三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「最後にして最初の人類」

2021年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「最後にして最初の人類」を観た。
 
 このタイプの映画は初めて観た。20億年後の人類からのメッセージを読み取ろうと努力したのだが、いかんせん言葉と言葉の間を埋める音楽が長すぎて、何がいいたいのかさっぱり解らなかった。多分音楽からイメージを読み取って、行間を埋めていくことができれば、本作品も理解できたのかもしれないが、当方には音楽の素養がないので、そんな芸当は不可能だった。
 
 ターミネーターが1984年のアメリカにやってきたのは2029年の近未来からである。本作品は20億年後だから桁が違う。そんな途方もない未来まで霊長目ホモサピエンスが存続し続けているのだろうか。人類の浅はかさを前提にすれば、世界大戦も今後何度か起きるだろうし、食糧危機や内戦や新型ウイルスのパンデミックや異常気象や巨大地震も起きるだろう。世界各地にシェルターが造られて、世界大戦や天災地変のたびに人口が減っていくし食糧も底をつく。
 それでも生きられるように、人類はやがて進化を遂げるだろう。呼吸だけで生きられるとか、鉱物を摂取してエネルギーに変換できるとかいった進化だ。あるいは環境と深く結合して、風力や地球の磁力や太陽エネルギーによって生命を維持できるようになるかもしれない。
 テレパシーなどの超能力もいくつか身に着ける。殆ど動かず、遠くまで届く脳波によって世界中の人と交信し、瞑想することで科学や文化を発展させることができる。言語は形を変えて、誰とでも円滑な関係性を築ける。脳が驚異的な発達を遂げて、もはやコンピュータは不要となる。あらゆる情報は人類共有となり、人類そのものが科学であり文化であり芸術となる。共有の範囲は時間軸を超えて、ついには過去とも交信できるようになる。しかし同時に人類が直面していたのは、アイデンティティの喪失であった。
 
 当方の想像力ではこの程度が精一杯である。ただ、本作品の音楽は大変に心地のいいものであった。加えてティルダ・スウィントンのナレーション。ティルダ・スウィントンといえば映画「ドクター・ストレンジ」や「デッド・ドント・ダイ」などを思い出す。妖しくも超然とした、独特の存在感のある女優で、声もイメージも本作品にぴったりである。あの半透明のような美しい顔を思い浮かべながら、陶然として鑑賞することができた。幸せな時間であった。

映画「復讐者たち」

2021年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「復讐者たち」を観た。
 
 まず本作品がドイツとイスラエルの合作ということに驚く。ネオナチなどの極右が勢力を伸ばしているドイツと、パレスチナ難民に対して暴力的な政策を実行し続けているイスラエル。両国とも不寛容が蔓延しつつあるように見える国だが、映画人はそういった狭量な情緒に陥ることなく、冷静に人類の未来を見つめていると感じた。台詞の殆どが英語なのは、ドイツ語にするとユダヤ人が異人に感じられるし、逆も然りだからだろう。英語にしておけば殆どの国で字幕がいらないという理由もあると思う。
 
 戦争は国家の犯罪だ。断罪されなければならないのは国家の指導者であり、その一味である。国家の指導者を特定するのは容易だが、問題は「一味」の範囲をどこまで広げるかということである。
 第二次大戦のあと日本の国民の多くは、自分たちは軍部とマスコミに騙されたのだと主張した。軍人は命令に従っただけだといい、マスコミは軍部の発表を伝えただけだと言う。では誰に責任があるのだろうか。東京裁判で裁かれた人間たちだけに責任があるのか。
 中国で厖大な人数の民間人を虐殺した関東軍の軍人たちには何の責任もないのか。戦争反対を叫んでいる者たちを逮捕し、投獄し、拷問し、殺した者たちには何の責任もないのか。彼らを密告した近所の人々には何の責任もないのか。「がんばれ日本」と戦争を応援した国民には何の責任もないのか。
 国は一部の横暴な指導者たちだけでは運営できない。国民の賛成がなければ、経済的な後ろ盾を得ることができず、結局は失脚する。クーデターで軍が政権を奪取したビルマも、近いうちに軍司令官のミン・アウン・フラインが失脚すると予想している。再度アウン・サン・スー・チーが政権を握り、少数民族に自治権を認めれば、世界各国からの援助や経済協力が得られるだろう。少数民族に自治権を与えると援助を打ち切るとアウン・サン・スー・チーを脅している国は、ビルマと国交を断絶するかもしれないが、それはそれでいいと思う。
 
