三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ガンズ・アキンボ」

2021年02月28日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ガンズ・アキンボ」を観た。
 かなり面白かった。「ハリー・ポッター」は説教臭くて好きではなかったが、大人になってからのダニエル・ラドクリフは微妙な三枚目路線を演じていて、なかなかの味を出している。エマ・ワトソンが美人路線まっしぐらなのと好対照だ。
 本作品では弱気のくせに虚勢を張るオタクの典型を好演。主人公マイルズは迂闊なネット書き込みのせいで極限状況に巻き込まれるが、僥倖の連続でなんとか生き延びる。そのうちに少しずつ勇気が湧いてきてエンディングに向かう。ストーリーは王道で既視感があるが、ストーリーよりも演出の思い切りのよさや笑えるディテールなどを楽しむ分にはよくできた作品である。残弾がデジタル表示されるところがゲームらしくていい。
 悪役はエキセントリックな小物であり、マイルズは強大な権力を相手にしなくて済むが、両手にボルトで留められた大型の自動拳銃は結構な迫力で、街では隠すしかないし、指が使えないからやたらに不便である。撃つときはボルトが食い込んでとても痛そうだ。その辺の演技は堂に入ったもので、馬鹿馬鹿しさを安心して笑える。
 気持ちよく殺しまくるシーンも多くて、日頃の鬱憤が溜まっている人には丁度いいかもしれない。B級ながらアイデアが秀逸で、意外と印象に残る良作である。

映画「ベイビーティース」

2021年02月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ベイビーティース」を観た。
 情緒不安定というか、登場人物の感情の起伏が激しすぎて、ついていけないシーンが多々あった。主人公のミラは喜んだと思ったら怒り出す、泣き出したと思ったらまた怒り出す。母親のアナも同じように怒ったり笑ったり忙しい。
 客観的に見ればミラは我儘娘だし、アナはジャンキー、モーゼスはチンピラである。父親で精神科医のヘンリーだけが落ち着いた精神の持ち主かと言えば、実は色情狂だ。どの登場人物も感情移入するには無理がある。
 ミラは体の病気よりも前に精神的に病んでいると思う。学校のトイレのシーンがその証だ。友人からカツラを一瞬だけ貸してほしいと言われて貸すが、貸している間は病気で毛が抜けてしまった頭部を恥じるかのように俯いたままだ。カツラなしでは外に出られないのは、病気と本当に向き合えていない心の弱さを示している。粗暴な言動は弱い心を隠すための鎧だ。ミラが病気と向き合うのは帰宅してカツラを外したときだけである。カツラを外した自分を笑ったり否定しなかったモーゼスに愛情を感じてしまうのもやむを得ない。
 アナは自分の想定する幸せをミラに押し付ける。バイオリンを習い学校に毎日行って、常識的なボーイフレンドとプロム(プロムって何だ?)に参加するのが娘の幸せだと思っている。現在の医学はミラの病気を救えず、対症療法としての鎮痛薬モルヒネを投与するしかない。いつ訪れるかわからない娘の死まで、アナは無理に微笑もうとする。
 モーゼスの狙いはミラが処方されるモルヒネである。モルヒネは健康な人が服用すれば脳内快楽物質を分泌させる。要するに麻薬である。モーゼスはそれを売って生活する。つまりそれがモーゼスの仕事だ。自分になつくミラに愛おしさを感じるが、あくまでも通りすがりの男としての姿勢を崩さない。いつ死んでもいいニヒルな生き方だ。死に対する向き合い方がミラに似ている。それがミラがモーゼスに惹かれる理由のひとつである。
 本作品はタイトル(原題も「Babyteeth」)からして、ミラをベイビーティースに喩えて人生の儚さを表現したかったのかもしれないが、儚い人生にしてはうるさすぎると思った。乳歯はあとから生えてきた永久歯に押されるように抜けるが、それならミラの下に健常者の弟か妹を登場させて、病気の恐ろしさと健康な人には病気の人の感覚は理解できないという人間の溝を表現すれば、もっと立体的な作品になったと思う。ちょっと残念だ。

映画「痛くない死に方」

2021年02月25日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「痛くない死に方」を観た。
 https://itakunaishinikata.com/

