三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Hacksaw Ridge」

2017年06月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Hacksaw Ridge」を観た。
 http://hacksawridge.jp
 メル・ギブソンもついにクリント・イーストウッドやロバート・レッドフォードの仲間入りを果たしたかと思われる作品である。
 テーマは歴史的にも世界的にも一般的であるが、いまだに誰もすっきりした回答を出せないでいるものだ。すなわち、戦争は人殺しか、世間一般の殺人事件の人殺しとどう違うのか、というテーマである。
 主人公は信仰から、人を殺してはいけない、自分は人を殺すことは絶対にできないと信じている。そして戦場には、人を殺すのではなく人を助けるために行くと主張する。主張するまでなら誰でもできる。問題は、銃弾が飛び交い仲間が次々に倒れる修羅場にあってなお、その主張を貫くことができるのかということだ。
 戦場など、人間の究極の選択が試される場所を文学的には極限状況と呼ぶ。極限状況にあって、何をするか、どんな姿勢で臨めるかがその人間の本当の姿をあらわすという仮説に基づいて、様々な作品が作られてきた。果たしてこの作品の主人公は、極限状況にあってもなお、自らの信念を貫けるだろうか。
 難攻不落の丘、ハクソーリッジでの戦闘シーンは、これまでに観たどの映画よりもリアルで迫力に満ちていた。もし自分があそこにいたら、1秒も正気を保っていられないだろう。
 そんな状況でひ弱い主人公に何が出来るだろうと、誰もが思う。それがこの作品の肝だ。主人公にとって、信仰は奇跡ではなく、現実である。自分を律し、あらゆる暴力を禁ずることで自分の生き方を貫き、レーゾンデートルを見出だす。
 仏教のジャータカの逸話は誰もが知る有名な話だが、森の火事を消そうとしたハチドリだけが称賛されるのではなく、ライオンもゾウも、最初に逃げ出したリスさえも、それぞれの役割を果たしたとされる。
 この映画はまさしくジャータカの逸話通りの作品で、登場人物の誰もが素晴らしい。では、森に火事を起こしたのは一体誰なのだろうか。


映画「セールスマン」

2017年06月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「セールスマン」(ペルシア語の原題は入力できないので省略)を観た。
 http://www.thesalesman.jp/

 カンヌ映画祭で高い評価を得た作品。アメリカのアカデミー賞も受賞したが、トランプの政策に反対して授賞式はボイコットしている。それがいいことなのかどうかは別にして、権威に媚びない毅然とした態度は立派である。日本の映画人にも同じ心意気があると信じたい。トランプにヘーコラするのは暗愚の宰相だけでいいのだ。

 イランでは映画も演劇も検閲を受ける。イスラム教の国としてコーランの教えに反した作品は上映も上演も認められない。この映画でも過激な描写はなく、必要な場合は前後のシーンで暗示する。イスラム教が影響しているのは検閲だけではない。人々の暮らしはコーランに束縛され、あるいは守られている。
 この映画にもイスラムの戒律がそこかしこに感じられるが、人々はそれほど窮屈な生活をしているようには見えない。スマートフォンを持ち液晶大画面のテレビのある生活だ。未来を案ずるのは世界中のどこも同じである。

 本作品が描くのは、夫婦の葛藤だ。起きた事件を自分の心の問題として捉え、何とか精神を立て直そうとする妻に対し、事件を社会的な問題として捉えて合理的な解決を図ろうとする夫。互いに理解しあえぬままだが、なんとか互いに歩み寄ろうとし、また同じ劇団の役者として芝居の舞台に立ち続ける。フランスの作家バルザックの小説のように、人生の不条理を淡々と描く。

 夫婦はもともとは他人で、一緒にいることで夫婦となっているが、心はどこまでも別々である。それは日本で1971年に発表された「黒の舟歌」という歌謡曲の歌詞みたいだ。
 ♪男と女の間にはふかくて暗い河がある
 ♪誰も渡れぬ河なれどエンヤコラ今夜も舟を出す
 誰も他人の生を生きることはできない。誰も他人の死を死ぬことはできない。果てしなく深いクレバスのように、人と人との間には越すことの出来ない溝がある。