 国民のコンセンサスがなければ戦争に突き進めないのは明らかだが、どの国の国民も、他国の民間人の虐殺など望んでいないと思う。虐殺は常に軍によって行なわれる。人を殺すための組織なのだから、当然のように人を殺す。相手が軍人か民間人かの区別は意外と難しいから、全部殺しておけば間違いはないのだ。軍人に深い考えはないから、スパイかもしれない敵国人は皆殺しにするのだ。
 しかし銃後の国民は戦場の現実を知らない。軍が戦場ではなく民間人の住む地域に行って略奪し陵辱し皆殺しにしていることなど知らされようがない。軍人と同様にこちらも深い考えはないが、残虐行為はしていない。ただ新聞を見て勝った、また勝った、日本軍はすごいと応援しているだけだ。その行為は戦争に反対しなかった不作為として責められるが、断罪されるほどのことではない。日本の戦争責任を取って日本国民全員が死刑に処されることはないのだ。
 復讐を考える人間は違う見方をする。学校でいじめられたら、平日の昼頃、つまり殆どの学生と教師が学校にいる時間に、その学校を爆破しようと考えるのだ。あるいはマシンガンを乱射して全員を殺す。
 
 本作品の主人公マックスはユダヤ人であり、腕に識別番号の入れ墨がある。ナチに捉えられた証拠だ。戦後になって妻と娘がナチに殺されたことを知る。復讐を誓うマックスはユダヤ人虐殺の報復を行なっているふたつのユダヤ人集団に合流するが、それぞれの考え方は異なる。マックスはより過激な集団に参加することにした。彼らの計画がプランAである。
 ポイントはみっつ。ひとつはナチスの「一味」の範囲をどこまでとするのか。ひとつはユダヤ人虐殺の報復をする人々に、ユダヤ人代表としての資格があるのかどうか。最後のひとつは、一度も人を殺したことのないマックスに人が殺せるのかどうか。
 
 事実に基づいた映画ということで、実際にそういう報復組織があったのだろう。ただ、ドイツ人とユダヤ人それぞれにホロコーストという史実が齎した澱のようなものがあって、人々がどのように折り合いをつけていったのかが解るし、戦後すぐのドイツ人には依然としてユダヤ人に対する偏見があったことも解る。その偏見は戦後78年を経過した現在に至っても、必ずしもなくなったとは言えない。
 戦後のニュルンベルクの街を驚異の再現力で表現して、演じる役者陣は皆とても達者である。映画としての完成度は高い。ニュルンベルクのシーンは緊迫感がずっと続いて、鑑賞後はどっと疲れてしまった。

映画「夕霧花園」

2021年07月29日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「夕霧花園」を観た。
 
 第二次世界大戦の日本軍は、アジアの各所に深い爪痕を残した。現地の人々をとことん痛めつけ、殺し、服従させ、苦役を強いたのだ。大東亜共栄圏などという耳障りのいい言葉で人々をごまかしながら、行く先々で悪行の限りを尽くしてきた。日本人は昔から薄汚い現実を言葉で美化してきた気がする。戦後になってそれらの言葉がすべて嘘だったことが明らかになったのに、政治家も新聞も手の平を返すように民主主義を讃えてみせた。そして国民は、自分たちは軍部に騙されていたと、自分たちには責任がないと言い張った。当然だが政治家の責任も新聞の責任も追及することはなかった。
 なんだか同じことがいまでも起きていないだろうか。モリカケ問題や桜疑惑では、安倍晋三の関与が明らかなのに、知らぬ存ぜぬで貫き通してしまい、何のお咎めも受けなかった。相次ぐ閣僚の不祥事では、任命者として「責任を痛感している」といいながら、結局何の責任も取らなかった。元国務大臣の甘利明は、大臣室で100万円の賄賂を受け取るという大胆不敵な収賄罪を犯していながら、入院するという王道の裏技を使って議員辞職もせず、しれっと国政に復帰して自民党の税調会長におさまっている。マスコミは追及しない。
 思うに、日本という国は、誰も反省しない国なのではないか。言い訳と自己正当化が国民性なのかもしれない。いじめを咎められて、遊んでいただけ、遊んでやっていると開き直るいじめっ子と、基本的に何も変わらない。その一方で権力者や強い立場の者には従順だ。弱い者をいじめて強い者にはヘーコラする。それが日本人の本質なら、これほど悲しいことはない。東京五輪での感染拡大の責任は誰が取るのだろうか。
 