 本作品は東京23区内ではシネスイッチ銀座だけの上映である。女優の高橋惠子さん(旧:関根恵子)の夫でもある大御所の高橋伴明監督脚本作品としては淋しい限りだ。この劇場はいつも年配の観客が多いが、本作品はタイトルの効果もあってなのか、いつにもまして年配の客ばかりである。最近は年配というのがいくつを指すのかわからなくなるほど、還暦を過ぎたくらいでは全然若い人が多い。当方の両隣もおばあちゃんだったが、割と下品なジョークのシーンで大笑いしていた。まだまだ元気である。
 本作品は終末医療を扱った作品である。痛くない自殺の仕方を紹介する映画ではないので、そのあたりを期待した方には残念だ。そもそも自殺する人は痛いとか痛くないとか考える前に自殺する訳で、痛くない自殺の仕方を考える人は自殺が目の前に迫っていない人である。ただ、そういう感じで将来自殺しようかなと考えている人は割と沢山いると思う。いわゆる自殺予備軍である。日本では毎日100人が自殺しているが、予備軍はその100倍はいると、当方は睨んでいる。それほどいまの日本には未来がないというか、不安しかない。
 さて作品であるが、主人公河田医師役の柄本佑は、同じ医師の役で主演した「心の傷を癒やすということ劇場版」では心に揺らぎのない、人格的に出来上がった精神科医を演じたが、本作品では悩み続けている若手の在宅医を演じた。精神科医の役は安心して観ていられたが、今回は主人公と一緒になって悩むことが出来て、よかったと思う。
 前半はきつかった。72歳の俳優下元史朗さんが演じたステージ4の肺癌患者井上敏夫さんを担当した河田医師は、病院のカルテを見て末期の肺癌だから痛みのケアをすればいいと安易に考えてしまう。しかし井上さんは河田が考えていたのとは違った苦しみ方をする。在宅医療で苦しんだのは患者の娘夫婦だが、苦しみ方が肺癌の苦しみ方と違っていることは分からない。対処ができるのは医師だけだったが、河田はマニュアル通りの対応をするだけで、個別の患者としての井上さんを見ようとしなかった。坂井真紀が熱演した娘の智美は、苦しみ抜いて死んでいった父の姿にやり切れない思いを禁じえない。何もしてくれなかった在宅医の河田を恨むよりも、河田を選んだ自分を悔やむ。そう告げられた河田は言葉を失う。
 医師は感謝もされるが恨まれもする。因果な商売だ。しかし今回の河田は、恨まれるより前に、医師としての役割自体を否定されたのだ。父の死と終末医療にあなたは何の役にも立たなかった。河田はそのように突きつけられた思いをする。加えて妻からの最後通牒。生きるとは何か、人と人との繋がりとは何なのか。医師としても人間としても岐路に立たされた河田である。
 後半は在宅医として先輩の長野医師に相談するところからはじまる。奥田瑛二が演じた長野医師は、大病院がいかに検査依存、カルテ依存かを指摘し、在宅医はそういう数値を見るのでなく、患者本人を見る、患者の人生を見るのだという。柄本佑の嫁(安藤サクラ)の父が奥田瑛二だから義父と娘婿とのやり取りは、互いに俳優としての緊張感に満ちているように見えて、微笑ましいシーンだった。長野医師の、溺れて死ぬ死に方と乾いて死ぬ死に方があるという考え方ははじめて聞いた。含蓄のある言い方だと思う。
 終盤は医師としての河田の成長と、見本のような患者本田彰の生きざまと死にざまが上手に描かれて、人生が悲劇でもあり喜劇でもあるとしみじみ実感する。高橋伴明監督の肩の力の抜けた演出がリアリティを醸し出す。人生の匂いのようなものが感じられる作品である。
 それにしても大谷直子さんは歳を取っても本当に綺麗だ。鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」のときも妖艶な美しさを存分に見せたが、本作品では年老いた夫を心から愛する妻がふと見せる表情の、ゾワッとするような美しさを見せていた。本当の美人とはこういう人のことを言うのだろう。
 本田彰を演じた宇崎竜童は最近は役者として輝いていて、小栗旬と星野源が共演した「罪の声」でも重要な役どころを存在感たっぷりに演じていた。本作品では終末医療を受ける患者の死の恐怖とそれを自分で笑い飛ばしてみせる懐の深い人物を好演。真面目な酒を飲み、川柳で人生を笑い飛ばし、誠実な死を迎える。まさに「痛くない死に方」である。何度も観たくなる傑作だと思う。

