三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「天間荘の三姉妹」

2022年10月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「天間荘の三姉妹」を観た。
映画「天間荘の三姉妹」公式サイト

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『この世界の片隅に』の製作スタッフが贈る この秋、最高の涙と感動を届ける超大作「天間荘の三姉妹」10月28日(金)全国ロードショー。

映画「天間荘の三姉妹」公式サイト

「子供は親の言うことを聞いとらええ」という台詞に代表される、パターナリズム満載の作品である。家族はこうあらねばならぬ、これが家族だみたいな、家族第一主義を恥ずかしげもなく押し出しているのだ。理想の家族像のようなものの外見を繕うために子供は我慢しなければならないという理不尽な理屈が全編を通底している。
 唯一まともなのが山谷花純が演じた元いじめられっ子の優那で、家族も友達も嘘っぱちだと看破するが、それさえも、個人の自由よりも家族の体面が大事という古い価値観に飲み込まれてしまう。
 人と人の繋がりを大事にしているように見えて、実は個人の人格を蹂躙している社会のありようを全力で肯定しているのが本作品である。戦前の全体主義のパラダイムにそっくりな世界観だ。皮肉なことに女優陣は揃って熱演で、その世界観を存分に表現しているものだから、最初から最後まで気持ち悪かった。

 のぞみかなえたまえの三姉妹の名前はテレビ番組「欽ちゃんのどこまでやるの」で結成されたユニットわらべの三姉妹と同じだ。許可は得ていると思うが、オリジナリティの欠片もない。
 柳葉敏郎が柳刃包丁を使って刺身を引いているシーンだけがちょっと笑えたが、製作者の意図した笑いではないだろう。
 人権侵害の親は子供に「お前のために叱ったり叩いたりしているんだ」と言いながら虐待をする。主役ののんが演じたのは、構ってくれるだけでもありがたいという「いい子」のたまえ。アニメ映画「この世界の片隅で」で北條すずという大役の声優を務めたのんが、こんな役を演じてしまったのは酷く残念である。なんだか弱い者いじめみたいな作品だった。

映画「ヴィーガンズ・ハム」

2022年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ヴィーガンズ・ハム」を観た。
ヴィーガンズ・ハム : 作品情報 - 映画.com

ヴィーガンズ・ハム : 作品情報 - 映画.com

ヴィーガンズ・ハムの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。肉屋の夫婦が繰り広げる人間狩りを描いたフランス発のブラックコメディ。 結婚して30年になる肉...

映画.com

 昭和時代に一世を風靡したエロ・グロ・ナンセンスという文化的な風潮があった。昭和初期が代表的だが、戦後でも大島渚監督の「愛のコリーダ」のような作品がある。
 現代はモラルに厳しい時代で、エロ・グロ・ナンセンスの表現には眉を顰める傾向がある。小さなことでも他人を批判し、時には罵詈雑言を浴びせる。自分で考えた価値観で人を叩くならまだマシだが、正論や大義名分といった社会のパラダイムで他人を叩くのは最低だ。それは村八分やいじめの精神性と同じなのだ。SNSがもたらしたのは自由よりも不自由である。過激な表現は自粛されるようになってしまった。
 しかしエロ・グロ・ナンセンスには、既成の価値観をひっくり返すようなパワーとエネルギーがある。それは人間の本質、欲望と憎悪と悪意を見せつけて、底の浅いきれいごとを嘲笑するからだ。

 本作品はエロ・グロ・ナンセンスが満載のシニカルなドラマである。その攻撃の対象は、ヴィーガンというそもそも矛盾を孕んだ考え方だけでなく、肉を食いたくないならフランスから出て行けと主張する肥満体の男性、捜査よりも肉の食べ方ばかり気にしている警官、安い肉を注射で加工して高く販売している食肉業者など、全方位に及ぶ。もちろん主人公たちも例外ではない。

