三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ギルティ」

2019年02月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ギルティ」を観た。
 https://guilty-movie.jp/

 企業の創業者でカリスマと呼ばれている人は、大抵頭がおかしい。まず一般的な挨拶ができないし、所謂口の利き方を知らない。他人は全部バカで物事がわかっているのは自分だけ、だからバカは俺の言うことを聞けと思っている。こういう社長から電話が来たら大変だ。最初から最後まで怒鳴り散らされる。しかも何を言っているのか分からない。カリスマが頭がおかしいのは非論理的だからでもある。
 クレームの電話をしてくる客も同じようなところがあって、事実を自分の都合のいいように捻じ曲げて、だから謝罪しろ、すぐに謝罪しろ、土下座しろ、金をよこせなどとヤクザまがいの文言を平気で言う。客は神様だから上下関係ははっきりしているとでも思っているのだろう。
 そういう電話を受ける仕事をしたことがある。カリスマからの電話は、まず何を言っているのかはっきりさせるところからはじまる。質問をしているうちに落ち着いてくる場合もあれば、ますます激高する場合もある。クレーム客からの電話は、主張する内容が事実に即しているかどうかを考えながら対応する。確認して折り返すと電話番号を聞くと、嘘をついていない客はそうしてくれと言うが、嘘をついている客は「オレが嘘をついているというのか」と激怒することがある。
 厄介なのは実は嘘をついていない客だ。嘘をついていないことが必ずしも事実を言っていることではない。自分で本当のことだと思いこんでいるから、堂々と確認してくれと言うのだ。それで現場に確認したり、防犯カメラの映像を見たりすると、言っている内容とはまったく違うことがある。電話を折り返して、それをどう説明するか、大変に気骨が折れる作業である。

 これまで110番や119番には何度かかけたことがあるが、こちらの状況を告げるだけで精一杯だった。電話の相手が8時間ほどの勤務時間をどのように過ごしているのか、考えたこともなかった。しかし本作品を観て、カリスマとクレームの電話の相手をしていたときのことをまざまざと思い出し、緊急電話を受ける仕事をしている人の大変さを思った。
 電話の向こうで何が起きているのか、想像力をフル回転させながら対応するが、情報が乏しいと対応も定まらない。空白を想像力で補おうとすると、事実を思い違うことがある。クレーム客の言うことを信じて現場を叱責すると、思いもよらぬ事実を明らかにされて面食らったことは何度もある。対応は慎重にならざるを得ないし、次第に決まった役割以上のことはしないようになる。
 本作品では、まだ緊急ダイヤルの仕事に慣れていない警察官が主人公である。様々な通報に対して、これまでの経験から判断しようとするが、刑事のときの思い込みが逆に客観性を阻害する。そこで気がつくのだ。これまで勝手な思い込みで容疑者を追い詰めてきた。そこに真実はあったのか?

 主人公と、同じオフィスにいる数人の同僚を除いて、登場人物はほとんど声だけだが、呼び出し音と出るまでの間であったり、声の調子や話し方、周囲の音など、とてもリアルである。ひとり芝居の舞台を見ているような映画で、観客も主人公と一緒になって電話から聞こえるあらゆる音に耳を澄ませる。展開は緩急があり、断片的だった情報が結末に向けて一気に収斂していく。ジェットコースターのような88分であった。


映画「La douleur」(邦題「あなたはまだ帰ってこない」)

2019年02月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「La douleur」(邦題「あなたはまだ帰ってこない」)を観た。
 http://hark3.com/anatawamada/

