三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「轢き逃げ-最高の最悪な日-」

2019年05月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「轢き逃げ-最高の最悪な日-」を観た。
 http://www.hikinige-movie.com/

 実に惜しい作品である。生前の望とその家族を先に描くべきだった。
 人が人や動物の死を悲しむのは、それに纏わる思い出があるからである。家族や友人の死では生前の思い出が悲しみを誘発するが、赤の他人の死には何の思い出もない。事故や災害で何人死んだというニュースを見ても、へえと言うだけである。思い出がなければ悲しみもないのだ。
 被害者が被害に遭う前のシーンを先に映すやり方は常道で、水谷監督は敢えてそうしなかったのかもしれないが、常道になっているのはそれなりの理由がある。観客は被害の前の被害者の思い出を得るから、被害者の死に悲しみを覚え、遺された家族に感情移入する。
 本作品で少しだけ感情移入するのは前半のひき逃げ犯に対してである。ひき逃げ犯に感情移入してほしいから、被害者の思い出をなしにしたのかもしれないが、おかげで映画の後半は誰にも感情移入できなかった。
 アイデアやプロットはとてもいい。脚本の台詞は月並みだがそれなりのリアリティがある。被害者の父親を演じた水谷豊の演技は「相棒」で見慣れた右京さんとは違って地に足がついている。右京さんみたいな天才的な閃きはないが、娘の死が腑に落ちない父親の執念を上手く表現していた。檀ふみも貫禄の好演である。若手の人たちもそれなりに頑張っていたと思う。
 前半の単調さに比べて後半は展開の読めないワクワク感があり見ごたえがある。返す返すも被害者の生前のシーンがなかったことが悔やまれる。


映画「The Main Battleground of the Comfort Women Issue」(邦題「主戦場」)

2019年05月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Main Battleground of the Comfort Women Issue」(邦題「主戦場」)を観た。
 http://www.shusenjo.jp/

 とにかく言葉、言葉、言葉。言葉が洪水のように押し寄せてくる作品である。立場で物を言う人、ハッタリをかます人、自己弁護に終始する人、事実を検証しようとする人、寄せ集めの情報で人を騙そうとする人など、様々である。この映画を理解するには映画と同じレベルで考えるのではなく、一段高いところから、世界と人類を考えなければならない。

 ある種の教条を絶対として信じる人は、他人がそれを否定するのが我慢ならない。たとえば「親に向かってその口の利き方はなんだ!」と怒る人は、子供は親を敬い従わなければならないと思いこんでいる。「誰に向かって口を利いている」とか「俺を誰だと思っている」などと怒鳴る人も同じである。なべて封建主義的である。
 スポーツの指導者にもそういうタイプが多い。スポーツの動機は大雑把に二つに分けられる。世界を目指す人と、楽しみや健康のためにやる人だ。前者にとっては熱血指導はありがたいだろうが、後者には迷惑極まりない。
 人が熱血指導者になってしまうのは、一元論的な考え方に陥るからである。目的は金メダルだと勝手に決めてしまう。それ以外の行為はすべて無駄な行為だと切り捨てる。自分がこの分野である程度成功したから同じやり方をすべきだと強制する。個々の事情や個性など一顧だにしない。もはやファシズムである。
 実はスポーツのそういった精神性は政治的な全体主義の精神性とまったく同じなのである。チーム一丸となって敵を倒す。多様性は認められず、個性は長所ではなく和を乱すとして排除される。熱血指導者の横暴もみんなが受け入れてしまえば暴力さえも許される。どうしてそうなるかと言えば、従うほうが楽だからである。
 反対の声を上げて組織や共同体を非難し批判するのは美しくない行為だとされ、協調性がない、身勝手だと悪い評価を受ける。承認欲求は他者からの高評価を期待すると同時に低評価を避けたいものだから、人はパラダイムに従ってしまう傾向がある。村八分にされたくないから仲間についていく。サッカーファンでもないのに渋谷に集まって馬鹿騒ぎしている若者たちの中にも、やむを得ず参加し、やむを得ず楽しそうにしている人がいると思う。大抵の場合は中心になるのは知能レベルが低い暴力的な人物で、仲間にも馬鹿騒ぎを強制し、場合によってはノリが悪いと言って殴ったり仲間はずれにする。知能が高いほど弱気になるので、利口が馬鹿に従う図式になる。
 そして軍隊という組織は、渋谷で馬鹿騒ぎする若者たちと同じような精神性の組織なのである。大戦時の日本では、日本中が同じような状態になった。例によって知能が低くて気が強いだけの暴力的な人物が日本を牽引し、ノリが悪い人間は非国民とされて迫害され、時には官憲に引っ張られて拷問を受け処刑された。戦時下のパラダイムは実に恐ろしい。それに反抗できなかったからといって責めるのは可哀想ではあるが、それでも日本人は軍部に反抗しなければならかなったと思う。

