三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「映画検閲」

2024年09月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「映画検閲」を観た。
SYNCA Creations Inc.

SYNCA Creations Inc.

SYNCA Creations Inc.

SYNCA Creations Inc.

 日本国憲法第21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と書かれており、第二項には「検閲は、これをしてはならない」とある。
 検閲は表現の自由の侵害にほかならないが、それでも公然と行なわれている。権力者の考えは昔から「由らしむべし知らしむべからず」だ。
 映倫は一般財団法人だから、権力が直接的に検閲するのではなく、民間が自発的に検閲しているという体にしている。余計にたちが悪い。
 たちが悪いと言えば、各地の教育委員会が自発的に「はだしのゲン」を教材から削除していることも、権力に阿った最低の対応である。自民党の長期政権の弊害であり、教育委員たちの資質の低下でもある。
 そもそも、検閲する前に、きちんと憲法の基本的人権の教育を行なうのが先だ。日本の教育は、法の下の平等の前に、敬語を教えて格差を植え込もうとする。優位関係の固定化だ。親を敬い、教師を敬えという教育そのものが、憲法違反である。子供は優劣を気にするようになり、卑屈になったり傲慢になったりする。
 そういう子供の前で、人を簡単に殴りつけるようなドラマや漫才を見せたら、優位性があれば暴力は許されると思ってしまうかもしれない。他人の人権を尊重する教育をしていれば、暴力が間違っていることは明証的に理解できるはずだ。
 
 そんなふうなことを考えながら本作品を鑑賞した。途中までは検閲の問題が、社会的、政治的な問題でもあることを提示していて、問題がどのように深く追及されるのかに期待していた。
 ところが途中から、検閲官の女性の個人的な問題に矮小化してしまう。終盤の展開はハチャメチャだ。知的なヒロインは、過去のトラウマも含めて自分を客観視できるはずなのに、感情に流されて手続きを無視したり、思いつくままに無計画な行動をする。
 結局、表現の自由と検閲の問題は、置き去りにされてしまった。検閲という矛盾を孕んだ行為が、検閲官自身の精神を蝕むというのは分かる。しかし極端な行動に走る前に、深い思索があってもよかった。追いつめられるシーンがなかったから、終盤があまりにも唐突な印象になってしまった。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。