三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「彼女の人生は間違いじゃない」

2017年07月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「彼女の人生は間違いじゃない」を観た。
 http://gaga.ne.jp/kanojo/

 東日本大震災の原発事故を描いた映画を観た順に挙げてみる。

 希望の国
 あいときぼうのまち
 日本と原発
 STOP

 今更だが、福島原発のある福島県双葉町には「原子力明るい未来のエネルギー」という看板が鳥居のように道をまたいで立っていた。映画で象徴的に使われる看板だったが、すでに撤去されてしまっている。

 人は皆、その所属する共同体を自己存在の拠りどころとする。その場所を「故郷」「祖国」などと名付けて、現在の自分に紐づけることでアイデンティティとするのだ。共同体は国や地方自治体に限らず、場合によっては会社であったり、学校であったり、部活動であったりする。
 何らかの要因で共同体との繋がりが断ち切られたとき、人はアイデンティティを失い、同時に自信も失ってしまう。大学卒業から定年までの38年間を一つの会社で働いてきた人は、退職と同時に根無し草となってしまうのだ。どこかに自分の居場所を見つけ、アイデンティティを取り戻し、自信を取り戻さなければならない。そうしないと生きていけなくなる。

 原発事故によって住む家を失った人々もまた、同じようにアイデンティティの喪失による流浪の民と化している。避難所生活に自分の居場所はない。
 本作の主人公は女性である。女性が女性であることによって居場所を得られる手っ取り早い選択は、売春婦になることだ。誰かが自分の体で喜んで、代金を支払ってくれる。女としての自分の体には、存在価値がある。
 しかし結婚はどうだろう。結婚のためには、女としての体だけでは不十分だ。いずれ歳を取り、女体は魅力を失っていく。人間としての存在価値を認めてもらわなければ結婚はできないのだ。

 本作はアイデンティティの危機に瀕した女性が、再び居場所を見つけ、生きる希望を見出そうと一生懸命にもがいている様を描いている。一緒に暮らす父親は母親の喪失感にいまだにどっぷりはまり、脱却する見込みはない。父親を家に残して週末に通う渋谷のデリヘルで、見知らぬ男の体に触れ、金を稼ぐ。安っぽい倫理観で彼女を責めることはできない。ほかにどんな生き方があるというのだ。彼女の人生は間違いじゃないのだ。見終わった後に、タイトルがそう訴えかけてくる。


映画「世界は今日から君のもの」

2017年07月29日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「世界は今日から君のもの」を観た。
 http://sekakimi.com/

 門脇麦は、前作の「二重生活」を見て役に没入するその演じ方に感心した女優で、世間の価値観から一歩引いた役柄がとても向いている。本作の主人公はまさにそんな役柄の典型で、門脇麦のいいところが余すことなく引き出されている。

 人間は社会生活を維持するために、嘘をつかねばならない。人が犬や子供を連れてくれば「可愛い」と言わねばならないし、上司の意見には賛意を示さねばならない。「馬鹿そうな犬ですね」とか「小汚い子供ですね」とか「無意味な意見です」などと言ってはいけないのだ。一般的にこれを本音と建前と呼ぶ。
 権力を持つ人間は、建前をいう必要がない。権力が地位を保全しているから、建前を言って社会的立場を維持しなくてもいいのだ。建前を言わなければならないのは、いつの世も弱い立場の人間だ。つまり世の中の大多数は建前を言い続けることでかろうじて社会生活を維持しているのだ。
 当然だが、本音と建前のギャップが大きいほどストレスも大きい。ときにストレスは殺意と化し、他人を殺したり傷つけたり、または自殺したりする結果をもたらす。あるいは無気力になって社会から逸脱する。引きこもりは、建前を言い続けなければならない同調圧力に対して、実存としての自己が折り合いをつけられないことから生じる。

 好きなことをして生きていければこれほど楽なことはない。しかしどんなに好きなことでも仕事になると、楽ではなくなる。まして本音と建前の間で折り合いをつけられない人間にとっては、苦痛に等しい。建前を言わなくていい仕事は、ラインの一部と化すことだ。そういう仕事は近い将来、AIにとって代わられるだろう。
 どう考えても将来のない主人公だが、過去の怨恨やストレスを克服しながら少しずつ進んでいく。そのあたりの微妙な成長ぶりが、門脇麦の達者な演技によって十分に伝わってくる。本音ばかりを言っていては社会生活はできないが、時には本音を言わなければならないときもある。そのための勇気を獲得することが主人公の成長である。

