映画「Triangle of Sadness」(邦題「逆転のトライアングル」)を観た。
序盤はファッション業界の権威主義と拝金主義が描かれる。そこから、男女のモデル同士のマウンティング争いのシーンまで、なんとも低レベルの人間性が剥き出しで、なんだか気持ちが悪くなる。しかし後半になると、どうして最初のシーンが必要だったのかが分かる。
高額のブランドの衣服や腕時計やアクセサリは金持ちのステータスシンボルだ。確かに高額のブランドの商品は品質も優れている。しかしある程度以上からは品質はそんなに変わらない。変わるのはブランド価値だけだ。ブランドは創造された相対的な価値観である。経済と結びついていちいち高額に設定することで、経済力を誇示したい金持ちの欲求に応える。要するにどちらも拝金主義である。
世界は拝金主義者がヒエラルキーの上位にいて、ブランドやそのデザイナーは彼らに支えられているという共依存の構図がある。それは即ち格差の構図でもある。その格差は次のステージである豪華客船にそのまま持ち込まれる。
嵐の夜のキャプテンディナーが本作品の最初のヤマ場だ。金持ちなのに金持ちが嫌いな船長が夕食で客をもてなす訳だが、嵐が想定を遥かに超えて、客は船酔いでフラフラになり、船は汚物まみれになる。そんな中で、金持ち代表のロシア人と斜に構えた船長との政治談義が盛り上がる。スラップスティックの極地で、底抜けのドタバタ喜劇がケッサクだ。
原題は「Triangle of Sadness」である。つまり悲しみの三角形だ。三角形はいわゆるヒエラルキー、つまり格差社会を指しているから、邦題の「逆転のトライアングル」は文字通り格差の逆転だ。トイレ掃除のチーフが豪華客船では一番下の地位だとされていた訳だ。
金持ち代表のロシア人が原始共産制を語るのが皮肉だったが、物語はその通りに進んでいく。原始社会のヒエラルキーだ。つまり食料を調達する人間が組織の頂点に立つ。そして実はそこからが本作品の最重要な展開で、ヒエラルキーの頂点に達した者は、自分の欲望を満たすことに躊躇がなく、どこまでも自分の立場を維持しようとするのだ。イエスマンを従えて、反抗する者たちを排除する。ラストシーンは必然である。
荒唐無稽な物語のように見えるが、前作「ザ・スクエア」と同じく、オストルンド監督の綿密な計算によってシーンが積み上げられて、人間社会の本質を、デフォルメされた物語によって上手に描き出している。ものまね芸人が特徴を極端に強調することでその人が誰なのかがすぐに理解できるようにするのと同じだ。まさに職人芸のような作品である。
映画「日の丸 寺山修司40年目の挑発」を観た。
序盤のインタビューシーンはとても挑戦的で反感を覚えるが、我慢して観ていると、寺山修司の本意が分かってくる。天井桟敷の劇と同じで、世界に対してかなり斜に構えている。そして寺山の日本人観が見えてくる。
日本人の心は波のない水面のようだ、石を投げればチャポンと音がして波紋が広がる。そのように寺山は言ったという。たしかにのべつ幕なしに主張しまくっている日本人はあまりいない。主張するよりもマジョリティがどちらに動くのか、様子を見ているところがある。
コロナ禍でワクチンを打たせるためにどう言えば人々を打つ気にさせるか、有名な沈没船ジョークをもじったジョークがある。
アメリカ人には、打てばヒーローになれますと言い、
イギリス人には、紳士淑女はワクチンを打つものですと言い、
ドイツ人には、打つのは規則ですと言い、
そして日本人には、みんな打っていますよと言えばいい。
確かに日本人には、周囲と違うことを恐れる臆病さがある。その逆が「赤信号、みんなで渡れば怖くない」である。政治も護送船団方式だ。多くの人は自分の考えがなく、社会の大勢に従おうとする。寄らば大樹の蔭という訳だ。寺山はそういうところが大嫌いだったのだろう。そして日本人は変わらなければならないと思っていたと思う。「書を捨てよ、町へ出よう」や「家出のすすめ」といった著作には、既存の価値観からの脱却と、自分自身の目で世界を見ろという寺山の日本人への思いが詰まっている。
しかし寺山の願いも虚しく、日本人は二十一世紀の今になっても、相も変わらず精神的に自立していない。一から自分で考えて、自分の結論を信じるという生き方が出来ないのだ。あなたは戦争に行きますかという問いに対する答え方には、みんなが行くなら行くという本音が透けて見える。日の丸も君が代も、みんなが肯定するなら自分も肯定するという調子だ。情けないことこの上ない。
