三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

スポーツと戦争の共通点

2007年08月26日 | 政治・社会・会社
スポーツの試合を実際に見に行くことはほとんどありません。プロ野球は15年位前に人から券をもらったので、それで行きました。巨人戦。桑田が投げて打たれていました。それ以外は覚えていません。競馬場には行きますが、競馬はスポーツではないので範囲外となります。ラグビーもサッカーも行きませんね。もっぱら、サッカー以外の競技をテレビ観戦するくらいです。
マラソンやその他の陸上競技など、いわゆる記録が相手のスポーツは苛々せずに見ることができますが、サッカーはいけません。サッカーは相手のことを引っ張り合ったり蹴飛ばし合ったりする場面が多くて、テレビ録画のスローモーション再生で思い切り相手選手のジャージーを引っ張っているのを見ると、いやな気持ちになります。しかもそのプレーが反則にならないことが多くて、ルールにも疑問を感じます。見ると苛々するのでテレビにサッカーが映るとすぐに消します。どうしてこんな競技が人気があるのかなと、本当に疑問を感じますね。サッカーを観戦する狂人たちのことをなんと言うんでしたっけ? あ、フーリガン! ダイナマイトを投げあったり拳銃を乱射したりという、本場外国の度外れたフーリガンから、渋谷の街でバカ丸出しで暴れる日本のフーリガンまで、とにかく最低のレベルの人間が応援するスポーツがサッカーであるという訳ですね。サッカーはSuckerに通じるんでしょうか。
スポーツ自体が本来、戦争や殺し合いをしない代わりの闘争本能のはけ口としての意義を持っているので、肉弾戦の要素を持つスポーツは、観戦する人の闘争本能を刺激する面があります。だからサッカーの観客がフーリガンになるのは仕方がないかというとそうではなくて、人類はずっと闘争しないこと、戦争をしないことを目指してきた訳で、わざわざ観客の闘争本能を引き出すような競技を公開でやらせなくてもいい筈です。何故やらせるんでしょうか。
人間は他人を支配下に置きたい、言うことを聞かせたいという欲求があります。頭の悪い、しかし言い訳の多い部下を持つ上司が「黙ってやれ、馬鹿野郎!」と言いたくなるアレですね。その裏返しで他人からアレコレ命令されたくないという反発心もあります。ところが自分で何でも決めなければならなくなると逆に不安になります。自由の不安というやつですね。また、他人から嫌われることや孤立することを恐れます。そして常に他人に認められたいと思っています。要するに人間関係に人間のすべての悩みがある訳です。「職場の人間関係で悩んでいます」なんてのは当たり前の話で、家族親戚友人知人上司部下同僚恋人愛人隣人から赤の他人に至るまで、人間は常に他人に何かを求め、また求められ、うまくいかずに悩むのです。人間に欲求がある限り、うまくいきっこありません。悩みは永遠に続くのです。
そんな悩みが、プロのスポーツ選手になるといくつか満たされます。他人から認められるし、お金もたくさんもらえる。どうしようもない不良少年がスポーツに目覚めて成功するという馬鹿みたいなストーリーが現実にたくさんありますが、不良少年というのは頭が悪くて想像力に乏しいから、いい想像も悪い想像もあまりできない。だから将来を憂えることなく強気になれます。まるでどこかの国の総理大臣みたいです。スポーツはひとつの戦いですから、弱気な人間は勝てない。その点、頭の悪い不良少年は世を憂える能力も他人を恐れる能力もないから、強気一辺倒で、まさにスポーツに向いているのです。安倍ちゃんは総理大臣よりもスポーツ向きの人間でしょう。ノミの心臓ならぬ安倍のシンゾウ。なんて冗談を言いたくなるくらい悲しい事実ではありますけれども。
たとえば牧師さんや神父さん、お坊さんがサッカーをしていると想像してみます。ジャージーを引っ張り合い、アキレス腱に思い切り蹴りを入れ合う聖職者。こんな聖職者は嫌ですよね? どうして嫌なのかというと、見苦しいからです。浅ましいのです。聖職者は平和を愛し、戦いを嫌い、他人のために犠牲となるのを厭わない人格者でなければなりません。
サッカーという競技は戦争に近いものがあります。戦争では人間は正気を失い、平常時は温厚な人が敵地の住人を強姦したり略奪したりします。まさにフーリガンと同じです。そしてスポーツ向きの安倍のシンゾウの持ち主である安倍ちゃんが、海外に敵を求めて国民を戦争に巻き込もうとしているのもまた、同じ精神構造なんですね。

