三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「骨を掘る男」

2024年06月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「骨を掘る男」を観た。
映画『骨を掘る男』公式サイト

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奥間勝也監督ドキュメンタリー映画『骨を掘る男』6月劇場公開

映画『骨を掘る男』公式サイト

「私は戦没者に対する最大の慰霊は、二度と戦争を起こさせないことだと思っています」

 本作品の内容は、具志堅隆松さんの言葉に集約される。戦争をしないでもなく、起こさないでもなく、起こさせないという言い方に、具志堅さんの並々ならぬ覚悟がうかがえる。

 具志堅さんは、壕(ごう)やガマを掘る。そこに戦没者の遺骨が埋まっているかもしれないからだ。
 土の中に埋まった戦没者の遺骨は、前腕部の橈骨や尺骨が折れていたり、大腿骨が砕けていたりする。中には前腕部はあるのに、手の骨が見当たらない場合もある。具志堅さんの推測は、手榴弾だ。両手で手榴弾を抱いて、胸に押し当てて自決するシーンは、沖縄戦を扱った映画で、何度か観た記憶がある。具志堅さんによれば、自決したのではない、追い込まれて自決させられたのだ。

 今年の正月2日に、沖縄戦で象徴的な2つのガマを見てきた。チビチリガマとシムクガマである。集団自決したガマと、全員が助かったガマだ。
 集団自決のチビチリガマの正面には、大きなガジュマルの木があって、周辺には祈っている小さな像がいくつも置かれていた。犠牲者の名前を彫った石版や、板に書かれた「チビチリガマの歌」という歌碑があった。ガマの入口には千羽鶴が吊るされ、立入禁止の看板がある。1月2日ということもあって、誰もいなかった。

 戦没者の名前を読み上げる活動があるのは、本作品で初めて知った。3年前からの取り組みだそうだ。人は人に名前をつける。名前は愛着を生み、触れ合うことで心が豊かになるが、失ったときの悲しみは大きくなる。人々は確かに生きていた。名前を読むことで、生きていたときの温かみが甦る気がする。
 読んだ中には、沖縄人だけでなく、本土の兵隊の名前、朝鮮半島の人々の名前もあった。アメリカ兵の名前の中には、フランス人やイタリア人の名前もある。それらの名前の人々の多くは、まだ骨が見つかっていない。

 遺骨が埋まっているかもしれない土を、辺野古の埋め立てに使ってほしくない。具志堅さんの主張はもっともだ。デニー知事は理解して、なんとか阻止しようとするが、土地の持ち主と国との取引は自由であり、県知事の権限が届かない。防衛省が国民から吸い上げた税金を使って地主と裏取引をしたであろうことは、想像に難くない。

 演説する具志堅さんの後ろを右翼の街宣車が通る。そして大音量で何かを怒鳴っている。もちろん具志堅さんは、愚かな右翼など相手にしないが、そういう連中が一定の支持を得ていたり、裏で政治家と結んでいたりすることが許せない。それは再び戦争を起こす勢力だからだ。
 EUでは極右政党が議席を伸ばしている。危機感を覚えたフランスのマクロン大統領は、下院を解散して総選挙に打って出た。場合によってはフランス国内の極右勢力が躍進するかもしれない。危険な賭けだが、国民の良心に賭けたといっていい。
 日本の右翼も、ヨーロッパの極右も、自分たちの税金が困っている人たちのために使われることが許せない。幼稚で不寛容な精神性である。それは戦争を起こす精神性でもある。具志堅さんの危機感が、押し寄せるように響いてきた。

映画「左手に気をつけろ」

2024年06月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「左手に気をつけろ」を観た。
左手に気をつけろ : 作品情報 - 映画.com

左手に気をつけろ : 作品情報 - 映画.com

左手に気をつけろの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「人のセックスを笑うな」「ニシノユキヒコの恋と冒険」の井口奈己が監督・脚本・編集を手がけ、1...

