三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「止められるか、俺たちを」

2018年10月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「止められるか、俺たちを」を観た。
 http://www.tomeore.com/

 門脇麦は存在感のある女優である。何を考えているのかわからない女、本当は何を考えているのか教えてほしいようなほしくないような、知りたいような知りたくないような女がいる。そういう女を演じるとピカイチだ。本作品の主人公はまさにそういう女で、自分でもよくわかっていないところにリアリティがある。
 めぐみは、何をしたいのかよくわからないままに生きている。若松孝二という圧倒的なバイタリティに引きづられるように毎日を過ごすが、自分がどうしたいのか、何が出来るのかは、闇の中だ。闇は心にぽっかり空いた穴を埋め尽くし、やがて現実ににじみ出て、めぐみを苦しめる。周囲の男たちの言葉によって小さな幸せを感じたり、または怒りに顫えたりしながら、彼女なりの精一杯の青春を生きていた。門脇麦の渾身の演技である。
 観ていてかなりしんどい映画だった。若い映画人がそれぞれに鬱屈を抱えつつ、殺人的なスケジュールをこなしていく。ときに飲みつぶれながら、ときに激しく議論しながら、それでも作品を作り続けるエネルギーが伝わってきて、観ている方も体力がいる。井浦新の若松孝二は映画監督というには少しスマートすぎる感があったが、反権力、反体制の人であり、感性の人であるという特徴はよく出ていたと思う。好演である。

 映画が終わって外に出ると、日曜日の正午すぎの新宿三丁目は、微妙に怪しい雰囲気である。休みの店や準備中の店、営業しているのかわからない店がそこかしこにあって、気だるそうに道を往く東南アジア系の観光客、急停車した車から降りて走り出す黒人、腕組みをしてこちらを睨む女装の人、大声で電話をしているチンピラなど、凡そ日曜日の午後らしくない人々が闊歩している。なかなかいい感じである。


映画「ハナレイ・ベイ」

2018年10月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ハナレイ・ベイ」を観た。
 https://hanaleibay-movie.jp/

 不思議な作品である。吉田羊とカウアイ警察署の警官の妻以外は、出演者も原作者も監督もすべて男だが、何故か映画を観ている間ずっと、主人公と息子が、彼の産まれてきた子宮を媒体として繋がり続けているような感覚を覚えた。
 吉田羊が演じた主人公サチはあまり母性を感じない表情で、母性よりも知性が勝っているように見えるし、そういう生き方をしているように見える。読んでいる英文の本は表紙にBlack Catと書かれていたから、おそらくエドガー・アラン・ポーの「黒猫」だと思うが、その辺りも知性的な彼女の性格を表現している気がする。
 淡々と月日が過ぎていく映画だが、印象的な台詞はいくつかある。中でも村上虹郎の「わかっていないのはおばさんの方だよ」という台詞は、知性で物を考えようとする彼女に対して、人と人とはそういうものじゃないと異を唱えているように聞こえる。
 知人の女性から子供について聞いたことだが、いつでもママのお腹に戻っておいでと思うそうである。男にはわからないはずのそんな感情が、この映画には底流となって流れているように感じる。生まれた大地、血のつながり、時の流れ、そして宇宙と、主人公の子宮から世界が広がるような、または主人公の子宮の中に宇宙のすべてがあるような、そんな気にさせる作品であった。


ミュージカル「生きる」

2018年10月26日 | 映画・舞台・コンサート

 赤坂のACTシアターでミュージカル「生きる」を観た。
 http://www.ikiru-musical.com/

 主人公の渡辺勘治は鹿賀丈史と市村正親のダブルキャストで、この日は鹿賀丈史が演じる日だった。黒澤明の映画でお馴染みの作品だが、ミュージカル仕立てというのは興味深い。演出は宮本亜門。
 鹿賀丈史の歌は味があってとてもよかったが、出色だったのは新納慎也(にいろしんや)。180センチの偉丈夫で、長身の鹿賀丈史と並んでも舞台映えは遜色ないし、何よりも歌が抜群にうまい。
 ストーリーは、来年には定年で退職という市役所の冴えない市民課長が、余命半年を宣言されたのをきっかけに、開発で失われた市民公園を再び作ろうとして、役人たちの役人根性や役所の機構、それに政治家の思惑などによる様々な妨害に遭いながらも、諦めずに東奔西走してなんとか公園の完成にこぎつけるが、病魔は待ってくれず・・という悲喜劇である。
 30年間働いてどうだったのかという部下の問いに、忙しくて、そして退屈だったと正直に本音で答えるのだが、人生を嘆くその姿がなんとも切なく、悲しい。人は人生で大したことを成し遂げられる訳ではないが、成し遂げたことの大小は比較されるべきではない。誰もがノーベル賞を受賞できるわけではないし、受賞しない人生を否定されることもない。
 郊外の街で役人としての一生をひっそりと終えたとしても、その人生を否定してはいけない。どのような人生も、ひとつの人生として尊重されるべきなのである。日本国憲法第13条にも「すべて国民は、個人として尊重される」と書かれている。
 時代のパラダイムによって人を裁く、狭量な正義の味方たちが幅を利かす現代にあって、この芝居の上演は立派な価値がある。宮本亜門の演出は小技がたくさん効いていて、舞台に厚みがあった。いい芝居だった。


