人生と料理の“美味しい”レストラン革命! | 監督:ダビッド・プジョル | 出演:ジョゼ・ガルシア、イバン・マサゲ、ボル・ロベス、クララ・ポンソ | 原題:Esperando a Dalí | 配給:ファインフィルムズ/コムストック・グループ | 2023/スペイン/カラー/スペイン語/115 分

 松尾芭蕉は、色好みであり、食道楽の人であった。「水無月や鯛はあれども塩鯨」という句を残していて、文字通りに読めば、蒸し暑い季節には、淡白な鯛よりも塩鯨の方を食べたくなるものだという意味になるが、違う見方をすれば、いつも美人では面白くない、ちょっと癖のある女(場合によっては男)を抱きたくなることもある、という好色な意味にもとれる。もちろん、当方の独自の解釈である。
 芭蕉には「浮世の果ては皆小町なり」という句もあって、一般的には、浮き名を流した美人も、歳を取れば老いさらばえるものだと解釈されている。しかしこの解釈にも、当方は違和感を覚える。浮世の果てとは、芭蕉自身のことではないか。若い頃からさんざん遊んできたが、女は見た目に関わらず、みんな美人なのだと悟ったと、そういう意味合いではないかと思う。

 どうして芭蕉のことを持ち出したかと言うと、本作品は漁師町を舞台に料理を礼賛する物語で、しかも旬の魚介類をこよなく愛する美人が登場するからである。芭蕉が「塩鯨」の句で一番言いたかったのは、旬の食材は高級食材に勝るということだと思う。吉原の評判の花魁よりも、地方の可憐な少女の方がよほど美しいという感性かもしれない。それは邂逅であり、一期一会だ。芭蕉のことだから、食との邂逅に加えて、性の邂逅も裏の意味として含ませていた可能性もある。

 レストランはフランス料理のシュルレアル。シュールレアリスムの旗手であったダリに心酔しているオタクのジュールズがオーナーだ。主人公の料理人フェルナンドは、ジュールズのことを面白がる一方で、この場所を愛し、この時間を愛する。優れた料理は、季節と土地に対する愛情がなければ生まれない。
 料理提供のシーンで映し出される料理は、見た目から食感や温度感が想像されて、どれも美味しそうだ。その土地で収獲、または収穫されたものを、その土地で食べるのが一番美味しい。素朴な料理は安定した美味しさで、もちろんいいのだが、食材と調理法と調味料の変わった組み合わせには、驚きや発見や感動がある。外食の醍醐味だ。それは旅の醍醐味でもある。食べた人に感動をもたらすのがシェフの才能だ。
 昔から、才能と情熱のある人間には魅力がある。芭蕉はさぞかしモテたことだろう。本作品では、料理人のフェルナンドはもちろん、ダリに情熱を注ぐジュールスにも、それなりの才能がある。破壊と創造は表裏一体だが、ジュールスは尊敬し、憎悪し、また尊敬する。そして創造し、破壊し、また創造する。熱量が落ちないところが彼の才能だろう。
 否定よりも肯定。それこそがダリの創造の本質だ。アホに見えるジュールスがそれを理解していることが凄い。フェルナンドがジュールスを気に入ったのも、それが理由だと思う。

 本作品ではフランス語とスペイン語が入り混じって会話が交わされている。フランスのエスプリとスペインの郷土愛、それに反骨が登場人物それぞれに入り混じっていて、大いなる共感に収斂する。面白くて見応えのある作品だった。