当方は中学生から高校生にかけて、戦争の本をたくさん読んだ。そして関東軍をはじめとする日本軍がアジアの各地に武器を持って押しかけて、日の丸を掲げ君が代を歌いながら、強姦し、略奪し、虐殺した歴史に触れ、戦時中の日本人の行ないを恥じた。そして一生日の丸を掲げず、君が代を歌わないと心に決めた。学校で国旗掲揚とアナウンスされても日の丸を見ず、国歌斉唱の指示があっても椅子から立たなかった。すると不思議なことに、モテた。
つまり日本人の多くは、自分は大勢に紛れて個の責任から逃れようとするのに、他と違うことを堂々とする強さには憧れるのだ。議論を避け、大声で主張する人間には表立って反論せず、陰でコソコソ悪口を言う。そんな連中にモテても何の意味もない。
中には戦争反対を堂々と主張する勇気のある人もいて、そういう人の言説は人々を勇気づける筈だが、マスコミがそういう人を表に出さないようにしているから、庶民が勇気づけられることがない。ではどうするか。放棄していた自発的な思索を再び始めるしかない。
戦争の足音は確実に近づいている。世界中にプーチンはいるのだ。もちろん日本の政財界の中枢にも存在する。戦争に反対するなら、どうすれば現実的に戦争を止められるかを真剣に考えなければならない時代なのだ。
映画「エンパイア・オブ・ライト」を観た。
冒頭、雪が降る中を歩いて来たヒラリーが映画館の鍵を開け、次々に明かりを灯していく。カウンター、ショーケース、ロビー、そしてスクリーン。映画館の開館準備は、これから映画が上映されるのだという期待に満ちていて、とてもワクワクする。
タイトルの「Empire of light」の意味が気になる。今のところは「明かりが灯ったエンパイア館」だ。「光のエンパイア館」ではない。「光」は何の光のことなのだろう。
ウィスタン・ヒュー・オーデンというイギリスの詩人の詩が紹介される場面がある。この詩人については詩集を1冊だけ読んだことがある。「Collected Shorter Poems」として1950年に発表された詩集だ。翻訳は深瀬基寛。大江健三郎が紹介していたので読んでみた。大江の小説「見る前に跳べ」は、オーデンの詩のタイトルのひとつである。本作品で紹介された詩は掲載されていないが、オーデンらしい軽い語り口で人生の本質を縁取って見せた小篇である。
ヒラリーが「映画を見せて」というシーンが素晴らしい。このシーンに至るまで、様々な「光」が紹介される。大晦日の花火、映写機から出る光と闇。明かりを消した浴室の蝋燭の光。特に映写機の光は、過去と未来を飛び越えて、人間の真実を描き出す。出逢いと別れ、そして時の流れ。ヒラリーには苦痛でしかなかったそれらのことが、映画では迫真のドラマとして光り輝く。
人生は美しい。それは光に満ちている。光は闇を凌駕するのだ。本作品は冬から夏へかけての情景を描いている。ラストシーンは秋。秋は別れと出発の季節だ。闇の中で生きてきたヒラリーの人生に、漸く光が差したのである。オリヴィア・コールマンの名演に感動した。
映画「Worth 命の値段」を観た。
9.11の教訓は、アメリカ一強の単独支配の独善性が明らかになったこと、そして超高層ビルのように安全と信じられていた場所が、実はそれほど安全ではなかったことに気づかされたことである。実際にニューヨーク世界貿易センタービルのツインタワーは、武器でもなくただ質量が大きいだけの航空機をぶつけることで跡形もなく崩れ去った。
航空機をハイジャックした犯人たちは、自分たちの死と引き換えに多くの命を奪うことで、神の敵であるアメリカに対するジハードを成し遂げると信じていたのだろう。太平洋戦争の最終盤の特攻隊と似ているが、生まれたときから信仰の生活をしているイスラム教徒と、取ってつけたような国家主義を押し付けられた少年たちとでは、モチベーションに天地の差がある。
一般的に社会に暮らす人は、社会貢献の動機はあっても、自己犠牲の精神は青臭いヒロイズムとされる。自分は安全圏にいて、敵だけを殲滅させようと、虫のいいことばかりを考える訳だ。命を捨ててツインタワーに突っ込んだテロリストの行動は、世界中を驚かせた。