 世界大戦はその名の通り世界中の人々を深く傷つけた。人々の犠牲のない戦争は存在しないが、中でも第二次大戦は開発された新兵器による大量虐殺が特に顕著になった戦争だ。当然ながら傷ついた人の数もそれまでの戦争とは桁違いに多かった。だから第二次大戦を題材にした映画の数も膨大である。
 本作品は銃後の生活を扱っていて、レジスタンス活動で逮捕された夫を待ち続ける妻の話である。映画の前半と後半でテーマが異なっていて、前半では、古い歌で恐縮だが、かぐや姫が歌った「あの人の手紙」を思い出した。ご存知ない方のために2番の歌詞の一部を紹介する。
♪耐えきれない毎日はとても長く感じて~涙も枯れたある日突然帰ってきた人~ほんとにあなたなの、さあ早くお部屋の中へ~あなたの好きな白百合をかかさず窓辺に飾っていたわ♪ 要するに、理不尽に戦場へ送られた夫をひたすら待つ妻の話である。しかし3番の歌詞になると、♪昨日手紙がついたのあなたの死を告げた手紙が♪と、実は帰ってきたのは夫の幻影だったというオチになる。
 本作品は妻の強かさという点で、かぐや姫の歌のヒロインと大きく異なる。ナチスに協力するフランスの戦時政権の官憲であるラビエを相手に、スパイ同士のような丁々発止のやり取りをする。

 この映画を理解するための政治的な背景を簡単に書くと、ナチスに占領されたときのフランスの政権は、抗戦派は追放され、あるいは亡命したので、ナチスに協力する政権であった。トランプ政権になんでも「100%一致している」と言って日本人の保険料もゆうちょの預金も差し出しているアベ政権と同じだ。そしてフランス国民の多くは傀儡政権であるペタン政権を支持した。第二次大戦時のフランス人は全員ナチスに反対するレジスタンスか、その協力者だったという印象が強いが、実はレジスタンスはほんの一握りで、多くの人はレジスタンスを逮捕したり、ユダヤ人を排斥する立場にいたのだ。
 そんな背景があり、しかも主人公の職業が作家であるということを考えると、ナチス占領下のパリでの生活は、薄氷の上に立っているようなものであった。ナチス協力者が圧倒的多数を占めるパリ。東京都民の殆どがアベ応援団になっているようなものだ。しかし妻として夫の側につきたいという気持ちと、作家としての反骨精神の両方があって、ナチスの敗北と連合軍の勝利を堂々と主張する。前半はある意味爽快な感じさえする話だった。

 しかし後半になると、妻や作家よりも女が前面に出てくる。夫を待つ妻の役割に疑問が浮かんでしまう。それに近くに自分を思ってくれる男がいる。遠くの親戚よりも近くの他人ということもある。待っているうちに夫のイメージが薄れていく。逆に近くの男の存在がどんどん大きくなる。もはや夫は失われた記憶に過ぎないものとなる。原題のフランス語「La douleur」は多義的な単語で、女性の苦しみのすべてを一言で表すような言葉だが、後半のイメージはまさにこの単語に集約される。

 フランス映画は哲学的であるがゆえに冷徹だ。戦争中にナチスに協力したフランス人の富裕層の振る舞いを言い訳できないほどストレートに描く。また、夫を待つ妻が実は心の中は愛に飢える女であることを遠慮なく赤裸々に描く。人間は愚かで臆病で自分勝手な存在だ。それゆえにいつまでも戦争がなくならない。共同体との関わり、属する組織、属さない組織とのそれぞれの拘り、そして自分自身との関わりという3つのバランスを危うく保ちながら、綱渡りするように生きている。それは哀しいことでも嬉しいことでも、いいことでも悪いことでもない。人間はそういうものなのだ。本作品はそのように語りかけてくる。


芝居「風の又三郎」

2019年02月24日 | 映画・舞台・コンサート

 Bunkamuraシアター・コクーンで舞台「風の又三郎」を観た。
 https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/19_kazemata/

 開宴5分前に入場すると、観客の9割は女性である。当然ながら周囲の客もみんな女性で、中には肩や背中を出した若い女性客もいた。ダブル主演の窪田正孝も宝塚出身の柚希礼音(ゆずきれおん)も女性に人気があるのだろう。状況劇場の唐十郎を知っているとは思えない人たちがアングラ劇を観劇するということについて、なんとも隔世の感がある。
 芝居は歌あり踊りありで柚希礼音の独壇場みたいな部分もあったが、宮沢賢治の原作の幻想的なイメージもチラホラしていて、クレーンの仕掛けなども加わって、結構楽しめる芝居になっていた。休憩を入れて3時間の長丁場だが、まったく飽きずに見続けることができる。芝居に行くたびに見かけるうたた寝をする人は、今回はひとりもいなかった。
 柚希礼音の宝塚風の歌い方が凄い。高音も地声で歌うので喉がかなり酷使されて疲れるはずなのに、最後の最後まで歌声は朗々としていた。
 風間杜夫や六平直政のコミカルな芝居はアングラ劇ならではの観客との距離を縮めるもので、笑えるシーンがたくさんあったことも飽きない理由のひとつだった。
 チケット10,500円とその他で総額11,418円の料金に十分見合う内容だったと思う。