 門脇麦の台詞は少ない。顔のアップの時間は十分にあるのだが、台詞が少ない。それは尾崎監督が引き算の脚本を書いたからだろう。観客からすれば、この場面ではおそらくこんな台詞やあんな台詞を言うだろうと予想しながら見ているが、ほとんど裏切られて、門脇麦は少しの台詞しか言わない。言う台詞は凝縮されていて、まるで俳句のようだ。脚本が引き算であるように映像も引き算で、無駄なシーンはひとつもない。とてもいい作品である。


映画「銀魂」

2017年07月23日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「銀魂」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/gintama-film/

 原作のマンガを読んでいないのであくまで想像だが、読んでいたほうがよほど面白いに違いないと思う。読んでいない者にとっては、どうにもついて行けない部分があった。
 小栗旬も菅田将暉も芸達者ぶりを遺憾なく発揮していたし、やや演技力に劣るものの、橋本環奈も売れっ子アイドルのイメージを損なうリスクを冒してでも、捨て身の演技にチャレンジしていた。そのあたりは評価できると思う。
 次から次に出てくるパロディだが、何のパロディなのかはっきりわかるものと、なんとなく想像がつくものと、さっぱりわからないものがあった。それでも、楽屋落ち的なお笑いがテレビバラエティの「アメトーク」みたいで、笑って見ていられる。
 後に残るものは何もないものの、幕末以来の日本そのものを笑い飛ばす痛快さはある。冒険から帰還したヒーローを肉食単細胞の意味不明な女が待っているのも現代的だ。長澤まさみにはぴったりの役柄だった。


映画「忍びの国」

2017年07月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「忍びの国」を観た。
 http://www.shinobinokuni.jp/index.html

 石原さとみは「シンゴジラ」辺りから演技が一皮剥けた印象で、テレビドラマ「校閲ガール」では現代っ子の若い女性をコミカルに演じていた。
 この映画でも石原さとみの演技に期待していたが、まあ出番の少ないこと。それでも気は強いが愛情豊かな奥方を美しく演じていた。住居と着物のギャップは触れぬが花だ。
 ストーリーはなかなか練られていて全体として面白くは見れるのだが、鈴木亮平と大野くんが言う同じ台詞「人間じゃない」の、あまりのリアリティの欠如に、思わずずっこけそうになった。
 下人たちの中での大野くんの立ち位置や下人たちの日常などをもっと整理しないと、取ってつけたような設定になる。下人たちが「人間じゃない」呼ばわりされるためには、情け知らずの極悪非道でなければならないが、この作品の下人たちは自分の欲望に正直なだけで、作品全般ではむしろ愛すべき人々である。
 説得力に欠ける設定はシラけるだけだ。ディズニー映画じゃないんだから、もっと全体に悪党寄りにしてもよかったのではないか。その方が大野くんも新境地を開けただろう。残念だ。


映画「Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales」

2017年07月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Pirates of the Caribbean: Dead Men Tell No Tales」を観た。
 http://www.disney.co.jp/movie/pirates.html

 このシリーズは見たり見なかったりだ。ディズニー映画だからというバイアスは特にないが、価値観はアメリカ映画に共通する「家族が一番大事」であることに変わりはない。ディズニーは特にその傾向が強い気がする。
 ジャック・スパロウは行き当たりばったりでお人好しの船長で、海賊らしさはまったくない。特に秀でた才能がある訳でも、人格に優れている訳でもない。この人物に魅力を感じる人と感じない人がいて、私は後者のひとりだ。従って主人公にまったく感情移入できない。つまり映画を観ても全然面白くないということになる。
 しかしこの映画がシリーズでずっとヒットしているということは、どこかにそれなりの面白さがあるはずだ。今回は斜に構えずにニュートラルな気持ちでこの映画のよさを見つけるつもりで観た。

 国も役人も恐れないジャック。~やくざをはじめ、大抵のアウトローは既成の権威や権力を恐れない。
 剣の腕がそこそこのジャック。~元々相手を殺す気がないのに戦って、会話で優位を得ようとするのは、詐欺師も同じだ。
 ユーモアのセンスがあるジャック。~笑っているのは本人だけ。売れない漫才師と同じだ。