しかしそれでもアメリカは自国の独善を認めなかった。それどころか、息子ブッシュは犯人をイスラム教諸国と勝手に想定して、イラク戦争を始めてしまった。息子ブッシュのポチだった小泉純一郎が尻尾を振って追随したことを苦々しく思い出す。
9.11は大変な被害をもたらしたが、それでも被害を免れた人々にとっては対岸の火事であった。マイケル・キートンが演じたケン・ファインバーグ弁護士もそのひとりである。被害者家族にとって、関わりがない人々が対岸の火事という態度なのは仕方がないが、補償金の分配を決める特別管理人がそういう態度なのは我慢がならない。当然の感情だと思う。
仕事でクレーム対応を担当したことがあるが、先ず解決しなければならないのは感情的な側面だった。こちらが相手の立場になって考えていると思わせることが出来たら、対応は8割方終わったようなものだった。逆に感情的な側面をこじらせると、解決の道は遠のく。
ファインバーグ弁護士はおそらくクレーム対応の経験がないのだろう。初心者が犯す過ちを簡単に犯してしまう。このあたりのマイケル・キートンの演技はとても上手い。弁護士の対応が下手な演技が上手いという皮肉な話だが、クレーム対応には実は演技が必要だ。
人間は極限状況に置かれると、表情で上手に心情を表すことができない。東日本大震災の被災者がインタビューに答えているときに、笑いを浮かべているのに違和感を感じた人もいるだろう。何度かレビューで説明したが、脳は自分の精神状態が平常を保てるように、笑いの表情を浮かべさせるのだ。そして笑っている自分はまだ大丈夫だと思わせるのである。ホラー映画を笑顔で観たらあまり怖くないという実験結果があるのと同じ意味だ。
だからクレーム対応時に、被害者に心から同情していても、それだけでは伝わらない。同情している人は特に表情を浮かべることがない。能面のような表情を見て、被害者は敵だと思ってしまう。だから同情しているように見える表情、声のトーン、言葉選びなどが重要だ。
しかしさすがに、そこまでテクニカルな話は本作品では描かれない。複雑になりすぎるからだ。ただ事務的に処理しようとして失敗した弁護士が、少し成長する話を描く。成長物語というと子供や青春世代の主人公が多いが、常に何かを学ぼうとする人間は、いくつになっても成長する。
もともと民事の専門家として、ファインバーグ弁護士は民事裁判が個人にとってどれだけ負担になるかを知っている。遺族には裁判で時間を無駄にするよりも、補償金を受け取って、静かで充実した日常を送って欲しいと願っている。だから無償で特別管理人を引き受けた。その気持ちを最初に示すべきだったが、利益を見極めるだけの企業を相手にしている日頃の癖が出てしまって、事態を紛糾させることになってしまったのだ。
スタンリー・トゥッチが演じた知識人チャールズ・ウルフの奥さんは、出かけるときにチキンピカタがあると告げる。チキンピカタは下味をつけたチキンに小麦粉をまぶし、それを卵液に漬けてから焼き上げる料理で、卵が鶏肉をコーティングしてあるから水分が逃げず、冷めても柔らかい。奥さんの優しさが感じられる料理だ。
映画「劇場版センキョナンデス」を観た。
ふたつの選挙が取材される。前半が2021年秋の総選挙の香川1区で、後半が2022年の参院選の主に関西の選挙区と比例だ。すでに選挙は終わっているし、結果もわかっている。
2021年の香川1区は、小川淳也が初めて選挙区で平井卓也を破った。四国新聞のオーナー一族で現職のデジタル大臣という強力な相手に対し、投票締切の8時に当選確実が出るという圧勝だった。2022年夏の参院選は、投票日の数日前にアベシンゾーが射殺されて、自民党と維新の会が議席を伸ばした。
本作品が面白いのは、どの陣営にも肩入れすることなく、割とフラットに接しているところだ。話を聞き出すために興味津々のフリをしたり、応援しているフリをしたりする。プチ鹿島は選挙演説をたくさん聞いているようで、辻元清美や福山哲郎の演説を高く評価したり、吉村洋文の演説は内容がなかったが大学生みたいなノリが女子ウケするんだろうと分析したりする。そのあたりも面白い。
