三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

 映画「オートクチュール」

2022年03月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「オートクチュール」を観た。
 女性同士の会話は男には理解し難い部分がある。ものの本には「男は知っていることを話し、女は相手が喜ぶことを話す」と書かれていたが、本作品に登場する女性たちは少し違っていて、相手の立場を貶める言葉を連発する。しかしそれには理由があった。
 ひとつは登場人物があまり豊かではないこと。もうひとつは移民の子であることだ。宗教の違いも絡んで、人間関係は見た目以上に複雑である。誰もが不利な立場で生きていて、悩みを抱えている。それは互いに相手を貶めるためのネタでもある。立場がぶつかると言い争いになる。最後は出ていけとなったり、自分が出ていったりする。さすがに死ねとは言わないが、殴り合いになることもある。フランス映画でこんなに激しい女性同士のシーンは初めて観たかもしれない。

 自分の勤めるブランドであるディオールを身に纏ったエステルは、ウールとシルクを好み、フリースを一笑に付す。ナイキのジャンパーなど雑巾扱いだ。ナイキのコレクター青年がコレクションだと主張すると、コレクションとはそんなものではないとエステルは言う。エステルのコレクションは、パリ・コレクションやミラノ・コレクションなどを指しているのだろう。青年には何も理解できなかった。当方にも理解できない。

 洋服について、何が美しいかの判断は人それぞれに認められていいと思う。ユニクロがバカにされてディオールが讃えられる世の中なのかもしれないが、世界でディオールを着られる人の割合がどれくらいいるだろうか。ディオールの背広1着で廉売のスーツが50着は買える。庶民は廉売のスーツを着るのだ。廉売のスーツでもロブションに入店できる。

 衣服は身を守るためのものだ。寒さや紫外線や衝撃や摩擦から身を守る。目的に合わせて洋服は進化し、実用性という点では軍服が最先端を行く。服の中に風を送り込む扇風機のついた作業服もある。とても涼しくて作業効率が上がるらしい。

 本作品はエステルを肯定的な存在としているのか疑わしい。ディオールとかいうブランドに心酔するのは成金趣味と同じである。値段が高いことを自慢するのだ。エステルはそうではないと言うが、ディオールがフリース並みに安かったら納得しないだろう。もっともディオールのドレスが、本作品で見るほどの人件費をかけているのであれば、安くなりようがない。そこで疑問が浮かぶ。そんなに高額なドレスが必要なのか。金持ちの成金趣味ではないのか。
 移民の子ジャドは、そんな趣味に反発する。エステルがどんなにきれいごとを並べても、結局は金じゃないか。美しいドレスを作っても、貧しい人々はそれを買う金がない。結局は金持ちが買うのだ。そして一度着て、飽きて捨てる。
 エステルはドレスの行方にはそれほど興味がない。美しいものを作る。それが仕事だ。それで食っていける。素晴らしい。そういう考え方である。

 価値は永遠ではない。ドレスは経年劣化で破れて朽ちる。人も歴史も朽ちていく。人類の存在のなんと虚しいことか。しかし人生や歴史を長い目で見る必要はない。過去はもはや過ぎ去ったものであり、未来はまだ来ていない。存在しているのは現在だけだ。若くて美しい肉体がドレスをまとえば、一体となって光り輝く。素晴らしいではないか、ジャド。多分それが監督のメッセージだ。
 移民問題や難民問題を抱えるフランスの、移民や庶民の側から見た真実を、お針子の仕事を通して描き出そうとした部分と、人生に背を向けて刹那的な生き方をしていたジャドが変わっていく有様を描こうとした部分の両方がある。呉々も女同士のマウンティングの映画だと誤解しないでほしい。それなりに見応えはあった。

