三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

自由ということ

2014年07月13日 | 政治・社会・会社

私の勤務先の会社では、最近は少なくなりましたが以前は毎日のように経営者が従業員を殴りまくっていました。私も先日、こっぴどく殴られました。

人間は悲しい動物で、人間同士の関係性の中にしか喜びを見出せません。そしてその関係性というのが一筋縄ではいかないもので、支配被支配、主従、優劣、依存、相互依存、隷属など、あまり好ましいとは思えないような関係ばかりです。これは人間の気質が分裂質、躁鬱質、癲癇質と、ほぼ病気みたいな3種類に分類されるのと相通じるところがあるような気がします。

本当に平等で対等で友好な関係というのは、存在しないのではないでしょうか。力関係がまったく対等というのは却ってバランスが取りにくい面があって、例えば二人の人間が一緒にどこか出かけるときに、一方が一方をリードすることのほうが多いでしょうし、完全に平等な協議によって決定するのは時間がかかりすぎることも含めて現実的ではないように思えます。
リードしリードされる関係は、必ずしも友好的な関係でないとは言えません。二人の関係で言えば、互いの得意分野があるとき、それについては互いにリードし合うのが現実的です。どちらがリードするか、あるいは誰がリードするかについては、人間関係を不平等にするファクターではないように見えます。しかし実はそれは少人数の話です。人数が増えていくと、リードする人間はいつも同じ人間になります。リーダーの固定化です。リーダーが固定化した瞬間に支配と被支配、主従などの関係が生じます。これが不平等をもたらすのです。

人間というのは環境に適応して生き延びる動物なので、生まれた社会が支配と被支配、主従関係などで出来上がっていると、それを当然のことのように受け入れ、その条件下で生き延びようとします。社会の制度や仕組み自体がおかしいのではないかと思うのは少数派です。大多数はどうすれば自分が得をするかばかりを考えながら生きていて、たくさん得をした人のことを「成功者」と呼んで崇め奉ったりします。私からすれば、単なる我利我利亡者に過ぎないと思うのですが。

大正の詩人、中原中也の詩に次の一節があります。

(前略)
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
(後略)

100年前もいまも、この国の人々はまったく変わっていないということですね。
稼ぐ人が善で稼がない人は悪とされます。たくさん稼ぐ人がリーダーとなり、自分で稼ぐ能力がない人を奴隷のように使います。経済的な支配と被支配の関係が確立するのです。欧米では神がいて人間がいるので、経済的な主従関係がそのまま人間関係の主従関係とはなりませんが、日本には神がいないので経済的な主従関係がそのまま人間関係の主従関係に一致してしまいます。休みなしで働かされても文句が言えなかったり、ボスが感情的に部下を殴ったりするのは、日本の人間関係が一元的で固定的であるためです。このことから、部下を殴る人というのは、人間関係がどのようにして出来上がり、どのようなメカニズムを持っているのか、それはいいことなのか悪いことなのかということについての問題意識を何ひとつ持たない低能な人であることがわかります。

実は他国の国民を殺しに行くのもまったく同じ精神構造から生まれています。国家という共同体があって、それに属している以上リーダーには従わなければならない、国のために死ぬのであればそれは幸せだという一元論です。主従関係から離脱しようとすれば共同体から放り出されることになります。または共同体の決めた規範によって処罰されます。
社会のこういったありようは、非人間的であり、不自由ですが、リーダーが固定化されている以上、自由な社会は存在しえません。生き延びようとすれば不自由に甘んじて、不本意な行動と生活を続けていくしかないのです。

せめて自分の内面だけ、精神だけは自由でいたいと願っています。