三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Fukushima 50」

2020年03月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Fukushima 50」を観た。
 https://www.fukushima50.jp/

 原発の事故現場とそこにいる者たちのシーン、その家族のシーン、そして政府と東電関係者のシーンの3つで構成される映画である。当然ながら事故現場のシーンが中心で、あの日あの現場で何が起きていて何が起きていなかったのか、何が解っていて何が解っていなかったのかを描く。

 佐野史郎が演じた菅直人総理大臣はヒステリックだがエネルギーに満ちていて、理解できないことを理解しようとし、兎に角自分の目で見ようとした。そこには保身の気持ちなど微塵もなかったことを感じさせる。対応を散々批判された菅直人政権だが、あれでよかったのかもしれない。少なくとも「悪夢の民主党政権」が口癖の暗愚の宰相でなくて、本当によかった。
 そもそも福島原子力発電所の事故が発生する5年も前の2006年に、原発の津波対策について共産党の吉井英勝議員が電源喪失の危険性を質問したとき、どの質問に対しても「そうならないように万全を期している」と、木で鼻をくくったような答弁を繰り返したのは、何を隠そう当時の総理大臣安倍晋三である。どうせならこの答弁の様子もどこかに挿入してほしかった。
 その後は民主党の対応を批判し、オリンピック招致では「福島原発はアンダーコントロール」と嘘をつく。おまけに制御不能とわかった原発を、あわよくば外国に売りつけようとする。こんな人間が当時の総理だったら、東電の経営陣にいいようにあしらわれて、もっと酷い状況になっていたことは想像に難くない。

 さて本作品は大作らしく、俳優陣は非常に豪華である。それぞれに印象的な台詞が割り振られ、どの俳優にとっても大切な作品となっただろうと思う。中でも吉岡秀隆が演じた前田の台詞が印象に残る。そして家族のシーンの中では前田の妻役の中村ゆりが非常によかった。この人は女の儚さと切実な表情を併せ持っていて、下り坂を転がりはじめた日本社会を描くのにもってこいの女優さんだ。ペシミスティックな作品が増えるにつれてこの人の出番も増えるだろう。
 佐藤浩市の伊崎当直長、渡辺謙の吉田所長。ともにエンジニアであり、原発のスペシャリストである。前代未聞の事態に対し、これまでの経験と知識を総動員して、死も覚悟の上で事に当たる姿は真摯で、胸に迫る。一方で東電の本社は、原発をなんとか無事に残したいがために対処が遅れてしまう。ときに総理大臣のせいにしながら現場を待たせたり、逆に危険な作業を急がせたりする。最初から現場主導で対応していれば、原発はあれほど放射能を垂れ流さなくて済んだのかもしれないが、いまとなっては何も解らない。
 東日本が存亡の危機にさらされたのは事実であり、被害を食い止めようと死にものぐるいで闘った人々がいたのも確かだ。そして、そもそもこのような事態を生じさせた源流には、原発利権に群がる人々の悪意があったことも紛れもなく事実なのである。もし原発事故の現場でモリカケ事件と同じように保身だけで対応されていたらと思うと背筋が寒くなる。いまごろ東京も人が住めなくなっていたかもしれない。

「戦いすんで日が暮れて」という言葉がある。佐藤愛子の小説のタイトルではなく、明治に作られた軍歌「戦友」の一節だ。もちろん当方は軍歌を礼賛することはないが、軍歌だからといってそれだけで否定する訳でもない。言葉は言葉だ。
 戦場の只中で倒れた戦友に仮の包帯を巻きながら、折から起こる突貫攻撃に立ち上がり、友に別れを告げる。思いもよらず生き残った夕方、友を探しに戻るという歌である。戦場に喜んで行った訳ではない。国民の命を粗末にする政治家によって、御国のためという大義名分を与えられて行かされたのだ。それと同じ構図で、原子力発電のもたらす巨大な利益と、原発の技術はいつでも核兵器開発に繋げられるという醜い野望が福島の事故を生んだ。被害を被るのはいつも弱い立場の人々だ。