映画「ナイトメア・アリー」

2022年03月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ナイトメア・アリー」を観た。 
「衣食足りて礼節を知る」という。しかし宿無しの着たきり雀には縁遠い話だ。
 ブラッドリー・クーパー演じる主人公スタントン・カーライルの物語は、父親との凄絶な別れからはじまる。怪しい大道芸人集団に入り込んでからは、欲望と野望に引っ張られるがままに物語が転がる。
 本作品の舞台は1930年代である。世界恐慌で人々が一気に貧しくなったが、人は何にでも慣れる。貧しさに慣れて、乏しさに耐える。運のいい者は仕事にありつき、当面の衣食住を得るが、いつまで続くかは分からない。
 何かの才があれば、それを活かして生きていけるかもしれない。場合によっては金持ちになれるかもしれない。ここにいたら暫くは凌げるかもしれないが、ジリ貧だ。いずれ誰もが食えなくなる日が来るだろう。行くも地獄、残るも地獄。ならば行く方に賭けてみよう。男なら多分そう思う筈だ。
 
 恋は唐突に訪れる。若い女の艶やかに光る黒い髪と赤い唇は男を魅了し、男が放つギラギラした欲望に、女は自尊心を満たされる。しかし問題はその先だ。男が本当の意味で自分を満たしてくれるのかどうか。裏切らない誠実さがあるかどうか。堕落してしまわない意志の強さがあるかどうか。女は不安に震えながら旅立つ。
 
 男は塀の上に登る。塀の内側は恐ろしい闇だ。決して広くない塀の上を、男は歩いていく。自分は猫だ。軽やかに歩き、決して内側に落ちることはない。
 女は塀の外から男を見ている。いつ落ちてしまうかもしれない不安にかられ、早く塀から降りてほしいと願う。しかし男は下りてこない。それどころか、塀の上を自分よりもずっと軽やかに歩く牝猫と出逢い、互いに匂いを嗅ぎ合う。牝猫は察知する。男は野良犬だ。決して猫ではない。不器用な足で塀の上を歩く。そして牝猫よりもずっと上手に歩いていると勘違いしている。馬鹿な野良犬だ。間違いなく内側に落ちるだろう。その日はそれほど遠くない。
 
 本作品には人間の欲望があり、自信と不信と希望と絶望がある。恐怖があり、酒への逃避がある。肉親との確執があり、憎悪と怒りがある。そして物語となる。本作品には人生が詰まっているのだ。150分という長時間の映画だが、波乱万丈のストーリーと無駄のない演出のおかげで飽きることがなかった。獣人の伏線で誰もが結末を予想できたと思う。いいラストシーンである。人生なんてこんなものだ。

映画「ニトラム NITRAM」

2022年03月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ニトラム NITRAM」を観た。
 映画の紹介サイトには、子供の頃からバカにされて本名を逆から読んだNITRAMと呼ばれているとあるから、主人公の本名はMARTINだ。
 マーティンのキャラクターについて、映画は現在の振る舞いと家族と医師の言動しか描かない。どうしてこんなキャラクターが出来上がったのか。推測するに本作品は俳句のようにシーンを削ぎ落としているから、不足しているところは観客が推測するしかない。そして観客それぞれのマーティン像が出来上がる訳だ。

 当方なりの推測は次のようである。
 マーティンは子供の頃から悪戯(いたずら)が過ぎる。それで母親を泣かせたこともある。しかし優しい父親は彼を叱らない。彼は他人に迷惑をかけてはいけないという基本ルールを学ばないまま大人になった。母親は権威主義によってマーティンを教育しようとしたが、権威主義は人権を教えないから、マーティンは他人の人権を認めない。だから大人になっても他人に迷惑をかける。マーティンが認めるのは人間関係の順列であり、母親は自分の上にいて、父親は自分より下だ。しかし学校に行くと自分は一番下で、みんなから見下されてニトラムと呼ばれる。犬ならそれで諦めて済むが、マーティンは人間で、しかも男だからプライドがある。
 権威主義は既存の価値観、つまり社会のパラダイムによりかかるから、マーティンは自分なりの価値観を築くことができない。他人の価値観の中で自分の順位を上げたいと願うのみである。そのためには他人に認められなければならない。マーティンの奇行がはじまり、持て余した学校から退学を告げられる。そして10年が過ぎた。