 日本人が魚を見ると美味しそうだと思うように、知人の中国人は牛を見ると美味しそうだと思うと言っていた。人間を見て美味しそうだと思っても不思議ではない。
 一般に肉食獣の肉は美味しくないとされている。人間の食用になるのは牛や馬や豚や鶏などの草食系の家畜である。主人公のパスカル夫妻は肉屋だ。肉食の人間よりも草食の人間の肉のほうが美味しいと考えるのは当然である。この発想が既に面白い。
 大手の肉屋を営む知人との関係性や、妻ソフィーが見ているテレビの猟奇殺人鬼の紹介番組とのシンクロなど、構成がとてもよく出来ている。最初は恐怖や良心が邪魔をするが、慣れてきたら楽しんで材料調達ができるようになるのもリアルだ。習うより慣れろである。肉食の人間の耳はやっぱり不味かったみたいで、ペッペッと吐き出していたのが笑える。

 原題は「バーベキュー」で何のことかわからないが、邦題の「ヴィーガンズ・ハム」は秀逸。映画の内容をひと言で表現できている。場合によってはフランスの制作陣に伝わって、副題にでもなるかもしれない。久しぶりに優れた邦題にお目にかかった。

映画「アフター・ヤン」

2022年10月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アフター・ヤン」を観た。
映画『アフター・ヤン』公式サイト|10.21[Fri]公開

映画『アフター・ヤン』公式サイト|10.21[Fri]公開

動かなくなったAIロボット・ヤンのメモリには、家族の誰もが気付かなかった愛おしい記憶と、ある“秘密”が残されていた―。

映画『アフター・ヤン』公式サイト|10.21[Fri]公開

 近未来の日常の話である。白人男性と黒人女性の夫婦が広い家に住み、東洋人の子供を養子にする。家電製品は声による命令(コマンド)で動かせるし、自動車は自動運転で、こちらも声で動かすことができる。

 テクノと呼ばれるヒューマノイドが子供の世話をしたり大人の話し相手になる。それがヤンである。猫や犬でも欲望や感情を表現すると、飼っている人は家族みたいに感じるから、人型で言語を理解するヤンは、家族そのものである。
 しかし壊れてみると、人が死んだときほどの衝撃はない。ただ喪失感はいつまでも消えない。体内のメモリに、一日に一枚だけ映せるというたくさんの短い動画が残っている。ヤンの視線の動画だ。自分たちの知っているヤン。そして知らないヤン。
 寡黙だった父親が密かに残していた日記を父親の死後に読んでいるみたいだ。生きているときの葛藤があり、優しさがある。人間のために造られたヤンだが、ヤンの残した動画には、独自の感受性や取捨選択がある。それはもはや人格ではないのか。

 人間としての人格を持つ条件は、本作品の舞台である近未来にあっては、曖昧なものに変化している。ヤンの言動を見ていると、必ずしも人間から生まれた生物だけが人格を持つ訳ではないような気になる。ジェイクが訪ねた研究所では、ヤンのようなテクノの人格の研究をしているようだった。AIのような学習型の知能を背負ったアンドロイドは、行動をするために情報の取捨選択をする必要がある。必要と不要、優先順位などを選別するようになれば、それはもしかするとひとつの人格形成なのかもしれない。

 東洋人の娘ミカは、ヤンをクァクァと呼ぶ。漢字だと可可あたりか。ヤンから密かに中国語を習ったようで、ラスト近くで中国語の独白をする。最後のセリフは我想你了可可。クァクァに会いたいよという意味だ。ヤンにはやっぱり人格があったのではないか、そう暗示して物語は終わる。とても不思議で、謎めいた世界観の作品だった。

映画「線は、僕を描く」

2022年10月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「線は、僕を描く」を観た。
映画『線は、僕を描く』公式サイト

映画『線は、僕を描く』公式サイト

大ヒット上映中!横浜流星主演!全国の書店員大絶賛の青春芸術小説『線は、僕を描く』待望の実写映画化!青春映画の金字塔、再び。

 ベタな話だが、俳優陣の演技がよくて、それなりの感動がある。
 特に清原果耶は、映画「デイアンドナイト」で女子高生の大野奈々を演じたときから出演作を観続けているが、不思議に存在感がある女優だ。演技だけでなく歌もとても上手い。持論だが、いい女優は歌も上手いと思っている。歌手のような上手さを発揮する人も含めて、女優の歌にはその人なりの味がある。
 富田靖子は名脇役の女優になった。上映中の「向田理髪店」では優しいお母さんを演じ、本作品では誰もが一目置く水墨画界の巨匠を演じている。どこまで演技の幅があるのか、感心してしまう。