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 犬笛は、特定の動物だけに聞こえる周波数を出す笛で、人間に聞こえず、目的の動物だけに聞
かせて、呼び寄せたり、指示をしたりする。
 本作品には、犬笛と似たような、こども警察を呼び寄せる笛が登場する。子供を殺すのが好きな人にとっては、魔法の道具だろう。鎌や斧、鉄筋といった武器を用意して笛を吹けば、親や保母といった責任者の管理から離脱した子供たちが集まってくる。殺し放題だ。
 そんな不埒な想像をしながら鑑賞したが、シリアルキラーは登場せず、子供たちは無傷でいられる。元々、ほのぼの、のんびりした作品で、コロナ禍が我々の日常に何をもたらしたのかを、象徴的な映像で問いかける。

 こども警察はマスク警察の比喩で、政府のプロパガンダに踊らされて、マスクをしていない他人を咎めた人々の愚かな姿である。
 日本の警察は一般に民事不介入を言い訳にして、ストーカーなどにも対応しなかった。被害が出たら、刑事事件として対応するという姿勢であり、ストーカー事件の場合は、被害が出たのはイコール被害者が殺されたという訳で、多くの場合、警察の無策が非難されている。
 マスク警察は、警察と逆で、被害がないのに相手を攻撃する。それもわからないでもない。自動車の無謀運転をする人間は大変危険であり、取り締まらなければならない。そのために道路交通法が定められている。しかしマスクをしない人間が危険かというと、それは一方的な思い込みに過ぎない。まだ何も断定されておらず、道路交通法のようなマスク義務法みたいな法律は存在しない。マスク警察には、他人を取り締まる根拠も権限もないのだ。

 こども警察の比喩は、マスク警察にとどまらず、不倫警察やヘイトにまで及んでいると思う。他人の不倫を咎めたり、税金で補助されている外国人や生活保護の受給者まで、攻撃の対象にしてしまう、世間という怪物が、我々の日常から自由を奪おうとしている訳だ。
 LGBTだけでなく、特定の特徴を持つ人々をカテゴライズし、差別する風潮に対して、危機感を示しているのが本作品である。
 このところ、なんとなく世の中が不自由になっていると、じわじわと感じている人もいるだろう。被害を受けてもいないのに他人を非難したり、誹謗中傷の罵詈讒謗を浴びせかけるネット住民や、立場の弱い店員などに対して怒鳴り散らす高齢者の姿をときどき見かける。権威主義のパラダイムは、全体主義に直結するものだ。本作品は、戦争前夜みたいな嫌な予感を、穏やかな物語にしてみせたものだと思う。

映画「だれかが歌ってる」

2024年06月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「だれかが歌ってる」を観た。
だれかが歌ってる : 作品情報 - 映画.com

だれかが歌ってる : 作品情報 - 映画.com

だれかが歌ってるの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「犬猫」「人のセックスを笑うな」などで知られる井口奈己監督が2019年に発表した30分の短編。い...

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 一年に一度「あの素晴しい歌をもう一度」と題したコンサートが東京で催されている。2019年は日本武道館で開催され、2020年はコロナ禍で中止、2021年からは東京国際フォーラムホールAで行なわれている。タイトルはもちろん「あの素晴しい愛をもう一度」という歌に因んでいる。北山修が作詞し、2009年に首吊り自殺した加藤和彦が作曲した昭和の曲だ。キーとなるフレーズは次の一節である。

 あの時同じ花を見て
 美しいと言った二人の
 心と心が今はもう通わない
 あの素晴しい愛をもう一度

 昭和の歌には、毎年同じ時期に同じ星を眺めようと約束したといった、情緒あふれる歌詞がある。携帯電話がなかった時代だからだろうか。ひとたび離れ離れになったら、たとえ同じ日本に生きていても、再び巡り合うのは難しい。

 本作品には、昭和の哀愁のようなものが感じられる。行き違い、すれ違い、そして誤解といった、人間関係の齟齬に対比して、同じハミングが聞こえる他人同士という共感の設定がある。今生の別れと再会というドラマを単純化して象徴化すると、こんな映像になるのかもしれない。
 出逢いと別れと、再びの出逢い、それに思いやり。同じ絵を見て感動する人は、同じ花を見て感動する人だ。感動の共有は、同じ時間と空間を生きているという共生感の共有でもある。一緒にいることが幸せ。スマホ世代の観客には、この世界観は伝わらないかもしれない。

映画「オールド・フォックス」

2024年06月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「オールド・フォックス」を観た。
映画『オールド・フォックス 11歳の選択』公式サイト