映画「億男」

2018年10月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「億男」を観た。
 http://okuotoko-movie.jp/

 予告編は、3億円当たって友達に持ち逃げされて、家族には逃げられ、借金取りには追い詰められて散々な目に遭う悲惨な物語という感じで、あまり観たい気はしなかった。下世話なドタバタ喜劇という印象だったのだ。
 しかし予告編の最後の方に出てくる「お金って一体なんだろう」という言葉が妙に引っ掛かり、観てみることにした。黒木華も出ることだし。
 先ず予告編の印象との落差に驚いた。宝くじを当てた男のドタバタ喜劇ではなく、人間同士の信頼関係、それに貨幣を通じて経済活動の本質にも迫るスケールの大きな作品である。
 学生のときに挑んだマルクスの「資本論」は途中で投げ出してしまったが、最初の方に商品と貨幣についての記述があった。量的な変化は質的な変化に転化するという一節があって、現金も一定以上の多額になると、商品との交換というよりも、現金そのものが資本としての価値を持つ、みたいなことが書かれていた気がする。

 財布の中に千円札があれば、ランチを食べられるし、ランチの代わりにパンと牛乳も買える。十万円あれば、大抵のアクシデントには対応できそうだ。百万円持っていると、これはもう何でもどんとこいだ。場合によっては賃貸の契約もその場でできる。しかし一千万円持っていたらどうだろうか。会社の経理担当者や銀行員が扱う分にはどうということもないだろうが、個人で現金で一千万円持っていると、目的がはっきりしない限り、少し不安になるかもしれない。では3億円の現金はどうだろうか。
 実はこの映画を観るまで、3億円が30kgだとは知らなかった。ときどきドラマで見かける手錠付のジュラルミンのケースが1億円入りだから、3億円は3ケース分だというイメージはあったが、1億円で10kgの重さがあるとは思っていなかった。ジュラルミンのケース自体が1個2kg位ありそうだから、3億円は36kgにもなる。重さもそうだが、その価値となると、日常的な個人消費の感覚では把握できない。
 数年前にフランク・ミュラーが3億円の腕時計を発売したのを見たことがある。3億円の腕時計はもはや日常的な個人消費のレベルではない。たとえ宝くじで3億円当たっても、3億円の腕時計を買うことはない。それはもう数千億の資産の持ち主や、百億円の年収の人しか買わないだろう。3億円しか持っていない人は3億円の腕時計は買えないのだ。それがどうしてなのかを、この作品が教えてくれる。

 佐藤健は「るろうに剣心」でアクションを頑張っているだけの俳優かと思いきや、「8年越しの花嫁」「世界から猫が消えたなら」などの文学的な作品でも存在感を示すようになった。本作品でも迂闊で浅薄な男がいつの間にか考え深い人間になる過程を自然に演じている。
 友人役の高橋一生も妻役の黒木華も好演。高橋一生はその独特な喋り方で、何となく賢そうに見える。黒木華はこのところ、主役からアニメまで、いろいろな映画で見かける。派手なOLから凛とした武家の娘まで、とにかく演技の幅が広い。間もなく邦画に欠かせない女優と呼ばれるようになりそうである。

 お金の日常的な側面から、投資や事業という側面、そしてお金では信頼は取り戻せないというおなじみのテーマまで、お金に関して多様で多角的で印象的なシーンが沢山あり、非常に立体的な作品になった。貨幣経済の社会では、ドラマにお金が絡まないことはない。逆にお金をテーマにするとドラマがありすぎて取捨選択に困るだろう。この映画はたくさん考えられたであろうドラマを上手に断捨離し、落語の芝浜と掛け合わせてなぞかけみたいに仕立て上げた。上手に出来たスーツのように、心地のいい映画である。


映画「Carrie Pilby」(邦題「マイ・プレシャス・リスト」)

2018年10月23日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Carrie Pilby」(邦題「マイ・プレシャス・リスト」)を観た。
 http://my-precious-list.jp/

