日本の社会は晩婚化、少子化が進みました。未婚化も進んでいます。子供を生むのが当たり前のように思われていた時代から、別に子供を作らなくてもいいという時代に少しずつ変化してきているようです。
私は2006年に「ニート・引きこもり」というタイトルの記事を書きました。浅田彰さんの「逃走論」のロジックから、世の中はパラノドライブによって展開してきまして、それと異なる価値観がニート・引きこもりにあるのだと書きました。そして社会のバランスのためにはニート・引きこもりも一定の役割を果たしているのではないかと論理を展開しました。
実際に今は価値観が大きく変動する時代にあると思います。創世記にある「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という時代ではなくなったのではないでしょうか。これまでは盲目的に子供を作って世代を引き継ぐことが当然の生き方でしたが、これからは子供を作らない、子孫を残さない選択が主流になっていくでしょう。子供は、作りたい人だけが作る。作りたくない人、子供が嫌いな人、子供の将来が展望できない人は子供を作らない自由があります。
ブッダの言葉「スッタニパータ」には、悪魔から「ゴータマは子がいないから子のいる喜びがない」と言われて、釈迦は「子がいないから子のいる憂いがない」と答えたとされています。執著があるから憂いがある。執著がなければ憂いがない。子がいたり名前をつけたりすることが執著である。子を持たず、いかなるものにも名前をつけなければ執著がなく、憂いがないという理屈です。「スッタニパータ」を読んだことのある人はそう多くはないと思います。しかし世の傾向として、子供を作らない夫婦や結婚しない人が増加しているということは、まさに現代が悟りの時代であることを示しています。「スッタニパータ」を読まずとも、子供を作らない選択をするのは、子供を作るというパラノドライブの一環として生きるよりも、個人の充実を優先するという精神的な充足を模索する方向です。それは世の中が知らず知らずに「諦め」の意識を持ちはじめた現れではないかと思います。
電車の中でまだ未成年と思われる娘さんと母親が次のような会話をしていました。
「あなたも早く結婚して子供を作らないとね」
「私は子供はいらない」
「どうしていらないの。子供が嫌いなの?」
「子供は別に好きでも嫌いでもないし、作りたい人は作ればいい。でも私はいらない」
「そう。でも子供を作るのは女の幸せよ」
「そんなの何の根拠もない。 何が幸せかもわからないし、自分が幸せになりたいのかもわからない。ただ、子供はいらない。それだけはわかっている」
「そんなものかしら」
なかなかに頭のいい娘さんのようで、母親はそれ以上何も言えないようでした。
この娘さんの発言は画期的な意見で、女は結婚して子供を育ててという古い人生観をバッサリ切り捨てています。そしてその上で、子供を作らない自由があることを主張しています。
人間以外の生物は、自分のコピーを増やそうとする本能に逆らわないように見えます。種の保存というやつですね。しかし人間は、必ずしも種の保存の本能に盲従しなければならない訳ではありません。電車の娘さんのように、子供を作らない自由もあるのです。そして、昔は若い女性がそんな発言をしたら、大人たちにたしなめられていたところを、いまはひとつの意見として受け入れられるようになりました。
こういった世情の変化について、政治家はまったく鈍感です。少子化対策をしている女性閣僚がその最たるもので、子供を生んだらお金をあげるという愚かな政策を実施しようとしています。ひとり生んだら1千万円とか、それくらいの金額でないとお金をもらえるから子供を生むという発想にはなりません。そして税金からそんなお金を出すとなると、子供を作らない人との差別になります。差別だと騒がれない程度のお金で済まそうとしているなら、絶対にうまくいきません。生んだらお金をあげるという発想は、だから愚かなのです。
ではどうすればいいかという話になりますが、どうもしなければいいのではないかと思います。少子化だから、何が悪いのか?国が貧しくなる?当然です。国は貧しくなったり富んだりします。そうやって歴史は作られてきました。今後日本は貧しい国の仲間入りをすることになるでしょう。経済が縮小して、生活レベルも落ちていきます。それの何がいけないのか?
国民に子供をたくさん作らせて労働力を増やし、経済の縮小を防ぐことなんてことが本当に可能だと思っている政治家がいるとしたら、おめでたい人だと思います。庶民はもっと現実的です。子供を作っても自分は充実した人生を送ることができないだろうと見通しているからこそ、電車の娘さんは「私は子供はいらない」と言ったのです。そしてこれは、若い女性のかなりの割合を占める意見なのです。家とか血縁とかの価値観が低落してしまいました。だからそういう価値観の上に人生を成り立たせることができないのです。自分の人生は、自分が死んだらそれで終わりで、自分が死んだときに世界が終わるのです。死んだあとのことを考えない人にとって、子供は不要なのです。国民は、国家にとっての国民の役割という体制的な決め付けから精神的に独立してきています。国は国、自分は自分という訳です。国あっての自分なのではなく、自分たちがたまたま日本に生まれたという偶然の中で、自分達なりの選択をしているのです。
子供を生まない自由は、人間だけの当然の選択として尊重されなければなりません。それは国民と国家の関係性の変化として受け止めるべきなのですが、靖国神社に参拝する愚かな女性閣僚たちには理解できないでしょうね。