 本作品はそんな日本人の犯した悪行の傷跡が残るマレーシアを部隊にした戦争映画である。雑魚キャラの日本兵の他にマレーシア軍の敗残兵も登場するが、兵士の例に漏れずこちらもクズばかりだ。沖縄で少女を犯す海兵隊員もそうだが、軍隊という組織は構造的に悪を生み出しやすい。軍隊そのものが人を殺すという悪行のための組織だからと言っていいのかもしれない。
 
 ヒロインはテイ・ユンリンという名前からして、中華系マレーシア人と思われる。演じたリー・シンジエも中華系マレーシア人だと思う。完璧な左右対称の顔が美しい。撮影当時は43歳くらいだったと思われるが、スタイルも綺麗である。ヒロインに相応しい女優さんだ。
 中村有朋という庭師を演じた阿部寛の台詞は殆ど英語で、発音はジャパニーズイングリッシュだったが、それがなかなかいい。思慮深い日本人の庭師の役がよく似合っていた。本作品ではその思慮深さが重要な鍵となっている。
 スパイは肯定されるべきなのか否定されるべきなのか、時代によって異なるのだろう。ジェームズ・ボンドは思い切り肯定されて映画の主役にもなったが、警察のエスや産業スパイ、社内スパイなどはいまでも否定的な評価だ。
 中村有朋が戦中戦後にどのような働きをしたのか、その秘密を有朋はユンリンに託した。有朋が築こうとしている庭は誰の命によって、あるいは誰の依頼で造られるのか。資金はどこから出ているのか。
 映画は異なる年代のシーンをパッチワークのように次々に貼り合わせながら、マレーシアにおける戦争の悲惨さと日本軍の残酷さ、自国の敗残兵の醜さ、正規軍の無力、そしてイギリス高等弁務官による統治下での英国人の贅沢三昧などを背景に、静かで美しい大人のラブストーリーが展開されていく。やがてそれらのシーンがユンリンの背中に凝縮されて、すべての秘密が解き明かされる。とてもよくできた作品だ。どこまでも相手を思いやる大人の恋愛物語は、時代に関係なく人の心を敲つものである。

映画「犬部」

2021年07月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「犬部」を観た。
 
 鑑賞後に違和感が残る。ずっと何かおかしいと思いながら観ていた。それは主人公の偽善なのか、それとも勘違いなのか。
 
 動物愛護は意外に難しい問題を孕んでいる。少なくとも当方はそう考えている。まず愛護動物の定義が難しい。
 当方が学んだ範囲内では、動物というのは分類学上の動物界に属する生物のことで、動物界の下の階層には門があり、背骨のある動物が属する脊椎動物門と背骨のない無脊椎動物門に分かれる。一般に動物と呼ばれるのは脊椎動物門に属する生物である。動物を飼うといったときにイメージされるのは犬や猫、それから鳥、それにせいぜい魚くらいだ。無脊椎動物門の節足動物に属する昆虫を飼う行為は、動物を飼うではなく、虫を飼うといわれる。珊瑚のようにそもそも飼うことが不可能な動物もたくさんある。
 