映画「フォルトゥナの瞳」

2019年02月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「フォルトゥナの瞳」を観た。
 http://fortuna-movie.com/

 冒頭のロールで原作百田尚樹という文字が出て少し驚いた。百田尚樹は「南京大虐殺はなかった」などと発言しているアベ応援団の一人である。席を立とうかと一瞬迷ったが、原作者の人格と映画作品は別であると思い直した。
 ストーリーはかなりのご都合主義で、展開に無理があるシーンもいくつかあったが、神木隆之介の達者な演技でなんとかカバーできていた。演出の力も大きかったと思う。脇役陣の配役も十分で、時任三郎と斉藤由貴の夫婦が作品にリアリティをもたらしている。
 相手役の葵の有村架純はもう少し奥行きのある演技をしてほしかった気がする。主人公の年齢から推定すると葵は25か26歳くらいの筈だが、普段着の女子高生くらいにしか見えなかった。原作の人物造形が浅かったのかもしれない。素直でとても可愛い女性の役としては、十分な演技ではあった。決して下手ではない。主人公に癒しと安らぎを与える女性で、可愛すぎて何度か泣けそうになった。
 原作の役割は特殊な目を持った主人公というアイデアが主体だろう。主人公を英雄扱いしない演出は好感が持てる。伏線はすべて拾われており、後味のすっきりとした佳作である。


映画「The favourite」(邦題「女王陛下のお気に入り」)

2019年02月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The favourite」(邦題「女王陛下のお気に入り」)を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/Joouheika/

 人類にとって民主主義の歴史は浅い。
 共同体の最初は王政だった。文明初期の治水権をはじめとした諸権利を持つ者が共同体の王となり、王政のもとでは当然のごとくヒエラルキーが定められ、共同体は国家となり、国家の価値観がそのまま人々の価値観となった。差別は当然で、そもそも差別という言葉さえなかったに違いない。ヒエラルキーの下層にいる人々は不満しかなかっただろう。中には生に倦み、絶望して死ぬ者もいただろうが、大抵は生への執着を捨てきれず、恐怖と不安と苦しみの毎日を死ぬまで生きたに違いない。
 時代が下って人々の連絡手段や交通手段が発達すると、不満を持つ人々の連携が生まれる。連携は連帯となり、やがて革命が起きて共同体は違う権力者によって統治される。初期の革命で成立した政治体制は、まだ十分な民主主義とは言えなかった。そして現代に至っても、民主主義は完成途上である。フランス革命のスローガンであった、自由、平等、友愛が実現されるにはまだまだ困難な道のりが残っている。
 革命によって民主主義体制になっても、婦人参政権の実現は遅れた。イギリスでは、映画「Suffragette」(邦題「未来を花束にして」)に登場する20世紀初めのサフラジェットたちの活躍を待たねばならなかった。他にはもっと遅い国もあり、スイスでは婦人参政権が認められたのは1991年のことである。わずか28年前のことだ。

 アン女王が統治した18世紀のはじめは、政治家は当然ながら全員男で、女は男に対して失礼があれば服を脱がされ鞭打ちの罰を受ける。女性差別も甚だしい時代だ。女たちはひたすら蹂躙されながら生きていた。唯一政治的な権限がある女は、他ならぬアン女王ただひとりである。従って女王の側近の女たちは国中で数少ない権力を持つチャンスのある女たちだ。もちろん自分自身で権力を持つことはできないが、アン女王を取り込めば権力者同然に振る舞える。
 本作品はそんな女同士のエゲツない権力闘争を赤裸々に表現したものだ。脅しすかし、苦言と甘言、場合によっては肉欲にさえ訴えて、アンのお気に入りになろうとする。愚劣極まりないが、こういう権力闘争によって歴史が作られてきたのは事実である。人類の歴史は即ち負の遺産なのだ。