映画『オールド・フォックス 11歳の選択』公式サイト

侯孝賢プロデュース 台北金馬映画祭4冠!台湾・日本合作映画『オールド・フォックス 11歳の選択』2024年6月14日㊎~新宿武蔵野館ほか全国公開

映画『オールド・フォックス 11歳の選択』公式サイト

 社長のことを中国語で老板(ラオパン)という。社長のシャは漢字だと一般的には謝だろう。謝はピンインだとxieだから、シャよりもシェに近い。字幕がシャだったのは、日本の音読みに従ったのだろう。

 謝老板の思想は単純だ。人間は勝ち組と負け組に分かれる。カネを儲けた人間が勝ち組で、勝ち組に使われて僅かなカネで細々と生きているのが負け組だ。他人のことを気にかけていては、金持ちになれない。他人を踏み台にして儲けるのが勝ち組だ。
 他人を踏み台にするには、力が必要である。力は腕力だけではない。カネそのものが力であるのに加えて、情報も力となる。他人のことは気にかけないが、人の気持は読まなければならない。それも情報のひとつだからだ。
 人の気持ちを読み、操る。世の中は不平等(プーピンダン)だ。人の不幸の上に勝ち組がいる。強い者といると上がっていくが、弱い者といると落ちていくと洗脳する。だから自分に従っていれば大丈夫なのだ。

 金持ちの謝老板を紹介する一方で、カネに人生を左右される庶民の姿を描くことも忘れない。カネを得て喜ぶ人はカネを失って泣く。庶民は毎日のカネに汲々として生きている。しかしカネのこと以外にも、日々の小さな喜びがある。
 リャオジエの父親はレストランのホール係だ。客の名前と顔を覚えて、予約の状況まで把握している。客から信頼されているのは、仕事のやりがいでもある。美しい思い出もある。思い出の蓄音機は、レコードの柔らかい音を流してくれる。古いサキソフォンは、音は濁っているが、それなりの味がある。

 11歳のリャオジエにとって、父親はいい人だが、地味に映る。スポーツカーや運転手付きのロールスロイスに乗る謝老板は、派手で立派に見える。比較すれば謝老板に憧れてしまうのは、子供なら仕方のないところだ。実は謝老板にもたくさんの苦悩があり、父親にはたくさんの楽しみがあることを、リャオジエはまだ知らない。

 思うようにならないのが人生だ。他人の不幸を乗り越えて幸運を掴んでも虚しいばかりだということを、謝老板は決して語らない。それは自分の人生そのものを否定することになるからだ。老板は裕福だ。しかし心は自転車操業なのである。

 よく出来た作品だが、比喩的なシーンが多くて、頭をフル回転させながらの鑑賞となった。台湾語の響きがとても美しい。台湾語のニュアンスがわかれば、登場人物の機微がもっとわかったかもしれない。

戦友 1905年日露戦争

2024年06月14日 | 映画・舞台・コンサート

真下飛泉 作詞
三善和気 作曲

ここはお国を何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下

思えば悲し昨日まで
真っ先駆けて突進し
敵を散々懲らしたる
勇士はここに眠れるか

ああ戦いの最中に
隣に居ったこの友の
俄かにハタと倒れしを
我は思わず駆け寄りて

軍律きびしき仲なれど
これが見捨てておかりょうか
『しっかりせよ』と抱き起こし
仮包帯も弾丸の中

折から起こる突貫に
友はようよう顏上げて
『お国のためだ構わずに
遅れてくれな』と目に涙

あとに心は残れども
残しちゃならぬこの身体
『それじゃ行くよ』と別れたが
永遠の別れとなったのか

戦いすんで日が暮れて
探しに戻る心では
どうぞ生きていてくれよ
物なと言えと願うたに

空しく冷えて魂は
お国へ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いているも情けなや

思えば去年船出して
お国が見えずなった時
玄界灘に手を握り
名を名乗ったが初めてに

それよりのちは一本の
煙草も二人分けて喫み
着いた手紙も見せ合うて
身の上話繰り返し

肩を抱いては口癖に
どうせ命は無いものよ
死んだら骨を頼むぞと
言い交わしたる二人仲

思いもよらず我ひとり
不思議に命長ろうて
赤い夕日の満州に
友の塚穴掘ろうとは

隈なく晴れた月今宵
心しみじみ筆執って
友の最後をこまごまと
親御へ送るこの手紙

筆の運びは拙いが
行燈の影で親たちの
読まるる心思いやり
思わず落とすひと雫


映画「あんのこと」

2024年06月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「あんのこと」を観た。
映画『あんのこと』公式サイト|2024年6月7日(金)全国公開

