三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Taste of Cement」(邦題「セメントの記憶」)

2019年04月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Taste of Cement」(邦題「セメントの記憶」)を観た。
 https://www.sunny-film.com/cementkioku

 ビルの建設現場で生コン打設のアルバイトをしたことがある。生コンは型枠の中に流し込む。鉄筋屋が鉄筋を組み、その周りを型枠大工が型枠で囲い、鉄筋と型枠の状態を現場監督が確認したら、生コン打設となる。ポンプ屋が来て、ミキサー車が来る。ポンプ屋のポンプにミキサー車から生コンを流し込み、ポンプでビルの上まで送る。ホースの先のロープを引いて、生コンを流し込む場所を移動していく。作業員が待ち構えて、スラブ(階を隔てる天井と床を兼ねたもの)の生コンはトンボで均し、壁の中の生コンは空気を出すのにバイブレータを入れて撹拌する。
 ある日、生コンを間違って素手で触ってしまい、手が荒れてしばらく治らなかったことがある。ほぼ一皮剥けて、漸く元に戻った。生コン打設は危険で大変な作業だが、早い時間に終了するので人気の現場だった。
 生コン打設から2週間ほど間を開けて、型枠を解体する作業になる。生コンがちゃんと乾き切っていれば、スラブが落ちることはない。その間にもさらに上の階の鉄筋組みや型枠張りが行なわれ、再び生コン打ちとなる。これを繰り返して最上階までが終わると、鉄筋工も型枠大工も解体工もお役御免となり、次の現場へ向かう。誰も無口で淡々としているが、一つの現場が終わると、それなりの感慨がある。打ち上げの飲み会で現場でのエピソードが披露され、笑いが起こる。日本は平和だ。

 平和でない国の建設も同じように行なわれるが、折角造ったビルが、戦争によって壊されてしまう。ビルは忽ち凶器と化して、人々の上にのしかかり、生き埋めにする。どこからやって来たのか、沢山の人々が集まり、生き埋めになった人々を助けようとする。助かる者もあれば、間に合わずに亡くなる者もいる。瓦礫が取り去られると、再び建設の図面が描かれる。穴が掘られて柱が埋められ、柱から伸びる鉄筋を元にして鉄筋工が鉄筋を組み、型枠大工が型枠を張って、ポンプ屋が生コンを流し入れる。
 弾薬を生産する軍需産業や建設関係の企業は儲かるだろう。しかし庶民は戦争のたびに確実に貧しくなっていく。オリンピックの開催地がオリンピック後に、以前にも増して貧しくなるのと同じ図式である。
 懲役の中でも最も厳しいとされているのは、一日中穴を掘らせ、次の日にその穴を埋めさせ、そして次の日に再び穴を掘らせて、次の日に埋めさせる、それを繰り返させることだそうだ。変化も進歩もない生活は、人の精神を蝕む。
 生と死が表裏の関係であるように、建設と破壊も同じ現象の表と裏なのかもしれない。しかし人間には今日と違う明日、ここではない別の場所が必要だ。もし物理的な変化が叶わないなら、ひとり精神世界の中で変化していくしかない。壁を睨み続けた達磨のように。

 作品の印象は静かな怒り、あるいは静かな悲しみである。建設現場のハンマーの音は、ときに子守唄のように、ときに過去を思い出す引き金のように響く。瓦礫の下で味わったセメントの味は、父親との別離のにおいであり、絶望の味だ。世界の何処かでビルが壊され、世界の何処かでビルが建てられている。繰り返される悲しみの果て、いつか最後の人間が息絶える。


映画「Lean on Pete」(邦題「荒野にて」)

2019年04月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Lean on Pete」(邦題「荒野にて」)を観た。
 https://gaga.ne.jp/kouya/

 アメリカの田舎は日本の田舎よりもずっと田舎である。自動車がないと不便なところは同じだが、田舎でもバスが走っている日本と違って、広大な土地のアメリカでは自動車がないと本当にどこにも行けない。西部劇では馬を駆って走っている。かつては馬車も大活躍したが、今では自動車だ。
 馬に乗っていた名残は競馬の形で残っていて、趣味としての乗馬も盛んである。競馬も大人気だ。現代の日本の競馬の主流血統であるヘイルトゥリーズン系のサンデーサイレンスは、アメリカの三冠レースであるケンタッキーダービーの勝ち馬である。
 アメリカにはサラブレッドが走る競馬だけではなく、一回り小柄なクォーターホースによる短距離レースもある。本作品の原題になっている「Lean on Pete」はクォーターホースの競走馬で、父親と二人暮らしの素直な少年と関わることになる。

