三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

こまつ座の公演「父と暮せば」

2021年05月30日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿の紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAでこまつ座の公演「父と暮せば」を観劇。
 2018年の6月に観て以来、二度目の観劇である。広島で被爆した父娘のふたり。父は死んで幽霊となって出てきている。幽霊だが雨漏りの桶を運んだり風呂を沸かしたりと、意外に役に立つ。ただ食べ物は食べられない。
 前回と同じく山崎一さんと伊勢佳世さんの二人芝居で、前半は割と喜劇的というか、井上ひさし得意の面白おかしい掛け合いが続いて笑わせてくれる。
 後半は被爆当日の話になって、一転して暗くなる。前回と同じ場面でハラハラと涙が流れる。千秋楽の前の日だから、ふたりの呼吸もぴったりで台詞回しも間も熟れている。見事な舞台だった。今回は3列目(1列目がないので実質2列目)で観たので山崎さんが本当に泣きながら台詞を喋っているのが見えた。泣きながらでも台詞の滑舌が乱れないのが流石にプロの俳優だ。来年も観たい。

映画「ペトルーニャに祝福を」

2021年05月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ペトルーニャに祝福を」を観た。
 主人公ペトルーニャを演じた女優の演技が凄すぎて、映画が始まると同時にグッと引き込まれた。主人公に感情移入すると、上映中ずっと怒りと悲しみと恐怖の感情に揺さぶられっぱなしだ。
 ペトルーニャの自由な精神性に対し、住んでいるシュティプという土地の精神性は封建主義であり、ギリシャ正教を強制する女性差別主義である。その代表選手がペトルーニャの母親というのだから、救われない。大学で歴史を学び、世界を科学的に客観的に評価することを学んだペトルーニャだが、母親の硬直した精神は溶かしようがない。
 北マケドニアでも女性はご多分に漏れず容姿で評価されるというか、差別される。容姿のいい女性がいい仕事にありつき、キャリアを積むことができる。頭がよくても容姿がいまひとつのペトルーニャは仕事のキャリアがなく、キャリアがないことで面接で落とされる。
 なんとも理不尽な出だしだが、帰り道で出くわした宗教イベントで、ペトルーニャの状況が一変する。男たちが真っ先に取ろうとして争う十字架を、タイミングよく川に飛び込んで取ってしまったのだ。女は取ってはいけない規則だと、ペトルーニャは土地のスクエアな精神性によってたかって責められる。その一番手は勿論ペトルーニャの母親だ。
 敢えなく警察署に連行されてしまうペトルーニャだが、ここから彼女の頭のよさが発揮される。周囲にいるのは警察署長、司祭、それに十字架を女から取り返そうとする頭の悪い凶暴な男たち。ハリウッド映画であれば目に見える派手な解決場面を用意するだろう。フェミニストの団体が大挙してシュティプに押し寄せてペトルーニャを男たちから救い出すとか、または狂気のテロリストが、男たちをマシンガンで皆殺しにするとかだ。
 しかしそんなことをすれば、その場ではペトルーニャの気は晴れるかもしれないが、明日からもシュティプで生きていかねばならないことを考えると、なんの解決にもならないことがわかる。フェミニストらしきテレビの女性レポーターは奮闘していたが、彼女の上司はスクエアな側だ。マスコミには何も変えられないことは、ペトルーニャには端からわかっていた。
 本作品では、ペトルーニャの人生観や世界観が少しずつ広がっていく様子が伝わってくる。苦しい状況に置かれながらも、怒りや悲しみをコントロールし、徐々に恐怖を克服していく。司祭の身勝手な要求や警察署長の短気で愚かな質問を柳に風と受け流し、鋭い質問を浴びせて逆に彼らを追い込んでいく。
 スクエアな状況が変わることがないのであれば、そんな状況を気にしないで超越して生きていく精神性を獲得するまでだ。短時間で波乱万丈の経験をしたペトルーニャは、すっかり成長してもはや怖いものがない。もちろん神など存在しないから、十字架にご利益などない。
 頭のいいペトルーニャには感心したが、シュティプにも北マケドニアにも絶対に行きたくないと思ってしまった。