 人間はこんな風にして生きていく。そんな映画である。人生はなんて惨めで滑稽なんだろうと思うもよし、それでも生きていくと決意するもよし。いずれにしても、見終わった後に胸に重たくのしかかるものがあるのは確かだ。


映画「LOGAN」

2017年06月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「LOGAN」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/logan-movie/

 XMENシリーズはいずれも、単なるヒーローアクションの映画ではなく、ミュータントとして生きている自分自身のアイデンティティの相克がテーマになっている。
 本作も例外ではなく、悩める主人公が迫り来る敵と戦いながら、自身のレーゾンデートルを模索し続けるという二重構造の奥行きを持っている。そこに少女が加わって、物語は立体的に進んでいく。
 兎に角ヒュー・ジャックマンがいい。肉体は衰えても百戦錬磨の中年男らしく胆の据わった主役にぴったりの堂々とした演技だ。これまでのXMENの役柄とは一味違う深みがある。
 わかりづらい設定も、ストーリーが進むにつれて徐々に明らかになっていく。決して説明的ではないところがいい。

 結局家族が一番という世界観はいかにもアメリカ映画の定番だ。よく考えたら、アメリカで軍事小説とスパイ小説のベストセラー作家であるトム・クランシーもロバート・ラドラムも底流にあるのは家族が一番大事という考え方だった。アメリカという国は、信じられるものが家族だけだった開拓時代の心情がいまだに民衆の心の底に色濃く残っているようである。それはそれで悪くはないが、世界観の広がりを制限してしまっているのは否めない。
 本作品もそんな世界観にどっぷりはまってはいるものの、映画自体としてはストーリーも演出も演技もカメラワークも一級品で、とても楽しめる快作である。


映画「22年目の告白-私が殺人犯です-」

2017年06月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「22年目の告白-私が殺人犯です-」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/22-kokuhaku/

 何を書いてもネタバレになりそうなのでストーリーには触れない。設定は予告編の通り、殺人の時効から5年を経過した段階で真犯人が名乗り出るというものだ。なかなか興味深い設定で、何故そうなったのか、これからどうなるのか、目を離せなくなる。

 藤原竜也はやっぱり演技が上手だ。蜷川幸雄という演出家がどうにも好きに慣れなかったので、弟子筋にあたる藤原竜也も色眼鏡で見てしまっていたが、彼は演出家の指導よりも前に独自の世界があるようだ。そのため蜷川幸雄の世界に捉われることなく、彼自身の演技を貫いている。
 しかしそれは、ともすれば両刃の剣となる。役者が独自の世界で演じると、どんな役を演じても同じような演技になってしまう場合がある。それがもろに出たのがキムタクで、藤原竜也も同様の結果に陥ってしまう危険性を孕んでいる。
 この映画での演技は、弱さと決意と執着の危ういバランスで生きている主人公を上手に演じていた。演じる人を演じるという意味で大変難しい役柄だ。その綱渡りのような生き方を微妙な表情で表現し得ているところが演技の上手なところだ。この先さらに演技が磨かれれば、自身の世界観を保ちつつ、作品の世界観を表現できるようになるかもしれない。
 伊藤英明は作品の世界観によって全く違った演技をする。爽やかな熱血漢から気持ちの悪い役柄まで、上手にこなす。本作でも、一見むくつけき刑事に見える武骨な男が内に苦悩を秘めているのをうまく伝えていた。

 ストーリーは一時期の江戸川乱歩の小説のようだ。観客はしばらく真相が読めず、一方で思わぬところで思わぬ人物が思わぬ行動をとる。早乙女太一の役柄がそれだ。
 テレビでよく見る街頭インタビュー風のシーンや、ニコニコ動画の使い方もうまい。よかれ悪しかれネット社会で起きた事件なのだ。必ずSNSなどで拡散される。本作では、ネットの情報が一向に真実を捉えていないことも表現されている。ネット社会は上辺だけしか見ない、思考停止の社会であることもアンチテーゼとしているのだ。

