三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「風が吹くとき」

2024年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「風が吹くとき」を観た。
映画『風が吹くとき』(日本語<吹替>版)/8月2日(金)公開

映画『風が吹くとき』(日本語<吹替>版)/8月2日(金)公開

映画『風が吹くとき』(日本語<吹替>版)/8月2日(金)公開

 録画だったが、テレビで森繁久彌がある告白をしたのを聞いたことがある。うろ覚えだが、次のような内容だった。「屋根の上のバイオリン弾き」の舞台を上演したとき、最前列に座っていた観客が、ずっと目を閉じて眠っているように見えた。芝居が終わって最後の挨拶のときに「あなたずっと寝てましたね」と、その観客に声をかけた。するとその人は「私は目が見えませんが、芝居はとても感動しました」というような内容のことを言った。森繁はそれを聞いて自分の不明を恥じ、その人の優しさに泣いてしまったそうだ。
 
 森繁の声を聞いたのは、それ以来だと思う。本作品では普段の張りのある声ではなく、感情を抑えて理性に依拠したインテリの声で芝居をしている。しかし、共演する女優に「一回どう?」と声をかけていたという好色な噂もあった彼の、そこはかとなく艶のある声でもある。天真爛漫な妻ヒルダに対するジムの飾らない愛が滲み出ていた。
 
「いまは科学が進んでいるから」がジムの口癖だ。ヒロシマ・ナガサキの頃はまだ科学的な対処が不十分だったと思っている。最新の科学に基づいた政府の方針に従えば、きっと原爆の被害からくぐり抜けられると信じている。そしてヒルダは夫を信じて従う。
 
 しかし戦争を起こす政治家が信じられる筈もない。政治家の役割は共同体の人民を守ることだ。決して共同体を守ることではない。国ではなく、国民を守るのだ。それが民主主義である。国を守るのは国家主義であって、民主主義とは正反対である。
 
 憐れなジムは、民主主義者でなく、国家主義者の政治家を信じてしまった。科学を信じるジムは、科学が原爆を作り出したことに思い至らない。しかしジムを信じるヒルダは、ジムに言う。「あなた、ありがとう」
 政治家がこんなふうに善意の夫婦を原爆の被害者にしていい筈がない。しかしその政治家を選んだのは、ジムを含めた有権者だ。哀れ過ぎる話だが、この夫婦は、有権者の典型として描かれている。哀れなのは我々、世界中の有権者なのだ。
 
 間もなくヒロシマ・ナガサキの79回目の原爆記念日が来る。この79年間、世界はちっともよくなっていない。むしろキナ臭くなり、悪くなっている気配が濃厚だ。それでもこの時期に本作品がリバイバル上映されたことは、意味のあることだと思う。

映画「Svetlonoc」(邦題「ナイトサイレン/呪縛」)

2024年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Svetlonoc」(邦題「ナイトサイレン/呪縛」)を観た。
映画『ナイトサイレン 呪縛』公式サイト

映画『ナイトサイレン 呪縛』公式サイト

映画『ナイトサイレン/呪縛』公式サイト。その村で、女は魔女となる――現代の《魔女狩り》フォークホラー解禁。8月2日(金)ヒューマントラストシネマ渋谷、池袋シネマ・ロサ...

映画『ナイトサイレン 呪縛』公式サイト

 2日前に観たばかりのキティ・グリーン監督の映画「ロイヤルホテル」に似て、歪んだ社会での女性の受難が描かれている。
 
「石女」という言葉をご存知だろうか。読み方は「うまずめ」で、子供を産めない女性を意味する。結婚しても子供ができない場合に、そう呼ばれて差別されることがある。一般的には死語になっているか、少なくとも放送禁止用語になっていると思われる。
 何故そんな言葉を紹介したかというと、それが家父長制や封建主義的社会の象徴のような言葉だからだ。家父長制では、女性の最大の役割は子供を産むことで、産めない女は石女として蔑まれる。しかし人間は、子供を産むために生まれてきたのではない。人間が実存と呼ばれる最大の理由がそこにある。生命は自己複製のシステムであり、人間は生命ではあるが、人間にとって自己複製は義務ではないのだ。
 マイノリティの人権擁護が声高に叫ばれる先進国の都会では、子供を産むことを否定する主張まである。それはやや行き過ぎの気もするが、後進国や田舎、それに権力者の間では、まだ家父長制の価値観が幅を利かせている。人口の増加が共同体の繁栄に直結するという思想である。子供を産むことが女性の義務だと主張する老害政治家の発言が、いまでも報道されているくらいだ。
 
 本作品は、山奥の寒村が舞台だ。女は子供を産まなければならない、共同体の価値観に反対する女は、すべて魔女として排除するという、共同体としての歪みが頂点に達したかのような村である。
 そんな村と母親からせっかく逃げ出したのに、シャロータはどうして村に戻ってきたのか。それは村長からの呼び出しが届いたからだけではないと思う。過去の行為に対する罪悪感もあることはあるが、その行為の結果を確かめたい心理が主体だろう。犯罪者が現場に戻って自分の犯罪を確認しようとするのと同じだ。放火犯は現場の野次馬の中にいる。
 そして共同体の歪みの中で自分と妹が育ったこと、共同体の歪みは、少しも変わっていないことを理解する。しかし再び逃げ出そうと決めたタイミングが、少し遅かった。
 
 共同体や組織のために個人を犠牲にしようとする考え方は、世界中に蔓延している。日本ではラグビーのワンチームという言葉が流行語になったが、当方は気持ち悪さしか感じなかった。ワンチームは、同調を強制し、同調しない者を排除する全体主義である。明らかに戦前の軍国主義と同じ精神性だ。21世紀になっても、まだ共同体の呪縛が個人の人権を蹂躙し、自由を侵害しているのだ。
 
 本作品がスロバキアとチェコの共同作品だということに、ある感慨がある。以前はチェコスロバキア共和国というひとつの国で、ナチスによって一度解体されたときがある。ナチスの圧政に対する地下運動を描いた「抵抗のプラハ」という映画があった。大戦後、再びチェコスロバキア社会主義共和国として復活したが、ソ連の崩壊に伴って、チェコとスロバキアに分裂した。
 
 チェコ語とスロバキア語は似ているが、違いもあるそうだ。本作品では、シャロータを演じたナタリア・ジェルマーニがスロバキア出身であることから、おそらくスロバキア語が使われていたと思う。
 原題の「Svetlonoc」は、スロバキア語で「明るい夜」という意味らしい。鑑賞すれば分かるが、祭りのシーンから、幻想と象徴のシーン、それに火災のシーンまで、夜に光があるシーンがたくさんある。しかし本作品が描きたかったのは、光とは逆の、闇の方ではないかと思う。共同体の闇。それは取りも直さず、人間の闇でもある。