映画「明日の食卓」

2021年05月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「明日の食卓」を観た。
 人間同士の関係はどんな組み合わせでも微妙なものだが、十歳の息子と母親となると、想像するのも難しい。自分が十歳の頃に何を考えていたのかというと、もう遠い過去でしかなく、殆ど何も思い出せない。
 しかしわかりやすい考え方がふたつある。ひとつは、子供は大人と同じということ。同じ人間だから食欲はあるし、性欲もあるかもしれない。世間一般の価値観に左右されやすいから、大人以上に見栄っ張りだ。一方で怖がりであり、痛い目や怖い目には遭いたくない。そのためには嘘も吐くし、誤魔化しもする。約束は守らない。
 もうひとつは、十歳にもなると人間関係に敏感になっていること。当方の記憶では、その頃の人間関係は同級生が7割、教師が1割、家が2割くらいだったと思う。それほど学校での人間関係が精神生活の大きなウェイトを占めていた。
 日本の子供が可哀想なのは学校での人間関係が精神的な負担の大半を占める状態がずっと変わっていないということだ。当方も小中学校では毎日同じ顔ぶれがずっと続くことに辟易していた記憶がある。せめて科目毎に教室が変わって面子が変わるのであれば救いもあった気がする。だから学年が進んでクラス替えになるときに意味もなく期待したものだ。しかしろくでもない子供なのはお互い様で、クラス替えがあっても何も変わらなかった。
 子供は大人の権威主義にさらされて育つから、驚くほど権威主義である。殆どの親は親の権威を押し付けて言うことを聞かせながら育てるのだ。子供と言葉によるコミュニケーションを充実させて信頼関係を築くのは時間的にも労力的にも難しい。だから安易に権威主義に走る。「親に向かって」などと子供に言う親は、権威による差別を子供に植え付ける。大抵の親は、子供が生まれたときから基本的人権を持つ個人であることを認識しないで、犬を育てるように子供を育てる。まともな人間は育たない。
 犬は家族と自分に順列をつけるらしい。犬のように育てられた子供は人間関係に順列をつける。権威主義であり、差別主義である。当然、いじめの主役になる。加えて学校の面子に流動性がないから、いじめも固定化する。極端に聞こえるかもしれないが、日本の小中学校の現状はそんなものである。親と教師のコミュニケーション不足と権威主義がいじめを育てているのだ。
 本作品の図式は、親の言うことを聞けという権威主義、成績がよかったりサッカーが上手だったら褒めるという既存の価値観への依存、それにコミュニケーション不足の3点が典型的にはまっている。子供の行動や台詞に不自然な部分もあったが、大枠は日本の子供のいまの現実そのものの描写と言っていいと思う。
 役者陣は並(な)べて好演。中でも高畑充希の演技が突出して優れていた。他の母親を演じた尾野真千子も菅野美穂もとてもよかったのだが、高畑充希の演技は圧巻だった。母親役がいずれも秀逸だっただけに、子供の演技にやや不満が残った。
 映画の冒頭とラストが菅野美穂のアップで、冒頭は疲れて衰えた顔だったのが、ラストでは清々しい顔になっていた。生まれたときから権威主義で育てた息子と母の関係性が、大きな試練を経て互いの人権を認めあったのである。つまり母と息子の信頼関係がはじめて成り立ったという訳だ。中身の濃い作品である。