 動物愛護における愛護動物は、犬や猫などのいわゆる愛玩動物である。日本の動物愛護法では人に飼われている哺乳類、鳥類、爬虫類ということになっている。犬や猫や馬や牛などは飼われていなくても愛護動物と規定されている。
 では魚はどうなのか。アロワナを飼っている知人は、アロワナも十分可愛いので愛護動物とされるべきだと主張している。可愛いから愛護、つまり保護の対象とされるべきだという文脈は、人間にとって肯定的な印象で語られる動物が保護されるべきだということになる。珊瑚が保護されるべきだと言われているのは、それが人にとって美しいという印象で語られるからだ。
 可愛いとか美しいとかいう対象は、人によって異なる。昆虫を可愛いという人もいるし、中にはゴキブリを美しいという人もいる。アロワナが可愛いという主張も含め、それらを否定する根拠は、ほぼない。アロワナを飼育して精神の安定が得られるなら、その行為は肯定されるべきだ。かくして愛護の範囲は広がっていく。
 
 動物愛護を語る際に引き合いに出されるのが肉食である。人間は牛や馬や豚や鳥を殺して食べる。魚やイカやタコやウニも殺して食べる。犬やハクビシンを食べる国もあるし、昆虫を食べる人もいる。人間は結構なんでも食べるのだ。ただ、動物愛護を主張するなら、愛護動物である牛や馬や豚や鳥を殺して食べるのはおかしいだろうという主張がある。
 論理的に言えば、動物を飼うことでオキシトシンを分泌させて精神的な安定を得る行為と、動物を殺して食べる行為は、人間の利益のためという点でまったく同じ行為であって、少しも矛盾するところはない。犬や猫を飼っている人がステーキを食べても何の問題もないのだ。もちろん豚を飼っている人が生姜焼きを食べても何の問題もない。
 
 動物愛護法では愛護動物をみだりに殺したり傷つけたりしてはいけないとなっていて「みだりに」というところが大事なのだ。人間の用に益する場合は「みだりに」に当たらない。野良犬や野良猫となって人間に害する場合、本来の愛護動物であるはずの犬や猫は害獣となり、駆除の対象となる。飼い主のない犬や猫は野良になる前に殺処分して人間の害を予防する。保健所は「みだりに」動物を殺すわけではない。
 逆の言い方をすれば、人間の利益だけが判断基準であって、動物側の都合は一切考慮されない。人間の都合を主な原因として絶滅する生物は毎年数万種にのぼる。地球にヒトが登場して文明を発達させて食物連鎖の頂点に立った以上、ヒト以外の生物が不利を受けるのはある意味自然なことである。
 本作品の登場人物の多くが、動物を飼うことと動物愛護を混同している。たしかに「可愛い」と「可哀相」は情緒的には対象が同じである。「可愛い」猫が殺されれば「可哀相」となる。ゴキブリを「可愛い」と思う人は、ゴキブリが殺されれば「可哀相」と思うだろう。
 つまり現在の動物愛護は科学や論理に基づいている訳ではなく、多数派の情緒に基づいているのだ。ゴキブリを「可愛い」と思う人が過半数に達すれば、ゴキブリは愛護動物となって「みだりに」殺したり傷つけたりしてはならないとなるだろう。
 人間は自分の利益のために犬や猫を飼う。対して動物愛護は「みだりに」殺されたり傷つけられたりする動物が「可哀相」という観点から、動物の不利益を予防するものである。まったく異なるこのふたつの行為が「可愛い」と「可哀相」の情緒の対象の一致から、同じ行為として混同されている。
 犬や猫に不妊手術を施すことは、人間に飼われない動物が殺処分されるのを防ぐためであるが、それは人間の都合であって、動物にとって生殖機能を奪われるのは明らかに不利益なことだ。つまり動物の不妊手術は、動物愛護と真っ向から対立する行為なのである。人口が多すぎるからといって人間の子供に不妊手術を施したら、それは人権侵害であり、犯罪となるだろう。犬や猫も不妊手術なんかされたくないのだ。大人の人間が自ら望んで不妊手術をするのはまた別の話である。
 
 林遣都くんも中川大志くんも、とても上手に演技をしていて、その点は高く評価するが、主人公の頑張りに感動するより前に、自己撞着に対する鈍感さが目に余るから、鑑賞後にとてつもない不快感が残る。今回はその不快感を当方なりに分析してみた。人それぞれに違う分析があると思う。動物愛護の問題はやはり難しい。考えるきっかけになると言えば、本作品にもそれなりの意義があると思う。