映画『あんのこと』公式サイト|2024年6月7日(金)全国公開

「少女の壮絶な人生を綴った新聞記事」を基に描く、衝撃の人間ドラマ 映画『あんのこと』 河合優実 佐藤二朗 稲垣吾郎 監督・脚本:入江悠 6月7日(金)全国公開

 

 2022年の邦画「遠いところ」と同じく、救いのない若い娘が主人公だ。同じように、社会背景が描かれる。
 2023年の邦画「ロストケア」にも似ている。松山ケンイチが演じた主人公の介護士は、世の中はバケツみたいで、たくさんの穴が空いている。貧乏人や病人は、その穴から必ず落とされるという、切実な世界観を展開する。
 
 本作品も同じだが、ふたつの印象的なシーンがある。ひとつは、生活保護の担当者に対して、佐藤二朗が演じた刑事が「困っている人を助けるのが、俺たち公務員の仕事だろうが」と怒鳴るシーンだ。予告編でも流れていた。
 もうひとつは、主人公のあんがベランダに出ようとしたときに、上空で自衛隊のブルーインパルスが編隊飛行をするのが映し出されたシーンである。飛行機雲を見て勇気づけられたという人もいたが、迷惑だという人もいた。少なくとも、あんの心には何も響かなかったようだ。かなりの爆音で飛んでいたのに、空を見上げもしなかった。
 
 生活保護は出し渋るが、ブルーインパルスの政治利用には惜しみなく金を使う。困っている人を助けないのが、この国の政治だということが象徴されたシーンだと思う。ブルーインパルスは何も救えない。
 
 何も救えない政治が、幅広い支持を得ている。国政も地方自治も同じだ。東京都では、学歴を詐称し、外苑前の並木を切り倒す老女が、ずっとダントツの得票率で知事を続けてきた。今年(2024年)の選挙も同じ結果なら、これからも困っている人は助けられないだろう。あんのような娘がこれからも生み出されていく。
 外面(そとづら)はいいが、困っている人を助ける気はないというこの国の人間の本質が、今後も描かれ続けることになる。それはあんの母親の精神性と同じである。いまだけよければ、自分さえよければ、それでいいのだ。
 似たような映画が作り続けられることは、この国の危機を示していると思う。有権者に多少なりとも危機感が残っていれば、緑の老婆が再び当選することはありえない。

映画「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」

2024年06月11日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ハロルド・フライのまさかの旅立ち」を観た。
映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』公式サイト|2024年6月7日(金)公開

映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』公式サイト|2024年6月7日(金)公開

2014年本屋大賞翻訳小説部門第2位の傑作小説を映画化!その一歩が人生を輝かせる、驚きと涙の感動作!

映画『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』公式サイト|2024年6月7日(金)公開

 2022年に日本公開された映画「君を想い、バスに乗る」と同じく、SNSが余計なことをして、変に騒がれるシーンがある。被災地のスーパーボランティアとして有名になった、尾畠春夫さんのケースと同じだ。尾畠さんは東京から自宅の大分県まで歩いて帰ろうとしたが、SNSやマスコミの報道で話が広まり、一緒に歩いたり自動車やバイクや自転車で伴走したりする人がたくさんいて、交通事故の発生を懸念した尾畠さんは、徒歩での帰宅を断念したという経緯(いきさつ)がある。
 有名な人の偉業(?)や、一時的な流行に乗っかって、みんなで大騒ぎすることをミーハーと呼ぶ。サッカーのワールドカップやハロウィンのときに渋谷などで大騒ぎする連中が、ミーハーの典型だ。ひとりで静かに歩きたい人にとっては、あんな族(やから)に囲まれるのは、たまったものではない。
 
 本作品の主人公ハロルド・フライも、静かに内省しながらひとりで歩きたかったと思う。事実、ひとりで歩いていたときには、来し方行く末を思い、家族や友人たちを思った。外見的には何も変化はないが、心の中は充実していた。ところが人が集まると、賑やかになるが、中身は空疎だ。渋谷で大騒ぎする連中の空疎さにそっくりである。
 振り返って、では当方は空疎ではないのかというと、ハロルドと同じく、自分は何もしてこなかったと嘆く部分がある。ミーハーの連中と、そんなに変わらない。孤独が好きで、群れるのが鬱陶しいだけだ。
 