映画「拝啓、永田町」

2021年05月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「拝啓、永田町」を観た。
 
 日本の選挙制度のおかしさがよく解る作品である。勿論どの国の選挙制度も民主主義の観点からすれば多かれ少なかれ不備があると思うが、本作品で紹介された参院選の立候補者の大変さは、国民を立候補から遠ざけているとしか思えない。
 供託金が300万円や600万円と高いのが民主主義の理に適わない。貧乏人は選挙に出るなと言っているようなものだ。これでは政治はいつまでも金持ちのものであり続ける。
 会社法が変わって資本金1000万円という条件がなくなり、資本金1円からでも会社を設立できるようになったのは、多くの人にチャンスを与えて日本経済の活性化を図るためであった。政治も同様に立候補のハードルを下げて議会を活性化すべきではないかと思う。少なくとも10万円程度に下げるべきだ。
 そんなことをすると多数の立候補者が乱立して事務手続きが膨大になるという議論は言い訳に過ぎない。日本の官僚は全世帯にマスクを2枚ずつ配るという馬鹿なこともやってのけたくらいだ。立候補者が多くなったら事務手続きを簡略化するか、最近の霞ヶ関が得意としているネットにすればいい。
 そうしないのは、永田町の住人たちが他所者の参入を拒んでいるからである。貧乏人が当選してTシャツとGパンで国会に来られたら困るのだ。自分たちの築いてきた品位が実は無意味だとバラされるのも嫌だが、一番嫌なのは貧乏人が当選したら、その分自分たちがはじき出されることである。これは与党も野党も同じだ。
 日本の政治家の最大の目標は政治家であり続けることである。政策も公約も実はどうでもいいのだ。国会はパフォーマンスの場であり、質問と答弁は国民に向けた巧言令色である。この点についても与党も野党も同じだ。
 国会が下手な田舎芝居であることは多くの国民の知るところだが、国会を変えようとするのは至難の業だ。選挙制度を変えて立候補のハードルを下げるという公約を掲げる候補者を、一気に大量に当選させる以外に策はない。しかし日本の選挙民にそんな大胆な投票行動は望めないし、そもそもそういう立候補者が出現する筈もない。さらに言えば、当選したら公約も何も関係なくなる可能性が非常に高い。政治家予備軍たる官僚たちが、永田町を庶民に明け渡すことを拒むのだ。かくて金持ちのための政治が脈々と続いていく。日本に未来はない。

映画「地獄の花園」

2021年05月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「地獄の花園」を観た。
 バカリズムは、フリップを何枚もめくりながら「トツギーノ」とやっているときが一番面白かった気がする。トツギーノをやめてから以降の話芸も基本は同じで、物事に独特なところから光を当てて笑いを取る。これはバカリズムの世界観に由来するもので、他の人では同じレベルで真似をするのは難しいと思う。
 本作品の脚本も同様の方法で作られている。既存の少年漫画の番長モノそのものの展開をOLにやらせるところがバカリズムの独創的な着想である。OLだから抗争も昼休みとお茶の時間と退勤後に限られているのも愉快だ。いわゆる普通のOLである主人公田中直子を演じた永野芽郁のモノローグが殊の外面白かった。特に声がいい。朝倉あきや奈緒の系統の声で、聞いているだけで癒やされる。
 予告編でそれぞれの番長たちのあらかたの情報は出ているが、眉のない小池栄子は怖いというより、眉がなくても綺麗だった。この人の胸や脚を強調した衣装を期待したが、意外にカッチリとした衣装だった。それでも悪くはなかったのだが。
 森崎ウィンが演じた二枚目社員の伏線を回収したところでエンディングとなるが、これがオチみたいに思われ、そう言えば本作品は長い漫才みたいな作品だなと、改めてバカリズムの才能に納得したのである。

映画「未来へのかたち」

2021年05月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「未来へのかたち」を観た。
 
 なんともしまらない作品であった。橋爪功がいなければ作品そのものが成立しなかったかもしれない。人物造形がステレオタイプ過ぎるのだ。もっと簡単に言うと登場人物に深みがない。人間はもう少し複雑な筈である。
 伊藤淳史は上手な俳優なのに、本作品では直情型の浅はかな人物になってしまった。吉岡秀隆に至っては、この性格俳優をよくも単純で底の浅い人間に仕立て上げたものだと呆れてしまった。これほど稚拙な演出は初めてである。
 俳優陣の頑張りでなんとか物語をもたせた感じである。橋爪功は単なる頑固親父ではないという表情をしていたし、内山理名にはそこはかとない女の優しさがあった。もっとも伸び伸びと演技をしていたのがアルバイト役の飯島寛騎で、この人だけはリアルだった。
 ストーリーはありがちな家族再生物語だが、考え方を変えれば、水戸黄門のドラマのように楽しめる。結末は見えているし、伏線もきっちり回収するところは水戸黄門か、ドクターXみたいだ。エンタテインメントとしては悪くないのだが、総合芸術である映画でやる必要は感じられなかった。

映画「お終活 熟春!人生、百年時代の過ごし方」

2021年05月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「お終活 熟春!人生、百年時代の過ごし方」を観た。
 