 歌といえば、終盤で流れる女性ボーカルの歌が美しい。当方には「ロンドンデリーの歌」にとても似ているように聞こえた。今年も咲いた桜の花は美しいが、福島の事故現場では未だに放射能が溢れ、その処理が次第に手に負えなくなってきている。プルトニウムの半減期は数万年だ。海に流すのか土地を探すのか。かつて「万全を期している」と原発の安全性を主張した安倍晋三は、福島の悲惨な現状に何の関心も示さず、「アンダーコントロール」と言ってニタニタと笑っている。
 戦いすんで日が暮れて。あの現場にいた人々はいま何を思うのだろうか。


映画「一度死んでみた」

2020年03月24日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「一度死んでみた」を観た。
 https://movies.shochiku.co.jp/ichidoshindemita/

 澤本嘉光の脚本がとてもよくできている。妻夫木聡と北川景子が主演した映画「ジャッジ」の脚本もこの人で、同じようによくできていた。本作も伏線の出し方が上手く、最終的にすべての伏線をスマートに回収する。爽快で後味のいい作品だ。
 主演した広瀬すずが素晴らしい。福山雅治主演の映画「ラストレター」のシリアスな少女もよかったが、本作品の主人公のような単細胞の女の子を演じて観客を笑わせることもできる。非常に感心した。日本のコメディエンヌは、誰もが知っている有名女優の中では綾瀬はるかが一番で、「翔んで埼玉」の二階堂ふみが二番手に浮上し、そして本作品によって広瀬すずも頭角を現してきたと思う。歌も上手いから、是非綾瀬はるかを超えてほしい。
 豪華な脇役陣というのも変な言い方だが、妻夫木聡や古田新太、竹中直人、佐藤健など、有名俳優が端役で出演しているのもなんだか楽しい。
 堤真一演じる野畑計社長のすっとぼけたキャラクターがストーリーの核となっていて、映画が現実から乖離しすぎることがない。冥土への案内役を演じたリリー・フランキーの飄々とした演技も秀逸。藤井さんの松田翔太がauのテレビCMにのキャラクターみたいにゆっくりしているところも面白い。
 大人たちが真面目に馬鹿を演じる正統派のコメディで、愉快に鑑賞できるしいくつかの場面は不思議に心に残る。傑作である。


映画「名もなき生涯」

2020年03月20日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「名もなき生涯」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/namonaki-shogai/

 人はきれいごとに弱い。正論に弱いと言ってもいい。だから人を従わせようとする者は、常にきれいごとや正論を口にする。極東の小国に居座る暗愚の宰相がその典型だ。アメリカの言いなりになって武器を買わされることを平和のためと強弁する。そして積極的平和主義などと意味不明のスローガンを口にする。そんな意味不明の言葉でも、普段から自分で物を考える癖がない人は、平和のためと聞いて頷いてしまうかもしれない。最近は新型コロナウイルス対策が評価されているようで、安倍政権の支持率が上がっているらしい。森友疑惑、加計疑惑、桜を見る会疑惑のすべてについて何も説明責任を果たしていないにも関わらず、支持率が上がる理由がわからない。日本は不思議の国だ。
 本作品に登場する村人たちも、ご多分に漏れずナチの言い分を正しいと思ってしまう。家族を守る、祖国を守るなどと言われると、それが正しいことのように勘違いするのだ。ドイツのヒトラーがオーストリアの自分たちを守ってくれると思わせるほど、ナチのプロパガンダが巧みだったということもあるだろう。