一番のハイライトは四国新聞に乗り込んでいって質問をするシーンだが、四国新聞の対応と回答のファクシミリの内容がウケた。四国新聞の読者は御用新聞であることに気づかないか、目を瞑っているようだ。同じことは全国紙や全国放送のテレビにも言える訳で、各候補者の主張の本質を見抜く力のない有権者は、候補者の見た目や印象や柵(しがらみ)で投票行動を決定することになる。
選挙は税金や社会保険料がどのように使われるのかを決定するものだが、多くの有権者は自分たちの生涯収入の1/3にも及ぶその金の使い途のことまで頭が回らないようだ。だからキシダみたいな暗愚の宰相が誕生することになる。マスコミが大本営発表を続けている限り、日本は変わらない。この先どんどん貧しくなっていく。
仕事も金もない、住むところも着る物も、食べ物もないという状況になったとき、あのとき別の候補者に投票していればと、遡って自分の投票行動を反省する有権者は、多分皆無だろう。日本に明るい未来はなさそうだ。
映画「ボーンズアンドオール」を観た。
原題を直訳すると「骨ごとまるごと」となる。小魚ならいざ知らず、人間の骨は丈夫で、文字通り歯が立ちそうにない。本作品にあまり感情移入できなかった理由は、食感や嗅覚をはじめとする生理的なものかもしれない。衛生面を考えれば、人間を食べると病気になりそうだ。
食人を扱った映画で印象が強かったのは、昨年(2022)の10月に日本で公開された「ヴィーガンズハム」である。牛が草食動物であることを考えれば、菜食主義の人間は雑食の人間よりも肉が美味しいに違いないと、主人公の肉屋夫婦は考える。ミンチにして成形したりハムにしたりすれば、何の肉かわからないから、場合によっては食べて美味しいと感じるかもしれない。
本作品の主人公たちは、肉屋の食べ方とはかなり異なっていて、肉食獣が獲物をむさぼるように人間を食べる。やっぱり不味そうだ。生理的にダメという人もいるかもしれない。
しかし本作品の主眼は、どうやら食人そのものではなく、人と違う特徴を持つ人間たちのアイデンティティの話であるようだ。
そもそも人は他の生物を食べて生きている。食べ物は、エネルギーを生み出す燃料であったり、潤滑油であったり、または新しい細胞を作る材料であったりする。食べ物が人間以外なら、生理的な好き嫌いを別にすれば、非難されることはない。しかし食人はイコール殺人だ。
共同体が内部での殺人を認めてしまうと、共同体の存続そのものが危うくなる。だからどんな共同体でも、共同体内部での殺人は厳重に禁止されている。共同体内部と書いたのは、共同体の外部での殺人は認められることがあるからだ。状況が戦争なら、たくさん殺した者が英雄として讃えられる。
しかし食人が目的となると、異端であり、排斥される。排斥されないためには、自分の性癖を隠し、欲望を押し殺して生きていくしかない。極めて稀な性癖の主人公だが、そのアイデンティティの危機は、他の生物を食べて生き延びている一般人におけるアイデンティティの危機と、構造的には同じである。
たとえば犬を見るとどうしても食べたくなる人がいたとしたら、犬を殺して食べることが禁じられた社会ではその人は排斥される。だから犬を食べたくても我慢している人が、世の中のどこかにいるのかもしれない。
本作品の食人の欲望は目に見える形で表現されているが、世の中には食人欲を持つ人々が、潜在的に存在しているのかもしれない。食人欲を他の様々な欲望、中でも共同体から排斥される欲望に置き換えてみると、本作品のテーマが見えてくる。
ティモシー・シャラメは本作品でも出色の演技をしている。食人は欲望のひとつであり、食欲は性欲と無関係ではない。だからエロティックな描写も必要だろうと考えていたが、この人の存在そのものがユニセックスなエロスを発散している。本作品にぴったりの役柄だった。
映画「シャイロックの子供たち」を観た。
阿部サダヲがとても上手い。2013年の映画「奇跡のリンゴ」から、彼の出演作はだいたい鑑賞している。普通の人からエキセントリックな役柄まで、何でもこなす。演技に独特の間があって、それがこの俳優さんの特徴のひとつになっている。加えてユニークな声の持ち主で、映画をまるごと阿部サダヲワールドにしてしまう力強さがある。
本作品では普通の人の役だが、見かけによらず頭の回転が速くて肝っ玉の据わった西木課長代理を存分に演じてみせた。個人的な問題も抱えているが、職場ではおくびにも出さない。頭のよさは支店内では知られているようで、支店長以下、西木課長代理にはそれなりに一目置いている様子が見て取れる。こういう立ち位置の役はかなりの難役だと思うが、最初からそういう人間だとばかりに自然に演じている。