映画「ドアマン」

2021年07月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ドアマン」を観た。
 
 北村龍平監督は、よほど方々に遠慮しながら本作品を撮ったに違いない。元海兵隊の軍曹が活躍する映画だが、任務に失敗したトラウマを描きたかったのか、それとも家族の確執を描きたかったのか、それとも他の何かを描きたかったのか、はっきりしない。だからストーリーが間延びしている。アクション映画で間延びしたシーンがあるのは致命的で、主人公アリの強い意志も感じられなければ、危機感もなかった。
 
 トラウマを克服するのであれば、失敗した任務のように誰かに判断を委ねるのではなくて、すべて自己判断で行動する、撃たれる前に撃つ、といった行動原理になるはずだ。ところがアリは、撃てる場面で撃たなかったり、武器を捨ててしまったりする。おまけに追っ手が迫っているのに、小僧の無意味な話を長々と聞く。家族の確執はこの際どうでもいい。人間関係の説明など不要だ。観客の興味はそんなところにない。
 強大な敵に対して、海兵隊の訓練と実践で培ったスキルで危機を切り抜け、目的を果たす。ときには追い詰められ、ときには敵を罠にハメる。そういった場面がジェットコースターのように次々に映し出されるのを観客は期待しているのだ。
 
 しかし本作品の敵はというと、ジャン・レノ演じる裏社会の画商が雇った、そこらへんのワルが数人と、悪徳警官だ。強大な敵でもなんでもない。せめて大勢の元傭兵だとか、元CIAのエージェントだとかにしてほしかった。
 悪徳警官との格闘場面もいただけない。いくら男女の差があっても、相手を無力化するための近接格闘術を体得している海兵隊員が、逮捕術しか学んでいない警察官相手に、素手の格闘で苦戦するはずがない。数秒で勝てるはずだ。このシーンもリアリティに欠けていた。
 
 細かいところを言えば、指摘したい点が他にもいくつかあるが、まとめて言うと、主人公アリの情けなさが目立ったということだ。元海兵隊員らしさがない。つまり主人公に魅力がないのである。おかげで鑑賞中に何度も時計を見てしまった。

映画「ラン・ハイド・ファイト」

2021年07月25日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ラン・ハイド・ファイト」を観た。

 判官贔屓という言葉がある。はっきりした理由もなく弱い立場の側を応援してしまう心理のことだ。映画やドラマのいじめの場面で、いじめる側よりもいじめられる側に感情移入してしまう心理だと言えばわかりやすいかもしれない。冤罪で警察から追われる主人公を設定すれば、観客はほぼ主人公に感情移入する。
 本作品の主人公ゾーイ・ハルはありきたりの女子高生である。父親と狩りに行くことから狙撃銃の扱いには慣れているが、それだけだ。決して海兵隊みたいに強くはない。それがテロリストたちと戦うのだから、鑑賞前から感情移入していた。

 ところがである。映画紹介サイトでは学校を襲うのはテロリストとされていたのに、実際に襲ってきたのはその学校の学生とその仲間たちである。しかもいじめられていた学生たちだ。これはいけない。判官贔屓が引き裂かれて、襲った側の学生にも感情移入してしまった。おまけにゾーイが説教などするものだから、思わず「うっせぇわ!」という気分にもなった。ゾーイはいじめる側の人間なのだ。
 もちろん、いじめられていたからといって無関係な学生たちまで巻き添えにするのは言語道断ではある。しかしいじめられた者は、その体験を一生忘れることができない。復讐は百害あって一利なしであることは頭では解っているが、怒りの炎は一生を通じて静かに燃え盛る。そして極く稀にその怒りを爆発させてしまう者がいる。もはや定期的と言っていいくらいに起きるアメリカでの学生による銃乱射事件の多くはそういった者たちであると、当方は推測している。アメリカは銃規制と同時にいじめの撲滅を進めていく必要があるのだ。

