三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

自殺の先延ばし

2016年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

私は自分では鬱病ではないと思っています。もともと鬱病というのは躁鬱病のことで、強気と弱気、歓喜と悲哀、希望と幻滅が激しい状態のことだと思います。鬱病の人が自殺するのは幻滅して深い悲哀を感じ、極端に弱気になっているときです。
大学の心理学で、人間の気質と気性について学びました。気質は躁鬱質、分裂質、癲癇質の3つに分類され、気性は強気、中気、弱気の3つに分類されるそうです。人間の性格は、気質と気性で3×3の9種類に分類されるとのことでした。
気質の分類がいずれも病気のような名前であることが目立った特長です。躁鬱病、精神分裂病、癲癇。癲癇が脳の器質的な特徴なのであるとすれば、躁鬱病も精神分裂病も同様に脳の器質的な特徴なのかもしれませんね。

会社では、ここ数年、産業医なるものが月に一度やってきます。労働者の衛生環境と健康を維持するためとのことですが、受診する人は誰もいません。悩みを相談して、万が一鬱病とでも診断されてしまったら、仕事を減らしたり休んだりしなければならないし、当然仕事しない間は無給だし、場合によっては会社を辞めなければならなくなるかもしれません。会社組織の中では、自分は大丈夫、元気一杯ですとアピールし続けることが生き延びる知恵のひとつです。誰が好きこのんで仕事をやめさせられたいと思うでしょうか。
産業医が訪問することになった元の法律というのが、製薬会社とつるんで国民を薬漬けにすることに余念のない厚生労働省が中心になって作った「労働安全衛生法」という法律です。厚生労働省は利権を拡大し、予算を確保して天下り先を確保するのが仕事ですから、この法律もその基本に従って作られています。ひとつの法律が施行されると、その法律を守るためのビジネスが生まれます。それはとりもなおさず、天下り先が生まれたのと同じことです。
天下の悪法であるマイナンバー法も然りです。「マイナンバーはおまかせ」と、NTTをはじめとするハイエナみたいな企業が既にテレビコマーシャルもはじめています。ちなみにNTTは、電話加入権という、詐欺みたいな用語を使って電話の加入者から現金を預かって、それを絶対に返そうとはしません。アパートの大家さんだって敷金は返してくれるというのに、NTTは悪質です。悪質どころか、役人や政治家に働きかけて、法律を変えて、電話加入権の現金を返さなくていいことにしたという、日本でも最悪の企業です。悪の総本山の企業と言っていいでしょう。それを法律が守っている。摩訶不思議な国です。

もともと法律というのは共同体と個人、共同体と共同体、個人と個人の間の権利義務関係を調整するためにあるはずです。調整することで、全体の生産性や生活が向上して、国家全体が豊かになるためのものです。
しかし日本の法律は違います。役人と政治家が豊かになるためのものだからです。マイナンバー法で生産性が向上したり生活が向上したりするかというと、そんなことはあり得ないと、誰もが直感的にわかります。
それでもそんな法律を作る。そして羊のような国民は、唯々諾々としてそれに従います。戦後70年経ってもまだ「お上」という権威は圧倒的な力を持っているのです。
マイナンバーなどというどうしようもない法律を作る安倍政権の支持率が40%を超えていることからも、日本人がいまだに権力に効し難い性格の人間ばかりであること、個人よりも共同体に重きを置く国民性であることがわかります。

こんな日本とは早くオサラバしたいところですが、外国に目を向けてみても、フランスのオランド大統領が「これは戦争だ」と言ってみたり、イギリスが空爆を開始したりと、世界の指導者も安倍に劣らずアホばかりです。行くべきところはどこにもない気がします。鬱病でなくても世の中に幻滅して深い悲哀を感じ、極端に弱気になるのは私だけではないでしょう。

ということで、なるべく早くこの世からいなくなるのが最善です。日本も世界も、まったく救いようがありません。人間というものがもともと救いようのない存在だからなんだということが、自分も人間であることを厳粛に踏まえつつの、新年早々の認識なのでした。
日本も人類も、未来はありません。人類に取って代わる何かが次の世代の中心になるでしょう。それが何かを見届けたい気もしますが、機械が機械を自己複製する時代はさぞかし気持ちが悪いでしょうね。

そうは言っても、自殺を実行に移すと移さないとでは大きな隔たりがあります。漠然と、自分と共同体と人類に絶望的な見通しがあったとしても、それだけではなかなか自殺という行為には至りません。早く死ぬことについては構わないが、自殺するというのとは違います。
今年は、自殺を念頭に置きつつ、少しはいいことがあるのではないかと映画を観たりコンサートに行ったりしつつ、なんだかよくわからないうちに一年が終わりそうで、そしてなんだかわからないうちに一生が終わりそうな、そんな一年になる気がします。