三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ナミビアの砂漠」

2024年09月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ナミビアの砂漠」を観た。
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 暴力的で短絡的、感情的で独善的な21歳のカナが主人公である。自分の精神疾患を無意識に自覚していて、職場や知人の前では常識の仮面で取り繕う。だから誰も彼女の精神疾患に気づかない。しかし本人は、24時間ずっと仮面をつけ続けていては苦しくなるから、どこかで仮面を外して、本性をぶちまける時間が必要だ。それに精神を落ち着けてくれる何かも必要となる。本作品のタイトルがそれに当たる。

 精神疾患は決して他人事ではない。大学の心理学で教わった人間の気質の分類は、分裂質と躁鬱質と癲癇質の3つで、いずれも病気の名前がついている。つまり基本的に人間は精神病で、その度合いが激しい場合にだけ、病気と診断される。カナに起きたことは誰にでも起こり得ることなのだ。

 ホンダとの暮らしは、カナにとって快適だった。ずっと構ってくれるし、面倒臭がらない。カナを大事にして、誠実であろうとするあまり、カナに何も求めてこない。ホンダはカナの承認欲求を満たしてくれない。カナは自分を求めてくれるハヤシに惹かれていく。
 ところがハヤシは、カナを大人として扱い、互いに人権を尊重する暮らしをしようとする。突然構われなくなったカナは、ひとりで何をしていいかわからない、空っぽの自分に気がつく。そしてそれをハヤシのせいにする。そして愚かな人間特有の、優位性争いを仕掛ける。

 西アフリカの定点カメラの映像で心を落ち着かせてきたカナは、他人を批判したり馬鹿にしたりするだけで、現実世界での自己実現の展望は何もない。自己肯定感の不足は、やがて不満になる。不満は怒りとなり、自分を傷つけ、他人を傷つける。すべての原因は自分にあることに気づいているのだが、どうしようもないのだ。
 ハヤシは若いのに人格者だ。どんなときでもカナの身体を決して傷つけないようにしている。怒りを抑制できている証拠だ。カナはハヤシと出逢った僥倖に、まだ気づいていない。ホンダはカナを人形のように扱ったが、ある意味で、カナの人格をスポイルしていた。しかしハヤシはカナの人格を重んじる。自分の人格も重んじてほしいからだ。
 ハヤシは最初から、カナの幼児性に気づいていたようで、自分に試練を与えようとしたのかもしれない。それはカナを大人にすることでもある。隣人女性が言ったように、いつかカナも自分を客観視できるようになるかもしれない。ハヤシはその日が来ると信じているように見える。

 河合優実にとって、カナは難しい役柄だったと思う。優しさや気遣いを棄て去って、精神分裂病の患者を演じなければならない。演出は厳しいものだっただろうが、よくそれに応えている。相手役を演じた金子大地も、ハヤシの心の葛藤が滲み出ていて、見事だった。

 蛇足だが、中国語の聴不懂(ティンプトン)を、カナはわからないという意味だと言っていた。その通りなのだが、聞いてわからないときに使う。見てわからない場合は看不懂(カンプトン)だ。聞いても見てもわからないときは聴不懂看不懂と並べて使う。この中国語が日本語の「ちんぷんかんぷん」になったという説もある。チャンポンの語源と似たようなものだろう。

 人間は自分にできることを仕事として生きていく。誰にでもできることより、得意なことを仕事にしたほうが、精神的に楽だ。カナの将来の展望は、中国語にヒントがあるのだろう。否定的な終わり方でないところがよかった。

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