 本作品で水墨画指導を担当した小林東雲さんの名前ははじめて聞いた。水墨画の世界にも権威とか序列とかがあるのかもしれないが、本作品ではそれほど重要視されない。三浦友和が演じた湖山先生は、自分なりの「線」を一番大事にする。それ以外に大事なものは何もないというほどの勢いである。
 水墨画については不案内だが、短時間で描けるという魅力は大きい。墨を使う点では書と並んで東洋の二大芸術と呼べるかもしれない。描かれた瞬間が最も輝いていて、その後は紙とともに劣化していく。芸術はそんなものだ。音楽も生の演奏が一番である。文学は違うように思われるかもしれないが、読者が読んでいるときだけ生きている。

 本作品の制作陣はそこのところをよく理解していると思う。過去の水墨画はあまり登場せず、描かれたばかり、または描いている最中の水墨画が多く登場する。芸術は生きている。または読者や鑑賞者の心の中で甦る。そして心を動かされる。どんなに高い絵画でも、観て心を動かされることがなければその人にとって一円の価値もない。価格にしか興味のない人も多いが、無念無想の心で芸術に対峙すると、自分にとってそれが重要な作品かどうかが分かる。心が洗われたり、胸騒ぎを感じたりすれば、それは自分にとって価値のある作品である。つまり芸術の価値は人それぞれでいいのだ。

 惜しむらくは、終盤の表彰式だ。横浜流星の霜介も清原果耶の千瑛も、自分の水墨画を観た人が感動してくれることを望んでいるのであって、高く売れることを望んでいるのではない。まして権威に認められることを望んでいるのでもない。だから表彰式のシーンは不要だったと思う。水墨画も商売だから仕方がないのかもしれないが、純粋な映画がいっぺんに不純になってしまった気がした。

映画「A20153の青春」

2022年10月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「A20153の青春」を観た。
a20153の青春、映画制作、4K動画制作、4K撮影・編集、映像制作、動画導入

a20153の青春、映画制作、4K動画制作、4K撮影・編集、映像制作、動画導入

弊社(株式会社アイ・エム・ティ)は映画及び映像一般の撮影、制作そしてDVD・BD製作、動画ホームページ製作とあらゆる映像制作を、お客様の立場から、親切丁寧に行っています。

a20153の青春、映画製作、HPに動画導入、更新型QRコード作成

 終映後の舞台挨拶で、母親役を演じた丸純子さんがネグレクトという言葉を使っていた。ネグレクトは放置したり無視したりという意味だから、本作品の暴力的な虐待とは違う。変に外来語を使わないで、日本語の虐待でいいのではないかと思う。
 ということで、拓也は生まれてからずっと虐待され、学校でもいじめられ、おまけに成績もよくない。中学生になって身体も大きくなってから、一度だけの反撃で母親も愛人も殺してしまい、刑務所に入れられる。出所しても当然ながら就職などできず、日雇いの派遣で食いつなぐが、コロナ禍で仕事もあまり入らなくなる。
 なんとも悲惨な話だが、救いがまったくない訳ではない。それは拓也の台詞「簡単には死ねないよ」と、下館結衣の「絶対結婚する」という台詞のふたつだ。
 
 ラストシーンをどのように解釈したかをSNSに書いてほしいと北沢幸雄監督は言っていた。当方の解釈は大抵の人と同じだと思う。海で自殺しようと思っていた拓也だが、結局は自殺できずに東京に戻ることになる。殺人の前科者がひとりで生きるのはかなりしんどいが、結衣が一緒なら生きていけるかもしれない。他人とのかかわり合いが薄い東京なら、それが可能だ。
 罪は償った。拓也は救われていい筈だ。結衣とともに年老いるまで生きていくことができれば、悲惨な青春も、いつか笑い話になるかもしれない。それが当方の解釈である。希望的に過ぎるかもしれないが、何も希望がなければ生きていけない。実現するかどうかは別として、明日を描くことが、拓也や結衣には必要なのだ。

映画「グッド・ナース」

2022年10月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「グッド・ナース」を観た。
Netflix『グッド・ナース』映画館で公開!