 本作品の舞台はポートランド。時代はというと、スマホを持っているのがお金持ち風の人たちだったことから、普及率の変遷を考えると舞台はおそらく2010年ころだ。いろいろあって父親と二人暮らしをしている16歳の主人公チャーリーは、馬の世話をして賃金を得るようになったが、ある事情が発生したため、馬を連れて旅に出る。
 行き先はワイオミングの伯母さんのところだ。かなり前の記憶だけが頼りである。ポートランドからララミーまでは1800km以上ある。日本で言えば鹿児島から札幌までくらいだ。16歳の少年とクォーターホースにとっては果てしない道のりである。行き着いたとしても伯母さんに会えるかどうかはわからない。半端ではない勇気で少年は邁進する。16年という少ない人生経験ながら、善でも悪でも持てる力のすべてを発揮して、少年はピートとともに前に進む。
 映画は必ずしも主人公の味方ではない。つまりリアリズムである。人間は食うに困れば何でもする。それを咎める者もいれば許す者もいる。長い旅の中で、少年は極限状況を次々に経験しながら、急速に大人になっていく。しかし魂のエクササイズはそれに追いつかない。なんとかなるという空元気と心細い本音、人を信じる気持ちと信じられない気持ちの間で揺れながら、少年は前に前にと進んでいく。それしか彼の生きる道はないからだ。
 少年が主人公ではあるが、少年の旅に寄り添っているうちに、自分の半生を追体験したような気になる。少年の旅は少年だけでなく、世の人の人生そのものだったのだ。ラストシーンでは少年の魂がようやく落ち着いて、不安と恐怖と、それに悪い心を洗い流すようだ。素晴らしいシーンである。人生を力強く肯定する世界観に爽やかな感動を覚えた。


映画「ANON」

2019年04月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ANON」を観た。
 https://eiga.com/movie/90237/

 こういう実験的な映画こそ、先入観なしに観たほうがいい。冒頭部分から、これは何だ?と思いながら、次第に設定や状況が明らかになっていくのを楽しめる。
 タイトルのANONはAnonymousの意味で、ちょっと前までは名無しの権兵衛などと訳していた。いまでは謎のハッカー集団の固有名詞みたいになっているが、ある意味この映画に相応しい。
 一説によると人の脳は1ペタバイトの記憶容量があるそうだ。ペタバイトはテラバイトに2の10乗を乗じた量である。大変な量だ。視覚と聴覚の記憶だけでも膨大で、自分でも思い出せないこともたくさんある。
 本作品はそんな大容量の視覚と聴覚の記憶を当局が管理している未来が舞台である。その通信管理はグループウェアみたいになっていて、権限によってアクセスできる範囲が異なる。基本的には現在のインフラをそのまま人の脳にまで範囲を広げた感じで、理解はしやすい。一般の庶民も情報を共有し合うことができたりするところは、クラウド上のデータみたいだ。
 そうなると次の段階はハッキングということになる訳で、そこから先が本作品のストーリーである。そしてそのあたりまで解ってしまうと、この作品の世界観が意外に浅いことに気づく。
 どういう方法かは不明だが、とにかく人の脳の視覚と聴覚の記憶をデータとしてどこかに保存し、随時取り出せることができるようになった社会というアイデアは悪くない。もしそんな社会になってしまったら、とても正気ではいられないだろう。
 人間は生物の中で最も環境適応能力が高いとされている。だからそんな社会になっても普段と変わらない日常があるのだという考え方もあろうが、それは一面的な見方で、記憶の共有という劇的な変化があれば、あらゆる方面に影響を及ぼす筈だ。日常の風景も一変するに違いないし、ビジネスシーンも様相が一変する筈だ。そんな状況になったときに人間がどのようにして正気を保って生き続けるのか、共同体と個人の関係性はどうなるのかなど、想像は広く膨らむ。そこまで考えると、冒頭の街のシーンが現代と変わらないことに非常に違和感を覚える。
 加えて、本作品のように主人公をサイバー刑事にしてしまうと、必然的に殺人事件がプロットとなる。するとうわべの事実ばかりが重要視され、記憶を共有した社会での人間の精神的な対応がどのようであったのかは置き去りにされてしまう。
 思考実験としては面白いが、人の内面に対する掘り下げがないから、上っ面のドラマになってしまった。SEO対策みたいにアルゴリズムの解析に話を持っていったのは、製作者がSF作品としての掘り下げを諦めたような感じさえする。アイデア倒れに終わった典型的な映画と言えるかもしれない。