 国家とは吉本隆明が言うように人々の共同幻想である。領土、領海、領空、国旗、国歌、そして国民などが国家とされる。民族は客観的な区別の対象だが、国民は他の国家との相関関係と手続きによって決められる。白人でも黒人でも日本国民はいるだろう。
 我々が中国と言うときに、何を以て中国と呼ぶのかは実に様々である。しかし「中国人は」と言うときの中国人は話者独自のイメージの中国人であって、中国人全体を指すのではない。
「日本人は日本語を話す」は誰が聞いてもその通りだと思うが、「日本人は金の亡者だ」という言葉は正確ではない。たしかに金の亡者みたいな日本人もいるかも知れないが、日本人すべてが金の亡者ではない。
 そんなことは解っていると思うかもしれないが、主語を変えて「中国人は金の亡者だ」と平気で言う人がいたとして、聞いた誰もが正しい反論ができるだろうか。中にはその通りだと思う人がいるかもしれない。そこに共同体に精神的に依存することの恐ろしさがある。

 慰安婦も南京大虐殺も覆しようのない歴史の事実だ。アメリカ大統領がヒロシマ、ナガサキはなかったと言ったら日本の世論は確実に沸騰するだろう。戦争を仕掛けた日本ですらそうなのだ。勝手な侵略を受けた朝鮮が、慰安婦などなかったという日本の総理大臣の言葉に激怒するのは当然である。
 韓国人が日本は謝罪しろというとき、謝罪する主体は誰なのだろうか。韓国国会の議長は天皇が謝罪すればいいと言って物議を醸した。平成天皇は昭和天皇の遺した負の遺産のために日本軍が被害を齎した地域を謝罪して回ったくらいだから、明仁上皇本人は韓国に行って謝罪することも辞さなかっただろう。今上天皇も同じ路線だから、謝罪するのは吝かではないはずだ。そうさせない勢力は慰安婦がなかったと主張している勢力にほぼ等しい。
 ただ日本にいる朝鮮人や韓国人から直接、お前は謝罪しろと言われても困る。個人としては第二次大戦に加担してもいないし、そもそもそんな昔にこの世にいなかった。さらに言えば、日本という共同体にたまたま生を受けただけで、共同体の責任を個人が背負わなければならない義務はない。また、戦後生まれの朝鮮人や韓国人は、たまたまその共同体に生まれただけだから、共同体が過去に被った被害について日本に謝罪を要求することもできない。そのあたりの簡単な理屈が共同体に精神的に依存している人間にはどうしても理解できないのだ。そして共同体に精神的に依存している人間は、人類の多くの割合を占めると思われる。

 我々はどれだけ共同体から自由になれるのか、パラダイムにとらわれることなく、孤立を恐れず孤独に耐えられるか、そしてその上で、どれだけ他人に対して寛容になれるのか。この地球上に生きるひとりの人間として、世界観と覚悟を試される作品であった。


映画「The foreigner」(邦題「ザ・フォーリナー 復讐者」)

2019年05月29日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The foreigner」(邦題「ザ・フォーリナー 復讐者」)を観た。
 https://the-foreigner.jp/

