三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

神戸新聞杯 回顧

2007年09月28日 | 競馬
ゆっくりスタートして最後方を進み、3コーナー手前から徐々に進出して4コーナーは外を回って直線で差し切るという武豊の十八番の勝ち方でドリームジャーニーが勝ちました。井崎脩五郎さんも言っていましたが、この勝ち方だと本番の菊花賞で一番人気になるかもしれません。春競馬のときみたいに怒って走ることもなく、折り合いがついて落ち着いて走ったことが第一の勝因でしょう。
馬券はアサクサキングスを切ってしまったのでどうにもなりません。少なくとも皐月賞馬のヴィクトリーの方が先に来ると思っていました。アサクサは伊達にダービーで2着していません。ラップタイムを見ると、4番手からよく粘っています。フサイチホウオーはやっぱり右回りがよくない気がします。それに切れ味が身上の馬ですから長距離も向かなかったのでしょう。このまましばらく勝てずに人気を落とした後、府中のマイル戦あたりで穴を開けるでしょう。3着のヴィクトリーは可もなく不可もなく、休み明けとしてはまあまあでしょう。直線の脚色から見ると、長距離は今一つでやはり2000メートルくらいの中距離向きかなという気がします。夏の上がり馬では4着のホクトスルタンに上がり目がありそうです。
馬券は外れましたが応援しているドリームジャーニーが強い勝ち方をしたので初戦としては悪くないと楽観しています。今週末は久しぶりのGI競争スプリンターズステークスです。夏調子を上げてきた馬と春までの実績馬が出てくるようで、楽しみです。


ドリームジャーニー本命

2007年09月23日 | 競馬
宝塚記念以来の馬券です。本命はドリームジャーニー。春と一緒です。この馬が現役の間は追いかけようと思っています。相手はシンプルに考えました。前走二桁着順は消し。するとあっという間に1,2,4,7,11,13,15の7頭が消えます。それに前走500万の3番マルモコウテイ、前走で1.8秒離された上に岩田から小牧に乗り換わってしまうマンハッタンスカイは消し。さらに先行馬はヴィクトリー以外は厳しいと見て、6,8の2頭を消すと、残りは4頭だけ。

◎ドリームジャーニー

〇ヴィクトリー

▲アドマイヤミリオン

△フサイチホウオー

フサイチホウオーは実はあまり買いたくないのですが、このメンバーでは上位に評価せざるを得ないので相手の一頭とします。馬券はドリームジャーニーを軸の3連単と馬単を買います。秋競馬の初戦、当ればいいのですが。

それにしてもテレビでは3時からの競馬中継を30分も短縮して、意味のないジミントーのソウサイ選挙などを垂れ流しています。アホか。


変動性の祝日

2007年09月22日 | 政治・社会・会社

今年の9月23日は二十四節気のひとつ秋分の日で、年によってごくたまに日にちが前後することがありますが、地球の公転に基づいて決められているので曜日に左右されることはありません。天皇誕生日も同じですね。ところが、いくつかの祝日は決まった日にちではなくなりました。7年前からです。それより前は、たとえば敬老の日はずっと9月15日でした。成人の日は1月15日で体育の日は10月10日でした。これらを何月の第何月曜日としてしまって以降、なんだか印象がぼやけてしまった気がします。父の日や母の日が何となくはっきりしないのと同じ理由で、何々の日は何月何日と決まっていれば、極端な例かもしれませんが1月1日を元旦のことだと忘れないのと同じように忘れにくいと思うのですが、何月の第何月曜なんて決めてしまったら、思い出すためには何月なのかと何週目の月曜なのかというふたつを思い出す必要があり、そのアクション数の差が思い出しやすさの差になっているのだと思います。成人の日や海の日、敬老の日、体育の日は、日にちの決まっていた頃に比べて、祝日としてのありがたみを減じた気がします。政治家はいったい何がしたかったのでしょうか。連休を増やせば国民の支持が得られるとでも考えたのでしょうか。

祝日の印象がぼやけたお陰で時節の移り変わりについて国民はますます鈍感になりました。それでなくてもスーパーの野菜売場には季節の違う野菜が年中並んでいる時代です。二十四節気を知らないくらい当たり前、野菜や魚の旬さえ知らない人の方が、知っている人よりも多いくらいでしょう。しかし平安文学や俳諧を考えてみればわかるように、日本人はもともと時の流れや季節の変化に敏感だったはずです。季節感というのは不自由さの感覚でもあって、冬に西瓜が食べられない、その西瓜について想像して前の夏を思い出したり次の夏を思い描いたりするときの夏のイメージが季節感です。時の流れという意味では季節感は歴史に対する感覚にも通じます。

戦後、生活が便利になって季節外れの食材がいつでも買えるようになりました。さすがに西瓜は現在でも冬に出回ることは滅多にありませんが、茄子や胡瓜は年中普通に売られています。栽培技術の向上や輸入の迅速化などで、東京に住む人は世界中の食材が手に入り、また世界中の料理を食べることができます。そこで食材の旬さえ知らない人が増えてしまいました。つまり科学によって不自由が解消され、その結果として皮肉なことに日本人は季節に対する感覚を鈍らせてしまったのです。ある意味では不自由さというのは実は悪いものではないのです。

もし国民の季節に対する感覚を鈍らせることで、歴史に対する感覚をも鈍らせ、政治が何をしても歴史の中での意義を問われないようにするために、祝日を決まった日にちから変動性に変更したのかもしれません。消費税を上げる前に総額表示を義務付けたのと同じように、官僚の考えることは本当に姑息ですから、その可能性も否定できないと思います。目の前の便利さや自分の利益追求だけに汲々としている国民は、いつの間にか政治家や官僚の操り人形になってしまっているのかもしれません。