 役者陣はみんな演技が達者で、エマ・ストーンももちろんだが、女王役を演じたオリビア・コールマンの演技が秀逸だった。サラを演じたレイチェル・ワイズとともに、スクリーンに広がる圧倒的な存在感で女の情念と女の計算高さ、そして女の肝っ玉を見せる。差別され虐げられてきてもなお、人類の存続の片棒を担ぎ続けてきた女というものの強かさをこれでもかとばかりに見せつけられた気がした。


天皇が謝罪すればいい

2019年02月18日 | 政治・社会・会社

「お前じゃなくて社長が出てきて謝れよ」
 昔クレーム対応をしていた時に、よくお客さんから言われた言葉である。こういう言葉に対して「社長を出せなんて無礼だ」などという返事はありえない。迷惑を被ったのはお客さんで、こちらは加害者の立場だ。確かに言いがかりみたいなクレームもあった。そんなときは社長に連絡することはないが、お客さんが怪我をしたとか火傷をしたとか、そういう重い被害のときには場合によっては社長が対応することもある。被害者からすればトップが出てきて謝罪するのが当然だと思う心理は、確かに当然だ。
 さて韓国の国会議長が「天皇が謝罪すればいい」と言ったとか。国家と国家を人格になぞらえて言うならば、韓国はどう考えても被害者である。豊臣秀吉の昔から、中国と日本で朝鮮半島を好き勝手に踏み荒らしてきた。その歴史を踏まえれば、トップが謝罪するのは当然で、ましてや第二次大戦は大東亜共栄圏などという滅茶苦茶な大義名分で韓国の国土と国民を蹂躙してきたのは明らかである。A級戦犯たちは、遠山景元の白洲であれば市中引き回しの上打ち首獄門に処せられたであろう。
 現代は一部の国を除いて残虐刑が禁じられているから、A級戦犯たちも打ち首獄門にならずに済んだ。中にはうまく立ち回って不起訴となった者もいる。安倍晋三の祖父、岸信介である。それに昭和天皇だ。アメリカは日本と日本人を研究して、権威に弱いその国民性から、A級戦犯である筈の昭和天皇を断罪しなかった。精神力の弱い国民性だから、天皇という拠り所を失えば何をしでかすかわからなかったからだ。
 そうやってアメリカに勘弁してもらったとはいえ、昭和天皇は戦争犯罪人であることは明らかだ。息子である明仁がその重荷を背負ってアジア各地を行脚したことは誰でも知っている。父親の犯罪から逃げないで、立派に天皇としての務めを果たしてきた。再度韓国に謝ることにどれほどの抵抗があろうか。父が大変な迷惑をかけた。本当に済まなかったと言えばいいだけである。心からなどという言葉はない。内心の自由は天皇にだってある。心から詫びているように見えればそれでいいのだ。
 お客さんに大きな迷惑をかけたら、会社であれば社長が謝罪する。ましてや日本はたくさんの朝鮮人の命を奪っているのである。トップが謝罪して当然だし、謝罪で済むならこれほど有り難い話はない。逆に謝罪さえできないとなれば、朝鮮半島と日本の関係は更に悪化する。安倍晋三のゴミみたいなプライドのおかげで戦争になったりすれば、目も当てられない。それは平成天皇も浩宮も同じ気持ちだろう。特に明仁はすぐにでもソウルに行って謝罪をしたいと思っているはずだ。これまでの彼の地道な活動を考えれば、当然のことである。
 朝鮮半島の文化は日本と同じ神道である。それもそのはず、神道は日本古来ではなく、朝鮮半島から伝わったとされているのだ。神道は権威を重んじるから、総理大臣よりも天皇が謝罪したほうが一度で済む。世界の王のランキングで言えばエンペラーに当たる日本の天皇の権威は最高ランクである。それより上の謝罪はないのだ。自由な精神の持ち主は、エンペラーの権威など歯牙にもかけないだろうし、そもそもそういう人は謝罪など求めないだろう。権威主義の国家と国民が権威からの謝罪を求めるという、低レベルの言い争いが今回の話の本質だ。だからこそ、そんな子供の喧嘩みたいなレベルで戦争がはじまってほしくない。そう思っている人間は皇室にも国民にもたくさんいるだろう。