 ロンドンは街中に監視カメラが設置されていることで有名である。かつては有能だと評判だったスコットランドヤードも、今では監視カメラだけが頼りだ。ダニエル・クレイグの「007スペクター」でも、当局がボンドを追うのに専ら監視カメラ網を使っていた。
 さて本作品でもジャッキー・チェンは健在である。爆弾テロの被害に遭った娘の無念を晴らすために、警察当局に迫り、そしてアイルランドの過激派の中枢に迫っていく。監視カメラの目をくぐり抜け、イギリスとアイルランドの政治的な力関係から真実につながる糸を手繰り寄せる。一介の中華料理店の店主がどうしてそれほどの洞察力を持ち得たのか、物語の中で徐々に明らかになる。
 ストーリーはテンポよく展開し、プチどんでん返しなどもあって、観ていて小気味がいい。身体を張ったアクションも往年のままだ。ほんの少しだが恒例のトレーニングシーンもある。それに加えて歳を重ねた男の悲哀のようなものが伝わってくる。本作品のジャッキーは明るくて皮肉屋のジャッキーではなく、真面目で悲壮感漂うジャッキーである。
 ピアス・ブロスナンは単なる優男だった007の頃に比べて、迫力のある大物を悠々と演じるようになった。本作品では二重三重のベールの影に本性を隠している役で、相手役としての重味は十分だった。
 アクションはリアリティがあり、変な愁嘆場でリズムが崩れることもない。無駄が削ぎ落とされた作品で、多分何度観ても面白いと思う。


映画「居眠り磐音」

2019年05月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「居眠り磐音」を観た。
 http://iwane-movie.jp/

 松坂桃李は阿部寛主演の「新参者 麒麟の翼」で初めて見た。2012年だったと思う。同作品には松坂桃李の他に菅田将暉、三浦貴大、山﨑賢人、柄本時生などが出演していて、その後の活躍を考えると凄いキャストだったのだが、物語の印象は中井貴一がすべてかっさらっていった感じである。若手俳優たちも頑張ってはいたのだが、如何せん中井貴一の演技が凄すぎて、主演の阿部寛さえ霞んでいた。そんな中で光っていたのが松坂桃李と三浦貴大のふたりだった。
 それから7年、本作品では髷を結っての登場である。これがまたよく似合っていて、品のある侍になっていた。しかし木刀の試合と殺陣はいまひとつ。昨年観た「散り椿」の岡田准一の殺陣が最近観た中で一番迫力のある殺陣だったが、松坂桃李の殺陣があのレベルに達するのは時間がかかりそうである。
 プロットもいまひとつ。展開にリアリティがないし、急転直下すぎてついていけない。伏線も拾わないので、関前藩での出来事に言及した今津屋主人の言葉は尻切れトンボに終わってしまったし、奥田瑛二演ずる藩のお偉方は何のお咎めもなしだ。
 市場原理を無視した田沼意次の政策にも仰天したが、それを守ろうとする今津屋にも驚いた。そして巷で怪演と評価される柄本明の阿波屋有楽斎は単なる悪役ではなく、むしろ反体制の先鋒みたいな両替商であった。まさか有楽町の由来はこの人ではないだろうね。その阿波屋に一杯食わせるシーンもハナから展開が読めて、痛快さはなかった。
 他の役者では芳根京子がいまひとつ。演じた奈緒には乙女心も女の優しさも感じなかった。木村文乃のおこんだけが存在感を発揮していた気がする。中村梅雀は落語に出てきそうな大家を好演。
 あまりひねりもなく、殺陣のシーンにも迫力がなかったので、途中で眠くなってしまった。佐々木蔵之介の眼光だけが、時代劇らしい鋭さを放っていた。


映画「空母いぶき」

2019年05月27日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「空母いぶき」を観た。
 https://kuboibuki.jp/

 佐藤浩市が演じた垂水慶一郎ほど真摯な総理大臣は見たことがない。彼は憲法を遵守し、国を戦争の惨禍に陥らせないことこそ政治家の使命であることを解っている。憲法を蔑ろにするどこぞの小国の暗愚の宰相とは大違いなのだ。