映画「Journey to the Safest Place on Earth」(邦題「地球で最も安全な場所を探して」)

2021年02月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Journey to the Safest Place on Earth」(邦題「地球で最も安全な場所を探して」)を観た。
 驚いた。原子力発電の高レベル放射性廃棄物の捨て場所を探しているのは日本だけだと思っていたが、実は世界各国が探しているのだ。そして更に驚くのは、多くの国が探しているのに、捨てる場所が一箇所も見つかっていないということである。
 捨てる場所の条件としては、地震がない、地下水がない、地盤が粘土質で安定しているなどがある。国際原子力機関 IAEA が決めた基準だ。地球上にはこれらの条件をすべて満たす場所が殆どない。その上、確認のためには何十年もかかる数多くのボーリング調査が必要だ。唯一条件を満たすと思われたオーストラリアの南は、オーストラリアの強い反発で断念。最終廃棄場所が決まらない状態で、世界31ヶ国443基の原発が運転され、日々刻々と放射性廃棄物が生み出されている。
 もうひとつ驚いたのは、世界各地に日本と同じような原子力ムラがあるということだ。原子力ムラというのは、原子力発電をリスクが多いと知りつつも推進してきた政治家、電力会社、通産省及び経済産業省の役人、それを後押しする御用学者の集まりのことで、いずれの立場の人々も原発で利益を得ている。同じ図式が各原発運転国に存在していて、原子力ムラの人たちはあくまでも原発を継続しようとしている。
 ドイツではメルケル政権が福島第一原発事故を受けて脱原発に踏み切り、すべての原発を2022年までに閉鎖することを決めたが、既に生み出されている核廃棄物の処理には依然として頭を悩ませている。未曾有の大事故を発生させた当の日本はどうかというと、原子力ムラの力が強く、現在6基が運転している。つまり高レベル放射性廃棄物を生み出し続けている。
 原子力発電は、登場したときから原子爆弾と同じような危険性があることは分かっていた。しかし人類はこれを制御できると考えた。鉄腕アトムなどというキャラクターも生まれている。チェルノブイリや福島第一原発の事故以降の世界の人々の発電についての考え方は、反原発や脱原発に向かおうとする動きと、依然として原発を継続しようとする動きに二分された。継続しようとする人々は、増え続ける核のゴミの捨て場所について、未来に負の遺産を遺そうとしている訳だ。
 日本の原発の初期に原発を4基も誘致した敦賀市の市長だった高木孝一が言った言葉をご存知だろうか。原発を誘致すれば国からの交付金と電力会社からの協力金がたんまり貰えることを踏まえて、次のように言ったのである。
「50年後、100年後に生まれる子どもがみんな片輪になるかわからないが、今の段階ではやったほうがよいと思う」
 現在の原発推進派の人々も、この無責任を受け継いでいる。