映画「ハンターキラー」

2019年04月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ハンターキラー」を観た。
 https://gaga.ne.jp/hunterkiller/

 アーカンソーというと、ウィリアム・クリントンが知事を務めていた州を思い出すが、ここでは攻撃型原子力潜水艦(ハンターキラー)のひとつである。艦長がいなくなっていたために、急に任命された新しい艦長が、行方不明になっている原潜を探す任務に出る。
 その最中にロシアで政変が勃発し、新しい任務が命ぜられて、高高度ヘイロー降下で地上に潜入した特殊舞台のバックアップに向かうというストーリーである。ロシアの軍港にアメリカの原潜が侵入するのは如何にも荒唐無稽で、そして如何にも映画向けである。
 かなり前に第二次世界大戦のドイツ軍の潜水艦を舞台にした「Uボート」という映画を観たことがある。潜水艦はその構造上から視界が効かないから、音が頼りである。それは敵も同じで、音波の跳ね返りを受信することで相手の物体の位置や大きさ、質量などを判断する。しかし音を発信しすぎると、発信源を突き止められる場合がある。そこで駆逐艦などではパッシブソナーといって、受信するだけのソナーを使って海中の潜水艦の場所を探索する。駆逐艦は潜水艦にとって天敵で、Uボートの乗組員は駆逐艦だと知っただけで恐怖におののき、じっと息を殺す。
 潜水艦は原潜であっても基本的に昔と変わらず、駆逐艦には敵わない。通常の魚雷では速度が遅すぎて船体に穴を開けることもできないし、核弾頭を搭載している原潜でも、近くの敵にSLBMを発射する訳にはいかない。駆逐艦が近づいたら息を潜めて通り過ぎるのを待つしかないのだ。映画「Uボート」はその緊迫感が半端ではなかった。
 本作品も潜水艦の王道に従って、ソナー員の後ろに構える艦長が主役である。息を殺す場面では、観客も一緒になって息を殺す。通り過ぎてホッとするのも同じである。潜水艦の中のシーンがかなりの割合を占める作品だが、継続する緊迫感でスクリーンから目を離すことができない。よく考えられたプロットである。
 最初から最後まで、次はどうなるんだろうとワクワクしながら観ることができる。娯楽作品としてはレベルが高い作品である。国家間の駆け引きに政治家同士の駆け引きがあって、多重構造になっているのも面白い。にもかかわらず、アメリカでは評価が低いようだ。
 イギリス映画だから、ハリウッドみたいに家族愛を持ち出して白けさせることもないだろうと思っていた。期待に違わず、国家主義も家族第一主義も登場しない。敵であっても無防備の者は殺さないというヒューマニズムさえ登場する。そしてその点こそがアメリカでの低評価に違いない。


映画「洗骨」

2019年04月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「洗骨」を観た。
 http://senkotsu-movie.com/