土鍋で炊くご飯

2007年08月25日 | 競馬
楽天で1万円の土鍋を買いました。炊飯に適した土鍋らしく、「ごはんなべ」というサブタイトルがついていました。早速炊いてみると、まあまあの炊き上がりで、うっすらとおこげもできるし、それなりにおいしい。なにより、炊きはじめから蒸らし終わるまでに20分ちょっとしかかからないので、朝ご飯を炊くのに便利だと思いました。そこで、これを機に毎朝ご飯を食べることにしました。ここ一か月ほど続いています。もう二十年以上朝ご飯を食べない生活をしていまして、それはそれで問題なかったのですが、朝ご飯を食べるようになってからは、一日を頑張れるようになった気がします。昼食を食べた後、午後2時くらいになるとものすごく眠くなっていたのが、朝食を取るようになってからはそんなことはなくなりました。

メニューは、ご飯と味噌汁、納豆、漬物、焼き海苔が定番で、あと一品は焼き魚だったり、豚キムチ生姜焼きだったり、ベーコンエッグだったりします。味噌汁は主に豆腐と油揚げとワカメで、時々はじゃがいもや茄子、キャベツや玉葱など野菜中心のものを作ります。あくまで素人の勘で、しかも手前味噌ですが、栄養のバランスもうまく取れている気がします。最近は納豆に葱ではなくスプラウトを混ぜて食べていますが、サッパリとして思いのほか美味しいので、少し驚きました。これで夜、寝る前にお酒を飲むのをやめて何も食べないようにすれば、少しは痩せそうな気がします。痩せて腰痛が軽くなってくれればいいと淡い期待をこめて、寝る前に米を研いで準備しています。

宝塚記念を最後に馬券が夏休みに入っているので、このところ食べること以外に何の喜びも楽しみもありません。馬インフルエンザなんて前代未聞の珍現象が早く解決してくれること、秋競馬が無事開幕することを祈っています。


乗用車なんかいらない

2007年08月20日 | 政治・社会・会社

地球温暖化の一番の元兇は自動車です。NHKのコンサート番組に出演していた歌い手の女の子が、ゴミを出さないとか冷房の設定を弱めにするとか、ひとりひとりができることから取り組んで欲しいともっともらしい主張をしていましたが、トラック何台も連ねて二酸化炭素を撒き散らしながらコンサート機材を運んでおいて、何をか言わんやでしょう。

アメリカが京都議定書を批准しないのは自動車産業と軍需産業の政治癒着が理由であることは世界の常識ですが、日本人には理解できないようです。というよりも、円安で日本の見せ掛けの景気を作っている日本の自動車業界の圧力によって、日本政府もまともな対策をとろうとしておらず、各国の事情も同じようで、先日のサミットでも温室効果ガスの削減について、2050年というバカな期限付きになることで漸く合意に至りました。自分たちの政権の間、あるいは自分たちが生きている間に期限が来ないからという無責任な理由で合意した訳です。何のためのサミットだったのでしょうか?