サービス料は廃止

2007年09月16日 | 政治・社会・会社

サービス料を取るホテルや飲食店がいまだにたくさんあります。聞くところによると、戦後アメリカ人相手に始めたホテルや飲食店ではボーイや給仕には給料がほとんどなく、客からもらうチップが収入の大部分でした。その後チップを払う習慣のない日本人が利用するようになって、収入が途絶えたボーイや給仕に給料を支払うためにホテルや飲食店が編み出したのが、料金から歩合を取るサービス料でした。その後雇用形態がしっかりしてきて、ボーイや給仕にちゃんと給料が払えるようになったにもかかわらず、サービス料をなくしてしまうと一気に売上が下がってしまうので、やめるにやめられなくなった、というところだそうです。なにしろ、もしサービス料を10%取っている場合、やめたら単純に売上が10%下がる訳で、10%減というのはかなり大変な事態でして、場合によっては経営陣の誰かが責任を取らなければならなくなる可能性があるくらいです。

しかし支払う側に立ってみればサービス料という言葉の響きから、直感的に、受けたサービスの対価として支払うものであるという理解になります。支払うサービス料に見合うサービスをされるのが当然ということです。サービス料がチップに由来するものであるなら、かつてチップを獲得するために一生懸命に世話をしたように、サービス料を獲得するために一生懸命にサービスをしなければならないという理屈です。従ってサービス料を支払うのにサービスが不十分であれば、二度と利用しないか、苦情を言い立てることになり、その苦情が本社に入ってきた場合は私が受けることになります。

仕事はもともと人間性や人格をスポイルした上で成り立つもので、客商売ではどんなバカでも客は客ですから、自分を殺して一生懸命に客の世話をすることが接客の仕事です。どれだけ自分の気持ちを抑制してバカな客のために尽くせるかが客の満足度に繋がり、チップをもらえるかどうかの瀬戸際となるのが接客という仕事の本質です。それをサービス料というシステムにしてしまっては、レベルの低い従業員の中には自分のくだらないプライドや好き嫌いの感情を殺すことをしないで、客の怒りを買ってしまうバカが必ず出てきます。出てきますというよりも、現実にたくさんいます。仕事の本質が嘘をつくことであるという事実を認識せず、演技をすることができない連中です。

もし苦情窓口の私が本音で仕事をしたらどういうことになるでしょうか? 従業員の笑顔が気に入らないという独りよがりの被害妄想みたいなクレームに対して、「顔のことでしたらその人間の親に言ってください、ちなみに不細工な人間は子供を作ってはいけないという法律はありません」なんて返事をしたら、火に油を注いだように怒りが燃え上がるでしょう。私は自分を押し殺して、「おっしゃる通りでございます。お客様に気に入られるような笑顔の訓練が不十分でございました。大変申し訳ございません」と謝罪します。「おっしゃる通り」というのがポイントで、自分の意見が認められた(承認欲求が満たされた)ことで、ある程度は怒りが和らぎ、丁寧に謝罪することで自分が大切に扱われた(自尊心の充足が得られた)ことで納得してもらうことができます。苦情対応をするたびに、人間というのは本当につまらないプライドを後生大事に抱えて生きている、程度の低い生き物だなと感じますが、無論私自身も例外ではありません。例外ではないけれども、仕事に望んでは、自分のつまらないプライドは捨て去らねば仕事にならないことくらいはわかっています。自分の人格がスポイルされることと引き替えに金を稼いでいるのだという自覚です。

ところが店舗の従業員の多くは、自分を殺して客を優先することができません。もちろん仕事とは耐えることだとわかっている人間もいます。しかしそういう人間たちも、元気なうちはいいのですが、疲れてきたり客があまりにも馬鹿だったりすると、忍耐力の限界を超えてしまうことがあります。仕方のないことではありません。覚悟が足りないのです。そんな覚悟の浅い人間たちを使っていて、サービス料を取ろうというのは実に無謀なことで、サービス料に関する苦情を電話で聞いたりメールで読んだりする度に、客の言うことは至極もっともな意見であり、サービス料など早く廃止してしまえばいいのに、と思います。10%のサービス料をメニューに上乗せすればそれでよろしい。メニューのいちいちの値段を覚えている客などそうはいませんし、これまで総額表示をしていた消費税について、内訳の表示をすれば値段が上がったと気づくより値段の表記方法が変わったことに疑問を持つでしょう。そこでメニューを一工夫して、「現在の消費税は5%です」という表記を入れるのです。消費税を意識させるのにいい機会だと思います。すべての商売人が消費税をしっかり表記すればいいと思っています。もともと消費税込みの総額表示を義務づけたのは大蔵省というか財務省の役人たちで、総額で表示しておけば将来消費税を上げたときに、気づかれにくいだろうという実に姑息な考え方からでした。国民をバカにしているとしか思えません。そんな悪質な役人たちの思惑に乗らないように頑固に消費税を表示し続けることが大事です。

ともあれ、仕事で疲れてくると、どんなに心をしっかり持っていても、あまりにバカすぎる客には怒りを抑えきれない面は確かにあります。消費者としての私たちは、店舗従業員の感じが悪かったとかサービス料に見合うサービスがなかったということに怒りを覚える前に、彼らの労働条件が適正なのだろうか、自分たちがクレーマーになっていないだろうかということを省みる必要があります。