 世界から戦争がなくならないのは、人間が共同体のパラダイムに蹂躙されて主体性を放棄してしまっているからである。そして人間が共同体に依存するのは、孤立を恐れ、孤独に耐えきれないからだ。弱い人が仲間とつるみたがるのと一緒で、そこに自分の居場所があるし、強くなった気にもなれる。戦争の基本構造は暴走族同士の争いと同じなのである。
 軍備を所持することは、その国のレベルが暴走族レベルであることを宣言しているのと同じことだ。武器も兵器も経年劣化するから、毎年巨額の軍事費がかかる。原資は国民の税金である。その分国民の生活が確実に貧しくなる訳で、軍備などないに越したことはない。多分このあたりまでは、世界中の多くの人が解っていることだと思う。
 問題はふたつ。
 ひとつは他国に対する不信感である。自分の国は良識のある国だから戦争を起こしてはいけないことを知っているが、ならず者国家は平気で戦争を仕掛けてくる。それに対する備えは必要なのだという現実論。当然ながら各国間の経済格差も関係する。
 もうひとつは、既に存在する軍需産業の生き残り策である。武器は高額の消耗品だから、一旦導入されれば以降は毎年のように注文が来る。売り込みはとても熱心だ。中にはトランプのように国のトップがセールスをする国さえある。ならず者国家やテロリストも、使う武器はアメリカ製かロシア製、あるいは中国製なのだ。

 本作に登場する東亜連邦というならず者国家も、ロシア製の戦闘機を使う。その他の兵器もみんな先進国から輸入したものに違いない。新興国に武器の自国製造などできないからだ。なんのことはない、敵も味方も等しく軍需産業のお客さんなのである。世界の軍需産業が紛争を起こしていると言っても過言ではない。ならず者国家に武器を卸す国がなければ、どの国も自衛のための兵器を所持する必要がない。
 軍備を否定すると、強盗が自宅に侵入して妻子が殺されても黙って見ているのかと、変な反論をする人がいる。強盗が侵入したらもちろん反撃する。その時は手近にある固い物、瓶とかボールペンとかが武器になるだろうし、日本ではそれで十分だ。使えもしないトンファ・バトンやヌンチャクなどを用意しても意味がない。場合によっては奪われて相手に使われるかもしれない。アメリカみたいに強盗が必ず拳銃を持っていると考えられる国では強盗対策に拳銃を準備する人もいるだろうが、それは核のエスカレーションと同じ図式である。日本の田舎には、今でも自宅に鍵をかける習慣のない集落がある。世の中が物騒でなければそれで大丈夫なのだ。軍需産業と警備会社が世の中を物騒にしている。マッチポンプである。

 航空母艦は戦闘機を搭載して戦線に近づく船だから、専守防衛の理念に反している。所持していること自体が違憲の兵器である。官僚は苦しい言い訳の言葉を捻り出すが、自衛隊の過剰装備はすべて憲法違反であり、在日米軍は日本の独立侵害である。日本の立場は憲法と現状とでねじれが生じており、現場の司令官はミサイルや魚雷が来ている瞬間にも、難しい判断を要求される。
 戦闘訓練も何も受けていない記者ふたりの存在は非日常の舞台を日常に引き戻し、作品にリアリティを与えている。コンビニは情報を受け取る前と後の人々の日常を端的に表現し、東京のニュース社の様子はジャーナリズムのリアルな現場を映していた。海戦以外のシーンは海戦の現場と日本国内の日常生活を対比し、ここにも憲法と現実のひずみが感じられる。
 役者陣はいずれも熱演、好演だったが、中でも佐々木蔵之介が演じた副長は、憲法を意識しつつも任務と友情のはざまに悩み、なんとか最善策を見出そうとする誠実な人柄が言葉の端々に滲み出ていた。戦闘の最中にあって防衛出動が発令されているにもかかわらず、なおかつ専守防衛に徹しようとする自衛官たちの姿勢は感動的だ。そしてもうひとり、首相を演じた佐藤浩市。戦争を始めたい外務大臣に対して「軽々しく戦(いくさ)などという言葉を口にするな」と諌める姿は迫力があり、凄みがあった。素晴らしい名演である。
 憲法と自衛隊の存在は相反する部分があって、そのひずみを内包する作品だから、賛否両論があって当然だが、リアリティのある戦闘シーンといい、ミサイルの迎撃方法やその場で決めていく戦術といい、緊迫感に満ちたいい作品であることは間違いない。退屈なシーンは1秒もなく、隊員のそれぞれの個性まで描き出し、作中の複数の人物に感情移入できるプロットが素晴らしい。娯楽作としても優れていて、問題作でもある。
 当方としては、この映画は反戦映画であると受け取った。多くの反戦映画は戦線の残酷さと銃後の悲惨さを描くが、本作品は高度な軍需兵器の性能くらべとそれを操る者のテクニック争いみたいなシーンを描き、軍需産業と戦闘による兵器消費の密接な関係を炙り出すことで、現代の戦争のありようを上手に暴いてみせた。この時代にこの映画が作られたことは、意義のあることだと思う。


