三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「D'apres une histoire vraie」(邦題「告白小説、その結末」)

2018年06月28日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「D'apres une histoire vraie」(邦題「告白小説、その結末」)を観た。
 https://kokuhaku-shosetsu.jp/

 最近の発表によると、サイコパスというのは人口の1%~4%もいるそうである。サイコパスについてはいろいろ説があると思うが、私の理解では、日常的に怒鳴ったり喚き散らしたり平気で嘘をついたりと、とにかく他人に対して高圧的で強制的な人格障害である。会社の社長にはこういう人が多い気がする。日本の社長の人数は人口の2%ほどらしく、サイコパスの割合に似ている。そういえばモリカケで責められると喚き散らしたり平気で嘘をついたりする日本のトップもいる。

 さて、作家というものは多かれ少なかれ、身を削りながら小説を書く。私小説であれば尚更である。発表すると周囲の人間から自分のことを悪く書いたと罵詈讒謗を浴びせられることもある。それでも作家は小説を書く。書くことが生きることだからである。
 本作品は、デビュー作の私小説が大ヒットしたという設定の女流作家の話である。スランプに陥ってなかなか新作が書けない。自分のことを書くのが嫌だからフィクションを書こうとするのは私小説作家が一度は通る道である。
 スランプに陥った主人公デルフィーヌの前に救世主のようにElleという女が現れて、彼女を批判し、または叱咤激励する。しかし小説の方は一向に進まない。そうしていくつか事件が起きる中で、Elleは徐々にサイコパスのような女に変身していく。こんな感じのプロットだが、途中からいくつも疑問が沸き起こってくる。それが解けるのは最後の最後の場面だが、必ずしも私の理解が正解とは限らないことを予め断りつつ、以下は私の推測である。

 全部見終わってからよく考えてみると、Elleを見たのはデルフィーヌと観客だけだ。行きつけのカフェの店員はまるでElleがいないみたいな振る舞いだったし、下階の住人が主人公と関わるのはElleがいないときに限られる。デルフィーヌの夫フランソワはたしかにElleと電話で話したはずなのに、話していないと言う。彼が嘘を言っているとは思えないし、その必要もない。そして最後のサイン会のデルフィーヌの表情である。自分が書いていないと一度は主張した本に平気でサインをするのは、サイコパスか、本当は自分で書いた本だからのいずれかだ。
 賢明な映画ファンはすでに分かっていると思うが、主人公デルフィーヌはドッペルゲンガーなのである。大人しそうなデルフィーヌの様子からは考えられないサイコパスみたいなElleは、彼女の中のもう一つの人格なのだ。小説が書けない産みの苦しみが、もう一つの人格を創造して、その人格に苦しめられつつも、ついに新作をものにする。
 デルフィーヌの恐怖体験は、そのまま作家としての苦しみに一致していたのだ。この一連のプロットはなかなか見事である。映画のキャッチコピーで「どんでん返しに驚愕する」と書かれている映画ほど、それほど大したどんでん返しではないのが通例だが、この映画は主人公が追い込まれるだけに、ネタ晴らしは観客を驚かせる。鑑賞中の疑問を最後の場面で一気に解き明かす手法がこれほどうまくいった映画は初めて観た。見事である。


映画「Las hijas de Abril」(邦題「母という名の女」)

2018年06月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Las hijas de Abril」(邦題「母という名の女」)を観た。
 http://hahatoiuna.ayapro.ne.jp/

 人間の女は動物の雌とどう違うのか。鑑賞後にそんな疑念が浮かんでくる作品だった。雌ライオンは子供を産んで育てるが、群れを守っている雄ライオンが他の雄ライオンに負けて追い払われることがある。新参者の雄ライオンは、雌が育てている子供を食い殺してしまう。すると、雌ライオンはどうするか。
 ご存知の方も結構いると思うが、雌ライオンは子供が殺されると、発情するのである。そして新しい雄ライオンと交尾し、再び出産する。ライオンにとって種の保存は遺伝子レベルの本能なのだ。