自動車は走るときだけでなく、作るときにもたくさんの温室効果ガスを排出しているわけで、物流関係の自動車が物を運ぶのならともかく、国会で寝るために宿舎から永田町までの短い距離を、運転手つきの馬鹿でかい公用車で行く必要がどこにあるんでしょうか? 歩いて行け!と思いますね。

知っていますか? トヨタのレクサスとかいうハイブリッド車。あの車は2トン以上あるんですね。タカトシなら「戦車か!」とつっこみそうな重さです。舗装道路はそれは丈夫にできていますが、そんなに重い車ばかりに走られたら、傷みも早くなりますし補修工事の間隔も短くなるでしょう。そうするとまた工事車両や重機が二酸化炭素や一酸化炭素を吐きまくる訳で、ハイブリッド車と大型の高級車は相反するものでしょう。ダイエットをすると一生懸命に運動をしつつも寝る前にたらふく食べてしまう人のようです。それをドイツの高級車並みの値段で売り、成金趣味の金持ちが自慢するために買うのです。売るバカと買うバカがいるせいでこんな無駄な車が道路を傷めつけながら走っています。

微力だとは知りつつも、私もなるべくエアコンを使わないように、使わないスイッチはなるべく切るようにはしていますが、道路にレクサスや、もっともっとバカな車、フェラーリとかランボルギーニとかロールスロイスとか、要するに他人へ自慢するだけの車がたくさん走っているのを見ると、がっくりしてしまう無力感があります。人間はつくづく救われない生き物ですね。


弱気は病気?

2007年08月19日 | 政治・社会・会社

「気が弱いというのは、病気である」と言い放つことができるオヤジがいました。このオヤジには当然、自分は気が弱くない=強気である=健全であるという自意識があります。気が強い、弱いについては色々な解釈がありますが、オヤジの言う「気が弱い」は、人にきちんとものを言えないことであると、そういうことのようです。
一見、もっともらしく聞こえますが、果たしてそうでしょうか。もっとよく考えてみましょう。
人にきちんとものを言う、というのはどういうことかと言いますと、自分の主張を相手にわからせるために言って聞かせるということです。相手が誰であっても、自分の主張を曲げることなく、どこまでも主張すること。それができる人を「気が強い人」と呼び、健全な人であるというのがこのハゲオヤジの考えです。相手が上司だろうが恩師だろうが総理大臣だろうが合衆国大統領だろうが、はたまた同居している奥さんのお父さんだろうが(マスオさん、頑張れ!)、強面のヤクザだろうが、言うべきことは言うということです。
ますますその通りのような気がしてきますが、困ったことがひとつだけあります。それは、人間というものは常に正しい主張ばかりをするとは限らない、ということです。
たとえば道路があり、バイクがあります。中型のバイクなら2人乗りをしてもよく、免許があればバイクに乗って道路を走る権利は誰にでもあります。そこで仲間と一緒に数百台のバイクに分乗して道路を走ります。飛ばしはしません。制限速度を守ります。むしろ道路いっぱいに広がってゆっくりと走ります。たまにエンジンの空ぶかしや奇声を発することはありますが、合法的な行為です。しかし時速10キロで走られたら後続の自動車はたまりませんね。普通の人はどう考えるかというと、追い越そうとすると囲まれて袋叩きに遭いそうだし、かといってこのままチンタラモードで走っていたら到着がいつになるかわからないし、早くバイク軍団がいなくなるか、彼らか自分のどちらかがわき道に入るかするのを願うしかないと、そう考えるでしょう。では気が強い人はどうするでしょうか? もちろんクラクションを鳴らし、数百人数千人の暴走族に食ってかかります。他の人の走行を邪魔するな!とね。しかし暴走族の少年たちは数の力、集団心理で無敵の心境になっていますが、ここは少年たちをバカでないと仮定して、彼らが言葉で主張するものとすると、「バカ言うなよ、おっさん、俺たちは道路交通法にこれっぽっちも違反してねえんだよ、警察を呼ぶなり訴訟を起こすなりしなよ」といったことになるでしょう。もちろん後続車の強気な人は一歩も引きませんから、この後は暴力沙汰になるのは目に見えています。
別の例で、以前にも書いたかもしれませんが、自分が契約している駐輪場所に別の自転車が止まっていたのでその自転車を道路に出し、自分の自転車を止めました。当然のことだと思っていました。ところがその後、迷惑な自転車の持ち主から訴えられてしまったのです。自分の自転車を勝手に道路に出したから、それに車がぶつかって壊れてしまった、弁償しろとのことなのです。どこをどういう風に考えたらこんな無神経な主張ができるのかと言いたいところですが、驚いたことにこの主張が認められて、損害賠償を払わなければならない羽目になったというのです。この人が気の強い人なら決して負けずに、相手に慰謝料を請求する訴訟を起こしたり、日参して控訴を取り下げるように命じたり電話をかけたりするでしょう。泥沼です。その後暴力沙汰や殺し合いという恐ろしい展開になるかもしれません。

