三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

舞台「アンナ・クリスティ」

2018年07月28日 | 映画・舞台・コンサート

 大手町のよみうり大手町ホールで舞台「アンナ・クリスティ」を観てきた。父親のもとに帰って来た女が、出会った水夫に娼婦だった過去を隠し切れなくなって打ち明けるが、水夫はそれを許せないと去ってしまう。しかしその後、、、というストーリーの芝居で、人は何によって評価されなければならないかというアイデンティティがテーマの芝居である。
 篠原涼子が泣いたり笑ったり怒ったり喚いたりの全力の演技で女の生き様を表現する。それはもう迫力があって、とてもいい芝居だった。
 ご主人の市村正親さんも見に来ていて、入るときと出るときにすれ違った。声をかける人ににこやかに挨拶していて、ご主人らしい振舞いだと思った。


映画「ワンダーランド北朝鮮」

2018年07月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ワンダーランド北朝鮮」を観た。
 http://unitedpeople.jp/north/

 筒井康隆の「東海道戦争」という小説がある。有名な小説だからご存じの方は多いだろう。スラップスティックなので朝鮮半島の深刻な状況とは訳が違うが、読んだ当時は、日本が東西で分断されて戦うことになると、何がどのように変わるのだろうと、あれこれ想像したものだ。小説はマスコミの大衆操作と絡めて面白おかしく書いていたが、実際の戦争ともなれば、庶民にとっては大災害に見舞われたのに等しく、毎日が避難生活のように苦しいものとなるだろう。朝鮮半島の人々はよく生き抜いたものである。
 考えてみれば、朝鮮半島の歴史もご多分に漏れず、国内での覇権争いと他国からの干渉や侵略、それに対する抵抗の歴史である。20世紀の初めころから日本も参加して、韓国併合などという無茶なことをしている。1945年の敗戦まで日本は韓国を植民地のように扱い、その後の朝鮮戦争で生じた朝鮮特需で大儲けして、その後の高度成長の経済的基盤を得ている。日本は朝鮮半島の人々にとって、自分たちを蹂躙してきた国なのである。
 その歴史を踏まえれば、戦後に大韓民国が日本と国交を再開したのは、大方の大韓民国国民の意に反することだったのではないかとも思われる。日本に恨みはあるけれども、経済協力を得たほうが国として得だという判断だったようだ。そのとき大韓民国は北朝鮮と戦争状態にあったから、日本は大韓民国を正式な政府として認め、北朝鮮を認めなかった。
 そんな朝鮮半島と日本の歴史を知ってか知らずか、暗愚の宰相アベシンゾウはこれまで北朝鮮を散々政治利用してきた。曰く、北朝鮮は核兵器を開発している悪い国だ、日本に向けてミサイルを発射するかもしれないと叫び続け、時にはJアラートなるものを鳴らして、住民にバカげた避難を強制したりして、いかにも朝鮮からミサイルが飛んできそうな雰囲気を作り上げた。すると、自分で考えることをしない日本の有権者はアベを支持し、選挙の度に自民党に投票して、その結果、日本は戦前のような国になろうとしている。

 さて、本作品についてであるが、独裁者礼賛のパラダイムが都会から田舎まで、国の隅々に浸透していることがわかる。情報統制で他の考え方が入らなければ、教わったことだけを信じるのは当然である。もし北朝鮮がインターネットや他国のテレビ、書物を国民に開放したら、その瞬間に金体制は崩壊し始めるだろう。北朝鮮は国内的には情報統制をしつづけるしかないのだ。
 まったく同じ意図を感じるのが、アベ政権が成立させた特定秘密保護法や、道徳の授業の科目化である。お国のために役に立つという考え方だけの人にしようという考え方で、北朝鮮とそっくりである。正常性バイアスで、日本は大丈夫と思っている人が大半だろうが、そのうちに、インターネットが制限され、反体制的な言動が徐々に封じられるようになるだろう。弾圧され、あるいは暗殺される人も出てくるだろう。それは決して絵空事ではない。
 映画のシーンが20年後、30年後の日本を見ているようで、なんだか底知れぬ不安を覚えた。


映画「ジュラシックワールド 炎の王国」

2018年07月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ジュラシックワールド 炎の王国」を観た。
 http://www.jurassicworld.jp/