 父親ゆずりなのか、説教臭いところのあるゾーイだが、持ち前の負けん気を発揮して武装学生に立ち向かう。といっても普段から運動もしていないひ弱な女子高生である。できることは限られている。主人公が死んだら物語にならないから、運はたいてい主人公に味方する。しかし命の危険は何度か訪れ、その度にゾーイはなんとか切り抜ける。そのあたりが本作品の見どころだ。死んだ母親のやけにリアルな亡霊は不要だったと思う。
 それなりに面白く鑑賞できる作品であることは間違いなく、冒頭のシーンの布石がラストシーンで回収されてスッキリとした終わりになった。という感想にしたかったのだが、丸腰のゾーイへの感情移入よりもいじめられていた学生への感情移入がまさったために、妙に後味の悪さが残ってしまった。

 ちなみにスペイン語の美人教師に向かって「ポルファボール!」と言ったのは、おそらく日頃からお高く止まった教師の態度に対抗して「お願いします、だろ」という意地悪な台詞で、一度は言ってみたかったに違いない。その気持ちは、少しわかる。


映画「Never Rarely Sometimes Always」(邦題「17歳の瞳に映る世界」)

2021年07月23日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Never Rarely Sometimes Always」(邦題「17歳の瞳に映る世界」)を観た。
 
 性犯罪は加害の対象が財産ではなく身体であることから、被害者の心を深く傷つける。同じく身体を攻撃する傷害は被害が医学的に明らかであるのに対し、性犯罪は被害を物証によって証明することが難しい。加害者側や冷酷な裁判官がそこを追及すると、被害者の心はさらに傷つくことになる。性犯罪は、被害者の身体だけでなく、人間としての尊厳を傷つけるのだ。
 人工妊娠中絶を肯定するか否定するかは、宗教も絡んで複雑な議論となっている。しかし性犯罪の被害者が人工妊娠中絶を望むのは不自然ではない。動物や昆虫の雌が雄を選ぶように人間の女性も、もし子供を望むとしたら、自分で選んだ男性との子供を望むのではないだろうか。
 
 本作品のハイライトは、多くの人が同意見だと思うが、原題でもある4択の回答例を出してカウンセラーが主人公オータムに質問する場面である。性行為についての質問をするのだが、初体験の年齢や相手の人数を聞く。場合によってはノーマル、アナル、オーラルなどの際どい質問もするが、オータムは淡々と答えていく。しかし相手との関係性を4択で質問するあたりから、オータムは答えられなくなる。それはオータムの人格が傷つけられた体験であるからだ。
 物語の中では明かされないが、赤ん坊の父親は誰なのか。オータムの母親はオータムのことを気遣っている。そういう場合、娘と母親の関係は良好である。しかしオータムは妊娠のことを母親に相談できない。オータムには幼い弟妹がいて、母親は弟妹の世話で手一杯である。オータムの父親と夜の相手をするのも大変だ。父親がオータムを見る目は怪しさで溢れている。ということで本命は父親。対抗は学園祭で下品な掛け声をかけたアホ男子だ。相手の人格が低劣なだけに、尚更オータムの心は傷つく。だから4択の質問に答えられず泣いてしまう。
 
 オータムを演じたシドニー・フラナガンはまだ無名の女優だが、17歳のオータムの幼さと勇気の両方を上手に演じていた。相手役の従姉妹スカイラーを演じたタリア・ライダーが素晴らしい。2002年生まれで撮影時は17歳か18歳であったが、幼さの残るオータムよりもずっと世の中を知っていて、感情に流されることなく現実的に行動するスカイラーをリアルに演じる。ときには現金を盗み、時には嘘を吐き、時には唇を与えて現金を得る。大人でも舌を巻く強かさだ。
 
 ニューヨークは、行ったことのない当方から見ると、相当危険な街だという印象だ。ワルがそこら中にいるだろうし、拳銃を持っているかもしれない。若い女性は格好の獲物だ。しかしスカイラーの判断力と夜の下町に近づかない賢明さによって、なんとかニューヨークの夜をやり過ごす。これは本作品のコンセプトに従ったストーリーだと思う。主人公をこれ以上酷い目に遭わせると、物語のテーマがずれてしまうのだ。それにしても、二晩も寝ないでいられるとは、さすがに17歳の体力である。
 幼い精神性の残るオータムだが、スカイラーの助けもあって勇気を出して行動した。彼女にとっては4日間の大冒険だった。この体験はオータムを生涯にわたって勇気づけるだろう。これからはノーと言える人生を送るのだ。