岡田将生主演「ハムレット」

2019年05月24日 | 映画・舞台・コンサート

 渋谷のBunkamuraシアターコクーンで岡田将生主演の芝居「ハムレット」を観た。
 https://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/19_hamlet/
 オフィーリアの黒木華がいい。小悪魔的な化粧と表情ながら、男たちに振り回されるままに心を乱していく有様に、女の業のようなものを感じる。舞台で鍛えた発声は、滑舌もよく声の通りもいい。2階の最後尾という聞こえづらい見えづらい席だったが、彼女の台詞はちゃんと聞き取れた。
 岡田将生はそれなり。やはり舞台俳優としては稽古不足で「尼寺へ行け」という台詞が今ひとつ迫力がなかった。
 その「尼寺へ行け」の意味だが、この芝居では次のように解釈する。この世は理不尽で、人間はみな不幸だから、新しい命を生み出すことは不幸を生み出すことに等しい。そうならないように、尼寺へ行けとオフィーリアに言ったのだ。この解釈はなかなかいい。もしかしたらこれまでのハムレットで一番確からしい解釈かもしれない。
 シェークスピアは冷めた戯曲作家である。人間が喜劇と悲劇を繰り返す馬鹿な存在であることをとうの昔に看破していた。彼の劇が今でも通用するのは、人間は今も昔も変わらず馬鹿だからである。


映画「雪子さんの足音」

2019年05月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「雪子さんの足音」を観た。
 https://yukikosan-movie.com/

 下宿というものに縁がなかったので、いまひとつピンと来なかった。昔かぐや姫が歌った「神田川」の歌詞に「三畳一間の小さな下宿」があるが、下宿がどのようなシステムで運営されているのか、未だによくわからない。
 吉田拓郎の「我が良き友よ」の「語り明かせば下宿屋のおばさん酒持ってやってくる」という歌詞からすると、下宿は大家や他の住人との信頼関係を前提に成り立っているように思える。鍵のかかるアパートやマンションが閉鎖的なのに対して、かなり開放的である。そういう時代だったのだろう。今は子供部屋にさえ鍵がかかる時代だ。
 さて雪子さんの経営する下宿屋「月光荘」に越してきて三年目、大家の雪子さんと隣の部屋の小野田さんの二人の女性から応援すると言われた薫だが、日常生活の舞台である下宿屋で世話をするということは、掃除洗濯と食事と、それに場合によっては性欲の処理である。本作品は上品な映画でそのあたりのことを少女漫画みたいに上っ面で済ませていたが、もう少し突っ込んで表現してもよかった気がする。
 餌付けされている金魚を自分に重ねて女性不信になってしまう主人公だが、必ずしも不幸な人生という訳ではない。この作品のフードコーディネーターはかなり優秀で、出てくる料理が全部美味しそうに見えた。学生時代にあんな手料理を食べられるのは大変な贅沢である。薫は実は胃袋を掴まれていたのではなかろうか。
 佐藤浩市と親子共演を果たした主演の寛一郎は、なかなか味のある演技をする。本作では弱気で挙動不審な学生を演じたが、肚の据わった役もできそうである。
 雪子さんを演じた吉行和子は流石の存在感であった。微妙に気持ち悪い老女のエキセントリックな不気味さをよく引き出している。
 隣の部屋の小野田さんの役の菜葉菜は、佐藤浩市と共演した「赤い雪 Red Snow」で一皮剥けた印象があり、癖のある役柄を上手にこなしている。本作でコケティッシュな側面を見せられたのは収穫だったのではないか。