 人間はいくつになっても成長する。有名な論語の為政編には、60歳は耳順と言って人の言うことに耳を傾ける歳だと書かれている。それは他人の意見を聞いて自分の世界を豊かに広げることだ。
 しかし現実はそうでもない。脳内伝達物質であるセロトニンの分泌は25歳がピークである。セロトニンは神経の短絡を抑制する働きがある。つまり人生で一番キレにくいのが25歳という訳だ。それ以降は分泌量が減っていく。歳を取るとキレやすくなるのだ。他人の意見を聞くどころではない。頑迷固陋な老人になって、気に食わないことがあると文句ばかり言う。街で弱い立場の店員に怒鳴り散らしているおじいちゃんをたまに見かけるが、見栄えがよろしくないことこの上ない。
 
 本作品で橋爪功が演じた大原真一がまさにそのような困った老人であった。しかしある出来事を機に死や生に対する考え方が変わっていく。来し方を振り返り行く末を案じれば、人生の真実が朧げに浮かび上がる。
 水野勝と剛力彩芽の若者二人が人間が出来ていて、年寄りたちが狭量で自分勝手という対比がいい。わかりやすいから笑える場面では思い切り笑える。数少ない伏線だが、回収の仕方が斬新で、少し驚いてしまった。
 コメディとしてよく完成されている。役者陣の演技もとてもよくて、特に狂言回しの松下由樹の演技が見事である。鑑賞後はとても爽やかな気分だった。それにしても、人間は社会や金融機関やインターネットで沢山の結びつきがあるのだと改めて気づかされた。死んだら遺族がやることが山ほどあることに、思わず溜め息が出た。

映画「茜色に焼かれる」

2021年05月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「茜色に焼かれる」を観た。
 石井裕也監督の作品は「舟を編む」「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」「町田くんの世界」「生きちゃった」を観た。中でも前作「生きちゃった」では、どちらかと言えば表情に乏しい仲野太賀を主役にして、主人公を喜怒哀楽その他の感情が一気に湧き上がるような複雑な状況に追い込み、表情の乏しさを逆に禅問答のような表情に見せるというウルトラCの演出をして驚かせてくれた。その上でラストシーンで主人公の感情を爆発させて、心に渦巻いていたものを一気に吐き出させてみせた。それに応じた仲野太賀の演技も見事だったが、その演技を引き出した石井監督の手腕は大したものである。
 本作品でもどちらかと言えば地味な演技をする尾野真千子を主演にして、主人公の田中良子をとことん追い込んで、女優のポテンシャルを存分に引き出してみせた。それほど本作品での尾野真千子の演技は素晴らしかった。
 最初のシーンの前に、田中良子(たなかりょうこ)は演技が上手いというテロップが出る。そこに本作品の最大の仕掛けがある。以前女優をしていたことがある田中良子は、私生活でもその場その場で求められる行動や発言や表情をする。そのうちにどれが本当なのかわからなくなってくる。
 しかし良子を現実に引き戻してくれる存在がある。息子の純平だ。愛する夫の遺伝子を引き継いだ純平。夫が遺した膨大な本が純平の精神世界を広げてくれている。もはや母には息子が何を考えているのかわからない。息子にも母のことがわからない。だから母と息子の会話には常にちょっとした駆け引きがあり、スリリングだ。もどかしいような、的を得ているような会話。その会話から物語が動き出すこともある。このあたりの脚本が凄い。
 本作品は印象に残るシーンの連続だが、最も印象に残ったシーンは、学校で良子が担任から息子の成績を告げられるシーンである。このときのヒロインの表情は天下一品だ。尾野真千子の女優としての面目躍如である。
 人間は目的もなく、この世界にただ生み出される。どうして生きるのかという問いかけには意味がない。生きているから生きるのだ。そして生きているから死ぬのだ。この不条理を本作品は真っ向から受け止める。永瀬正敏が迫真の演技で演じたピンサロの店長は、哲学的な言葉を普通に話す。それを聞いて良子は高笑いをする。店長が話した真理は重すぎて受け止めきれない。だから笑うしかないのだ。田中良子は演技が上手いという訳である。
 シーンの終わりに毎回使った金額が出るのも面白い。資本主義社会の現実は金だ。あらゆることが金銭で動く。しかし田中良子はそれを拒否する。人生の重さを金銭で計られたくない。夫の人生は3500万円ではないのだ。と思いたいのだが、現実は金を必要とする。そのギャップに本作品の面白さがある。
 144分という長めの作品だが、それでも削ったシーンが山ほどあるのではないかと思わせるほど、よく煮詰めている。石井監督作品の中でも最も秀逸な作品のひとつだと思う。映画館で観ることができてよかった。

