映画「神は見返りを求める」を観た。
心に引っかかるものがたくさんある。それはある種の感動ではあるが、心が洗われるような気分のよさではない。本作品で感じるのは「いやな感じ」だ。もちろん何も感じない作品よりはずっといい。しかしここまで人間の浅ましさと愚かさを並べ立てられると、いささかげんなりする。
人間に深みなんてもともとないのかもしれないが、本作品で繰り広げられる会話は、これまでに聞いたことがないほど、中身がない。中身のない人間は、中身のない言葉を話す。本作品の登場人物は誰にも中身がなかった。
最近になって初めて耳にした言葉に「ディスる」や「マウント(合戦)」や「イタい」などがある。いずれも対人関係を表現する言葉だ。新しい価値観が生まれた訳ではない。むしろ古い価値観に逆戻りしている感がある。
他人を否定したり、自分のほうが立場が上だと主張するときの基準となるのは、発言者の尺度であり価値観だが、発言が簡単に否定されないためには、基準となる価値観も容易に論破されないものである必要がある。勢い、依拠する価値観は古い社会のパラダイムになってしまう。
つまり、これらの言葉を使うということは、価値観そのものの論争ではなく、古い価値観の上で相撲を取るような会話をすることなのだ。そこには最低限の礼儀さえない。自己主張の強い人を「イタい」と表現して「ディスる」。本人には見えない、聞こえない安全な場所で発言することが多いように思う。自分を安全圏に置いておきたいのだ。
吉田恵輔監督は、そういう人々に容赦がない。ムロツヨシが演じた田母神は、古臭い人付き合いをするタイプで、お礼の品は何度か断ってから受け取る。一旦お断りしたと、自分の立場を安全にしておきたい訳だ。下心は田母神のポリシーに反するのである。
対して、岸井ゆきのが演じた優里ちゃんは、そういう昭和のノリが理解できない。要らないと言われれば要らないのだと理解する。自分は矛盾していても平気だが、他人の矛盾は認めないのだ。二人の付き合いが平行線を辿るのは必然である。
親しき仲にも礼儀あり。魚心あれば水心。そういった価値観が崩壊した様子を描いたのが本作品である。ユーチューブには含蓄は必要ない。直接的に興味を持続させる映像と音響と文言があればいい。含蓄などユーチューブには百害あって一利なしなのだ。昭和は遠くなりにけり。