映画「七つの会議」

2019年02月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「七つの会議」を観た。
 http://nanakai-movie.jp/

 朝倉あきがいい。大らかで包み込むような、稀有な雰囲気を持っている。特に声がいい。幅があって落ち着いていて、上滑りしない。やまとことばに相応しい声である。本作品のナレーションにぴったりで、安心して物語に入り込むことができた。
 ストーリーは予告編から想像していた通りだったが、何が起きているのかわからない企業の闇を探っていくのが、朝倉あき演じる寿退社予定のOL浜本優衣なのだ。その一方で野村萬斎の主人公八角民夫は、ぐうたらしているようで実は問題の本質に迫っているという、なかなかに日本人好みの人物設定である。
 社内不倫やドーナツの試験販売など、サブストーリーも鏤めながら、飽きさせないペースで大団円に向かっていく。ワクワクする感じもあるが、どうせ日本の組織は根本から腐っているという失望感もある。
 しかし主人公は諦めない。そして浜本優衣も決して放り出さない。大和魂は政治家が捏造した大義名分のひとつに過ぎないが、大和撫子は確かに存在する。最後まで朝倉あきの爽やかさに癒やされた作品で、大和撫子これにあり、だ。


映画「Der Hauptmann」(邦題「小さな独裁者」)

2019年02月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Der Hauptmann」(邦題「小さな独裁者」)を観た。
 http://dokusaisha-movie.jp/

 権威とは何か。何によって担保されているのか。当方と同じく気の弱い一般人が畏れる権威や権力が、実は薄氷の上に建っている砂の楼閣かもしれないと思わせる映画である。
 兎に角主人公の奸計が凄い。軍隊はヒエラルキーの組織だから上官の権威はほぼ絶対である。最上位の権威はハイル・ヒトラーでおなじみの総統だから、総統の名前を出せば大抵のことは通せる。首相案件という呼び方で国の基本である資料や統計を捻じ曲げる極東の小国にそっくりだ。
 権威を証明するものは何かというと、これが意外に難しい。もしかしたら上級将校の軍服だけでも権威を得られるかもしれないというのがこの作品の設定である。必ずしもその人物が何かに優れている必要はない。権威に相応しい威圧的な態度や、横柄な言葉遣いがあれば、権威と認められることがある。
 ナチスは役人でできた組織である。役人の基本は昔から自己保身と既得権益への執着だ。それは恐怖心の裏返しでもある。つまり、役人が権威と権力に従うのは恐怖心のためだ。もっと言えば、権威や権力は人々の恐怖心の上にかろうじて支えられているのだ。
 主人公はナチスという官僚機構のそんな構造を知ってか知らずか、修羅場をくぐってきた老練な詐欺師のように、軍服ひとつで権威を獲得していく。最初は主人公の嘘がいつバレるかと思いながら観ているが、そのうちにナチスドイツという巨大組織そのものが、ハリボテの巨大な人形のように思えてくる。こんな嘘のかたまりが世界大戦を始めたのかと愕然とする思いだ。そしてそれを支えたのがドイツ人の恐怖であり、保身であり、既得権益への執着であったと考えると、同じことが世界各地で起きていることにも気がつく。現代にナチスがいたらチンピラに過ぎないが、それが虚構に膨れ上がると戦争を起こしてしまう可能性を持っている。人間はどこまでも小さく、そして愚かであることを改めて突きつけられた気がする。
 全編にわたって綱渡りを観ているかのような緊迫感があり、目の覚める映像や衝撃的なシーンもふんだんに鏤められている。日本語訳詞の「さらばさらばわが友♪」ではじまるドイツ民謡が歌われるシーンでは、その歌が「わかれ」というタイトルだけに、いろいろな比喩を想像させる。最期の字幕で主人公のモデルとなった実在の人物の年齢を知って心底驚いた。文句なしの傑作である。


映画「十二人の死にたい子どもたち」

2019年02月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「十二人の死にたい子どもたち」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/shinitai12/