映画「シャドー・ディール 武器ビジネスの闇」

2021年02月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シャドー・ディール 武器ビジネスの闇」を観た。
 世界の戦争が終わらないのは、戦争を続けさせたい勢力がいて、それは主にアメリカの軍需産業だと思っていたし、戦争に関する映画のレビューで何度もそう書いた。本作品はその考えが間違っていなかったことを証明してくれた気がする。
 アメリカの軍需産業の市場規模は年間約70兆円である。米軍だけで購入するには多すぎる。武器商人は死の商人だ。紛争があればどこにでも売る。他人の死を商売にできるほど、地球の人口が多いということなのかもしれない。例えばアフガニスタンでは、1996年の人口が1840万人だったのに、同年から続くタリバンの支配の戦乱のもとで人口は右肩上がりに増加の一途をたどり、現在では3800万人を超えている。
 日本では自動小銃などを携えた男たちが街を歩けば、たちまち通報されて逮捕されるが、紛争地域はそうではない。その武器はどこから買うかというと、アメリカの軍需産業から購入するのだ。
 アメリカの軍需産業は歴代の政権を動かし続けている。ジョージ・ブッシュもバラク・オバマも世界の紛争地域から軍を引き上げることはなかった。ドナルド・トランプがアフガニスタンやイラクから駐留米軍を削減したのは、もしかしたら軍需産業からの献金が少なかったからかもしれない。税金を別に振り分ける業界からの献金が増加したためかもしれない。
 本作品で目新しかったのは、ドローンが既に武器となっているという指摘だ。映画「エンド・オブ・ステイツ」ではのっけから大統領がドローンで攻撃されるシーンがある。4つのプロペラがあるお馴染みのドローンだ。しかし4つのプロペラがあるタイプでなくても、無人の軍用機はドローンと呼ばれていて、20世紀末から既に実用化されている。武器を備えているから、衛星通信を利用してアメリカ本土から遠隔操縦し、地球の反対側にいるターゲットでも自由に殺すことができるのだ。
 アメリカの軍需産業はどこに向かおうとしているのか。おそらくその答えはない。哲学がないからだ。儲かればそれでいい。今後ドローンは精密化され、特定の個人をピンポイントで殺すことができるようになるだろう。操縦者はエアコンの効いた安全な場所にいるから、敵に狙われることもない。ビデオゲームのようにソファに座ったまま、画面に表示される敵を殲滅する。万が一敵から反撃されて撃墜されたら、別のドローンを飛ばせばいい。自分が傷つくことはないのだ。
 もしこういったドローンがテロリストに売り渡されたら、地球に安全な場所はなくなる。アルカイーダが購入したら、世界中の米大使館が狙われるだろう。北朝鮮が衛星の打ち上げ実験だと称しているミサイルの実験は、もしかしたら本当に衛星の打ち上げ実験かもしれない。自前の衛星を使ってドローンを飛ばすのだ。地球に安全な場所はなくなる。
 本作品の原題は「Shadow World」である。我々が日常的に目にしていない場所、空を飛び交う無数の人工衛星や、海面下を音もなく進む潜水艦、虫にしか見えない小さなドローンなど、既に危険はそこら中に張り巡らされている。軍需産業は恐ろしい。自制心も倫理感もなく武器を売りまくり、儲けのために政治も利用し、地政学的現実を分析して世界中に武器を売る。日本の軍需産業もそのうち、倫理感も節操もない政権を通じて他国に武器を売るかもしれない。いや、既に売っているかもしれない。その原資は我々の税金なのだ。

芝居「藪原検校」

2021年02月22日 | 映画・舞台・コンサート
 渋谷のパルコ劇場で芝居「藪原検校」を観た。休憩20分を入れて3時間10分の大作だ。
 案内役の川平慈英がほぼ出ずっぱりで、細かい解説の他に楽器も叩けば歌も歌う。これが面白おかしくて笑える。主演の市川猿之助をはじめ、役者陣は皆達者で、共演のV6三宅健は線の細い座頭の役を好演。松雪泰子は美しいお市を妖艶に演じる。天下の大悪党の話なのに、猿之助のおちゃらけた雰囲気がそこはかとない滑稽感を醸し出して、愉快な芝居となっている。楽しく観劇できるので日頃のストレス解消にぴったりの芝居である。