 ということで俳優陣の演技もよく料理も美味しそうだったのだが、映画自体はあまり面白くなかった。坦々とした平板なドラマでも、登場人物たちに人間的な深みがあればそれなりに楽しめるのだが、本作品にはそういう人物は登場しない。プロットが浅いのだ。
 エロスも半端、料理も半端、人間関係の掘り下げも半端では、観客は誰にも感情移入できないし、どこで感動していいのかわからない。一生懸命作った方々には申し訳ないのだが、凡作と評価させていただいた。


映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」

2019年05月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」を観た。
 http://bokutachi-kibou-movie.com/

 石川啄木に「強権に確執を醸す」という言葉がある。26歳で死んだ詩人の胸のうちは今となっては知る由もないが、天皇を絶対権力として帝国主義政策を進める明治政府の強権的なやり方に反発を覚えていたのは間違いない。幸徳秋水たちによる大逆事件も少なからぬ影響を若い詩人に与えたはずだ。
 本作品の若者たちも啄木に似て、社会主義のパラダイムを一方的に押し付けるソ連に対して、上手く説明できないながらも、精神的な自由を奪われつつあることに容易ならざる危機感を覚えているように見える。18歳ともなれば、思春期の反抗と違い、弾圧に対しては敏感に反応する、感性の鋭い年齢である。
 予告編の通り、授業の冒頭にハンガリーの武装蜂起の犠牲者に対して追悼の意味の2分間の黙祷を実行し、権力側がこれを反体制(反革命)と見做して弾圧するというストーリーだ。かつての日本の過激派と同じく、仲間同士のリーダーシップや裏切りに対する倫理観が絡み、若者たちは一枚岩ではあり得ない。そして体制側は容赦なくそこにつけ込んでくる。そして若者たちの家族も、決断を迫られる。
 役人たちは皆ソ連の傀儡だが、傀儡であることを卑下する気持ちはない。寧ろ自分たちは傀儡ではないと思っているフシがある。自分の立場を正当化する思いが強く、それがそのまま反体制的な勢力への弾圧に直結する。役人たちの若者への弾圧が容赦ないのは、それが役人たち自身のレーゾンデートルだからである。
 かつてロシア革命に熱狂したロシアの民衆は、その後長きに亘って政治局による圧政に苦しむことになった。権力は必ず腐敗するという鉄則は、いつの世でも正しい。権力は統治システムとして官僚機構を構築し、官僚はある種の特権階級として国民を支配しようとする。国民はもはや国民ではなく、帝国主義時代の臣民に等しい。そしてソ連は自国だけでなく、世界大戦のドサクサで縄張りにした東側諸国のすべての国民をソ連帝国主義の臣民として支配しようとした。若者たちが反発するのは当然である。
 映画の背景にある時代は、権力行使がストレートだったが、現代はインターネットの時代で情報が猛スピードで拡散するから、権力は以前のような暴力的な手法を取ることができなくなった。何をするかというと、インターネットを逆用してフェイク情報を大量に流すのである。流れてきた情報を取捨選択する能力のある人はいいが、多くの人はインターネットの情報をそのまま鵜呑みにしてしまう。自分で考えることをしないからである。現代の教育がそういう風に育ててきたのだ。
 そして若者たちは情報の真実を探求することなく、権力のいいように操られ、投票する。かつての若者たちが命がけで戦ったことなど、もはや知る由もない。国のため、子どもたちのため、家族のためという大義名分は、権力が民衆を欺くときに使う言葉である。本作品の若者たちのように、国のためでも家族のためでもなく、自分のために戦うことが正しいことなのだと気づかなければならない。権力は常に腐敗する。若者たちが「強権に確執を醸す」ことは、世の中のバランスを保つために必要不可欠なことなのだ。
 作品としては当時の様子や軍人が街中のいたるところにいるという戦後のヨーロッパの有り様が十分に伝わってきた。役者陣はみんな上手い。ナチズム、ファッショ、社会主義といったイデオロギーに関する発言が飛び交うのは、やはりそういう時代だったのだ。人は多かれ少なかれ、時代を背負って生きている。戦争の惨禍の記憶は未だに消えず、若者たちは不安と恐怖の中に生きている。安全無事を目指すのは簡単だが、強権と戦っている人々に対して恥ずかしい生き方はできない。当時の若者たち、そして彼らを取り巻く人々の複雑な葛藤が伝わってくるいい作品だった。