 山間の農村らしく斜面の描写が沢山あり、全体に暗めの映像が続く。明るい太陽の下で見渡せば、おそらく美しい光景なのだと思うが、映画はあえて全体を暗く映し出す。暗い畑に対して、その向こうにそびえる高い山は明るく、神が主人公たちを見下ろし、見守ってくれているようだ。
 主人公フランツは平凡な農夫で、妻と3人の娘たちとシンプルに幸せに暮らしている。彼には自分で物を考えることができるという、ある意味で不幸な才能があった。他の人々にはないこの才能のおかげで、どうしてもナチに賛成することができない。加えてフランツには自分の尊厳を守る勇気があった。
 村人たちは自分で物を考えるフランツが気に食わない。村長をはじめとする、自分でものを考えない人々には、フランツが理解できない。そもそも他人の人格を大事にするフランツは、自分からは殆ど何も主張しないのだ。しかし抵抗はする。ガンジーがしたのと同じように、自分の精神の自由だけはどこまでも譲らない。同調圧力にも屈しない。そんなフランツの自由な精神もまた、村人たちには気に食わない。そしてフランツとその家族に不利益を齎そうとする。
 我々はどうか。フランツを非難し、その妻に冷たくした村人たちと同じレベルではないだろうか。自分で物を考える癖がない人々がナチを支持し、安倍政権を支持する。我々が明るい太陽の下で見ている現実は、本当は本作品と同じく暗い光景なのかもしれない。

 妻と3人の娘を大切にしながら淡々と生きるフランツに、ついに召集令状が届けられる。そして物語が進む。
 降りかかる多くの災いに耐えて信念を貫く夫と、その夫を信じ、無事を祈る妻の毅然とした生き方には頭が下がる。夫の勇気を尊敬してあらゆることに耐える妻。自分を責めた女性が困窮しているのを見て野菜を分け与える妻。この夫婦の気高い精神性にとても感動した。人間の尊厳は勇気に支えられているのだと改めて思う。


映画「Apocalypse Now: Final Cut」(邦題「地獄の黙示録 ファイナル・カット」)

2020年03月17日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Apocalypse Now: Final Cut」(邦題「地獄の黙示録 ファイナル・カット」)を観た。
 https://www.kadokawa-pictures.jp/official/anfc/theater.shtml

 キリスト教徒ではないが、新約聖書の「ヨハネ黙示録」は読んだことがある。数字がたくさん出てくる文章で、中でも七が顕著に多い。七つの教会、七つの霊、七つの金の燭台、七つの星、七つの灯、七つの封印、七つの角、七つの目、七つのラッパ、七つの御使い、七つの雷、七つの頭、七つの冠、七つの災い、七つの鉢、七つの山、七人の王といった具合だ。人間を指す数字は六百六十六である。

「ワルキューレの騎行」を響き渡らせながらのヘリコプターの編隊の有名なシーンは、映画館の大スクリーンと大音響で鑑賞すると凄い迫力だ。空挺部隊のキルゴア大佐の狂気がヘリコプターのローターによる熱気のうねりとともに画面に広がる。アメリカ軍のずっと向こうにいるジョン・F・ケネディの狂気が透けて見えるようだ。ケネディの最期となったダラスのパレードにも「ワルキューレの騎行」が似合う。
 ウィラード大尉を演じたマーティン・シーンは終始無表情の演技で、凄腕の殺し屋のリアルな素顔を上手に表現した。この男が他人の死に眉ひとつ動かさず、感情を一切顔に出さない冷酷無比な暗殺者であることはすぐに分かる。そしてその動機は冒頭でうまく説明される。つまり戦場という極限状況に慣れすぎて、平凡な日常生活では生きている実感が沸かなくなってしまったのだ。同時期に公開された映画「ディア・ハンター」でロシアンルーレットを繰り返す男たちにそっくりである。

 20年に及んだベトナム戦争は、終盤になるとカオスの様相を呈してきた。南北のベトナムそれぞれに東西の陣営が応援に付き、冷戦の代理戦争の意味合いも加わって、正義の定義や概念さえ疑わしくなってくる。そして無意味に犠牲者を出し続ける戦争に対する嫌悪が世界に広まり、アメリカ本国では反戦の声が大きくなる。こうなると戦争の英雄はもはや誕生することがない。そしてサーフィンをするために島を焼き尽くすような意味不明の作戦が実行される。
 残念ながら「ヨハネ黙示録」にあるような七という数字に関するメタファーのようなものは作品の中では発見できなかったが、戦争が地獄であり、その目撃者は地獄を黙示された者であるという意味合いは受け取れる気がした。本作品自体がカオスのような作品なので、観客はいつまでもこの作品を消化することができない。