 動物園や水族館で動物を飼うのは見世物にするために他ならない。人間のエゴだから、様々な問題を生じさせる。
 例えばアフリカの平原で生きている動物を日本の環境に持ってくることは、是なのか非なのか。夏バテしているように見えるホッキョクグマを生ぬるいプールで泳がせるのはホッキョクグマにとって快適なのか。そもそも人間は食物連鎖の頂点にいるというだけで、他の動植物の生態系を乱し、絶滅させる。その上で必ずしも必要ではない動物園や水族館で動植物を飼育することが人間にとって必要なのかどうか。
 連れてきたのがジュラ紀の動物であっても、同様の問題は常に孕んでいるはずだが、この映画ではそういった問題には一切触れようとしない。それよりも動物を無辜の象徴みたいな扱いに奉り、悪事に利用しようとする悪者たちを懲らしめるという、驚くべき勧善懲悪のストーリーに堕してしまっている。途中から、なんじゃこりゃと思ってしまった。こういう単純な勧善懲悪なら水戸黄門で十分だ。

 もしジュラ紀の動物が現代に生きることができるなら、その圧倒的な大きさと、人間には計り知れない無慈悲な行動をするはずだ。シリーズの最初の作品「ジュラシックパーク」はまさにそういう作品で、そもそもジュラシックパークを作ろうとした動機が金儲けという、金のためなら何でもやる時代に相応しいものだった。色々な思惑が縦横に交錯した立体的な世界観の作品で、今でも見ごたえがある。
 しかし本作品は世界観も薄っぺらで、主人公とその仲間たちは何があっても絶対死なず、恐竜は微妙に擬人化されてペットみたいな立ち位置になっている。ご都合主義の極みと言っていい。恐竜のリアリティとCGの精密さだけを追求した作品で、恐竜が暴れているのを3Dで見ることができるのが唯一の取り柄と言っていい。それにしては恐竜がどれも迫力に欠けているところがあって、怖くもないし驚きもしない。高い代金を払ってIMAXで観るにはあまりにも期待外れな駄作であった。


映画「未来のミライ」

2018年07月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「未来のミライ」を観た。
 http://mirai-no-mirai.jp/

 アニメの表情はラインのスタンプとは違って、前後の脈絡から観客がそれぞれに想像する幅がある。どんな受け取り方をするかは観客それぞれの感性や経験、世界観などによって異なる。そういうアニメの多義性が作品に奥行きを齎し、物語に深みを与える。「この世界の片隅に」のすずさんがどちらかと言えば無表情だったのに、観客が深い感銘を受けたのは、アニメの持つ多義的な表情に由来すると思う。

 しかしこの作品は残念ながら一元的で、本来は家族を取り巻く環境が家族間の関係性に影響を齎すはずだが、家族間だけの人間関係に終始してしまっている。だから表情もラインのスタンプと同じくひとつの意味しか持たない。妹が生れた小さな兄の成長物語だが、登場人物の誰にも際だった個性がない。庭に出るたびに過去や未来の家族が登場して主人公を少しずつ成長させるというアイデアだけに頼った映画で、このところのレベルの高い邦画アニメとしては駄作の部類に入ってしまった。
 映画の底流には家族第一という一元論があり、世界の問題から目を背けて先祖から未来までを家族主義で通してしまう世界観は、どこか国家主義の世界観に似ている。説教がましいし、偽善的だ。豪華な声優陣を使ってこういうアニメを作るモチベーションが、私には理解できなかった。


映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

2018年07月23日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」を観た。
 http://www.bitters.co.jp/shinochan/

 自尊感情が低い人は世の中に多いと思う。どうしてそうなってしまったのかは、たぶん本人にもわからない。自尊感情を持つようにすすめる人はいる。そういう人は、一度きりの自分だけの人生なんだから大切にしないといけない、同じ意味で自分自身も大切にしないといけないという意味のことを言う。
 しかし世の中を見渡せば、幼くして殺されたり餓死したりする子供はたくさんいるし、人間以外の生物の多くは、生命そのものを蹂躙されている。自分の人生や自分自身を大切にしなければならない理由はどこにもない。それよりもこんな世の中に自分を生み出した親を恨む。
 このあたりまでは、たくさんの人が辿る道である。そこから先は人によって進む道が違ってくる。中には生まれてきたことを恨む気持ちが世の中全体に向かって、誰でもいいから殺したい、自分も死にたいと、自爆的なテロ行為に走る人もいる。しかしそれは本当にごく少数で、たいていの人は、日常生活の中に自分なりの小さな幸せを見つけて、つつましく生きていく。そのために必要なのは、低い自尊感情と現実に存在している自分との折り合いをつけることだ。実存的な問題である。