物語は池井戸潤お得意の権力者vs下級管理職のパターンで、切れ者の西木課長代理がどんな手を打つのか、ワクワクしながら鑑賞できるところは「半沢直樹」と同じだが、ごく普通の人である西木が、ごく普通の人たちとともに分析と対処を進めていくところがいい。極限状況を日常のレベルに引き戻すのが西木のキャラクターだ。おかげで立体的でリアリティのある作品に仕上がっていると思う。面白かった。
映画「BLOW BACK」を観た。
ニックの武器は腕っぷしでも狙撃でもなく、頭が切れることだ。状況を分析し、計画を立案して、実行する。それに胆が据わっている。娘は父親の危うさを心配しながらも、その能力を疑うことはない。
悪の連中にも衣食住は必要だ。世の人々の多くは生活レベルを向上させたいと願っていて、悪の連中も例外ではない。しかし自分で価値を想像したり世界観を構築することが出来ないから、世の中の価値観に流される。悪の連中にとって生活レベルの向上とは、いい家、いい服、いい車、いい女、いい食い物だ。俗物の価値観である。そういえば歴代の自民党の大臣が毎晩のように贅沢な食事をしていたという報道を思い出す。俗物根性が丸見えだ。
身の程知らずだが、悪の連中も、できれば他人に尊敬されたいと考えている。しかしバカだから誰も尊敬しない。だったら、せめて畏怖の念を抱かせたい。そのためには強さをアピールして、舐められないようにしないといけない。怒鳴る、凄む、恫喝するという行動は、悪の連中が最も得意とする典型的な行動である。バカ丸出しだ。アベシンゾーもよく怒鳴っていたらしい。
しかしニックには俗物が望む生活は必要ない。必要なのは難病の娘の治療費だ。保険が利かない高度治療を受けさせたい。普通の仕事では10年経っても稼ぎ出すことが難しい。その間に娘は死んでしまうだろう。
悪の仕事をするには悪の連中を集めるしかない。悪知恵は働くが、基本的にバカだからおだてれば調子に乗る。使いやすいが、信念がないからいつ裏切ってもおかしくない。敵は警察だけではないのだ。
ということで、本作品はニックと悪の連中と警察の三者の動きを追う、立体的なサスペンスである。とても面白い。無駄な描写を削っているから、場面を理解して次の展開を予測するのに観客の頭もニックと同じくらい目まぐるしく回る。これがなかなか楽しい。登場人物にはそれほど感情移入することはないが、物語がスリリングで目が離せない。アクション映画としてはよく出来ていると思う。
映画「コンパートメントNo.6」を観た。
一人旅は思索の路程だ。土地を移動すると、記憶のスイッチが入り、思索が始まる。呼び覚まされた記憶は必ずしも楽しいものとは限らない。落ち込むこともある。閉じこもっていたらそのまま沈んでしまうところだが、旅は否応なしに次の場所に身体を運び、別の記憶が反芻され、再び思索に耽ることになる。旅は脳のリフレッシュだ。
「タイタニックを観たか?」という台詞が出てくるから、時代設定は20世紀の終わりごろだと思う。既に日本では携帯電話が一般に普及していたが、本作品には登場しない。ロシアは貧しい国なのだ。代わりにSONYのウォークマンとビデオカメラが登場する。いずれもフィンランド人のラウラの持ち物である。
ラウラとコンパートメントNo.6で同室になったリョーハはロシア人らしく祖国を自慢する国家主義の精神の持ち主だが、根性は腐っていない。むしろいい奴かもしれない。驚くのはラウラの我慢強さである。粗野な振る舞いをするリョーハに対して、へつらうでもなく拒絶するでもなく、堂々と対峙する。
同じユホ・クオスマネン監督の「オリ・マキの人生で最も幸せな日」を鑑賞したときもあまりのめり込むことができなかったが、本作品でも同じような距離感を、自分と作品との間に感じた。感性が違いすぎるのだ。それは登場人物同士の距離感にも通じていて、日本人では考えられないほど他人の事情に土足で踏み込んでいく。踏み込まれた方もそれほど拒否反応を示さない。地続きの国境がある国の人々の強さなのだろうか。それとも厳しい寒冷地に棲む人々の特徴だろうか。