Netflix『グッド・ナース』映画館で公開!

一部劇場にて10月21日(金)劇場公開!実話に基づいた手に汗握るサスペンス「グッド・ナース」の監督を務めるのは、アカデミー賞ノミネート監督のトビアス・リンホルム。

Netflix『グッド・ナース』

 心の闇という言い方がある。人には言えない妄想や内に秘めた悪意のことで、このふたつは往々にして重複する。
 心に闇を抱える人は、にこやかで人当たりがいいことが多いと思う。心の闇を隠すために善良なふりをするのだ。しかしそれは自己欺瞞そのものであり、長く続けると精神をおかしくする。

 おかしくならないために、悪意や妄想を少しずつ発散する。精神は行動に大きく影響されるから、大声を出したり激しく体を動かしたりゲームをしたり、または静かに本を読んだりする。本は想像力をフル稼働させるから、場合によっては全力疾走よりも効果がある。
 最近はSNSがあるので、そこに言いたい放題を書き込む人もいる。それも心の闇の解消だが、人によっては、赤の他人を酷く非難したり、罵詈讒謗の言葉を浴びせたりする。悪口は自分に跳ね返ってくるから、どれほどたくさんの悪口をアップしても、満足することはない。

 私生活が重要なのは、それが精神のバランスを取る時間だからである。しかし私生活でも束縛されたり存在を蔑ろにされたりすると、バランスの取りようがない。そうなると心の闇を溜め込む一方になる。いつか犯罪を犯す可能性がある。カウントダウンがはじまる。

 本作品では心の闇を解消しきれない人物が登場する。人当たりがよくて親切だから誰も疑わないが、密かに悪意を実行している。そしてその行為によって、人当たりがよくて親切な表面を取り繕うための精神的なバランスを取っている。終わりのない無限地獄だ。

 ジェシカ・チャスティンが演じたヒロインのエイミーの心に戦慄が走ったのも無理はない。もしかしたら多数の患者を殺しているかもしれない男と丸腰で対峙するのは、腕力の弱い女性にとって恐怖であり、なんとか知恵を絞ってその場を切り抜けなければならない。エイミーの恐怖と決意をチャスティンは見事に演じきった。

 ドストエフスキーの小説「罪と罰」では、やはり心の闇を抱えた主人公ラスコリニコフが、独善的な利己主義を正当化して、強欲な金貸しの老婆を殺す。新約聖書では金貸しと収税吏は人間の屑みたいな扱いだが、だからといって殺していい訳ではない。悔い改めればいいことになっている。小説が書かれた当時のロシアは社会の歪みが貧しい人にのしかかっていた。

 どうして人を殺してはいけないのかについては、他の作品のレビューに書いたので割愛するが、今も昔も、社会の歪みは格差や差別として具現化され続け、結局のところ弱い人や貧しい人にすべての負担が集中している。心の闇を肥大させる人は多い。
 どれほどの心の闇を抱えていても、殺人に至るには大きなハードルがある。良心という名のパラダイムがあるからだ。しかしハードルを下げる方法がある。見つからないように、小さな罪を重ねていくのだ。だんだん慣れていき、最後は平気で人を殺せるようになる。習うより慣れろという諺は常に正しい。

 そうやって慣れてしまった人間にはもはや良心のタブーはない。恐ろしい話だ。共同体に食い止める義務があるが、どこの国も十分にその義務を果たしているとは言えない。かくして、心の闇を肥大させた殺人鬼予備軍が世の中に溢れることになる。勤務先にいるかもしれないし、家庭内にいるかもしれない。事件が起きるまで、誰にも分からない。

映画「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」

2022年10月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」を観た。
映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』公式サイト

映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』公式サイト

『14歳の栞』が異例のロングランヒットを記録した監督・竹林亮が手がける、新感覚オフィス・タイムループ・ムービー。絶望と希望の月曜日が押し寄せる!