 本作品では、自尊感情の持てない3人が、互いの関係性の中で生きる喜びを見出そうとしていく。まさに青春模様で、覚束ないギターを弾き、テクニックなしの歌を歌う。吃りの人でも歌うときは吃らないのは昔から知られているが、志乃の歌は特にまっすぐな歌い方で、亡くなった加藤和彦を思い出してしまった。彼も心に闇を抱えたまま生きていた人で、遺書には「消えてしまいたい」と書かれていた。同じような思いを持つ志乃に彼の歌を歌わせる演出が心憎い。演じた南沙良は鼻水を垂らしながら泣く熱演で、役によく入り込んでいた。
 蒔田彩珠はテレビドラマで見かけた不機嫌な少女から一歩脱して、期待と不安に揺れる思春期の乙女を見事に演じる。この人の落ち着いた演技がなければ志乃の役が成立しなかったと思う。
 世の中の価値観に迎合せずに人間の真実に迫ろうとする意欲的な作品で、日本の青春映画としては出色の出来栄えである。


映画「菊とギロチン」

2018年07月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「菊とギロチン」を観た。
 https://kiku-guillo.com/

 日本の戦後民主主義はポツダム宣言の土台の上に成り立っている。ポツダム宣言は、第二次世界大戦という悲惨な戦争を体験した世界の指導者が、もう戦争は嫌だ、国家ではなく個人の幸福を追求しなければならないという大前提のもとに造り上げられた。日本国憲法のもとになっていることは言うまでもない。日本国憲法は決して、どこかの小国の首相が言う「みっともない憲法」ではないのである。二度と戦争をしないために世界の英知が結集した、世界最高峰の憲法なのだ。

 この作品は、日本国憲法ができるより四半世紀前の話である。世界中が悲惨な戦争に向かって坂を滑り降りている真っ最中だ。国家の繁栄が個人の幸せだという牽強付会が大手を振って罷り通っていた時代である。天皇陛下万歳という価値観に誰もが疑問を抱きながら、そのパラダイムに逆らえない不自由な時代でもあった。
 そんな時代に異を唱えることがどれほど大変な勇気の要る行為であったことか、いまでは想像すら出来ない。しかし例えばネット右翼の族や、ワールドカップの試合で渋谷に集まる人々を見ると、この国はひとつの価値観を共有している風を装うことで盛り上がろうとする短絡的な人間が非常に多いことがわかる。国家主義者たちにとってはなんと御しやすい民衆であろうか。
 大正デモクラシーの頃の人々がどのようであったかは不明だが、この作品では権力に阿るのは在郷軍人会と下っ端の警察官で、その他の人々は必ずしも天皇陛下万歳のパラダイムに支配されてはいないように見える。実在の無政府主義者たちは、自由闊達な精神を維持していたのだ。彼らが逮捕され処刑されたことは、日本から自由な精神が失われて、国家主義の陥穽に嵌ってしまったことの象徴である。女相撲も同様に、女が土俵に上がるということで、タブーを真っ向から打ち破る自由の象徴のように描かれる。この二つの自由が映画の両輪となって、3時間の長丁場をぐいぐいと引っ張っていく。
 俺たちは、私たちは自由だ!と叫んでいるかのような作品で、当時と同じように国家主義の陥穽に転がり落ちつつある現代に警鐘を鳴らす。現代が将来、平成のファシズムと銘打たれる時代になるなら、平成デモクラシー映画群の作品のひとつとなるだろう。


映画「Battle of the Sexes」

2018年07月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Battle of the Sexes」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/battleofthesexes/

 エマ・ストーンは「教授のおかしな妄想殺人」で可愛い女子大生を違和感なく演じていて、「ラ・ラ・ランド」はその延長線上みたいな演技だったが、本作品ではうって変わって大人の女の複雑な心を余すところなく演じていて、非常に好感が持てた。