 舞台の会話劇みたいな映画である。インターネットの時代ならではの設定で、星新一のショートショートみたいだ。安楽死を望む12人の登場人物のそれぞれにこの場所に来るまでの背景があり、しかしそれが説明的になりすぎず、話が進むにつれて徐々に明らかになる。よく工夫されていると思う。
 新田真剣佑が非常に重要な役割を果たす。狂言回しと言ってもいい。役からすると少し体格がゴツすぎるきらいはあるが、そこを補う演技力がある。その他の出演者もそれなりに上手に演技していたと思う。特に北村匠海はうまい。「君の膵臓をたべたい」でも光る演技をしていたが、この作品でも登場人物の中でも特に忙しいノブオを自然な感じで表現していた。黒島結菜がどうしても嵐の二宮和也に見えて仕方がなかったのは当方だけか。
 死を自分で選ぶことについて、俗なパラダイムに縛られずに自由に考える場を提供するという設定は画期的だ。実験的な作品だから日常生活からかけ離れているかと思ったが、登場人物それぞれの物語は割と身近な題材ばかりで、子どもたちが自分たちの状況を冷静に受け止めているのがリアルである。自分が世界の中心にいないことをよくわかっているのだ。演出の力と役者陣の演技力で、意外に面白い作品に仕上がったと思う。観ていて楽しかった。


映画「赤い雪 Red Snow」

2019年02月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「赤い雪 Red Snow」を観た。
 https://akaiyuki.jp/

 ひとりの人間の存在は時として非常に小さく、時としてとても大きい。宇宙の時空間から考えれば、人間の存在は一瞬で消えた塵のひとつにすぎないが、日常生活の尺度で言えば、ひとりの人間が周囲に及ぼす影響は意外に大きい。複数の人間が集っているところに暴力団の組員みたいな大男が来たら、たちまち場の雰囲気は凍りつく。大人でもそうなのだから、小さな子供にとって、周囲の人間が与える影響は計り知れない。ましてそれが親ともなると、子供の生殺与奪を左右する力を持っている訳で、そして子供はそのことを知っている。
 ある親が人格破綻者で子供をスポイルする人間だったりすると、その子供は最悪の場合、殺されてしまう。生き延びたとしても、親から愛情を与えられていなければ、愛情というものに無縁の人格になってしまう。愛のない人間に育てられたら、愛のない人間になってしまうのだ。同じことは暴力に対する禁忌についても言える。暴力がタブーであることを教えないと、暴力に歯止めがきかない人間になる。殴られて育った子供は人を殴る人間になるのだ。自分がされたら嫌なことを相手にしないという基本的なルールさえ、破ることに余念のない人間になってしまう。

 本作品はそういった、どうにもならない不条理がテーマである。永瀬正敏が演じる主人公の一希は子供の頃に弟を殺された経験を持つ。容疑者は夏川結衣演じる人格破綻者の女だが、物的証拠がなく、ずっと黙秘したので無罪になってしまう。そのことが主人公にどんな影響を与えたのか。その後主人公はどんな人生を歩んだのか。
 一希よりももっと悲惨なのがもうひとりの主人公、菜葉菜が演じる早百合である。早百合は人格破綻者の母親のせいで幼い頃に心を破壊されてしまった。人格破綻者の貧しい親からは聖人は生まれない。クズがクズを育てて、周囲の人々を不幸に巻き込んでいくのだ。

 主演の菜葉菜は、これまではエキセントリックな脇役が多かったが、本作品では愛情も良心も破壊されて心に穴が空いた、不幸で悲惨で酷薄な女を演じ切った。虚ろなその眼は、戦場で死の恐怖から逃れるために心を無にする兵士のように不気味で恐ろしい。ベテランの永瀬正敏や井浦新を相手に、一歩も引かない見事な演技だった。

 世の中は不条理だ。生きていくこと自体が理に合わない。世の中には本当は絶望しかないのかもしれない。それでも人間は生きていく。繰り返される不条理は人間が絶滅するまで続くのだ。やるせないが、ここまで明らかにされると、ある意味爽快である。鑑賞後は明るい気持ちにはなれないが、決して不快な気分ではない。人間は泥まみれにのたうち回って生きていくと思えば、逆に気が軽くなるものなのだ。