 本作品のスケールの大きな世界観に驚いたというのが、鑑賞後の正直な感想である。
 映画の前半は、地方の島らしく未だに残る封建主義と家族主義の価値観が登場人物を支配していて、少し嫌悪感を覚えた。そういう閉じ込められたような価値観の中で進む物語なのかと思ってしまった。そして奥田瑛二演じる主人公新城信綱の魂の再生が主なテーマなのだろうと勝手に予想してしまう。前半は、ある意味退屈である。
 ところが後半になると、主人公は必ずしも信綱ではないと思いはじめる。そして登場人物たちのセリフが、封建主義や家族主義から逸脱して、本音で語りはじめる。それまで感情移入できなかった登場人物たちが俄然輝き出し、人間的な魅力に溢れてくる。そのきっかけは意外にもハイキングウォーキングのQ太郎の登場であった。
 島の風習を熟知し、島の考え方に染まっている人たちばかりのところに、考え方の異なる未知の人間が現れれば、それだけでダイナミズムが生じる。異世界であった島の出来事が身近なものとなり、洗骨という儀式が現実味を帯びてくる。それから先は怒涛の展開で、男たちによるプチ巻網漁での小魚獲りから洗骨に至る数々の場面は、息を呑むシーンの連続であった。あるときはほのぼのして、あるときは緊張感があり、あるときは厳かである。これほどのシーンを撮ることができた照屋監督は賞賛に値する。
 俳優陣はQ太郎も含めて好演。特に大島蓉子の迫力のある演技は、流石に舞台で鍛えられただけある。一瞬でその場の空気を決めてしまうほどである。水崎綾女は河瀨直美監督の「光」で永瀬正敏を相手に主演を務めた。そのときは目に力のある女優さんという感想だったが、本作品でも同様に目に力をためて、封建的な島のパラダイムや、ひとりで生きていく不安と闘う気持ちをそれなりに表現できていたと思う。
 島の風景は何処も美しい。植物も動物も全て包み込んで海に囲まれている様子は、静かに微笑む女性のようでもある。筒井道隆のモノローグに少し説明過多を感じたが、島と人、生と死をこれほどうまく、そして同時に表現した映画ははじめて観た。死ときちんと対峙し、生命ときちんと対峙する。その圧倒的なリアリティに、これまで経験したことのない不思議な感動を覚えた。傑作である。


映画「In den Gangen」(邦題「希望の灯り」)

2019年04月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「In den Gangen」(邦題「希望の灯り」)を観た。
 http://kibou-akari.ayapro.ne.jp/

 ミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカ、グラスノスチという政策を実行して、ベルリンの壁の取り壊しに至ったことを、ただ純粋にいいことのように思っていた。しかし東側諸国の人々がそれで救われたのかについては、思いが至っていなかった。それは資本主義=自由、社会主義=束縛というステレオタイプの考え方に脳が硬直していたからかもしれない。
 人間の幸せとは何か、生き甲斐とは何かについて、改めて考えさせられる作品である。無口な主人公の控えめな生き方には、希望と絶望、怒りと諦めが互いにせめぎあっている内面がありありと感じられ、誰もが共感せざるを得ない。生きていることは悲しいことなのだ。
 ドイツ語のタイトルは「通路にて」みたいな意味だと思う。フォークリフトが行き交う巨大スーパーの通路で陳列棚を挟んで主人公クリスティアンとマリオンが笑顔を交わす。
 役者はみな素晴らしい演技だった。特にブルーノを演じた俳優は、これこそまさに中年男の悲哀という表情をする。人は時代に育てられて大人になり、大人になったら時代に飲み込まれて行き場を失なう。
 しかし行き場を失っても生きていかねばならない現実がある。そこで人は小さな楽しみを見つけ出す。それは仕事が終わってから一杯だけ飲むビールでもいい。今日買った靴を明日の朝履くことでもいい。または職場の女性と昨日よりも少しだけ仲よくなることでもいい。
 ドイツの人々にとって、ヨハン・シュトラウス二世は特別な音楽家なのかもしれない。「美しく青きドナウ」の旋律が広い通路に流れるように響き渡る。これを聞くのを楽しみにしている人もいる。
 そういった楽しみを心の灯火にして、明日までは生きられる。しかしできることなら、他人から必要とされたい。無用と思われたら小さな楽しみも消えるだろう。
 主人公が仕事帰りに顔なじみのバスの運転手に今日はどんな一日だったかを聞かれ、いい一日だったと答える場面は素晴らしい。仕事の愚痴は言うものではない。そんな優しさがあり、思いやりがある。いい映画だった。


映画「麻雀放浪記2020」

2019年04月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「麻雀放浪記2020」を観た。
 http://www.mahjongg2020.jp/

 阿佐田哲也の文庫本は何冊か読んだことがある。本名の色川武大名義で直木三十五賞を受賞した「離婚」も読んだ。阿佐田哲也名義の本はすべて麻雀の本で、引っ越しの際に全部処分してしまったので読み返すことはできないが、いくつかのフレーズやシーンは頭に残っている。特に印象的だったのが、老人たちと麻雀を打つ場面で、金は賭けていないが別のものを賭けていると言う。それは体の一部を取ることだ。負けたら片方の腕か、片方の目か、また歯を全部取られるか。阿佐田哲也は牌を握りながら脂汗を掻いて震えてしまう。それを見て老人たちは「阿佐田哲也が震えている」と笑う。実は彼らは戦争で身体の一部を失った人たちで、それを利用して有名な雀士の阿佐田哲也に一杯食わせたのだ。