映画「ある人質 生還までの398日」

2021年02月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ある人質 生還までの398日」を観た。
 イスラム国についてはISやISILなど、いろいろな呼び方があるが、ここでは日本語表記のイスラム国と呼ぶことにする。
 ジャーナリストの後藤健二さんが湯川遥菜さんとともにイスラム国に拘束監禁されて10億円=約1000万ドルの身代金を要求されていたときに、たくさんの応援企業の引き連れて中東を訪問したアベシンゾウは、イスラム国を食い止めるために2億ドルを出すと演説した。直後に身代金の額が2億ドルに増額され、その後ふたりは殺害された。
 他の国の指導者でそんな子供じみた演説をした人はいない。表の顔と裏の顔を使い分けて、イスラム国と水面下で交渉し、自国の人質を救出していた。日本人にもイスラム国と間接的なパイプを持っている人たちはいたのではないだろうか。平和だけを願っていた後藤さんの無念の死は、アベシンゾウと日本政府による見殺しであった。
 背景には、アベ政権のジャーナリストとジャーナリズムに対する軽視あるいは憎悪があったと思う。アベ官邸にとって、都合の悪いことを報じる報道機関は邪魔なだけなのだ。彼らは後藤さんの死をざまあみろと思ったに違いない。当時の官邸には、現総理大臣のスガヨシヒデもいた。冷酷な政権の中でも最も冷酷なのが官房長官だったこの人である。最終的には生活保護があると予算委員会で言い放ったのは記憶に新しい。日本の現首相には国民を救う気持ちなど1ミリもないのだ。
 さて本作品はデンマーク映画でデンマーク人の若いフォトグラファーが主役である。彼が撮りたいのは戦場の街や、子供たちをはじめとするそこに住む人々だ。撮影していて楽しい。こんなに素晴らしい被写体はない。だから危険を顧みずにシリアを訪問した。第三者から見れば若気の至りの無謀な行動に思えるかもしれない。しかし戦地の状況を伝えるフォトグラファーがいなければ、我々は悲惨な現実を知ることがない。後藤健二さんと同じように、主人公ダニエルの行動は非難されるべきではない。
 シリアの出入国事務所のすぐ近くには銃を携えた兵士がいる。シリアにはいくつかの武装勢力があり、ダニエルは自由シリア軍という勢力にバックアップを頼んで撮影に行くのだが、イスラム国と見られる男たちに捉えられ連れ去られる。
 問題はふたつ。ひとつはイスラム国にヨーロッパの他の国から参加している人がいること。ダニエルを拷問したのは主にその白人だ。不満のはけ口をイスラム国に参加して暴力や殺人を行なうことに求めていることだ。もうひとつは、イスラム国や自由シリア軍などが持っている武器はどこからきているのかということである。
 難民が自国に押し寄せてきていることの反動かもしれないが、イギリスやフランスの若者がシリアにまで行ってイスラム国に加わるというのは感覚的には信じ難い。例えば日本人の若者が同じようにシリアに行ってイスラム国に加わり、韓国から来たジャーナリストを拷問するなどということは想像しにくい。しかし捕虜たちからジョンと呼ばれる白人の男がダニエルを拷問したのは確かだ。ほぼ無宗教の日本人と日常的に宗教と関わる国の違いだろうか。
 中東の紛争だけでなく、世界中の紛争にはほぼアメリカ製かロシア製の武器が使われている。最近ではもしかすると中国製や日本製の武器も使われているのかもしれない。アメリカの軍需産業の市場規模は約70兆円である。日本のGDPが約500兆円であることを考えると、単純比率で考えれば日本の労働人口の14%、つまり840万人のアメリカの労働者が軍需産業に関わっていると推定できる。この人数が生計を立てていくために世界中に武器を売っているのだとすれば、アメリカの軍需産業の罪深さは底知れないものがある。
 人間は他の動物に比べて環境順応性が高く、過酷な環境にも慣れる。それはブラック企業が存続できる理由のひとつでもある。そしてブラックな国家についても同じことが言える。テロリストに拘束された人も、苦しい毎日に慣れる。しかしそれは自由も希望もない日々だ。
 ある人がダニエルに託した言葉が本作品の肝である。「奴らの憎悪に負けるな」と彼は言う。なるほどと思った。世界の紛争は憎悪と不寛容の精神性に端を発し、世界の軍需産業が拍車をかけているという構図なのだ。人間の愚かさの典型的な図式である。日本の軍需産業は5兆円の防衛予算に支えられている。日本が戦争に巻き込まれる可能性は限りなくゼロに近いのに、どうして防衛予算が毎年増えるのかについてのからくりもここにある。愚かなのは日本も同じなのだ。