庶民以外ではどうでしょうか。
政治家は総じて気が強いものです。嘘を言っても平気だし、選挙でボロ負けしても、基本方針は国民に指示されている、という根拠のない主張を平気でします。文鮮明の信者一家に育ったボンボンはどこまでも強気です。文鮮明といえば、たしかパパブッシュも統一教会に縁が深かった記憶があります。安倍とブッシュは勝共連合つながりがあるのかもしれませんね。知らない方のために解説すると、文鮮明→統一教会→勝共連合→岸信介、笹川良一その他→原理研(大学組織)となっております。お父さん同士が勝共の政治家なんですね。

経営者はどうでしょう。経費を削減しろ、利益を出せと、それはもう大変な勢いで命令します。「どんなにお客さんに喜んでもらっても、赤字だったらバカって言われるんだよ」というのが彼らの唯一の哲学です。格差社会の生みの親、オリックスの宮内義彦に代表される拝金主義ですね。彼らのような「気の強い人」のおかげで、街には職に就けないその日暮らしの若者があふれ、病気になったら死ぬしかないその現状に「自己責任」という最後通告を投げかけるのです。

庶民の日常生活においては、強気な人同士が正面からぶつかることはまれで、たいていの場合「弱気な人」の側が、暴走族を避けてUターンしたり、自転車を勝手に止めた人が壊されても諦めたりして、暴力沙汰や殺し合いになるのを避けています。気が弱いというのは、相手の立場やその後の展開を心配する、文明人の特徴なのです。
政治や経済のトップレベルでは、いまだに文化的なレベルが低く「気の強い」野蛮人による支配が続いています。「気が強い」というのは他人のことを考えない、自己中心の幼稚な性格をいいます。腕白坊主たちが世の中を支配しているわけで、庶民はいつまでも虐められ続けるのです。

「上着を奪われたら、下着も与えなさい」(新約聖書)

私はクリスチャンではありませんが、聖書に書かれている言葉には多くの真実があると思っています。現代では、奪われるのは弱気な人、弱虫で、カッコ悪い、というのがトレンドのようです。誰もが奪われる側ではなく、奪う側になろうとしている気がします。金とモノでしか自己満足を得られないという、低俗な精神。それはそれで勝手ですが、金とモノだけが幸せの基準になっているわけで、今の時代は格差社会というよりも誰もが精神的に貧乏のどん底にあるんだなと、ため息が出てしまいます。そして同じため息をついている人が他にもいることを心から願いたくなります。