 ハロルドの個人年表を想定してみた。いまは75歳くらいだろう。25歳で結婚して、銀婚式の年くらいに出来事があって、それから25年経った。金婚式くらいの結婚生活だが、25年前の不幸が影を落とし続けていて、金婚式を祝うような雰囲気ではない。妻のモーリーンは空虚な時間を埋めるように、毎日家事を一生懸命にこなしている。
 
 人生は空虚で無意味だ。我々は目的もなく生み出され、右往左往して死んでいく。人間の存在を肯定する人も否定する人も、死んでいくことには変わりはない。問題は、自分にとって自分の人生がどうだったかだ。世間や他人は関係ない。
 ハロルドの旅は、彼自身の人生を肯定するために、必要なものだった。何かのために尽力するのは、結局は自分のためだ。ゴータマのように天上天下唯我独尊という悟りの境地に達するのは至難の業である。しかしせめて自分の人生は無為ではないと思いたい。少なくとも、誰かの役に立ったのだと。
 ハロルドは立派だった。

映画「東京カウボーイ」

2024年06月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「東京カウボーイ」を観た。
映画『東京カウボーイ』 公式サイト

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井浦新、アメリカ映画デビュー&初主演! 映画『東京カウボーイ』 公式サイト

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 以前、在留資格が切れて強制送還されそうになっているアメリカ人の嘆願手続きを手伝ったことがある。話を聞いて、入管(出入国在留管理局)に提出する書類を日本語で書くのだが、何度出しても撥ねつけられて、結局、在留の延長は叶わなかった。本人が義務を怠っていたことが原因だと後で分かるのだが、そのことは本人から聞かされていなかった。もう少し英語力があれば、突っ込んだ質問ができて、もっとましな嘆願ができたかもしれないと、心残りがある。

 言葉が通じないのは、とてももどかしい。同じ言語を話しても真意が通じないことが多いのに、他言語となると尚更だ。そして場所が他国だと、もどかしさよりも圧倒的に不安が心を占める。
 序盤の井浦新は、まさにそんな感じで、覚束ない英語力がコミュニケーションを阻害する。思いつきのような安易なプランは、現地の事情によってあっけなく崩壊する。しかし重ねてきた成功体験で、今回も上手くいっていると思い込む。または自分に思い込ませる。
 どうなることやらと思っていたが、持ち前の粘り強さと底抜けのポジティブシンキングで、なんとか事態を打開しようとする。取り敢えず郷に入っては郷に従えという諺を実践したのが功を奏することになる。突破口はいつでも現場にあるのだ。

 金融資本による強欲な展開は、一時的な利益と引き換えに、環境破壊と格差をもたらす。そして多くの人々を不幸にする。M&Aで手に入れた菓子メーカーのチョコレートは、利益優先の味がして、食べた子供は吐き出してしまう。現実を無視して効率だけを考えた結果が、子供を幸せにできないチョコレートだったという訳だ。
 それを思い知らされたときの井浦新の表情がとてもいい。ビジネスマンらしく、ショックを受けるよりもすぐに次の展開を考える。ピンチはチャンスだと知っていても、切り替えるのは簡単ではない。これまでのたくさんの成功体験がそうさせるのだろう。

 企業のプロジェクト物語としては観たことのあるパターンの展開だが、異文化を舞台にしたところと、たったひとりで立ち向かうところに新しさがある。開国時の日本人が海外に出かけたときを彷彿させるが、明治維新の人々が自国の利益だけを考えて、軍国主義の道を突き進んだのに対し、本作品の主人公は、現地の人々の将来を考える。
 殺すM&Aから、生かすM&Aへのコペルニクス的転換が、主人公の中で起きたのを、地味な演出の中に確かに感じる。誰もが、別人になったみたいだと感想を述べるのが面白い。必要なのは寛容と共生だ。それに共感が加われば、ビジネスチャンスになる。
 ちょっと上手くいきすぎの感はあるが、人間はいくつになっても変われるということがテーマのひとつなのかもしれない。面白かった。