映画「インベイド」

2021年07月22日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「インベイド」を観た。
 
 オーストラリアのSF映画である。邦題の「インベイド」は原題の「Occupation: Rainfall」のOccupationを侵略と翻訳して、侵略するという動詞のinvadeを当てはめたのだと思う。既に2018年に「Occupation」という原題で製作されていて日本でも「オキュペーション 侵略」という邦題で公開されているから、紛らわしさを少しでもやわらげようとしたのかもしれない。しかし監督もキャストも設定も同じだから続編扱いでよかったのではないか。当方なら「オキュペーションⅡ レインフォール」というタイトルにする。多分そのほうがわかりやすいと思う。
 チクシュルーブは6600万年ほど前、つまり白亜紀に地球に衝突した直径10キロほどの天体のことで、地球に大惨事を巻き起こして恐竜を始めとする生物の大半を死滅させた。衝突した場所はメキシコあたりとされていて、オーストラリアとはかなり離れている。もしかするとチクシュルーブはもうひとつあったのか。
 太陽が天の川銀河の中心を一周する期間は2億年である。天の川銀河の大きさは厚さ3万光年で直径10万光年の円盤状とされている。異星人がどんなに長生きでも、コールドスリープを使っても、天の川銀河の外から来た可能性はとても低いというか、地球に来れる可能性はほぼゼロである。それでも来たとすれば、その技術力は人類には考えも及ばないほど高度なものである。
 
 映画は戦闘シーンが中心だが、その多くが映像が暗すぎる上に、大勢が入り乱れるから何が何だか分からないまま終わる。この点が最も不満だ。
 オーストラリアの田舎に突如として大型の宇宙船が出現して住民を皆殺しにして、近くにいた軍隊の一部が反撃を始めたらしいのだが、なんとそれから2年が経過したのが本作品だ。軍隊の責任者の階級は中佐である。中佐が指揮するのは大隊クラスだから、兵員の数は500人程度と思われる。どうにもショボい。
 諸外国が何の反応もしないはずがないのだが、多分世界中に同じような反重力で浮いている宇宙船が出現して攻撃を始めたので他国に構っている余裕がなかったのか。初動攻撃で何十億人も死んだという情報を得て以降は通信が絶たれたのかもしれない。しかしそれにしては戦闘機のパイロットとは通信ができる。
 本作品では侵略に反対して地球人の側に回った異星人がいる設定だが、故郷の星を失って地球に侵略に来た仲間は一蓮托生の運命のはずで、造反者が出る可能性は極端に低い。むしろナショナリズムの高揚の中で、宇宙を旅してきた高度な技術力であっという間に人類を制圧するはずだ。
 戦力が圧倒的に不利な状況で新型の生物兵器が生産されれば、その使用を躊躇う軍人はいない。敵を殲滅するのであれば早く使わないと損だ。戦闘が続いている状況では、早ければ早いほど味方の被害が防げる。戦争に人道主義はそぐわない。
 
 不明な点が満載すぎる上に、登場人物にこれといった魅力のある人物がおらず、何の感情移入もないまま、茫然と映像を観ていたというのが正直なところだ。はっきり言って、どうでもいい作品である。 エンドロールにRAINFALL CHAPTER1と出て腰を抜かしそうになった。CHAPTER2を観たい人は極端に少ないと思う。

映画「SEOBOK ソボク」

2021年07月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「SEOBOK ソボク」を観た。
 
 主演のコン・ユは前出演作の映画「82年生れ、キム・ジヨン」で初めて見た。自由を求める妻と封建的な実家の家族との間に挟まれて、優柔不断な態度の気弱な夫を上手に演じて見せていて、なかなか好感が持てた。本作品でもそれと似たような優柔不断な工作員ギホンを演じていて、やっぱり上手い。こういう役がハマっているのだろう。クローンの青年ソボクを演じた俳優は、無表情の中に悲しみが見えて、こちらもとても上手だった。
 