 マーティンの奇行は続いている。それが本作品の冒頭だ。母親は自分の権威主義がマーティンが価値観を深めることを妨げて人間関係の順列だけにこだわる犬のような人間にしたことに気づいていない。しかし父親は気づいていた。逆に父親は自分の過度な放任主義がマーティンの奇行を生んだことに気づいていない。しかし母親は気づいていた。両親は年月をかけて丁寧にマーティンの精神を崩壊させたのだ。しかしふたりともそのことに気づいていない。
 誰からも認められず、順位も上がらないマーティンだが、権威主義の母親に命じられるままに、両親以外との人間関係にも挑戦する。しかし認められることはないし、順位が上がることもない。どこまでいってもマーティンはニトラムなのだ。

 もともとあった破壊衝動がここに来て急激に増大する。もしその破壊衝動が既存の価値観を破壊する方向に向かっていたら、マーティンには別の生き方があったかもしれない。既存の価値観を破壊するということは、新しい価値観を自分で創造するということだ。壊すことは作ることなのである。
 しかし母親の権威主義が染み付いているマーティンの破壊衝動は、既存の価値観を破壊する方向に向かうことはない。そちらに向かうにはこれまでに蓄積してきた被害者意識が大き過ぎるのだ。だから当然のように憎悪に直結する。自分や自分より順位が下の父親を蔑んできた連中への憎悪だ。
 燃え上がる怒りと破壊衝動を抱えて悶々としていたマーティンが、たまたまテレビで見たのが銃乱射事件である。そこから先は一本道だ。マーティンの母親は、無差別乱射事件を起こした原因が自分にあるとは夢にも思わなかっただろう。権威主義者は想像力に欠けるからだ。

 マーティンのような人間は世の中にたくさん存在していると思う。権威主義で人間関係の順列を気にする人間である。そういう人間は自分の順位に満足していない。自分はもっと評価されていいと思って不満を抱えている。しかし銃を乱射するわけにはいかないから、自分より順位が下だと勝手に考えている人間をいじめたりバカにしたりすることで憂さを晴らす。マウンティングは日常茶飯事である。権威主義者はすなわち差別主義者なのだ。
 順位が最下位になってしまったら、誰にも当たりようがなくなる。憂さ晴らしができず、溜め込んだ被害者意識は怒りと憎悪の感情を募らせる。そしてある日、その感情が爆発する。「マーティンのような人間」がマーティンになる瞬間だ。
 本作品はジェンガのように被害者意識を積み上げたマーティンが、ジェンガが倒れるように人格を崩壊させる過程を見事に描いてみせた。かなりの傑作である。

映画「ハングリー 湖畔の謝肉祭」

2022年03月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ハングリー 湖畔の謝肉祭」を観た。
 ホラー映画は人の心の闇をデフォルメし、増幅して表現する。そのことだけでも、考えてみればかなり怖い話だ。何が恐ろしいと言っても、人間ほど恐ろしいものはない。そして巻き込まれた人たちが常識的で大人しいほど、怖さは増すはずである。しかし実際の映画には、常識的で大人しい人たちはあまり出てこない。叫んだり暴れたりしないから間が持たないと思われているのだろう。
 そこで本作品だが、被害に遭うのはあまり常識を弁えているとは言い難い若者たちである。当然ながら叫んだり暴れたりする。悲鳴というのは、聞くと不安と疑問が湧き上がりはするが、悲鳴自体は怖くはない。ホラー映画が怖いのは、登場人物に感情移入して、その恐怖を共有するからである。その点で本作品は失敗している。アホな若者たちにはあまり感情移入しないのだ。
 そういう意味では、中田秀夫監督の「リング」は凄く怖かった。登場人物がごく普通の人々であり、日常的な場面に恐怖があったからだ。
 本作品ではグロテスクな描写は短時間で済まされている。予算がなかったのだろうか。どうでもいい若者同士のやり取りのシーンを少なくして、人肉食のグロテスクな場面を多くしたり、登場人物をきわめて常識的な人々にすれば、少しは怖かっただろうし、見ごたえもあったと思う。
 日本のホラー映画の金字塔である「リング」と比べるのは可哀想だが、本作品はちっとも怖くなかった。