「ヨハネ黙示録」の最終章には次の言葉がある。

見よ、私はすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれの仕業に応じて報いよう。私はアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門を通って都に入るために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。

 まさにこの言葉を映像化したようなシーンが多く登場する作品であり、ダンテの「神曲」や源信の「往生要集」を彷彿させる。イデオロギーやヒューマニズムよりも人間の根源的な不幸を壮大なスケールで象徴的に描き出す、傑作であると信じたい作品だ。


映画「JUDY」(邦題「ジュディ 虹の彼方に」)

2020年03月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「JUDY」(邦題「ジュディ 虹の彼方に」)を観た。
 https://gaga.ne.jp/judy/

 ラストシーンに息を呑むほどの感動がある。それだけでこの映画を観てよかったと思わせる何かがあった。レニー・ゼルウィガーは天性の歌の巧さに加え、猛特訓のおかげで晩年のジュディー・ガーランドの掠れた声よりも遥かに艶のある歌声を披露していた。

 子供の頃から活躍して盛りのうちに夭折した歌姫というと、どうしても美空ひばりを連想してしまう。美空ひばりが生涯を通じて裕福に過ごしたのに比べ、本作品の主人公ジュディ・ガーランドはアメリカのドライで非情なショービジネスの世界で不遇な一生を送った。
 ひばりもジュディも最初は大人によってプロデュースされたスターだ。厳しい束縛と強要の生活は精神性を攻撃し、大人になっても決して治癒することのない深い傷を齎したに違いない。
 普通の人は泣きながら歌を歌うことは出来ない。しかし鍛えられた歌手は泣きながらでも歌える。美空ひばりが「悲しい酒」を歌うたびに泣いていたのは有名な話である。ジュディ・ガーランドもまた、子供の頃から鍛えられたその喉で、泣いていても酒を飲んでいても、どんな状態でも歌える本物の歌手だ。
 自作であれ他人の作詞であれ、言葉である以上、歌はメッセージ性を持っている。メッセージは歌っている本人に最もよく伝わるもので、人それぞれに、歌うとどうしても涙ぐんでしまう歌があるものだ。そしてその歌は元はといえば、ひとりの歌手が世に広めた歌なのだ。
 多くの歌手にとって歌は生きる糧であり手段であり、人生そのものである。最初は人からプロデュースされていても、歌い続けていくうちにその歌手なりの歌を探し当てていく。公に歌うことが世の中にどれほどの影響を与えるかを自覚している歌手は幸せだ。歌はその歌手をストイックに、敬虔にしてくれる。
 歌に正解はない。自分の歌が正しいのか、世の中に受け入れられるのか、歌手は常に不安に駆られる。ある者は酒に溺れ、ある者はクスリに手を出す。それでも彼らの天性の美声は人を感動させずにいない。
 金を取って人前で歌うのは、並大抵の神経ではできないことに違いない。華やかだが不安で不幸な歌手の人生は、人間の欲望と弱さを曝け出すようだ。ジュディー・ガーランドの歌手としての人生をオスカー女優レニー・ゼルウィガーは存分に演じきった。決して幸福とは言えなかったジュディの人生だが、不世出の歌手の不器用な生き方に、そこはかとない感動を覚えた。いい作品だと思う。

 ところで中森明菜は元気かな。


映画「仮面病棟」

2020年03月11日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「仮面病棟」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/kamen-byoto.jp/

 お金がかかっていないだろうなというのが第一印象だったが、エンタテインメント作品としてはそれなりに面白く鑑賞できた。
 坂口健太郎はやっぱり上手な役者である。高嶋政伸との掛け合いに微妙な緊迫感があって飽きずに楽しめる。永野芽郁は素顔が地味なことで選ばれたのだろうか。元々がホンワカした雰囲気の女優さんだから、本作品の川崎の役には若干の違和感を覚えた。江口のりこをはじめとした脇役陣はみんなそれなりに上手いし、ライティングやカメラワークもとても工夫されていて、見るからに怪しい病院の更に怪しい雰囲気をよく醸し出している。
 ただドラマがこじんまりとしていて、お金を払って映画館の大スクリーンで観るほどではない。家庭のテレビで十分だ。面白いことは面白いが、よほど暇なら観てみれば、という程度の作品である。