 プロットも役者の演技もいい、上質なエンタテインメントである。


映画「花戦さ」

2017年06月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「花戦さ」を観た。
 http://www.hanaikusa.jp/

 萬斎ワールド全開の映画である。この人の狂言の舞台を見たことがある人なら、映画の演技も舞台の演技と同じであることがすぐわかる。喜怒哀楽を極端に表現することで笑いや涙を誘う演技だ。
 この作品では、そこに茶の湯の侘びや寂びも加わるので、間がとても大事になる。ひとつひとつのシーンがゆっくり、ゆっくり進むのだ。それは茶の湯で主人の手元の動きを楽しみながら、茶の出来上がりを待つのに似ている。急いてもいけないし、気を抜いてもいけない。
 ジェットコースターのようにストーリーが進んでいく最近の映画に慣れた目には、面食らうほどのスローペースだが、やがてそのペースが心地よくなってくる。茶の湯の席で流れる時間が、日常の時間から隔絶されているのと同じだ。

 茶の湯の要諦は一期一会だ。一服の茶は無造作に飲まれて終わる。しかしその茶室でその一服の茶を飲むに至るためには、それまでの経緯があり、主人との出会いがある。主人にとっても、その客をもてなすに至った経緯がある。来し方を振り返り、行く末を案じる互いの人生の一瞬の重なりを、一服の茶に味わうのが茶の湯だ。
 それは、やはり短期で終ってしまう活け花にも通じている。消滅する美を人生の一瞬に重ねて、無限の時間と空間の中でその花を活けるに至った縁起を感じる。花の命と自分の人生が重なったときにだけ、その花を愛でることができるのだ。花は散るから美しい。

 この作品にはたくさんの出会いと、たくさんの別れがある。そのすべてが一期一会であり、主人公は出会う人、別れる人に「おおきに」を繰り返す。ひとつひとつの「おおきに」が全部異なるニュアンスで表現されるのは流石に萬斎である。佐藤浩市の利休とのやり取りにある「間」に、侘びと寂びを感じることで、観客はこの作品との一期一会を果たすことになる。


映画「帝一の國」

2017年06月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「帝一の國」を観た。
 http://www.teiichi.jp/

 平日の夜スタートの回だったが半分以上の席が埋まっていて、その8割を女性客が占めていた。流石にいまをときめくイケメン俳優たちの競演である。
 予告編ではバンカラの男子校が舞台のギャグ映画にしか思えずあまり期待していなかったが、なかなかどうして、結構内容のあるいい作品だった。
 永井聡監督は「世界から猫が消えたなら」も「ジャッジ!」も世の中の権威や既成の価値観を相対化し、改めて問い直すいい作品だった。本作も学内の権力闘争を描いていながら、国家の権力闘争よろしく世論の動向を気にしたり、実弾が飛び交ったりスキャンダルの暴露があったりと、現実の政治の馬鹿馬鹿しさをギャグにして相対化し、笑い飛ばしている向きがある。
 政治権力というヒエラルキーの頂点に向かって互いに蹴落とし合う姿は、総理大臣を目指す政治家や事務次官を目指す官僚たちと少しも違わない。権力を手にしてこの国をどのようにしたいかという哲学に欠けている点も同じである。大真面目にやっているところが可笑しくもあり、空恐ろしくもある。
 共謀罪が成立しかけているこのタイミングで公開されたことは、この映画にとって幸運である。政治の内情を暴露したという罪で逮捕されかねないからだ。

 日本の若手俳優は男女とも達者な人が多い。主演の菅田将暉は、脱力系の演技が得意なのかと思いきや、こういった前のめりに力んだ役も簡単にこなす。氷室ローランドを演じて存在感を示した間宮祥太朗は、発声の仕方がひとりだけ独特で、屋内なら壁を顫わせるような、屋外なら雷鳴のようなと表現したくなる、そんな声を出す。舞台でハムレットを演じれば、さぞかし客が入るだろう。