映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』公式サイト

 面白い。アイデアの斬新さは、一世を風靡した2018年の映画「カメラを止めるな!」を彷彿させる。あちらがややエキセントリックな登場人物だったのに対して、こちらは徹底的に常識的な普通人ばかりだ。状況が異常だから、登場人物を正常な人ばかりにすることで、対比が際立つ。正常性バイアスを覆すのは並大抵ではない努力が必要なことも分かる。

 仕事で会社に泊まった朝からのスタートである。鳩が眠気を吹き飛ばす。徐々に正常性バイアスから脱して現実を理解しはじめる展開は、とてもリアルで納得できる。異常事態でも企業のヒエラルキーには従わなければならない。稟議書の回付と同じだ。異常事態でも自分のキャリアのために必死な吉川さんの姿が哀れを誘う。

 意外な展開がいくつかあって、驚きながらも物語は大団円に向かって進んでいく。本当に大団円が迎えられるのかと、観客が疑ってしまうようなシーンもある。なかなか洒落た演出だ。企業の中間管理職の典型みたいなマキタスポーツの永久部長の印象が、最初と最後でガラッと変わるのもいい。とても気持ちのいいラストには、ああ、面白かったと思わせるスッキリ感がある。

 寝落ちや寝ぼけ眼のシーンが多く、そのたびにブラームスの子守唄が流れるのがケッサクだ。もう一度観ても、多分面白いと思う。日本のエンタテインメント作品としては出色の作品である。

映画「向田理髪店」

2022年10月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「向田理髪店」を観た。
 
「好きなように生きろ」
 高橋克実が演じる向田理髪店の店主、向田康彦は息子の和昌に言う。夫婦は似ると言うが、妻の恭子もどうやら同じ考えらしい。
 好きなように生きるのがどれだけ大変かは、若い頃の自分を思い起こすたびに実感する。息子には苦労してほしくないが、挑戦してほしいとも思う。どちらも親心だ。
 
 映画のロケ地は大牟田市である。大牟田市にはかつて三池炭鉱があり、日本の高度成長をエネルギーで支えてきた。現在は閉山したが、作品に登場する宮原坑の跡地は、国の重要文化財であり、世界遺産にも登録されている。撮影には国の許可が必要だった筈で、それはクレジットで確認できた。
 ロケ地は大牟田市だが、町の名前は筑沢町となっている。炭坑が閉山して坑夫や会社がいなくなり、過疎が進んでいる町だ。娯楽はあまりなく、飲んで歌ってウサを晴らすか、噂話で盛り上がるくらいである。
 
 康彦は、息子が帰ってきて、嬉しくもあるが、悲観的な部分もある。町は確実に衰退していて、上向く気がしない。自分が歳を取って、町と一緒にくたばるのはいいが、息子には違うところで花を咲かせてほしい気がする。自分は若い頃挑戦し、そして負けた。筑沢に帰ってきたのはいいが、もはや余生でしかない。負け犬だ。
 しかし息子はそう考えていないようだ。人間は人それぞれ。どんな生き方でも、人様に迷惑をかける生き方でなければ、否定されるべきではない。人生に勝ちも負けもない。
 
 康彦の時代は、成功とは金持ちになることだった。故郷に錦を飾るとはそういうことだ。しかし息子の価値観は違う。金持ちになることよりも、充実した時間を過ごすことのほうが、和昌にとっては大事なようだ。町が衰退するとか、関係ない。自分がどう生きるかが大事なのだ。
 息子の決心に触れることで、康彦の表情に明るさが戻ってくる。このあたりの高橋克実の表情が上手い。堂々たる主役ぶりである。ちなみに富田靖子の脇役の演技はもはや名人級。
 
 肩の力が抜けた、いい作品だった。

映画「チルドレン・アクト」

2022年10月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「チルドレン・アクト」を観た。
チルドレン・アクト : 作品情報 - 映画.com

チルドレン・アクト : 作品情報 - 映画.com

チルドレン・アクトの作品情報。上映スケジュール、映画レビュー、予告動画。「つぐない」「Jの悲劇」「追想」など、これまでにも著作が多数映画化されているイギリスの作家...