映画「子どもたちをよろしく」

2020年03月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「子どもたちをよろしく」を観た。
 http://kodomoyoroshiku.com/

 大変に重い映画である。救いようのない現実を突きつけられる。覚悟して観たほうがいい。

 ふたつの家庭が描かれる。それぞれに問題を抱えた家庭だ。問題の本質を簡単に言ってしまえば、育児能力の欠如である。欠如のありようは人それぞれであり、子を育てる経済力のない親、愛情が薄く子供に無関心な親、自己中心的で依存心が強い親など、本来は子供を持つべきではない人が子供を生む。そして苦しむ。
 ときとしてそういう親たちは「お前さえいなければ」や「お前なんか生まなければよかった」などの暴言を吐く。言われた子供は存在そのものを否定され、深く傷ついてしまう。傷ついた子供はどうすればいいのか。心根が優しく生まれついた子供は他人を傷つけられないから、自分自身を傷つけることになる。自傷行為を繰り返し、やがて自殺に至る。
 それ以外の子供たちは他人や動物を傷つけてウサを晴らす。自分を否定している人間は自分のための努力をしないから、世の中を生きていくためのスキルを身に着けられない。頼るものは暴力だけという原始的な生き方になる。暴力と威嚇で世の中を生きていく人間になったりする。そして自分の子供時代を顧みることなく、子供を作る。繰り返しである。

 子供たちを救えと言うのは簡単だ。一体誰から救うのか? 育児能力の欠如した親からか? しかしその親たちも、かつては子供だった。親たち自身が救われないから子供たちも救われない。救われない子供たちが救われない親となり、救われない子供たちを生産する。負の連鎖はどこまでも続くのだ。それが人類の歴史であった。
 ノーベル賞を受賞したマララさんは教育を訴えたが、教育程度が高い筈の先進国でも子供たちはいじめられ、虐待されている。マララさんが理想とする教育と現在の世界の教育は別物なのかもしれないが、マララさんの理想とする教育が行なわれれば子供たちが救われるのかというと、それは多分違うだろう。

 人類は共同体の価値観に弱い。そして生き延びるためなら信念も信条も投げ出してしまう。パンのためなら自由も権利も放り出す。共同体の価値観を決めるのはパンを施す人々であり、パンをもらう人々はその価値観に無条件に従わざるを得ない。そもそもそういった共同体の構造自体が、人間の存在を救いようのないものにしているのだ。
「子どもたちをよろしく」というタイトルは、共同体の我々ひとりひとりに向けられたものだ。個人の価値観が共同体のパラダイムに屈して、職業に貴賎の差をつけ、貧しい人を軽んずる社会になっていることに、根本的な原因がある。貧しい人が貧しいままに死んでいくことを「可哀想」と思うことが、既に共同体のパラダイムに精神を侵されている証左である。襤褸を纏った乞食も錦を着た富豪も、本来的に同じ人間として対等であり、等しく尊重されなければならない筈だ。
 ところが我々は乞食を足蹴にし、富豪に阿る。そして子供たちもそれに倣い、他人に優劣をつけていじめる。子供たちのいじめの精神は共同体の差別的なパラダイムに担保されているのだ。大人と同じことをしているだけなのである。本作品に登場しているような不幸な子供たちを量産しているのは、共同体の歪んだパラダイムに蹂躙され、結果としてそれを支えている我々自身にほかならない。


映画「The call of the wild」(邦題「野性の呼び声」)

2020年03月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The call of the wild」(邦題「野性の呼び声」)を観た。
 https://www.disney.co.jp/movie/yasei.html