大相撲なんかいらない

2007年08月18日 | 政治・社会・会社

大相撲の横綱が仮病を使ったとかなんとかで大騒ぎしているようですが、仮病くらいで騒ぐのだったら、かつて八百長の話が持ち上がったときには、今回と比べものにならないくらいの大騒動にならなければいけなかった筈です。普通の会社で考えてみると、仮病で休むのは単なる欠勤で、給料を減額されることはあっても法的な処罰を受けることはありません。しかし八百長となるとこれはわざと負けるわけで、競合他社とのプレゼンにわざと負けて裏金をもらうのと同じことですから、どんな犯罪になるのかわかりませんが、とにかく警察に捕まって罰せられるのは間違いのないところです。横綱が仮に会社で言う取締役以上に該当するなら、特別背任といったところでしょうか。しかしたとえ取締役であっても、病気だといってサボったのがばれたからといって特別背任にはなりません。仮病と八百長とはそれくらい違うということです。
にもかかわらず、八百長騒ぎのときには取り上げもしなかったテレビニュースが何度も何度も繰返し横綱の仮病について取り上げるのは、どう贔屓目に見ても、この横綱が外国人だからに違いありません。
外国人→出稼ぎ感覚→日本に対する愛国心も何もなし→そういう人間が横綱→大相撲の屋台骨を揺るがす・・・という図式です。八百長騒ぎのときは、八百長がばれる→大相撲の信憑性、ひいては神聖な国技という印象が崩れる→大相撲の屋台骨を揺るがす・・・という訳で、全く同じ図式の表裏です。だから大騒ぎにならず、報道もされなかったのです。
つまりこの国には、大相撲の屋台骨を揺るがすわけにはいかない、という大前提があるのです。どうしてそんなものがあるのでしょうか? それは大相撲を取り巻く利権集団の思惑があって、その利権集団は国家権力の中枢、広域暴力団の中枢とも縁が深く、国民の薄っぺらな愛国心を利用して自分たちの利権を守り、広げています。マスコミは彼らの思惑に従って報道しているのです。
しかし私たち庶民には大相撲に関わる利権など一銭もありません。だから本音を言っても損をすることはないのです。

大相撲なんか、いらない!

その証拠に、今年の新弟子検査にはひとりの応募もなかったというではありませんか。やる人がいないものを無理に存続させるのは無駄なことです。会社の「生き残り」を図ったり、人類の存続や一族の繁栄を望むのは、人間の最も愚かな一面です。大相撲を早く廃止しましょう。国技館を壊して、その跡地には原発でも建てればよろしい。新潟や福島の人に迷惑をかけてまで原子力発電をしてほしくはありませんので、どうぞ東京のど真ん中、できれば皇居あたりに原発を造ってほしいくらいです。もう一度言います。

大相撲は、不要です。


後ろ向き

2007年08月17日 | 政治・社会・会社

お笑い芸人ムーディー勝山の右から左へ受け流す歌がウケています。何かわからない何かを訳のわからないまま左へ受け流してしまう歌ですが、受け流す対象を特定したバージョンもありまして、それが権威であったり人気絶頂のものや人であったりしても、お構いなしに左へ受け流してしまいます。一発芸であり他に応用の利くものでもなく、本人に器用さもありそうではないのでゲッツ!やフォーッ!の人たち同様あまり長く持たないかもしれませんが、とにかく売れている間になるべくたくさんのものや人を受け流して欲しいと願っています。
考えてみれば、お笑いというものは前向きなもの、積極的建設的なものはほとんどなく、現在の世の中を笑い飛ばす、どちらかと言えば後ろ向きの文化なんですね。その象徴的なものがムーディー勝山のような気がします。
仕事をしているときに、前向きでない発言や行動をすると、すぐに非難されます。苦情対応で、後ろ向きの対応をしたら、それは大変なことになります。

「人間というものはそもそも救われないどうしようもない存在で、自己中心のエゴイストばかり、思いやりの欠片もなく批判をしたら怒る、ほめてもらわないと怒る、人に認められないと生きていけない、人のことは認めない、悪口が大好きで、嫉妬深く、いつも人の不幸ばかり祈っている、世の中はどんどん悪くなるばかりだし、戦争はなくならないし凶悪犯罪もなくならない、まもなく人類は滅亡するでしょうが、反省もしないし改善もしない、だから気に入らなかったらもう二度と利用しないでください」

そんなふうに言えたらどんなにかスッキリすることでしょう!
多分、仕事をしている人たちはみな、それに近いことを思っていると思います。もちろんそんな思いを表面に出す訳にいかないので、じっと胸のうちに秘めているわけですが、お笑いの後ろ向きな部分が、鬱憤を晴らしてくれるんですね。だから可笑しく感じるんです。
それにしても、世の中、少しは後ろ向きになってもよさそうなんですがね。あまりにも、前向きなことばかりが求められて、疲れてしまいます。