 テンポのいいストーリー展開、メリハリのある演出、大胆で力のこもった演技と、三拍子そろった作品である。


映画「光」

2017年06月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「光」を観た。
 http://hikari-movie.com/info/

 冒頭から結末までひとつの円のように繋がった見事な作品である。

 主演の永瀬正敏は去年の映画「64ロクヨン」や「後妻業の女」では物語の鍵を握る重要な役柄を上手に演じていたが、本作品ではさらに一段上の演技に昇華されている印象を受けた。
 かつては高い評価を受け、それなりの名声と地位を得たカメラマンが、カメラマンの命とも言うべき視力を失おうとしている。いまは微かに見える視力にすがって、いつまでも見ていたいと願う気持ちがあり、自分は時間を切り取るカメラマンだという自負もある。一方ではまったく見えなくなることへの不安と恐怖がある。非常に難しい役柄だ。

 他の登場人物も鋭い洞察力と感性に溢れる役柄ばかりの中で、唯一凡庸な登場人物が相手役の尾崎美佐子で、意図したものかどうか不明だが、プロの中にひとりだけ素人が混ざったような演技をする。最初の打ち合わせのシーンで特にそれが目立った。
 劇中映画の監督兼主演役の藤竜也は、大らかで優しい、思索に満ちた役柄で、訪ねてきた美佐子を掌で転がすように応対する。そこにまた美佐子という役柄の軽さが出てしまう。
 そういった演技が、映画が進むにつれて彼女の気持ちが変化するのを表現するために必要な演技なのかどうかは評価が分かれるところだが、もしこの見事な映画に僅かな疵があるとすればそこだろう。
 しかし美佐子を演じた水崎綾女の演技自体はそれほど悪くない。特に涙を流すシーンは、それぞれのシーンの涙の理由や心情をよく表現できており、美佐子が肩肘を張って仕事を頑張っているプライドだけの女性ではないことがわかる。目に力のある女優さんで、哀しい笑いや嬉しい泣き顔などができるようになれば、もっと演技の幅が広がって、今回の役者陣とも渡り合えるようになるだろう。

 映画のハイライトは、カメラマン中森が美佐子に請われて連れて行った山で、これまで大切にしていたローライフレックスの二眼レフを夕陽に向かって投げ捨てるシーンだ。ずっとカメラマンとしての自分にこだわり続けてきたが、見えなくなったいまとなっては、カメラマンとしての生き方を捨て去るしかない。カメラを投げ捨てたのは自分自身にそれを覚悟させるためだ。横にいた美佐子は、捨てたカメラの方向に顔を向けながら黙って佇む中森の表情に、たったいま過去と訣別した男の孤独な魂を見る。そして深く気持ちを揺さぶられる。

 冒頭の映画館のシーンの続きがラストにやってくる。美佐子が悩みに悩んだ劇中映画のラストシーンの音声ガイドの言葉だが、ようやくここで結論が出る。劇中映画の終りが映画の終りである。途中でもさんざん涙が流れたのに、この結末にさらに涙が溢れ出る。カンヌ映画祭でスタンディングオベーションが10分も続いた理由がよくわかる。輪を描くようなストーリーと映画のタイトルがひとつになった、忘れ難い印象の作品である。


映画「Manchester by the Sea」

2017年06月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Manchester by the Sea」を観た。
 http://www.manchesterbythesea.jp/

 人生には悔やんでも悔やみきれないことがある。人は自分を責め、心を閉ざして未来に背を向ける。もはや人生に喜びはなく、希望の明日もない。自分自身を見捨ててしまったのだ。そしてもう死んでしまいたいと誰もが願う。本当に死んでしまう人もいれば、生きつづける人もいる。
 かくも悲しい世の中を、人はどうして生きつづけていられるのか。仕事終わりに飲む一杯のビールのためか。ネットで買った靴が週末に届くのを受け取るためか。

