判官贔屓という言葉がある。はっきりした理由もなく弱い立場の側を応援してしまう心理のことだ。映画やドラマのいじめの場面で、いじめる側よりもいじめられる側に感情移入してしまう心理だと言えばわかりやすいかもしれない。冤罪で警察から追われる主人公を設定すれば、観客はほぼ主人公に感情移入する。
本作品の主人公ゾーイ・ハルはありきたりの女子高生である。父親と狩りに行くことから狙撃銃の扱いには慣れているが、それだけだ。決して海兵隊みたいに強くはない。それがテロリストたちと戦うのだから、鑑賞前から感情移入していた。
ところがである。映画紹介サイトでは学校を襲うのはテロリストとされていたのに、実際に襲ってきたのはその学校の学生とその仲間たちである。しかもいじめられていた学生たちだ。これはいけない。判官贔屓が引き裂かれて、襲った側の学生にも感情移入してしまった。おまけにゾーイが説教などするものだから、思わず「うっせぇわ!」という気分にもなった。ゾーイはいじめる側の人間なのだ。
もちろん、いじめられていたからといって無関係な学生たちまで巻き添えにするのは言語道断ではある。しかしいじめられた者は、その体験を一生忘れることができない。復讐は百害あって一利なしであることは頭では解っているが、怒りの炎は一生を通じて静かに燃え盛る。そして極く稀にその怒りを爆発させてしまう者がいる。もはや定期的と言っていいくらいに起きるアメリカでの学生による銃乱射事件の多くはそういった者たちであると、当方は推測している。アメリカは銃規制と同時にいじめの撲滅を進めていく必要があるのだ。
父親ゆずりなのか、説教臭いところのあるゾーイだが、持ち前の負けん気を発揮して武装学生に立ち向かう。といっても普段から運動もしていないひ弱な女子高生である。できることは限られている。主人公が死んだら物語にならないから、運はたいてい主人公に味方する。しかし命の危険は何度か訪れ、その度にゾーイはなんとか切り抜ける。そのあたりが本作品の見どころだ。死んだ母親のやけにリアルな亡霊は不要だったと思う。
それなりに面白く鑑賞できる作品であることは間違いなく、冒頭のシーンの布石がラストシーンで回収されてスッキリとした終わりになった。という感想にしたかったのだが、丸腰のゾーイへの感情移入よりもいじめられていた学生への感情移入がまさったために、妙に後味の悪さが残ってしまった。
ちなみにスペイン語の美人教師に向かって「ポルファボール!」と言ったのは、おそらく日頃からお高く止まった教師の態度に対抗して「お願いします、だろ」という意地悪な台詞で、一度は言ってみたかったに違いない。その気持ちは、少しわかる。