映画「THE BATMAN ザ・バットマン」

2022年03月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「THE BATMAN ザ・バットマン」を観た。 
 なんとなくモヤモヤが残る。
 真犯人がわからないままのミステリー仕立てにしたかったのは分かる。しかし大抵のミステリーは序盤で登場人物が勢揃いして、まさかこいつがという意外な犯人が判明するのが常道だ。しかし本作品はその常道に則っていない。もっと早めに出して欲しかった。
 リドラーの素顔が早めにわかって、リドラー側のストーリーとバットマン側のストーリーが並行して進むのであれば、もう少しスリリングな展開になったと思う。本作品は、キャットウーマンを登場させる都合上、バットマン側のストーリーが冗長になってしまった。ゾーイ・クラヴィッツのプロポーションを見せつけるためだけみたいな無駄なシーンも多かった気がする。

 バットマンは家族を殺された復讐をしたいのであって、ゴッサム・シティを守りたい訳ではなかった。本作品では「親の因果が子に報い」という、前時代的な家父長制度の価値観が登場する。リドラーの言い分だ。しかし親の因果で施設育ちの人間が、他人の親の因果を追及することはない。自分の存在まで否定することになるからだ。どうにも腑に落ちなかったのはそのあたりだと思う。
 バットマンは頭脳明晰で身体能力が抜群に優れてはいるが、結局は金持ちのボンボンに過ぎなかった訳だ。しかし親が金持ちであることを責められる筋合いはない。その点でもリドラーの動機が弱すぎる。
 人が恨みを持ち、怒りを覚えるのは、被害者意識、または被害妄想である。リドラーが被害者意識を持つに至った経緯が不明瞭すぎる。誰もリドラーに感情移入できない。悪人も人間だから、悪役にも少しは感情移入させる必要がある。そうすることで作品に奥行きが出る。
 ところが一面的に扱われたリドラーは、ただの変な人という印象から一歩も出ない。悪人の心理の深淵が扱われなければ、物語は立体的にならず、平板な一本道になる。本作品はまさにその典型だ。その上作品を貫く価値観は、アメリカらしい家族第一主義そのものである。
 商業主義のB級作品だから、アメリカの観客に受けなければならない。つまりは観客が家族第一主義であることを想定している訳で、バットマンは最終的に父親が守ろうとしたゴッサム・シティを守ることになる。ゴッサムの人々が彼の家族なのだ。戦いの英雄もやはり家族主義でなければならない訳である。

 余談だが、本作品のバットマンは身長2メートル、体重100キロくらいに見えた。しかし実際のロバート・パティンソンはそんなに大きくないようで、カメラワークで大きく見せていたのだろう。腐っても鯛、ハリウッドの撮影技術はやはり大したものだ。

ゼレンスキーはもはや独裁者

2022年03月20日 | 政治・社会・会社
 元コメディアンで自国民を無慈悲に砲撃したことでお馴染みのウクライナ大統領ゼレンスキーは「男は残って戦え」と命じたという。
 この発言だけでも、この男が如何に浅墓で独善的で差別主義者であるかがわかる。
「残って戦え」という命令は「死ね」という命令に等しい。2021年の秋に自国の東部の国民をドローンで砲撃して殺したのに続いて、またしても自国民を殺すのだ。よほど国民を殺したいらしい。それほど言うなら先ずお前が最前線に行って戦えよと言いたい。
「男は」と限定することは明らかな女性差別である。世界のフェミニストの誰ひとりとして批判しないのが異様だ。