 麻雀のシーンは、麻雀を知らない人には意味不明だろう。昔は全自動卓などなく、手積みで牌を積んでいた。イカサマを防止するためにサイコロを二度振る。一度目はどの山から取るかを決めるサイコロを親が振る。数の割当ては東家(トンチャ)である親が一で南家、西家、北家が二、三、四となる。五以降は再び東家から回る。麻雀が東西南北ではなく東南西北なのは右側の人に親が移っていく周りを示しているからである。一度目のサイコロで自分の山から取ることになった人が二度目のサイコロを振る。何度か出てきた二の二の天和(テンホー)というシーンでは、親が二を出し、南家も二を出して、合計の4山(8牌)を残して南家の山から配牌を取る。親と南家が協力して積み込めば、天和で上がることが可能だ。

 麻雀の解説はそれくらいで作品についてだが、幾多の突っ込みどころをすべて飲み込んで観れば、そんなに悪くない。昭和風のエロとナンセンスがオリンピックを笑い飛ばすところが特にいい。政府側の悪徳政治家がピエール瀧というのも、いまとなってはブラックジョークだ。実際の東京オリンピック組織委員会の森喜朗のほうは、国民の税金を思い切り無駄遣いしているから、ピエール瀧の何千倍も悪党である。
 冒頭では思い切りのいい暴力シーンの演出が冴えている。国家主義に戻った日本で警察官が反体制の人々を直接的な暴力で弾圧するプロットも面白い。その一方でオリンピックが中止となった不満を持つ大衆に対して、麻雀大会を開いて誤魔化そうとしているところは、目先を変えてはぐらかすアベ政治とそっくりだ。オリンピックよりも麻雀のほうがずっと面白いという価値観は洒落が効いている。
 役者陣はそこそこ健闘している。斎藤工はエキセントリックな役柄を上手にこなしていたし、竹中直人は名人だ。しかし的場浩司のドサ健だけはハズレ。小説のドサ健はもう少し人間に深みがあった。ベッキーは演技に難があるのを無表情なAIの役にすることで、逆に妙な色気が出たところがいい。脚を舐めるように映すシーンはフェティシズムを刺激する。ベッキーはやっぱり脚だなあと、変な感想を思ってしまった。


映画「ザ・プレイス 運命の交差点」

2019年04月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ザ・プレイス 運命の交差点」を観た。
 http://theplace-movie.com/

 舞台は交差点にあるガラス張りのカフェ。窓際の同じ席に同じ男が座り続けている。食事をし、コーヒーを飲み、目の前に座る人物を相手に何やら契約を交わしている。混雑時も閑散時もそして閉店後も、男は同じように座っている。店はそれを容認しているようだ。男の正体は謎であるが、店の正体もまた謎である。
 人々がどのようにして男の存在を知ったのか、契約条件は何なのか、男は店に金を払っているのかなど、観ているうちに疑問が次々に湧き上がってくる。しかしその疑問よりも、契約者の報告の方に物語の主眼が置かれていて、設定が理解できないままにストーリーが進んでいく。
 それぞれの契約者の話はわかりやすい。契約者同士が絡み合うこともあるだろうとはすぐに想像がつく。実際にそういう風になる。しかし、だからどうした?という感想しか湧かない。契約者の望みが浅薄であり、成果も明白ではないこともあるが、契約者たちがそれぞれに本当にそれを望んでいるのかという点に疑問符がつくのが最大の原因である。
 そのために教室での思考実験的な場面を見せられているかのような感覚を覚えてしまう。興味は男が神なのか、それとも別の何かなのかという点に絞られるが、それも判明しない。店そのものがどんな意味を持って存在したのかもはっきりせず、ウェイトレスの正体も不明である。
 映画としてワクワクするかというと、それほどでもない。世界観に深みがあるかというと、そうでもない。男と契約者の会話はスリリングでそれなりに面白いが、それだけだ。作品に奥行きがないから、不明なところがあっても、もう一度見る気にはならない。学生が書いた頭でっかちの小説みたいな、そんな映画だった。