 さて本作品の登場人物である母と娘たちはライオンではなく人間だ。必ずしも種の保存本能に支配されている訳ではない。むしろ自分の幸福追求に余念がなく、子供や孫は生活を充実させてくれる玩具のようだ。オキシトシンの分泌を活発にして幸福感を増してくれる。
 映画はまるで子供がオモチャの取り合いをするようなストーリーで、間にいる男マテオは17歳で経済力も発言力もなく翻弄されるばかり。17歳の娘も年齢的に無力である。一方母親アブリルは自立していてお金を稼ぐ方法を心得ている。男をものにしたあとも娘たちに非情な追い討ちをかける。何故そんなことをするのか。
 マテオとアブリルの会話で「17歳でバレリアを産んだ」という台詞がある。バレリアは17歳だからアブリルはまだ34歳の女盛りだ。この17年間に彼女に何が起きたのかは語られないが、一度だけ登場する元夫の冷徹な様子からすれば、何度も修羅場があったに違いない。アブリルは凄絶な人生で、他人を信用することをやめ、ひとりで生き抜く力と非情さを身につけたのだ。
 姉のクララは従順で大人しいが、子供を産んだ妹のバレリアは行動的で決断力もある。奇しくも母が自分を産んだ年齢でバレリアも娘を産む。バレリアが母と同じような人生を歩むであろうことは想像に難くない。この作品の恐ろしさは実にそのあたりにある。バレリアは次のアブリルであり、娘カレンは次のバレリアなのである。


映画「WONDER WHEEL」(邦題「女と男の観覧車」)

2018年06月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「WONDER WHEEL」(邦題「女と男の観覧車」)を観た。
 http://longride.jp/kanransya-movie/

 ケイト・ウィンスレットは映画「愛を読む人」で、悲惨な運命を辿ったヒロインを迫真の演技で演じていて、非常に感銘を受けたことを憶えている。女優人生であれ以上の作品と役柄に出会える人は稀ではなかろうか。
 とはいえ本作の演技も素晴らしい。女優だった過去の栄光から一ミリも抜け出せず、現在の自分や置かれた状況を認めることが出来ないでいる哀れな女を、時に美しく、時に醜くみすぼらしく演じる。白馬の王子を待つ乙女のようかと思えば、嫉妬深いあばずれみたいだったりする振り幅の大きな演技は、自分は女優だという儚い拠りどころに縋っている彼女の精神性をわかりやすく表現している。芝居と現実の境界線がいつか自分でもわからなくなってしまっているのだ。女というものはこんなにも憐れで、そして男はそんな憐れな女に纏わりつくピエロであるというウディ・アレンの世界観がひしひしと伝わってくるようだ。
 狂言回し役のミッキーが一方的な見解を観客に伝える仕掛けはアイロニーが効いていて面白い。山の天気のように目まぐるしく移り変わる妻の心に振り回される夫ハンプティを演じたジム・ベルーシの演技は、ベテランらしく堂に入っている。実の父のいない子供リッチーは、ぽっかり空いた心の暗闇を照らすかのように、人の目を盗んでは火遊びをする。母親が現実を見ようとしないように、この子も現実に向き合おうとしない。この子役の演技もとても上手だった。
 人間の欲望と浅はかな計算と的外れなプライド、そして不安に駆られた衝動を、登場人物それぞれがリアルに演じ切ることで、高度な芸術作品に仕上がった。


映画「メイズランナー 最期の迷宮」

2018年06月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「メイズランナー 最期の迷宮」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/mazerunner/