映画「世界で一番しあわせな食堂」

2021年02月21日 | 映画・舞台・コンサート
映画「世界で一番しあわせな食堂」を観た。
 2019年に「日本鬼子」という映画を観た。日中戦争における関東軍の兵士たちの非道な行ないを、帰還した兵士たち自身が語る。すでに80歳、90歳となっている彼らが共通して話したのは、日本が無条件降伏したあと、中国に残った関東軍の兵士たちは中国軍に捉えられて捕虜となった。当然殺されるか、拷問を受けるものだと思っていた。自分たちが中国人に対してそうしてきたからだ。
 ところが周恩来はそうしなかった。日本兵にも人権があるから、大切に扱うように通達を出したのである。兵士たちは衣食住の足りた生活をして、漸く自分たちがどれほど非道なことをしてきたかを自覚する。周恩来は彼らが人間性を取り戻すのを待ってから戦争裁判をした。極刑はなく、大抵は10年か20年の禁固、その多くは満期前に釈放された。
 彼らの面倒をみた中国人たちは、自分たちでさえ満足な生活が出来ていないのに、どうして日本兵を厚遇するのかと不満だったらしい。燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。周恩来の遠大な考えは理解出来なかったのだ。
 現代の一般の中国人の中には、周恩来と同じとまではいかないが、視野が広く寛容で懐の深い人物も結構いると思う。本作品のチェンも、人を思いやり、その土地の文化を尊重する礼儀正しい人間だ。
 フィンランド人と中国人の仲立ちは双方のつたない英語である。それでも意思は通じる。互いに歩み寄って相手を理解しようとするからである。料理という分かりやすい文化は、言葉がなくても美味しいものは美味しいと分かる。
 中国料理は世界三大料理の一つであり、チェンはプロの料理人であり人格者である。流石に本作品はフィンランドとイギリスと中国の合作だけあって、舞台はフィンランドで言葉は英語、主役は中国人とわかりやすい。映像だけでは中華料理の美味しさはいろいろな中華料理を食べたことのある人にしかわからないが、フィンランドの風景の美しさは映像から十分に伝わってくる。清流とそこに棲む魚、森にはトナカイがいて、食べられる野菜はそこら中にある。上海から来たチェンが、ここにはすべてがあると思うのは当然だ。
 ストーリーは一本道で起伏も少なく坦々と流れていくが、登場人物に味があって、飽きずに観られる。平和でホッとする作品だ。コロナ禍の時期に観るのに丁度いいかもしれない。

映画「Une intime conviction」(邦題「私は確信する」)

2021年02月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Une intime conviction」(邦題「私は確信する」)を観た。
 パリは哲学と芸術、自由と人権、美食と恋愛の街というイメージである。しかし人間のどす黒い側面が存在するのは、パリも例外ではない。
 どうして行方不明が殺人事件として扱われるのか。日本では行方不明は失踪事件として殺人事件とは区別されるが、フランスではそうではないらしい。映画では最後までその理由がわからなかった。サヴィ警視を筆頭の警察が成績を上げたかったのかもしれない。日本の警察も似たようなところがある。しかし本当の理由は不明だ。
 物語はヴィギエ事件と呼ばれる失踪事件が起きてから10年後の裁判の様子を中心に描かれる。3人の子どもを残して失踪した女性の夫を殺人事件の被告としてまず地元で裁判が開かれ、一審で無罪となったが検察が控訴、本作品は第二審をめぐっての話である。
 主人公ノラは被告の娘が家庭教師を務める子供の母親である。それだけの関係なのにどうして仕事も子供のことも疎かにして、ヴィギエ事件に没頭するのか、映画を観ているだけでは理由がよくわからないが、どうやらノラはランボー監督がモデルらしい。ランボー監督はノラと同じように事件にのめり込んだようだ。ノラが事件の記録をまとめて、当時無罪請負人として有名なエリック・デュポンモレッティ弁護士に依頼するが、これもランボー監督が実際にしたことらしい。それで少し納得した。ランボー監督自身にも、何故行方不明が殺人事件として裁判で争われるのかについて疑念を持っていたのだ。
 ノラの資料と熱意に押されて弁護を引き受けるデュポンモレッティ弁護士だが、いささか強引過ぎるノラの態度と、暴走気味の正義感に辟易しつつも、これまでの経験と知識を生かして裁判に臨む。そこではノラに託した250時間分の通話記録の分析が役に立つ。証人たちは通話記録との矛盾を突かれて証言は二転三転し、ヴィギエ被告は有罪になりそうになったり無罪になりそうになったりする。
 ラストのデュポンモレッティ弁護士による最終弁論は、推定無罪という刑事裁判の原則に立ち返った、見事な演説であった。名優オリヴィエ・グルメの面目躍如である。とはいってもフランスもアメリカ等と同じ陪審員制度だ。科学的な見地で判断する人もいれば、直感や印象で判断する陪審員もいる。ヴィギエ被告に対する最終論告に、ノラは固唾を呑む。
 デュポンモレッティ弁護士は、その後マクロン大統領の任命でフランスの法務大臣となった。ちなみにフランスの閣僚は男女同数が原則である。