映画「ソローキンの見た桜」

2019年04月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ソローキンの見た桜」を観た。
 https://sorokin-movie.com/

 露日戦争時の日本を舞台にしたヒューマンドラマである。20世紀を迎えて間もない頃が舞台だが、世界の政治家たちのやっていることは、19世紀から続いている覇権争いだ。武器も兵器も船舶も日進月歩だから、戦争による被害は等比級数的に増大し続けている。
 明治維新の政治家たちが今の政治家よりも優れていたみたいな誤解があるが、そんなに変わりはしない。むしろ維新の人間たちは粗野で暴力的で、自分の意見を通すために簡単に人を殺していたイメージがある。そこにはヒューマニズムは存在せず、意見の異なるナショナリスト同士が争っていただけだ。暴走族同士の争いと大差がない低レベルの出来事が明治維新なのだ。
 そんな政治家のレベルとは裏腹に、西洋文化と交流した民間の人々の知識レベルは格段に向上した。しかしいつの時代も、民間の知識や技術の向上は常に政治家によって悪用される。但し軍需産業だけは、悪用されることを前提にしている訳だから、そもそも悪用という言葉は当たらない。ちなみに軍需産業というとアメリカの専売特許みたいに思っている人がいるかもしれないが、日本にも軍需産業の企業はたくさん存在する。三菱重工や東芝は有名だが、トヨタや日産も利益の一部は軍需によって得ている。全部で数百企業に及び、日本の防衛費という名目で間接的に国民の税金を搾取している。
 維新後の政治家たちが何をしたかというと、尊皇攘夷、富国強兵である。その成果を確かめるように日清戦争を起こし、日露戦争を仕掛けた。本作品はそんな維新の残党のクズ連中が牛耳る日本では、人々が精神的にも国家主義に蹂躙されていたことを伝えている。ロシア人捕虜に向かって殺してやると叫ぶ子供は、心の底からロシア人を憎んでいるわけではない。時代のパラダイムがロシア人憎しという感情を強制しているだけである。

 そんな中でパラダイムに縛られずに自由な精神を持つことがどれほど大変だったかは想像に難くない。阿部純子演じる主人公武田ゆいは、稀に見る自由闊達な精神の持ち主で、国家主義のパラダイムの中にあってヒューマニズムを貫いた立派な女性である。ソローキンでなくても好きにならずにいられない。
 ソローキンもまた、絶対王政から政治を民衆の手に取り戻す社会主義革命の活動家であり、ゆいのヒューマニズムに共鳴したのは自然の成り行きである。脚本はとても優れていて、無理なく納得できる。
 阿部純子は役所広司主演の映画「孤狼の血」で松坂桃李のカウンターパートを上手に演じていたのが印象的だったが、本作品では一段階進んでいる。封建主義と国家主義の環境下で、ヒューマニズムと恋愛感情に揺れる乙女心をわかりやすく、そして美しく演じて見せた。名演と言っていい。
 脇役陣はいずれも上手に作品を盛り上げていて、特にイッセー尾形の役どころの所長がいい味を出していた。もしかしたら日本の役人も捨てたものではないかもしれないと思わせる、人間味に溢れる演技は流石である。
 ラスト近くからのチェロの儚い音色が桜の美しい映像と相俟って、悲恋の物語の最後に余韻を残す。ヒロインの思いが怒濤のように押し寄せてくるようで、涙を禁じ得なかった。心が洗われるような佳作である。


映画「バイス」

2019年04月16日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「バイス」を観た。
 https://longride.jp/vice/