 前2作から随分時間が経っているので、どんなストーリーだったかうろ覚えになってしまっていたが、観ていなくてもそれなりに楽しめる内容になっている。
 人類の存続を大義とする全体主義者たちと、人間としての尊厳を守ろうとする若者たちの対決という大きな構図の中で、恋愛感情や友情、怨恨や憎悪、利己主義、組織の主導権争いといった人間関係が絡み、物語は必然的な方向に進んでいく。
 様々な価値観が様々な場面で衝突する映画で、登場人物はそのたびに決断を迫られる。ウィルスに感染した登場人物二人の行動の対比もテーマのひとつだ。ラストに二人と主人公の戦いが連続し、作品の見どころになっている。
 家族第一主義のアメリカ映画らしい世界観が底流にあるものの、様々な考え方の人間が交錯する立体的な構造の作品で、人類の行く末についての問題提起にもなっている。なかなかの傑作だと思う。


映画「終わった人」

2018年06月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「終わった人」を観た。
 http://www.owattahito.jp/

 田中角栄の日本列島改造で全国の上下水道が整備されてから、この国の衛生環境は飛躍的に向上し、年々寿命が延びてきた。比例するように健康寿命も延びてきて、同じ年齢でも昔の人と今の人では見た目からしてまったく違う。見た目が若々しい人は体力的にも若々しい。昔の還暦に出来なかったことも、今の還暦は楽々とこなす人がいる。いまや「年寄りの冷や水」や「老体に鞭打つ」といった慣用句は死語になりつつあると思う。
 主役の舘ひろしはコミカルな演技で、ともすれば重く暗くなってしまいそうな老いというテーマを、明るく笑い飛ばせるものに変えている。自分勝手で元気が余っているから、俺はサラリーマン人生をまっとうしきれていないと吠えてみたり、若い女性を相手にポテンツの心配をしたりする。情けなくも可笑しい場面である。ホテルのレストランで指を鳴らすなど、バブルを引きずっているところもあり、観ているこちらが気恥ずかしくなりそうだ。それもこれも、健康寿命が延びたから可能になった話で、この作品はいまの時代だからこそ成立する作品なのだ。
 老いらくの恋の相手役をつとめたのは広末涼子。最近おばさんの役が目立つが、まだまだ美人として通用する。女性としてのコケットリーも十分だ。
 妻役の黒木瞳はもともと表情の冴えない女優で、本作ではその欠点が露骨に出てしまった。子供がいる娘の年齢から察するに、主人公とは多分三十年以上連れ添っているはずだ。それだけの年月一緒にいれば夫婦の呼吸というものがあって、互いの気持ちが通じているところがあるはずだ。勿論何もかも通じ合えるものではないが、少しは思いやりの気持ちが垣間見えてもいい。しかし黒木の演技からは、思いやりも女の優しさの欠片も見えなかった。決して脚本のせいではない。まったく同じ台詞でも、喋り方によって全然違ったニュアンスになるのは誰でも知っている。配役ミスなのではなかろうか。
 そんなこんなで、ラストシーンもリアリティがなくなってしまい、映画としての完成度が著しく落ちてしまった。老いてからの承認欲求という、現代に相応しいテーマの作品で、舘ひろしや広末涼子がよく頑張っていただけに、殊更残念である。


映画「デッドプール2」

2018年06月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「デッドプール2」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/deadpool/

 ハリウッドのB級作品である。だから映画としての深みはないが、笑って観る分には十分である。この作品はよくできていて、アクションとエロとグロがほどよいバランスで配置されている。主人公が必ずしも正義の味方でないところがいい。観て面白いことは面白い。
 登場人物はいずれも良心のタガが外れたように平気で残酷な行動をする。それはそうだろう、題名が「DeadPool」(死の池)だ。タイトルの由来はいろいろあるだろうが、イメージは赤い死体が掘った穴に大量に放り込まれ、あふれ出た血で池のようになっている感じ。主人公の真っ赤なコスチュームも同じイメージだ。
「フラッシュダンス」や「氷の微笑」のパロディ場面はそんなに笑えないが、忽那汐里は驚くほど可愛かった。これがハリウッド進出のきっかけとなるのかもしれない。
 全体に家族第一というアメリカのパラダイムの中で笑いを取り、登場人物の行動原理を説明する作品で、哲学のないアメリカのB級映画はどうしてもその世界観から脱しない。
 仮に、主要でない登場人物たちも主要人物と同様の人権を持つことを考えたら、実はこの映画はとんでもないジェノサイド(大量虐殺)映画なのだが、家族だけが唯一とする価値観からすれば、その他大勢がどれだけ死んでも知ったことじゃない。
 こういう作品が笑って受け入れられる現代という時代が、自分のことも含めて恐ろしい。どこかの大統領がアメリカファーストと叫ぶように、人々はマイファミリーファーストと叫びつつ、時代に対して高を括っている気がする。