作品中で年齢が話題になることはなかったが、おそらくリョーハはラウラよりも年下だ。恋愛経験はほとんどなく、かなりウブである。祖国を自慢したり形のない夢を熱く語ったりするところに幼さが透けて見える。
多分だが、ラウラはリョーハを可愛く感じたのだろう。言ってみれば悪ガキだ。そして年下の男の子だ。真っ赤な林檎は頬張らないが、代わりにウォッカを飲んで寝てしまう。拗ねるし、やきもちを焼くが、肝は据わっている。そして正直で人を信じる。傷心のラウラがリョーハに救われたことは明らかである。
寒くて暗い映像ばかりの作品だが、この旅はラウラにとって新しい門出となったに違いない。ラストシーンになってやっとラウラに感情移入することが出来た。そこから序盤までを振り返ると、とても優れたドラマだったことがわかる。
否定するよりも肯定することだ。肯定しなければ前に進めない。寒さをものともしないラウラの人間エネルギーを、確かに感じた。
映画「Mass 対峙」を観た。
どちらが加害者の両親で、どちらが被害者の両親なのか、最初は分からなかった。先に登場する母親が、言いたいけど言えそうにないと吐露していた言葉が何なのかも分からない。しかしそれらは物語が進むと、自然に明らかになる。
徹底した会話劇である。言葉がとても重要だ。だから耳をそばだてて鑑賞することをおすすめする。二組の夫婦は、理解し合うには立場が違いすぎるが、互いに相手の気持ちに寄り添うことはできる。どこまで状況を受け入れ、どこまで寛容になれるかを、話し合いの中でそれぞれが自省していく。
アメリカのハイスクールの銃撃事件の報に接すると、またかという感想になる。大抵は、いじめの被害者が恨み骨髄に徹した挙げ句に極端な行動に出たという構図だ。同じ構図は世界中で発生していると思うが、銃社会のアメリカでは、殊更に悲惨な結果になる。銃や爆弾があれば子供でも簡単に人を殺すことができるからだ。銃刀法で武器の所有が厳しく制限されている日本では、学校で銃乱射事件が起きることはない。
同じことは国家間でも言える。核兵器がなければ核戦争が起きることはない。バラク・オバマが核廃絶を訴えたと同時に銃規制の強化を主張したことは、思想としての整合性がある。
恨みや怒りの一番大きな原因は被害者意識だ。一旦被害者意識を持つと容易なことでは捨てられない。加害者を恨み、怒りに任せて殺すことまで妄想する。それでは駄目だと説いたのが仏教でありキリスト教である。仏教は悟りの境地に入ることで寛容を身につける思想だが、キリスト教は神が天から見ているから、人を許しなさいという教えである。人を許すのは自分が許されるためだという考え方は、日本の「情けは人の為ならず」という諺に似ている。「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」と聖書に書かれてあるのに、アメリカで銃乱射事件が多発するのは皮肉な話だ。
しかしそもそも他人に危害を加えなければいいのではないかという考え方がある。いじめっ子がいなければいじめ問題は発生しない。むしろいじめられた子供の怒りの抑制よりも、いじめっ子の精神性の改善に力を入れるのが根本的な解決に近い。
いじめは差別と不寛容から起こる。容姿や成績や運動能力や親の職業や収入など、子供たちは様々な理由で差別をする。子供たちだけではない。大人も、他人を職業や収入で差別する。高収入、高身長、高学歴を自慢する人間は、いまだに多い。高収入の人間が低収入の人間を顎で使い、呼び捨てして、ときには怒鳴り散らす。そういう差別的な精神性を子供たちは受け継いでいるのだ。
「服を汚すのがいい選手だ」という被害者の子供の頃の発言は、世の中にはいい選手と悪い選手がいるという善と悪の二元論であり、差別に直結する精神性であることがわかる。成績を上げるために「勉強しなさい」と息子に強制したリンダの精神性は、実は差別の精神性そのものだ。互いに歩み寄って、相手を傷つけまいとする二組の両親だが、実はその奥底には格差と差別を無意識に肯定する不自由な精神性が宿っているのだ。
本作品は、加害者の少年がどのようにして実行に至ったのか、どのような環境が彼をそういう精神性に追いやったのかが主眼となっていて、いじめっ子の精神性がどのように育ったのかという構造までには至らない。だから鑑賞後は、どこか中途半端な印象が残った。