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 エホバの証人と聞いて思い浮かぶのは、輸血拒否をするカルト教団だが、今にして思えば、詳しく知らないくせに断片的な情報で勝手にそう思い込んでいたのかもしれない。
 宗教は組織として本部とか本山とかが出来た時点で腐敗が始まる。本部は信徒の財産や労働対価を献金やお布施や玉串料として納めさせて運営費にする。運営費は多いに越したことはない。たくさん納めさせるために納めた額を競わせたりする。

 入信した本人がカルトを信じて身を持ち崩すのは自由だ。しかし子供に信仰を強制するのは人権蹂躙である。これはすべての宗教について言えることで、アベシンゾーが射殺されたことでクローズアップされた統一教会だけの話ではない。赤ん坊に洗礼させるキリスト教は赤ん坊の人権を蹂躙している。洗礼は大人になってからでいい筈だ。イスラム教はよく知らないが、少なくともアフガニスタンでタリバンが行なっていることは、宗教と戒律の無理強いである。

 宗教は死を意識しはじめる年齢になったら考えればいい。本作品を観る限り、イギリスの法曹界の考えも同じようだ。エマ・トンプソンが演じる主人公の女性裁判官(My Lady)が説明するイギリスの児童法(Children act=本作品の原題)は、少年の福祉を最優先するとなっているそうだ。答えは最初から出ていたのである。

 しかし本作品の主眼はマイレディの判決にあるのではない。不治の病に向き合ったときに、人はどのように振る舞うのか、周囲の人間たちはどうやって彼を助けることができるのかということである。そしてもうひとつ、信仰がミサや集会、献金といった現実的な形になったとき、宗教の本部や他の信者との関係性に左右されてしまい、結局のところ純粋な信仰ではなくなってしまうということである。

 イエス・キリストの教えの第一声は「悔い改めよ、天国は近づいた」である。悔い改めることのない赤ん坊には、入信の必要がないのだ。聖書には次のようにも書かれている。
「祈るときには、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈るとき、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」
「また断食をする時には、断食をしていることが人に知れないように自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」

 信仰は信じる対象と自分との一対一の極めてプライベートな事柄である。他人から祈りを強制されたり、戒律に縛られたり、献金やお布施や玉串料を要求されたりするものではない。つまり現在の世界の宗教の殆どは、信仰よりも利益が優先されている。組織は必ず腐敗するという原則は、いつの世でも正しいのである。

映画「キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱」

2022年10月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱」を観た。
キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱 | キノシネマ kino cinéma 配給作品

キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱 | キノシネマ kino cinéma 配給作品

キノシネマ kino cinéma 配給作品

 マリー・キュリーといえば、ラジウムの発見、ピエール・キュリー、ノーベル賞を2度受賞という程度の知識だった。そしてラジウムというと、腕時計の蛍光塗料に使われていたという程度の知識である。我ながら知識の浅薄さは汗顔の至りだ。
 実際のマリー・キュリーが本作品のような女性だったのかどうかは分からないが、彼女の人生の後半では、本作品が描くように、放射能が戦争の兵器として使われることを危惧していたのかもしれない。

 女性が主人公のドラマの例に漏れず、本作品でも女性の不遇な立場が描かれる。男性中心の社会に異を唱えようとする女性は少なく、男性を利用して得をしようとする女性が殆どだ。マリー・キュリーのように世のパラダイムに縛られずに自立して生きていこうとする女性は、他ならぬ女性たちから非難される。当時世界で最も自由だった筈のパリでも、人々の精神性はまだまだスクエアだ。
 それでもノーベル賞の威光は大きく、マリーを助ける。それはピエール・キュリーの置き土産であり、マリーはピエールが死んでからはじめて、その偉大さを知ることになった。生きているうちに感謝すればよかったのだが、つまらない嫉妬から逆に悪態をついてしまったことが悔やまれる。

 科学者は常にニュートラルな精神性でなければならない。もちろんマリー・キュリーも基本的にはその姿勢である。他人に嫌われても真っ向から罵詈讒謗を浴びても動じない。権威に媚びないし、娘の意見を侮ることもない。
 並外れた頭脳の持ち主で科学全般に才能を発揮したマリー・キュリーの姿には、自分に自信を持って背筋を伸ばして生きているような印象を受けた。歴史上の人物でしかなかったマリー・キュリーを血が通った人間として、上手に描いている。本当に立派な女性だ。