映画「VISION」

2018年06月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Vision」を観た。
 http://vision-movie.jp

 河瀨直美監督は本作品と同じ永瀬正敏主演の映画「光」で高評価を得ている。当方も映画館で鑑賞し、高く評価した。
「光」も一筋縄ではいかない作品で、水崎綾女が音声ガイドに挑戦する映画の藤竜也の演技を中心とした幻想的な映像をどう解釈するのか、非常に難解であったが、本作品は幻想的な映像ばかりが最初から最後まで続くような、抽象的で分かりにくい映画である。
 舞台は日本の山の中だ。森の映像と音が相当の迫力で表現される。それは時間と空間の表現であり、世界であり宇宙でありそして生命である。産み出して、そして再生する。壊すことは産み出すことと同義なのだ。同じことを繰り返しているようで、少しずつ変わっている。変化の速さは人間の進化と同じくらいゆっくりだ。
 永瀬正敏が演じる智は山を守っている。守るというのがどういう基準なのか、人間の独善ではないのか、そのあたりははっきりとは明らかにされないが、神社らしきところで柏手を打ってお参りする場面からすると、智は神の遣いではなさそうだ。
 夏木マリのアキは千年前に生まれたと自称する盲目の老女で、映画の中ではシャーマンみたいな存在だ。見えない目で自然を見極め、予言めいた台詞を吐く。
 ジュリエット・ビノシュが演じるジャンヌが探しているVISIONとはどういうものなのか。それは人を癒す力を持つという。薬草かもしれないという淡い期待は現実の森で消え失せるが、違う形で彼女の視界に訪れる。
 森山未來の岳が無言で踊るのは、そのシーンがジャンヌが見ているVISIONだからだと思う。ジャンヌは山火事を見る。森の中の自分自身を見る。山火事は山を壊すものであり、従って山を産み出すものである。
 ジャンヌはフランスで何かを失った。それは多分、素数に関わりのある何かだ。田中泯の誤射は彼女の喪失の象徴かもしれない。それを失ったことで欠けてしまった心の一部を修復するために、ジャンヌは日本の山の中にやって来た。彼女の心は再生できたのだろうか。
 姿を消したはずのアキが森の中で踊る。踊りはエネルギーであり生命である。森と同化して山の生命力に包まれて生きる。如何にも幸福そうなアキの表情が作品に救いを齎している。見て聞いて触って感じたことがすべてなのだ。


映画「空飛ぶタイヤ」

2018年06月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「空飛ぶタイヤ」を観た。
 http://soratobu-movie.jp/