 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ・ジュニアは、アメリカの歴代大統領の中でも最も愚かな大統領だった。当然ながらオーヴァルオフィスのスタッフも輪をかけて頭の悪い連中ばかりで、彼らほど、stupidという単語がよく似合う人間たちはいない。
 そんなクズ連中に尻尾を振って言いなりになっているのが歴代の自民党政権である。ある意味、世界で最も愚かな政治家は彼らだとも言える。アメリカが日本に突きつけてきた年次改革要望書のことは誰もがご存じと思うが、郵政民営化も安保法制も特定秘密保護法案も全部そこに書かれている。日本の歴代の自民党政権はマリオネット、要するに傀儡政権で、書かれてあることをやっていただけである。サングラスを掛けてブッシュの前でプレスリーを歌った小泉純一郎はまさに幇間そのものであった。
 唯一マリオネットでなかったのが鳩山由紀夫で、アメリカに従う気がまったくなかった。慌てたのはCIAである。鳩山由紀夫のアラを探せということで懸命に身辺調査をしたが、驚くほど清廉潔白であったために、母親から金をもらっていたという、別に違法でも何でもない行為をさも悪い行為であるかのようにマスコミに報道させて、なんとか総理の座から引きずり下ろした。CIAの陰謀というと如何にも胡散臭いが、実際に日常的に行なわれている政治的行為である。
 CIAは3万人を超える職員がいて、現場のエージェントの中にはcompromise(妥協させる)を職務としている者もいる。CIAがcompromiseを使うときは殺すという意味である。私の推理では、鳩山由紀夫が総理大臣を辞めなければcompromiseされていただろうと思う。もともと自民党にいた小沢一郎はそのことを知っていて、鳩山由紀夫の命を守るために辞めさせたのだ。逆に言えば、アメリカの言いなりになっている限り、モリカケ問題がどれだけ追求されようとも、そういう事実はないと本人が主張するだけで、いつまでも総理大臣でいられる。それがアメリカと日本の現実である。
 さて本作品は、ホワイトハウスの中でも頭が悪いだけでなく人間としても最悪だったのがチェイニーだと、堂々と主張する。日本ではアホウ副総理がカウンターパートとして相応しい。偉そうなところも権力志向も身内第一主義もよく似ている。
 愚かな権力者をのさばらせたのは、選挙で彼らを当選させた有権者である。トランプを当選させたのも、イギリスのEU離脱を決めたのも、モリカケ疑惑も何のその、アベ自民党を大勝させたのも、全て有権者である。当選するほうもさせるほうも、同じ穴のムジナなのだ。

 アメリカンドリームという言葉をよく考えてみるといい。それは貧乏人が金持ちになることだ。そして金持ちとは何かというと、これは比較の問題であって、貧乏人がいるから金持ちが存在する。貧乏人のいない世界に金持ちはいない。つまり金持ちという言葉は格差そのものだ。そしてアメリカンドリームは格差礼賛の言葉なのである。アメリカの夢とはその程度だ。
 ステージに上がる金持ちに向かってスタンディングオベーションをする大衆は、いつか自分もステージに上がれると思っている。だから貧乏人も金持ちに投票するのだ。金持ちになることが夢だという国の、なんと貧しいことか。そういう貧しい国だからこそ、ブッシュ大統領やチェイニー副大統領が誕生した。
 しかし我が身を振り返ると、自分はチェイニーと同じではないのか。金持ちになりたいと一攫千金を夢見たり、他人に自慢したり褒められたいと思ってはいないか。自己保身のために嘘をついていないか。権謀術数を使って他人を追い詰めてはいないか。子供に金持ちになってほしいと願っていないか。
 むろん我々の中にもチェイニー的要素、アベ的な要素はもちろんある。そういう要素がブッシュを生み、チェイニーを生んだ。自分さえ裕福になればいいと思う人は、地元に便宜を図ってくれる代議士をセンセイと呼び、白紙委任の有効票を投じる。そのセンセイは実はアメリカの犬だ。
 アメリカではチェイニーがいなくなってもトランプが現れ、トランプがいなくなっても第二のトランプが現れる。アメリカはそうやってアメリカンドリームという名前の格差社会をこれからも維持し続けるのだ。それは取りも直さず、民衆自身がそれを願っているからなのである。
 日本にもこういう映画を作る勇気のある人は、結構いると思う。しかし多分金が集まらない。映画会社はやろうとしない。配給会社は配給しない。映画館は上映しない。もし作ったとしても特定秘密保護法の対象として逮捕されるかもしれない。日本はそういう国だ。こんな映画が上映されるだけ、アメリカは日本よりもかなりマシな国である。
 最後にミニ知識をひとつ。シークレットサービスがチェイニーをアングラー(釣り師)と呼ぶ場面があった。シークレットサービスは大統領をはじめとする要人にあだ名を付ける。チェイニーは釣りが好きだからそう名付けられたのだろう。