 町や部屋を出て行くというのは、映画でも小説でも歌謡曲でも数多く取り上げられているテーマだ。家族や友人、恋人との別れがあり、歳月が流れて故郷を振り返る。たとえそこに耐え難い想い出があったとしても、故郷には自分の消しがたいアイデンティティがある。流れ流れてこんな生活になっちまったという人も、いつかは故郷と向き合って、決着をつけなければならない。
 たとえ故郷に親戚も友人もいなくなっていても、昔ながらの山があり川があり海がある。室生犀星の「小景異情」に歌われている故郷に対する感情は、世界共通の感情であるように思える。人はそれを懐かしさと表現するが、懐かしさは愉快な記憶だけではない。苦しい想い出やほろにがさもある。
 人によっては忘れてしまいたい凄絶な記憶もあるだろう。出来れば逃げていたい記憶だが、故郷の記憶を捨て去ることはアイデンティティの喪失を意味する。根無し草になってしまうのだ。
 この映画の主人公は兄の遺言から逃げようとせずに、自分本意で幼稚な甥の面倒を見ながら必死で過去の自分と今の故郷の両方と折り合いをつけようともがく。
 主人公を受け入れたくない周囲に対し、それでもすべてを引き受けて生きて行こうとする主人公。しかし過去の記憶はどうしても自分自身を許そうとしない。その葛藤がこの映画の主眼であり、観客の誰もが主人公に自分を重ねる。いい作品である。


レース結果~安田記念

2017年06月04日 | 競馬

安田記念の結果
1着サトノアラジン  無印
2着ロゴタイプ    無印
3着レッドファルクス 無印

私の印
◎アンビシャス    15着
〇イスラボニータ     8着
▲グレーターロンドン   4着
△ステファノス      7着
△エアスピネル      5着

 馬券は頭で買ったアンビシャスが15着大敗だったので当然ハズレ。
 レースは前後半45秒5~46秒0の平均ペース。レースの上がりが34秒4なので、先手を取ったロゴタイプがそのまま逃げ切ってもおかしくない展開だったが、33秒7の鬼脚を使ったサトノアラジンが首差かわして優勝した。大跳びでサクラユタカオーみたいな走りの馬だ。
 アンビシャスは終始後方で、直線もまったく伸びずに終わった。マイルが向いていなかったとしても、ここまで大敗するのは調子が悪かったとしか思えない。
 イスラボニータは不完全燃焼のレース。直線で前が開かなかった。しかしそれは器用な脚がないか、前をこじ開けるくらいの勝負根性がない証拠。結局、皐月賞は何もかもがうまくいったレースだったということだ。
 良血馬グレーターロンドンが4着。上がり33秒9で勝ち馬から0秒1差なら結果としては悪くない。5歳だが1年間の休養があり、キャリアは浅い。これからの伸びしろが期待できる馬だ。
 エアスピネルは上がりタイム2位の33秒6の末脚を使ったが、イスラボニータと同じく前が開かずに5着まで。それなりの力はみせたレースだったと思う。

 次は6月25日の宝塚記念だ。


安田記念~アンビシャス

2017年06月04日 | 競馬

◎アンビシャス
〇イスラボニータ
▲グレーターロンドン
△ステファノス
△エアスピネル

 本命はG1大阪杯で33秒6という最速の上がりタイムを記録したアンビシャス。去年の安田記念はスローペースでロゴタイプが逃げ切ったが、流石に今年は去年ほど遅くならず、前半と後半がほぼ同じタイムの平均ペースで流れるだろうとみて、自在性と決め手を重視した。
 相手は漸く調子を取り戻したイスラボニータ。上位は間違いないところだが、決め手に欠ける部分があるので頭では買いづらい。
 休み明けを4連勝中の良血馬グレーターロンドン。ソエで出走も危ぶまれたが、それでも出走してくるのは状態がよくなっているとみて単穴とした。ただ、後方から直線だけのレースをするので、平均ペースのこのレースで突き抜けるまではどうか。
 秋の天皇賞で2着と3着に来ている実力馬ステファノスと前哨戦のマイラーズCの勝ち馬エアスピネルブラックスピネルと勝ったり負けたりだが、こちらはダービー4着、菊花賞3着の実績があり、実力的には差がありそうだ。

 馬券はアンビシャスを頭の3連単(4-7、8、15、18)12点勝負