 人間は多かれ少なかれ、プレッシャーを感じながら生きている。プレッシャーがそのままストレスとなって体を壊したり鬱になったりする人もいれば、プレッシャーを押し返して強く生きる人もいる。ただ、最初からプレッシャーに強い人はいない。習うより慣れろでプレッシャーに慣れていくのだ。
 慣れていくためには怖じ気づいてはいけない。やるべきことをやるしか、プレッシャー克服の道はない。そして少しずつ様々なプレッシャーを克服していく中で、徐々に大きなプレッシャーにも耐えられるようになる。人間はそうやって成長していく。
 とはいえ、大きなプレッシャーの中で無人の荒野をひとりで歩いて行けるほど、人間は強くない。誰かの後押しがなければただの一歩さえ踏み出せないだろう。

 本作品は、第二次大戦後の目まぐるしく価値観が変動する時代に、前人未踏の道を歩んだ勇気ある女性の物語で、彼女が必ずしも鉄の意志の持ち主ではなく、苦しい道を泣きながら、笑いながら登っていった様子を、細かなシーンで女心の機微に触れながら描いていく。エマ・ストーンの女優魂が余すところなく発揮された傑作である。

 
 

映画「オンリー・ザ・ブレイブ」

2018年07月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「オンリー・ザ・ブレイブ」を観た。
 http://gaga.ne.jp/otb/

 予告編を見て、ドロップアウトした若者が共同体の価値観に認められることで社会復帰を果たすリバイバルストーリーだろうと勝手に想像していた。たしかにそういう場面もあったが、全体としては森林消防士たちのリアルな群像劇で、安易な予定調和に陥らない骨太の作品になっている。
 主人公の隊長は、非論理的で理屈の通じない妻となんとか折り合いをつけていこうとする一方、発生する森林火災が人々の生活を脅かさないように日々の厳しい訓練を欠かさず、実際の鎮火活動では経験則を生かして効果的な対策を速やかに実施する。誰もが尊敬の念を禁じ得ないだろう。
 事実に基づいた作品とのことでストーリーはどうしても地味にならざるを得ないが、地味なりに、男たちの優しさや小さな願い、女たちの不安と母の思いなど、いいシーンが鏤められている。人間味に溢れた佳作である。


「トランス=シベリア芸術祭コンサート」

2018年07月04日 | 映画・舞台・コンサート

 Bunkamuraオーチャードホールに、「トランス=シベリア芸術祭コンサート」に行ってきた。
http://www.bunkamura.co.jp/orc…/lineup/18_repin_friends.html
 チャイコフスキーの「フィレンツェの思い出」はバイオリン2人、ヴィオラ2人、チェロ2人の6人の協奏曲で、とても迫力のある楽しい曲だった。また聞きたい。


映画「羊と鋼の森」

2018年07月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「羊と鋼の森」を観た。
 http://hitsuji-hagane-movie.com/

 予告編で出てくる、山崎賢人が雪景色の中で叫ぶシーンは要らなかった。全体に日常的で落ち着いた作品なので、落ち着いたままの演出で十分だったと思う。特に三浦友和の口数の少ない演技は秀逸で、この演技の雰囲気で全体を通したら、かなりいい作品になっていたのではないかと思う。もともと主人公の人物造形からして、激しく泣き叫ぶ性格ではないし、泣く理由も弱すぎて観客からすればリアリティが欠如したシーンにしか見えない。
 調律の作業中に息が上がるのもどうかしている。人は自分の失敗に直面した時には息を荒げたりせず、逆に無言で無表情になるものだ。このあたりの演出もリアリティを欠いている。上白石姉妹の演技はリアルな高校生を感じさせてくれたが、最後まで姉妹の家族が登場しないのは不自然だった。主人公が行き詰まった時に、家族の誰にも話をしないのもおかしい。
 何だかんだで結局必要なシーンがなくて不自然なシーンばかりが目立つ、最近の映画では珍しく不出来な作品であった。山崎賢人の演技も間延びして悲壮感に欠けていて、ちっとも感情移入出来なかった。鈴木亮平も仲里依紗もいい感じだっただけに、演出と主役の不出来が悔やまれる。