 古武道をやっている知人から聞いた話だが、昔の武人は現代の武道家とは比べものにならない強さだったらしい。現代の剣道の日本チャンピオンクラスは町場の道場にゴロゴロいて、師範代ともなると超人的な強さだったとのことである。師範はと言えばもはや人間業とは思えない動きをしたそうだ。
 話半分としても、昔の武士は日常生活からして張り詰めていたようで「左様しからば」の話し方などを鑑みれば、いつ何時も他人に気を許さず、五感を研ぎ澄ませた油断のない生活ぶりであったことが窺える。そういう人たちは微かな音や光や匂いなどで危険を本能的に察知できたらしい。
 人から聞いた話で恐縮ではあるが、そういった話を踏まえると、情報過多で五感が鈍っている現代人は、昔の人のように直感的に状況を見抜く能力を失ってしまった気がする。野生は永遠に失われたのだ。人類は元には戻らない。いずれ情報の洪水に溺れて絶滅することになるのだろう。
 しかし動物はまだ直感を失なっていないと思う。人間に飼われているペットでも、ひとたび野に放たれれば、生き延びるために野生の本能を取り戻すだろう。そこが人間とは違う筈だ。

 本作品の主人公バックは、ジャック・ロンドンの小説のままなら、セントバーナードの混じった雑種で、温和な性格である。しかし体格が大きくて膂力に優れているから、本気を出せば大抵の犬は敵わない。バックがその本領を発揮するいくつかの場面はとてもワクワクする。そのシーンだけでも本作品を観る価値は十分にあると思う。
 犬ぞりの御者を演じたオマール・シーが凄くいい。相手の人格を重んじる、男の優しさがある。出会いと別れ。さよならだけが人生だ。
 ハリソン・フォードはアウトドアが似合う俳優だ。インディアナ・ジョーンズのシリーズやモスキート・コーストなど、印象的な作品が沢山ある。
本作品で披露した裸の上半身は喜寿にもかかわらず筋肉が程よくついて、ストイックな生活ぶりを窺わせる。ベテランのアウトドア生活者という今回の役柄はまさにぴったりで、ソーントン氏は土と森と風とともに生き、自らの五感によって行動する。そして隣り合わせの死を常に意識し続ける。ある意味で達人である。
 人類は野生で生きるには長寿になりすぎ、文明化されすぎてしまったが、余計な情報よりも自分の感性を信じて生きることが出来れば、ソーントン氏のような達人になれるかもしれない。


映画「Just Mercy」(邦題「黒い司法 0%からの奇跡」)

2020年03月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Just Mercy」(邦題「黒い司法 0%からの奇跡」)を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/kuroi-shiho/index.html

 いい法定映画には必ずひとつかふたつ、弁護人による胸のすく素晴らしい台詞がある。弁護士の人となりが窺い知れる台詞だ。本作品にはそういう台詞がいくつもあった。

 アメリカも日本と同じで、司法が行政権力から完全に独立することは難しい。特に最高裁判所の判事は大統領が任命することになっているから、どうしても司法が行政に忖度せざるを得ないのだ。日本ではもっと酷い。地方裁判所の骨のある裁判官が政権に反する判決を下しても、高裁や最高裁で必ず政権寄りの判決になる。その行政を仕切っているのが頭の悪いボクちゃんだから救いようがない。
 なにせ「私は立法府の長」で「森羅万象すべて担当している」とのたまう総理大臣である。三権分立も何も解っていないのは明らかだ。検察を牛耳って権力を集中し、牛に鼻輪を掛けるようにして日本を好きなように引きずり回そうとしている。中井貴一主演の映画「記憶にございません」の総理大臣のように、小学校の社会科の先生から学び直したらいいと思う。冗談ではなく本気でそう思う。

 本作品では「それがアラバマだ」という台詞が何度も発せられる。もちろん否定的な意味合いである。ムラ社会、古臭い価値観、既得権益、権力者の横暴など、田舎町では必要を遥かに超えて他人に干渉し、束縛し、果ては排除したり弾圧したり、人権蹂躙も極まれりである。それがアラバマなのだ。
 アラバマ州はアメリカの深南部と呼ばれる場所にある。朝日新聞の編集委員だった本多勝一の「アメリカ合州国」を読んだ人は知っていると思うが、南北戦争が終わった後も、第二次大戦の後も、アラバマ州を始めとする深南部では有色人種、特に黒人に対する差別は根強く残り続けている。有色人種である本多勝一が乗った自動車も銃撃を浴びている。1955年のアラバマ州モンゴメリー市のバスで起きた逮捕劇をきっかけに、市営バスのボイコット運動が起きたのは有名な話で、キング牧師が中心となって活躍したことはよく知られている。