映画「ナイトスイム」

2024年06月08日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ナイトスイム」を観た。

 井戸はホラー作品によく登場する。その底に何かがいるのではないかという不安もあるだろうが、それ以上に、井戸は枯れるまでの間は水を湛えていることから、井戸が地下で別の世界と繋がっているのではないかという感覚がある気がする。
 本作品はまさにその感覚に訴えてくる。空間だけではなく、時間的な繋がりにまで広がっていき、プールの場所の変遷の中に、人の怨念やら悪魔の怒りや施しやらを盛り込む。因果関係をはっきりさせるタイプのホラー作品で、夫がプールにこだわる理由も用意している。

 アンジェリーナ・ジョリーが主演した映画「トゥームレイダー」は、元々がビデオゲームで、当方もプレイしたことがある。画面が見にくくて、最初はどこに行けば道が開けるのか、さっぱりわからず、何度もゲームオーバーになった。だんだん慣れてきて、画面の微妙な違いに突破口があるのが分かってくる。
 しかし、いざ突破した先には、強敵だったり罠だったり、困難な道が待っている。中でも水の中を泳いで出口を見つけるのが、兎に角大変だった。息には限りがあるし、どこを泳いでいるのか分からないし、途中で息継ぎの場所があるのに気づいたのは、もう何回も死んだあとだった。
 ということで、本作品を観て真っ先に思い出したのが、ビデオゲームの方の「トゥームレイダー」だという訳だ。水の中を泳いでいくエリアの苦しさと困難の感覚が蘇った。

 水というのは人体に必要不可欠だが、人間は肺呼吸で、水中に潜れる時間は限られている。水の中は人間にとって危険な場所のひとつだ。一方で、シャチみたいに自由に水の中を泳げれば気持ちがいいだろうと思う。鳥のように空を飛べたらと思うのと同じである。だから水中の世界は、ホラーにもなれば、ファンタジーにもなる。

 本作品では、水が闇に通じていて、プールの水もグラスの水も、闇の出入口だ。闇は得体が知れず、何が潜んでいるかわからない。水と同じように日常的に恐怖が存在している。そういう感覚にさせることが、本作品の一番のポイントだろう。じんわりとした怖さがあった。

映画「明日を綴る写真館」

2024年06月08日 | 映画・舞台・コンサート

映画「明日を綴る写真館」を観た。
https://ashita-shashinkan-movie.asmik-ace.co.jp/

 脇役で豪華な俳優陣が登場するのは、平泉成の人脈と人徳だろうと感心したが、キャリア初の主演映画にしては、役柄が平凡だし、キャラクターの掘り下げも少ない。相手役である若いカメラマンの五十嵐の方は、その来し方を詳しく紹介されていた。肝腎の写真館の主人にも、それなりの波乱万丈があったはずだが、過去は殆ど描かれず、どんな心境なのかがわからない。
 平泉成は脇役として長いから、もしかしたら主役然として自らの人生を表現するのが不得意なのだろうか、などとも考えたりした。それにしても、序盤で少しだけ登場する佐藤浩市でさえ、転勤が多くて苦労をかけた妻への愛を切々と伝えてくる。なのに主役の心のうちは、さっぱりわからない。
 物語としては、世俗の人々の群像劇みたいな人情噺で、悪い作品ではないのだが、平泉成の大活躍を期待していただけに、ちょっと不満が残る。でも、あんなもんか。平泉成らしいと言えば、らしい。

 本作品ではカメラマンという言葉を使っているが、巷ではこのところの風潮から、フォトグラファーと呼ばないといけないようだ。カメラ「マン」がよくないらしい。なんとも不自由な世の中になったものである。
 ACジャパンのテレビCMでは、日常のシーンを紹介して、その行動の主体が男女のいずれだと思ったか、バイアスではないかという問いかけをする。正義ぶっていて、鼻持ちならないCMである。こういう思考回路をよしとする風潮が世の中に支配的になると、ますます人間関係が希薄になり、ますます少子化が進むに違いない。本作品に出てくる「ウェディングドレスを着たい」という台詞も、そのうちNGになりそうな気がする。面倒くさい。

 人間は多かれ少なかれ、偏見やバイアスを持っている。それは個性でもあり、人格の構成要素でもある。物語で言えば、時代背景の表現でもある。だからこそなのだが、本作品の主人公はもっと偏屈で、平泉成がポテンシャルを最大限に発揮せざるを得ないような、難しいキャラクターであってほしかった。