 もちろんプーチンは根っからの悪党だ。躁病で被害妄想である。しかし国際紛争は善悪の基準では判断できない。水戸黄門ではないのだ。ゼレンスキーが自分のパフォーマンスのために自国民を犠牲にしたことは、許されることではない。
 平和主義者は他国の国民を殺さない。逃げ出す自由は誰にでもある。その自由を認めない限り、世界に平和は訪れない。 独裁的で好戦的な国ほど国民の権利を制限する。 国民に死ねと命じるゼレンスキーはもはや独裁者の一人と考えていい。

ドラマティック・クラシック・フェスティバル ~ロシア激情の音楽~

2022年03月19日 | 映画・舞台・コンサート
オペラシティコンサートホール(タケミツメモリアル)でクラシックコンサート「ドラマティック・クラシック・フェスティバル ~ロシア激情の音楽~」を鑑賞。
 ソリストはピアノが2名で、黒木雪音さんと亀井聖矢くんだ。亀井くんには追っかけのオバサンたちがいて、予想はしていたがこのコンサートにもたくさん来ていた。
 演奏は抜群によかった。チャイコフスキーが2曲とラフマニノフが1曲の3曲だが、どれも大作で聴きごたえがある。特に2曲目のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番変ロ短調作品23は、曲の壮大さという点で素晴らしい名曲である。
 とてもいいコンサートだった。この時期にロシアの曲を演奏するのは大変だ。中止しないで開催した関係者に拍手を贈りたい。ロシアの文化と芸術はプーチンと無関係である。

映画「ガンパウダー・ミルクシェイク」

2022年03月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ガンパウダー・ミルクシェイク」を観た。
 アクションが完璧でないところが、逆にリアリティがあっていい。男たちは力任せだが、女たちはタイミングと切れ味で勝負する。タイミングがずれたら手痛い反撃を食らう。しかし打たれ強さでは負けていない。身体の柔らかさで打撃を弱めてもいるし、痛みを無視しなければ生き残れない経験も生きている。
 出てくる武器のバリエーションが面白い。リボルバーに自動拳銃にアサルトライフルにガトリングガン、レミントンと思しきサプレッサ付きの狙撃銃、それにグレネードやスモークグレネードなど、兵士が手で扱う武器のオンパレードだ。
 近接格闘では黒いトンファーバトンが登場する。ナイフ付きの自動拳銃は悪い冗談だが、トンファーは素手に比べて防御力も攻撃力も格段に優れている。トンファーのパンチが自分の眼窩にめり込むことを想像すると、げに恐ろしい。

 判官贔屓というのは日本人だけではないのかもしれない。柔道の試合で小柄な人が大男を投げ飛ばしたり、女性が男を近接格闘でノシたりするのがとても痛快だ。アメリカ人もそうなのだろうか。本作品を不愉快に思う人は少ないと思う。
 ミシェル・ヨーが健在なのは嬉しい限りだ。アクション映画ばかりが目立つが、映画「The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛」では政敵に苦しめられながらも怯まずに進み続けた強い女性を演じてみせている。
 クロエ・コールマンという黒人の子役は初めて見た。視線が力強くて凄くいい。演じたエミリーは、あまり帰ってこない父親に期待しないで独りで生きてきたことを窺わせる。大した演技力である。これからも活躍が期待できそうだ。

 ストーリーはサクサク進み、ところどころに見せ場がある。アクションの王道みたいな作品で、緩急の付け方も素晴らしい。とてもスカッとした。

映画「林檎とポラロイド」

2022年03月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「林檎とポラロイド」を観た。
 面白い作品だ。記憶とは何かについて、改めて考えるきっかけとなった。記憶喪失が蔓延するという発想は奇抜だが、それ以外は至って常識的である。常識的にするためには記憶の代用をしてくれるスマホやPCが邪魔だ。だから時代設定はそれらがまだ一般的でない年代にしたと思う。1970年頃だろうか。その場で一枚限りのポラロイドカメラを小道具にした発想もいい。