芝居「木の上の軍隊」

2019年05月21日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿のTAKASHIMAYAサザンシアターでこまつ座の公演「木の上の軍隊」を観た。
 テレビ朝日のドラマ「相棒」の「ヒマか?」の課長でおなじみの山西惇が主演の舞台である。山西演じる上官と兵卒が戦時中に木の上に逃げて、そのままそこで何年も暮らすという話である。
 井上ひさしは「父と暮せば」で広島の原爆のあと、「母と暮せば」で長崎の原爆のあとの庶民の暮らしを描いた。両方とも、戦争がどれほど人間性を蹂躙したかを思い知らされる芝居であった。
 本作では兵隊が主役であり、戦争に行かされた人々がどういう思いだったのかの典型的な二人を描く。上官役の山西惇は大変な好演で、改めてこの人の役者としての実力を見直した。時にコミカル、時にシニカルで、そして時にニヒルな上官という複雑な人格の役を見事に演じきった。
 二等兵役の松下洸平も上官に相対する線の細い兵卒を上手に演じた。狂言回し役の普天間かおりは歌も上手でナレーションもいい。音楽はビオラの有働皆美さんが一手に引き受ける。
 終幕に向けて徐々に盛り上がる演出で、最後は泣けて泣けて仕方がなかった。やっぱり戦争はダメだ。

映画「初恋 お父さん、チビがいなくなりました」

2019年05月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「初恋 お父さん、チビがいなくなりました」を観た。
 http://chibi-movie.com/

 財津和夫の「サボテンの花」では、些細な出来事で簡単に壊れてしまう男女の関係性が淡々と歌われる。夫婦も恋人も元は他人だ。親兄弟でさえ解り合えないのに、育った環境の異なる他人同士が解り合えることはない。
 もっと古い歌だが長谷川きよしが歌った「黒の舟唄」は、男と女は互いに解り合えることがないと知っていて、それでも解り合おうとするものだという歌詞である。
 そして北山修と加藤和彦の「あの素晴しい愛をもう一度」では、同じ花を見て美しいと思うことが幸せなのだと歌う。人は解り合うことはできないが、共感することができるという意味だ。
 人は他人の死を死ぬことができない。他人の苦しみを苦しむことができない。どれほど時を過ごしても、どれだけ言葉を交わしても、人は他人を理解することはない。この人はこういう人だと決めつけることはできるし、多くの人がやり勝ちだが、大抵の場合、間違っている。決めつけることは理解することとは程遠いことなのだ。
 しかし北山修の詞のように共感することはできる。共感は共生感に繋がり、同じ時間、同じ空間を生きていると実感する。そこに感動があり、喜びがある。作家や哲学者は、深夜にひとりで執筆しているとき、全人類との大いなる共生感を感じることがあるという。

 さて本作品は、年老いた夫婦が共生感を喪失する話である。といっても妻の側がそう思うだけで、夫のほうは気持ちが通じているものと思っている。そのズレがドラマになる。
 倍賞千恵子と藤竜也という名人二人の芝居はスキがなく、かといって過度な緊張もない。適度に思いやりがあり、適度に突き放しがある。その絶妙な空気感の中で日常的なストーリーが坦々と心地よく進んでいく。
 老いた夫は駅前でアイデンティティの危機を迎え、帰宅して妻に出来事を話そうとしたときに、逆に離婚の意思を告げられる。そのときの藤竜也の表情は、複雑な思いが絡み合って逆に無表情になってしまう顔であり、その無表情の中にも落胆、失望、諦め、それに妻への思いやりを感じさせ、これぞ名優と改めて感心する名演技であった。
 普通の人の普通の暮らしの中にもドラマがあり、人生があるのだなと再認識させてくれるほのぼのした佳作である。