映画「ファーストラヴ」

2021年02月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ファーストラヴ」を観た。
 公認心理師という資格は本作品で初めて知った。まだ新しい制度らしく従来の臨床心理士の多くが公認心理師資格を取得していることから、臨床心理士との違いは殆どないそうだ。日本の行政は、商売になりそうな分野では必ず資格を設けて許認可の権益を得ようとする。公認心理師の資格も、教材会社や資格試験の運営会社などからバックマージンが入り、最終的には役人の天下り先にもなるのだろう。厚労省はそういう役所だ。
 それはともかく、日本はいま経済的に下りの時代に入っている。イケイケドンドンの高度成長から成熟期を経て、後退期に入っているのだ。経済が下り坂というのは市場の縮小という意味である。財政ファイナンスそのものであるアベノミクスという詐欺みたいな政策で見かけの株価が上がっていても、実体経済は縮んでいるのだ。少子高齢化で労働力が減少しているということは、消費する人口も減少しているということだ。共同体は常にひずみを生じさせ続けているが、経済が減少すると生じるひずみは大きくなり、貧しい人々から順に自由や権利が蹂躙されていく。
 ひずみは次第に富裕層にまで蔓延し、人々は自分よりも弱い人に不満の吐き出し口を求めるようになる。差別やいじめやハラスメントである。老若男女の誰がターゲットになるか分からないが、いじめは弱い人から更に弱い人へと連鎖し、最後に一番無力な子どもに行き着く。子どもは他の子どもをいじめ、最後の子どもは自分を傷つけるしかなくなる。リストカットは絶望ではない。怒りなのだ。
 本作品で主演の北川景子が演じた真壁由紀の心情は、子どものころの行き場のない怒りで苦しんだ経験のある人なら、共感できる部分も多いと思う。同じように追い詰められた、芳根京子演じる聖山環菜の気持ちもある程度は推測できる。環菜の父親は社会的に認められた著名人だ。自分の怒りは父親の権威や権力の前に否定されるだろう。怒りを訴えても誰も分かってくれない。分かってくれたのはユウジくんだけだが、父親によって引き離されてしまった。環菜の証言がコロコロと変わるのは、怒りを押し隠していたからだと思う。環菜は最後の最後まで自分の怒りを口にしなかった。
 時代は常に子どもたちに犠牲を強いる。いじめの連鎖は断ち切らなければならない。いじめられた子どもが子どもをいじめる大人にならないために、公認心理師がいるのだ。少なくとも主人公真壁由紀はそう信じている。子どもに必要なのは物質的な豊かさではない。好きなだけおもちゃを買い与えても、好きな遊園地に何度連れて行っても、子どもは満たされない。満たされない子どもはいじめる子どもになる。まして下り坂の日本では物質的な不足が心理的な不満を増幅させる。
 子供が満たされるのは先ず承認欲求の充足で、次いで達成感だ。承認欲求は人間の成長において比較的早い段階から現れる。自分が何かをして親が笑えば、それを繰り返す。しかし何度も繰り返すと誰も笑わなくなる。子どもは親が自分に飽きたと思って居場所がなくなったように感じる。承認欲求は危険な側面を持っているのだ。
 大人になるにつれて他人からの承認欲求を満たすことよりも、好きなことを追求してひとりで達成感を得るようになる。自信を持つのである。自信があるから他人と関係なく自分で自分を認めることが出来る。しかしいつまでも承認欲求が強い人間は、その自信のなさ故に狭量で不寛容であり、人間としての弱さ故に立場の弱い人をいじめる。世の中はいつも弱い人で溢れている。世界中にいじめや差別が蔓延しているのだ。公認心理師はひとりでも多くの人を「いじめる自分」から解放するのが仕事である。
 そのように考えていくととてもスケールの大きな作品だ。原作は未読なので不明だが、少なくとも映画ではスケールの大きさを感じた。堤幸彦監督の世界観の大きさなのかもしれない。北川景子の顔のアップがとても多い作品で、その多くは無言なので、観客はその美しい表情の向こうにある悲しみや迷いや怒りや憎しみなど、公認心理師として決して表情に出せない心の闇を想像する。当方はそれに加えて、世界中の子どもたちの悲しみを背負う悲壮感も感じた。スケールが大きいと思った理由はそこにある。
 主人公真壁由紀が公認心理師として被告と向き合う一方、一女性としての真壁由紀を過去から現在に亘って描くことで、主人公の世界観と作品の世界観が徐々に一致していく。言葉で説明しないシーンも多く、立体的で奥行きのある作品である。北川景子は見事な大熱演だった。