 何度か見た予告編では、IQ185の天才少女が飛び級でハーバードを出るには出たが、人間関係が苦手でなんともうまくいかなかった。しかしセラピストから課せられたリストをこなしていくと・・・という感じで、子供の頃から勉強漬けだった女の子が、もともとの頭のよさに加えて勉強で得た知識を元に、短期間でセラピストのリストの本当の意味に辿り着くという物語だと思っていた。最近は日本でも様々な方面で十代の活躍が目立っていることもあり、アメリカの天才少女がその類稀なる洞察力でどれほどの人生の真実を見せてくれるのか、大いに期待していた。
 しかし、さすがアメリカ映画というか、ハリウッドらしいというか、哲学的な掘り下げは一切なく、結局は家族がいちばん大事というお馴染みの価値観に落ち着いてしまう。おまけに男相手に二股を非難するなど、一般女性の類型的な行動までしてしまう。天才少女に期待したのは分析力と推理力であって、尼僧のような硬直した倫理観ではないのだ。これでは主人公を天才少女にした意味がない。
 勝手に期待を膨らませた当方にすべての原因があることはわかっているが、なんともはやがっかりさせられる映画だった。もはやハリウッドには大衆に阿る映画しか作れないのだろうか。


映画「Bad Genius」

2018年10月22日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Bad Genius」を観た。
 https://maxam.jp/badgenius/

 タイ映画は先日観た「ポップ・アイ」が初めてだ。主役の中年男を演じていたタネート・ワラークンヌクロが本作品にも出演していて、何故か少しホッとした。懐の深い父親の役を好演している。
 物語はチンピラが成り上がるヤクザ映画みたいで、小悪事を繰り返しながら徐々にエスカレートしていき、最終的に大団円となる。優秀な学生たちでも人生経験は不十分で、視野の狭さから安易で刹那的な選択をしてしまうが、そのアイデアとチャレンジ精神は瞠目に値する。
 カンニングのシーンはスパイ映画の秘密作戦を彷彿とさせるほど緊迫感がある。ミッション・インポッシブルなどでお馴染みの作戦中のアクシデントも盛り込まれ、小悪党のはずの学生たちにいつしか感情移入してハラハラしてしまう。

 品格を重視するという教育者の言葉とは裏腹に、タイでは学力偏重の実態があることが知れる。加えて貧富の格差もある。学生たちのカンニングの背景には、社会の歪んだ構造があるのだ。経済的に発展途上のタイでは、かつての日本の高度成長時代の受験戦争のようなことが起きており、タイの学生たちは厳しい競争にさらされている。

 朱に交われば赤くなるというが、交わるだけでは赤くならない。一緒になって何かをしでかすことで赤くなるのだ。しかし悪い誘いは断るのが難しい。朱に染まらないでいるのは、染まるよりもずっと大きな勇気を必要とする。

 片寄った価値観が交錯する映画だが、主人公の父親の寛容で落ち着いた人格が作品全体の精神的な受け皿となって、物語に安定感をもたらしている。エピローグもしっかりしていて、なかなかよくできた作品だと思う。


芝居「母と暮せば」~こまつ座

2018年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 紀伊國屋ホールで上演された「母と暮せば」を観てきた。
 http://www.komatsuza.co.jp/program/
 富田靖子と松下洸平のふたり芝居である。9月に同じ紀伊國屋ホールで観た「マンザナ、わが町」と同じこまつ座の公演で、6月に俳優座劇場で観た「父と暮せば」の姉妹編でもある。
 井上ひさしはリベラルで博識、そして人間愛に溢れた作家で、こまつ座は井上ひさしの作品を中心に公演している。これまでに「シャンハイムーン」「イヌの仇討ち」「頭痛肩こり樋口一葉」などを観たが、ヒューマニズムに満ちたいい芝居ばかりだ。
「母と暮せば」は、原案は井上ひさしだが、本人が2010年に亡くなってしまったので、山田洋次が映画にしている。映画では吉永小百合が主演、二宮和也が共演で、最後にヒロインが死んでしまう悲しいラストだった。
 芝居は映画とは違ってシーンの瞬間的な転換や表情のアップなどがないので、当然ながら脚本も違ってくる。今回の脚本は映画とはまた違って、時にコミカルに、時にシリアスにというこまつ座の芝居らしい脚本になっている。書いたのが座付きの脚本家ではない畑澤聖悟というのもいい。
「シャンハイムーン」を演出した栗山民也さんが演出で、小気味のいいテンポで芝居が進んでいく。泣いて笑って元気が出る、とてもいい芝居だった。
 芝居が終わってからこまつ座の井上麻矢社長(井上ひさしの三女)と長崎原爆資料館の青来有一(せいらいゆういち)館長のトークがあって、生前の井上ひさしのエピソードなどが聞けて、大変に有意義であった。

映画「All I see is you(邦題「かごの中の瞳」)

2018年10月14日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「All I see is you(邦題「かごの中の瞳」)を観た。
 http://www.kagonaka.jp/

 映画を観て次のように考えた。健常者は障害者に対して一定の優位性を抱いている。また、膂力に優れた大男は非力な者に対して一定の優位性を抱いている。或いは、胆力があって恐怖心のない人は臆病者に対して一定の優位性を抱いている。