 憎悪というものは歳を経ても薄れず、脈々と受け継がれる。石原慎太郎の「三国人」発言は2000年のことだ。敗戦から55年も経っていた。石原のような差別的な精神性は何十年立っても色褪せずに残っていく。1955年の時点で黒人差別が酷かったfことを考えれば、その65年後のいまでも黒人差別が色濃く残っているのは間違いない。ジョージ・ブッシュ・ジュニアはアメリカ南部のテキサス州育ちだ。

 黒人が南部に行って弁護士をして社会的な弱者の味方をすればどんな目に遭うかは、最初から明らかだ。もちろん主人公ブライアン・スティーブンソン弁護士も解っている。それでもひとりで南部に向かう。その理由はストーリーの中で明らかになる。この弁護士の勇気と行動力には本当に頭が下がる。実在の人物として、現代史の教科書に載せてもいいくらいの出来た人間である。
 殆ど出ずっぱりのマイケル・B・ジョーダンの表情がとてもいい。権力をカサにきた小役人の横暴にも黙って耐える。屈辱を晴らす方法は暴力ではないと知っているのだ。彼の武器は唯一、法廷闘争である。だからそのために全精力を傾ける。人権は市民革命によって命がけで確立された概念だ。それを守るのもまた、命がけなのである。
 絶望的な展開もあり、胸のすく展開もある。死刑囚は必ずしも全員が冤罪ではない。登場人物には酷い人間もいるし、哲学者のような考え深い人間もいる。冤罪の囚人が善人とは限らない。そのあたりはリアルに表現されている。
 起訴をする警察と検察は行政である。司法は行政と被告とを同等に見なければならないのだが、裁くのが人間である以上、平等はあり得ない。判決は必ず偏っていると悟ることが必要だ。

 ナチスがユダヤ人を排斥したのはその富を奪うためと、民衆の怒りの標的を提供するためだ。民衆の怒りとは結局、損得勘定に由来する。難民問題も突き詰めて言えば、自分たちの仕事が奪われるとか、文化の違いへの対応が面倒くさいとか、要するに既存の住民による損得勘定である。
 アメリカでは奴隷として連れてきたはずの黒人が権利を主張しはじめたことで、これまで一方的に享受してきた自分たちの利益が損なわれたと感じた。その感情が怒りとなって黒人差別に直結する。

 合衆国大統領は就任の際に聖書に手を置いて宣誓する。その聖書には「人を裁くな。自分が裁かれないためである」と書かれている。敷衍すれば、人を差別するな、自分が差別されないためである、そして人を許せ、自分が許されるためである、となる。つまり寛容が説かれているのが聖書なのである。
 損得勘定だけで動く大統領が人々の支持を得ているアメリカは、もはや寛容を放棄して損得勘定だけの怒りの国になってしまっている。いっそのことスティーブンソン弁護士が大統領になれば、どれほどいい国になるかと思ってしまった。


映画「レ・ミゼラブル」

2020年03月03日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「レ・ミゼラブル」を観た。
 http://lesmiserables-movie.com/info/