 映画紹介サイトでは「危機的な状況の中で逃避行を繰り広げるギホンとソボクは、衝突を繰り返しながらも徐々に心を通わせていく」とあるが、少し違う。ソボクは人工的なミュータントであり、人工的ということから、自分のアイデンティティに疑問を持つ。何のために生み出されたのか、永遠に生きるとはどういうことか。その疑問をそのままギホンにぶつけるのだが、その哲学的な問いかけにギホンは戸惑い、返す言葉がない。
 推測だが、工作員であったギホンは命令に従うことに慣れ、自分で考えることに慣れていない。ソボクの問いかける疑問など、考えたことすらない。上の者の命令に従い、それが正義であると信じてやってきた。しかしソボクの問いかけは、正義云々よりも前の、生きるとは何かという人生観の問いかけである。ギホンは自分の来し方を振り返るが、そこに答えはなかった。
 ストーリーはソボクを巡る3つの陣営の争いだが、アメリカは直接手を下すことはなく、韓国内の官僚と大企業の経営者との戦いとなる。ソボクを守るためにはどちらを信じるべきか。ギホンは単純だから、信じられないと判明した逆の側を信じる。しかし現実はもっと複雑だ。ギホンが工作員としてやっていけなかった理由がこの単純さにあるのだろう。もうひとつは非情さに欠けることだ。
 
 二人きりの逃避行で互いに影響し合う訳だが、ソボクがギホンに影響されたのに対して、ギホンの方は根本的にはまったく変わっていなかった。ソボクの問いかけに、世界とは、生命とはというテーマを少しだけ考えてみた程度だ。もしソボクから影響を受けていたら、最後に銃弾を向けるのは自分の脳だったはずである。
 そうなれば、ひとり残されたソボクに、さらなる哲学的な自問自答が湧き起こる。そこでソボクがどのように考え、どのような行動を選ぶのか、それが観たかった。あのシーンと哲学の組み合わせは頗るレアだと思う。少なくとも当方は観たことがない。しかし期待した展開にはならなかった。途中まで実存的な会話が続いて面白かったのに、最後にありきたりな世界観で終わってしまったのがとても残念である。ダメ男のギホンは、最後までダメ男で終わってしまったのであった。

映画「竜とそばかすの姫」

2021年07月20日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「竜とそばかすの姫」を観た。
 
 細田守監督の作品は「バケモノの子」と「未来のミライ」のふたつを鑑賞したが、いずれも説教臭いし偽善的だという印象で、あまり高い評価は出来なかった。
 ところが本作品は打って変わってニュートラルなものの見方をしている。インターネット時代というか、SNS時代というか、兎に角賛否両論がネットに飛び交う中で、そういったことを気にせず自分の世界、現実の世界をしっかり生きる。いいものはいい、駄目なものは駄目だとはっきり言う。誰も参加してくれなくても、たったひとりでも、やりたいことをやる。主人公内藤鈴の周囲は、そんな魅力あふれる人たちでいっぱいだ。安っぽい説教はどこにも出てこない。
 
 声優陣が素晴らしい。コーラスグループのおばちゃんたちの歌がやけに上手いので、鑑賞後に確認したら、森山良子、坂本冬美、岩崎良美などの錚々たるメンバーだ。みんなアフレコの喋りも上手い。
 そして主人公すずとベルの声と歌を担当した中村佳穂。当方は不勉強にしてこの女性歌手を知らなかったが、語るように歌うところやソプラノの声の伸びやかさに少し驚かされた。本作品は圧倒的な歌の巧さが要求される映画で、よくこういう人を探してきたものだと、細田監督のキャスティング能力に感心した。
 ストーリーはゲームとリアル、アバターと本人という、割とありがちな組み合わせで進んでいく。主人公のトラウマと家族関係とラブストーリーを上手く融合させて、軽い感じの物語に仕立てている。ともすれば重くなりそうな設定を、コーラスグループのおばちゃんたちなどを絡めることで、サラッと流しているから、観客も辛くなく気軽に鑑賞できる。「ああ、面白かった」と思えるエンタテインメントアニメの傑作だ。細田監督、お見事です。