 先日の話だが、渋谷の駅で警備員が盲の女性の手を引こうとして鬼のように拒否されていた。障害者は健常者の親切が自分にとって必ずしも100%有益とはならないことを知っている。時には迷惑に思うこともあるだろう。親切というものは、互いの信頼関係がなければ成立しないのだ。高齢者が階段を上がっているときに荷物を持っていいのは、その高齢者に信頼されている人だけだ。そうでない場合は単なるひったくりである。白い杖を持っている人の手を引いていいのは、よほど信頼されている人だけだ。障害者は人間で、健常者と同じ基本的人権がある。自分で出来ることに手助けは不要なのだ。

 本作品の夫は、渋谷の警備員と同じ間違いを犯す。妻はひとつの独立した人格を持つ人間で、ペットではないのだ。しかし夫はそこに気づかない。登場する犬は人間に頼って生きるペットと、自立して生きていける障害者との違いを明確にするメタファーとなっている。
 優越複合と劣等複合は常に表裏一体である。美しく才能のある妻は、目が見えるようになった瞬間に優越複合の対象ではなくなり、夫は劣等複合に陥ってしまう。
 信頼のない人間関係は薄氷を踏むみたいで、少しでも間違えると凍りつく水の中に沈んでしまう。または綱渡りのようで、バランスを崩した途端に奈落の底に落ちてしまう。保護と被保護の関係は主従関係に似ていて、当事者は関係の逆転に耐えられない。そういう意味では「All I see is you」という原題も「かごの中の瞳」という邦題も、よく考えられている。

 ところで、人間同士にそもそも信頼関係など存在するのか。もし存在するとしても、絶対的な信頼関係ではなく、度合いの違いとなるだろう。母親と赤ん坊の関係にしても、コインロッカーベイビーの事件が未だに発生している以上、絶対ではない。それでも人間関係の中では最も信頼関係が高そうに見える。
 突然の轟音や不協和音、歪んだ視界のような映像など、盲の主観イメージの抽象的な表現が印象的な作品だが、ラストシーンからすると、意外に理詰めなのだ。親と子供、介護する人とされる人、教師と生徒、使用者と労働者など、関係性というものを敷衍すれば、人類に普遍的なテーマを持つ作品である。


サラ・オレイン バースデーコンサート

2018年10月09日 | 映画・舞台・コンサート

 東京国際フォーラムにサラ・オレインのバースデーコンサートに行ってきた。
 とにかく歌がうまい。声がブレないし、伸びがあって1/fの揺らぎもある。聞いていて癒されるというあれだ。
 バイオリンはオーケストラ級だし、ピアノもギターも達者で喋りもうまい。しかも美人でスタイルもいい。そしてシドニー大学から東大出身だ。
 よく「悩みはありますか?」と聞かれるそうで、悩みのない人間なんている?と疑問に思ってしまうと言っていた。完璧主義者の自分は、どこまでいっても満足しない悩みがあるとのこと。ああそうですか。
 全体に満足のいくコンサートではあったが、ペンライトを持っている人が一階に陣取っていて、途中、立つことを強制される時間もあったりしたので、これっきりにする。あとはメディアを購入して聞けばいいかな。


映画「Foxtrot」(邦題「運命は踊る」)

2018年10月09日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Foxtrot」(邦題「運命は踊る」)を観た。
 http://www.bitters.co.jp/foxtrot/

 いまこの瞬間に、世界のどこで戦争が起きているだろうか。どれくらいの戦場があって、いくつの戦闘が繰り広げられているだろうか。
 本作品はある家族のことを描いているように見えるが、実は立派な反戦映画である。戦場がコミカルに描写され、将校たちは見るからに愚かしいのがその証拠である。

 日本国憲法の前文の一節に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とある。つまり政治家は戦争が起きないようにするのが仕事なのである。軍備を増強し、日本を再び戦争のできる国にしようとしている現政権は、トチ狂っているとしか思えない。そして本作品にも見られるように、他の国の政治家も、トチ狂っていて、意味なく若者を戦場に送る。

 世の中では、親の愛情は人の命の大切さとともに、無条件に肯定される。しかし必ずしもすべての親に子供への愛情があるとは限らない。そして子供は 必ずしも親を尊敬しているとは限らない。というより、子供は意外に親を客観的に見ているものだ。
 邦題の「運命は踊る」の意味がよくわからない。原題の「Foxtrot」は踊りの一種で、スロー、スロー、クイック、クイックのステップはあまりにも有名だ。父と息子でこのステップを共有しているところが、この父子の関係性を暗示している。運命というよりも、戦争に翻弄された被害者としての体験を共有しているといった方がいい。戦争体験の闇を抱えながら、父は悲しみのステップを踏むのだ。