「シェルブールの雨傘」デジタルリマスター版を観たばかりだからだと思うが、主人公の警察官ステファンがシェルブールから来たというだけで、不思議な親近感があった。

 移民を受け入れているフランスでは、人種と宗教の入り混じった難民問題があり、時に事件や事故に発展している。加えて世界的な傾向である経済的な格差もあり、自由・平等・友愛を表わす三色旗を戴いて他人に寛容なはずのフランスが、ファシズムの国みたいに不寛容になりつつあるようだ。最近の新型コロナウイルスの流行では中国人が経営する日本レストランの壁に酷い落書きをされているのが報道された。大変に懸念される事態である。
 フランスでは哲学が必須科目となるのは高校生からだが、小学校や中学校でも自分で物事を考えさせるのが授業の基本的なやり方となっている。答えの出ない問題についても考えさせる。哲学の国フランスならではである。
 自分で考えるのは持続力と忍耐力、要は精神的な強さが必要だ。フランスは教育のおかげで精神的に強い人を育てることが出来ていた筈なのだが、今世紀に入ってからのIT技術の向上が裏目に出てしまい、自分で考えることが出来ない人を増やしてしまった気がする。ネットで調べれば簡単に解るのであれば、何も苦労して自分で考えることもない。我慢強くひとつのテーマを考え続けることで精神力が鍛えられて、他人に寛容な人間になれるのだが、人によってはIT技術がそれを阻害しているという訳だ。
 IT技術が悪いと言っているのではない。テレビが世間に広まったときは「一億総白痴化」などと騒ぐ人もいたが、テレビのせいで日本人の全員が劣化したとも思えない。一部の人だけだ。同様にIT技術のせいで人類すべてが劣化することもないだろう。ただ、一部の人々は自分で考えることを放棄しインターネットの情報を鵜呑みにする傾向がある。
 以前には「宗教は麻薬」という言い方もあった。それも同じことだ。宗教の教義を無条件に盲目的に守るだけで救われるなら、そんな簡単なことはない。信仰は悩みを放棄することに等しい。最後の最後まで自分で悩む人間だけが公平で公正な見方ができる。

 ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」で主人公ジャン・バルジャンがマドレーヌと名乗って市長を務めたモントルイユの、更に郊外にあるモンフェルメイユが本作品の舞台である。ファンティーヌが娘コゼットを悪党のテナルディエ夫婦に預けた街だ。ジャン・バルジャンはミリエル司教の寛容によって救われる。自らも、市長となった後にファンテーヌを救い、テナルディエ夫婦から酷い虐待を受けていたコゼットを救い出す。
 本作品の登場人物のイスラム教徒が言い放つ「怒りはいつまでも残る」という言葉に象徴されるように現代のモンフェルメイユは怒りの巣窟である。人間を肌の色や宗教、出自などで差別する人々が、互いに憎み合い、いまにも暴動へと発展しかねないほど沸騰している。その危ういバランスの中で権力を振りかざすのが先任の警察官たちだ。最後は俺が法律だとまで叫ぶ。
 ステファンは新任の一日目にその光景を目にして、彼らの人間性のレベルの低さにげんなりしつつも、警察官としての職務を果たそうとする。しかし住民たちの怒りはもはや収まりがつかない温度に達している。
 怒りが充満した作品で、観ているこちらが息が詰まる。哲学の国らしい寛容さはもはや影も形もない。パリからそう遠くないモンフェルメイユがこのような状態であるなら、パリも推して知るべしだ。教育の低下は過激な暴力に直結する。
 映画の冒頭でサッカーのフランス代表が優勝したシーンが映し出され、熱狂し換気する人々が映し出される。自国のチームを応援するのはナショナリズムである。ナショナリズムは往々にして熱狂と歓喜を生むが、それは同時に他国への憎悪、他の共同体への憎悪、他人への憎悪を生む。サッカーでフランスチームを応援した人々が、今度は互いに憎しみ合うのは当然だ。同じ精神性なのである。
 暴力の連鎖は憎しみの連鎖であり、怒りの継続である。どこかで誰かが勇気を出して非暴力の姿勢を明らかにし、寛容を訴えなければ、争いは収まらない。しかしこの状況でそんなことができる人間が現れる可能性はかなり低い。モンフェルメイユに平和が訪れるのはかなり先になりそうだ。
 ラストシーンの評価は分かれるだろう。唐突なラストに見えるかもしれないが、これでいいと思う。それ以上描くことは何もない。だからここで終わる。説明過剰なハリウッドのB級作品に慣れた方々には不満かもしれないが、フランス映画らしいラストだと言えるだろう。現代社会の問題の本質を浮き彫りにした傑作である。