 この作品は長瀬智也が主演のはずで、本人もそれなりの演技をしていたのだが、如何せん脇役陣の演技が凄すぎて主役がボケてしまった感がある。それはプロットにも由来するところがあって、主要な登場人物それぞれの人生が少しずつ描かれることで、それぞれの人物に一様に感情移入することになり、主役のシェアが下がってしまうのだ。しかしそれは強ち悪いことではなく、寧ろ群像劇のように物語の幅を広げている。
 個人と組織の相克というテーマはお馴染みではあるが極めて奥の深い問題で、映画、小説、演劇など様々なジャンルの数多くの作品で様々に描かれてきた。この作品では組織の論理が個人を蹂躙する大企業に対して、家族のような人の繋がりを是とする小企業の対比がベースとなっている。現実はもう少し複雑だが、敢えて簡略な構図を設定することで登場人物たちを典型化し、行動の動機を明快にしている。登場人物に感情移入しやすいからくりがそのあたりにあると思う。
 場面場面で異なる登場人物に感情移入しながら観るので、飽きることはない。また登場人物が典型だから混乱することもなく全体像を容易に把握しながら観ることができる。とても分かりやすい作品で、エンドロールで流れる桑田佳祐の歌の「しんどいね、生きてく(生存競争)のは」という歌詞がこの作品を象徴していて、いろんなことはあるけど、共同体の中で組織や個人と関わりつつ、それらを受け入れて生きていくしかないという、諦観とも肯定ともつかない感想を得る。


映画「バーフバリ 王の凱旋」

2018年06月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「バーフバリ 王の凱旋」を観た。
 http://baahubali-movie.com/

 インド映画を観るのは多分初めてである。歌や踊りがあると聞いていて、場面の途中で何の脈絡もなくいきなり歌や踊りのシーンが出て来るのかと勝手に思って敬遠していたのだ。
 しかし実際に観てみるとそれほど違和感はない。というよりも、歌と踊りのシーンが楽しくてしょうがない。日本女性がやると痛々しさを感じてしまう鼻飾りも、インドの女性はよく似合ってとても美しい。女性たちが皆、微妙にふくよかなところもある意味ツボである。
 物語は極めて権威主義のファンタジーだが、王様が主人公だから権威主義の世界観は当たり前だ。その後ろ楯は現代でもお馴染みの軍事力である。戦いで多くのその他大勢の人々が死んでいくが、あまり気にすることもなく物語は進んでいく。権力の中枢での権謀術数や王国同士の力関係などが絡み合い、プロットは幾何学的に組み立てられている。
 古い価値観と新しい価値観の相克の場面もあり、誰もが古い権威主義を振りかざす中で王女の主張が非常に論理的で明快で、封建主義に新風を吹き込むような爽快感がある。とても気持ちのいい作品で、インド映画を見直した。


映画「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」

2018年06月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」を観た。
 http://www.synca.jp/itsudatte/

 この作品は「いつだってやめられる 7人の危ない教授たち」の続編で、日本では順番が逆になってこちらが先に公開されている。ハリウッドのB級超大作ではないにしても東京での公開がBunkamuraル・シネマの1館だけとは意外だ。ル・シネマらしいチョイスであるとも言える。
 イタリア語はまったくわからないが、その即物的でまくし立てるような早口がどこか関西弁に似ている気がする。この映画の登場人物たちの互いのやり取りもギャグとシリアスの対になっていて、関西のボケとツッコミに通じるものがある。
 だから関西の漫才で大笑いできる人はこの映画でも大笑い出来るだろうが、関西の漫才で笑えない人はこの映画でも多分笑えない。この違いは実は大変に大きな違いであり、その人の世界観に結びついている。それは現実を肯定するかしないかの違いである。
 関西の漫才は現在の現実を肯定することを前提に笑いが組み立てられている。大阪のおばちゃんを否定したら、関西の漫才は成り立たないのだ。聞く側にとっても同じことで、たとえば大阪のおばちゃんには哲学がないと否定してしまうと、関西の漫才はちっとも面白くなくなる。つまり笑えなくなるのだ。
 この映画も同じで、現実世界や自分自身を肯定しきれない人間が観ると、あまり笑えない。哲学的な深みはゼロなので感動するのともない。逆に自分自身と現実を肯定している人には愉快極まりない映画である。映画館でクスクス笑いではなくバカ笑いが多かったのがその証だ。
 賛否の分かれる作品で、文学作品好きな映画ファンにはそれほど楽しめる映画ではないが、現実肯定派には思い切り笑える愉快な作品だと思う。