映画「いのちの停車場」

2021年05月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「いのちの停車場」を観た。
 吉永小百合さんはいつも通りの可愛らしい演技だが、広瀬すずは一作ごとに上手くなっていて、本作品では吉永さんを凌ぐような場面が度々あった。悲しい過去を抱えつつも元気一杯に振る舞う芯の強い看護婦を好演。松坂桃李が演じた野呂は、金銭的に恵まれた家庭に育つが、医師の国家資格試験に失敗し、失意のうちに医療事務員として大病院に勤める。その大病院は事務長が患者よりも病院を守ることが大事と言い放つ営利主義である。この大病院のスクエアな人々と戦う一方で患者とのふれあいを描くドラマなのかなと思いきや、舞台は一転して石川県の金沢へ。
 成島出監督は「八日目の蝉」「山本五十六」「ソロモンの偽証」「ちょっと今から仕事やめてくる」など好きな作品が多いが、吉永小百合さんを主演に迎えた「ふしぎな岬の物語」はいまひとつピンとこなかった。脚本の不出来もあったが、どうも演出が吉永さんに遠慮しているみたいだった。
 本作品も同じように、吉永さんに遠慮しているみたいな作品で、主人公白石咲和子の不幸はステレオタイプである。もっと悲惨な、陰惨な目に遭わせてもよかった気がする。理不尽な暴力を振るわれるとか、金がなくて食べ物に困るとか、見るに忍びないような大怪我をするとか、主人公を極限状況に追い込む場面があれば、作品に少しは緊張感が出ただろう。
 加えて、主人公に隙がなさすぎる。精神的に安定しすぎているのだ。物語の内容からして咲和子は50歳くらいの設定だと思うが、まだ女としても枯れていないだろうし、自分勝手なシーンもあってよかった。泣いても喚いてもよかっただろう。成島出監督と吉永小百合さんは相性が悪いのかもしれない。
 患者と向き合うシーンも底が浅い。同じ在宅医療を扱った映画「痛くない死に方」の生々しさが印象に残っているだけに、本作品の患者の苦しみ方は弱すぎる。いろいろな患者の在宅ケアのシーンは写真を並べたみたいに平板だった。
 輝いたシーンはふたつ。ひとつは病院の廊下で咲和子が西田敏行演じる仙川院長に抱きついて、泣きながら「先生、わたし・・・」と言うシーンである。この「先生、わたし・・・」の台詞は万感の思いがこもっていて滅法よかった。もうひとつは松坂桃李の野呂がパンイチで海に入るシーンで、野呂の優しさが弾けていた。
 本作品の目論見は、怪我や病気で死んでいく人の群像劇に、主人公が抱える安楽死の問題、病院経営の問題や最新医療と金銭の問題を並行させて盛り上げて行くつもりだったのかもしれない。しかし盛り込みすぎてテーマが散らかったままになってしまった。これでは物語が盛り上がるのは難しい。
 ただ、四季を通じて様々な顔を見せる金沢の町のシーンは殊の外美しく、本作品を観たら金沢に行きたくなることだけは確かである。

芝居「DOORS」

2021年05月22日 | 映画・舞台・コンサート
 三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで芝居「DOORS」を観劇。
 8,000円という高額なチケット料金のせいか、空席が目立った。
 芝居自体はドアを介してパラレルワールドが繋がり、主人公であるこちらの世界の母娘と向こうの世界の母娘に微妙な違いがあって、娘のクラスメート、担任の教師など、それぞれの思いが交錯しながら物語が進んでいくという凝った芝居で、結構面白かった。6名の出演者のうち、主演の奈緒とクラスメート、母親と担任の4人が女性で、残り2人が男性で、そのうちのエキセントリックな科学オタクの引きこもりを「コンノ!」のCM(アイフル)でお馴染みの元漫才師、今野浩喜が演じていて、これがなかなかよかった。
 世田谷パブリックシアターでの公演は5月30日まで。時間があったら是非どうぞ。