 人格は記憶によって形作られる。生まれたばかりの赤ん坊には、人権はあるが人格はまだない。遺伝的な気質に加えて、乳児期から幼児期にかけて決定する気性、それに記憶が累積することによって人格となる。
 記憶とは脳に入力された情報である。情報は五感から得られるものと、想像や思考によって獲得されるものがある。その大半は潜在意識に蓄積されて、ときどき取り出される。思い出すという現象だ。日常生活や仕事に必要な記憶は顕在意識に置かれて、すぐに取り出せるようになっている。
 俗に記憶喪失と呼ばれる症状は、逆行性健忘症といって、顕在意識の記憶が損なわれた状態である。潜在意識にはすべての記憶が残っているから、損傷したシナプスが回復するなど、脳の回路が復旧したら、再び顕在意識に取り出される。つまり思い出すのだ。自分の名前は記憶の最初から繰り返し情報を重ねているから、忘れることはまずない。

 本作品はそういった医学的な常識とは裏腹に、医師が奇想天外な治療法を施す。毎日様々な行動を課せられるのだ。患者は街の至るところにいて、何故かみんな真面目で大人しい。課題は日常的な些細なことから、真面目な人が日常生活ではあまりしなさそうな課題まで多岐にわたる。脳や記憶とどんな関係があるのだろうと考えながら観るから、単に踊っているだけの映像が違った意味合いを持つ。
 顕在意識の記憶がなくなっても、潜在意識には残っているから、人格を喪失することはない。しかし長期の記憶がなくなると人生を失う。記憶が戻らないのなら、新たな記憶を獲得すれば再び人生を始められるというのが本作品である。ただしこれまでとは別の人生だ。それが本人にとって幸福なのかどうか。

 痴呆症になって家族の名前さえ忘れてしまうのは、当人にとって人生を失ってしまうのと同じことだが、失ったことさえ認識できなければ不幸ではない。人生だけでなく人格も喪失しているからだ。
 しかし健忘症は人格がありながら、人生の一部を喪失している。これは不幸だ。主人公が知り合った女性が課題をこなす姿に虚しさを感じたのは、当方だけではないだろう。おそらく主人公も同様の虚しさを感じたはずだ。記憶をなくすことで失った人生は、心に空いた穴である。

映画「生まれゆく日々」

2022年03月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「生まれゆく日々」を観た。
 映画「DEATH DAYS」のメイキング映像だ。これを映画と呼んでいいのかどうかは不明だが、「DEATH DAYS」の直後に上映されるので、観たばかりの映画のネタばらしみたいで、結構面白い。
 撮影は4日間。ほぼひとつのスタジオのみの撮影だ。MOSSさんからの差し入れです、みたいな声があった。MOSSは宮沢りえと森田剛が新設した事務所である。つまり宮沢りえからの差し入れなのだ。それは嬉しいだろう。
 ここでは石橋静河に注目した。身体能力がかなり高い。声も大きい。いわゆる通る声だ。大人しい芝居をする女優だと思っていただけに、爆発力があることがわかって嬉しかった。
 映画は、上映されるシーンの順番では撮影されない。俳優は通しで脚本を読んで、それぞれのシーンを把握する。順不同の撮影では、脚本を理解する力とシーンを想像する力の両方が試される。森田剛の集中力は凄い。石橋静河も負けてはいない。
 一発でOKになるシーンもあれば、監督が納得するまでテイクが繰り返されるシーンもある。集中力を切らさずに演技をするのは、もはや体力勝負である。誰も音を上げない。アイデア勝負に思えた「DEATH DAYS」だが、意外に緻密に作られているのだと感心した。