 ということで、ジャック・スパロウはやくざで詐欺師の売れない漫才師という程度。やっぱり全く感情移入できなかった。残念だがこの映画は私には合わないということだろう。主人公が超軽量級の上に、価値観が浅薄すぎる。


舞台「イヌの仇討ち」

2017年07月19日 | 映画・舞台・コンサート

 紀伊国屋サザンシアターにて。こまつ座の公演「イヌの仇討ち」を鑑賞。
前半が終了した時点で、吉良上野介がめちゃくちゃ面白い。井上ひさしの面目躍如というところ。後半は前半から更に深く穿たれて、井上ひさし流の忠臣蔵が展開する。ここ数年で一番の舞台だ。
 終焉後のトークショーでは主演の大谷亮平さん、こまつ座生え抜きの三田さんなど、五人が壇上へ。演技での苦労話や演出家の人となりなどが聞けて、非常に有意義だった。
 我々の知る忠臣蔵が本当の忠臣蔵なのか、もしかしたら違う事実があるんじゃないか、そんな視点から書かれた戯曲である。井上ひさしらしく、お笑いをふんだんに盛り込まれて笑える場面が多い一方、言葉のやり取りだけでみるみる真実に迫ってゆく芝居に、思わず息を飲んでしまう。
 役者たちのそれぞれの配役に対する理解度が大変深いため、逆に観客には理解しやすいという理想的な芝居になっている。チケットが取れればもう一度観たい。


映画「LIFE」

2017年07月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「LIFE」を観た。
 http://www.life-official.jp/

 英語のLIFEには、複数の意味がある。3年前の映画「LIFE!」の意味は「人生」の意味だろうし、少しだけ「生活」の意味もあったかもしれない。
 この映画では当然ながらLIFEは「生命」の意味だ。機械が採集した異星の土壌の中から発見された生命が人間を栄養源として捕食する恐ろしい物語である。
 ところで生命とは何だろうか? 分子生物学の福岡伸一さんによれば「生命とは自己複製を行うシステムである」(『生物と無生物のあいだ』)とされている。DNAの螺旋構造が二重になっている意味はそこにあるらしい。
 この作品では単細胞生物のように単体で存在が完結している細胞が、互いに連繋してひとつの生物のように活動する。すべての細胞が幹細胞みたいに役割に応じて動き、生命を維持するためのあらゆる行動を取る。動きは速く、攻撃力も防御力も人間の敵うレベルではない。捕食しながら自己複製を繰り返す。単体の細胞の集合体で定型がないのであれば、無限に巨大化することが可能だ。

 映画を見ているうちに、ひとつ変わった視点が頭に浮かんだ。捕食される側から考えると、捕食者は次元の違う生物である。地球上では最強の捕食者は人間だ。LIFEを地球上の人間に置き換えると、宇宙ステーションの人間たちは狩りの獲物である鹿や鴨に相当する。
 我々は人間だから、どうしても登場人物に感情移入してしまうが、一旦人間の立場を離れて鹿や鴨の立場になるとどうだろうか。ある日突然、自分たちに向かって銃をぶっ放し、殺して捕食する人間という恐ろしい生き物が地球上に出現する。人間は地球上の生物を次々に絶滅に追いやってきた。LIFEはそんな生物たちにとってのホモサピエンスに等しい。ただし、捕食されるのは人間だ。

 もちろん制作者の意図は人類の存在を否定するものではないだろう。しかしこの映画には、地球に現れてはいけなかったのはもしかしたら人間かもしれないと考えさせられるところがある。英語のLIFEのように、多義的な作品だといえるだろう。
 ストーリーはSFホラーとしても十分に楽しめる展開だ。生物の生命、攻撃される乗組員の生命、そして何も知らない地球上の沢山の生命。いろいろな生命(LIFE)が立体的な関係性をもっていることを感じさせる。タイトルも内容にぴったりの、奥行きのある作品である。


映画「Magic Kimono」(邦題「ふたりの旅路」)

2017年07月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Magic Kimono」(邦題「ふたりの旅路」)を観た。
 https://www.facebook.com/%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%B5%E3%81…/

 出だしはコラージュ風で、いろいろなシーンが行きつ戻りつする。どういう状況なのかがわかりにくいまま、作品は進んでいく。この調子で日常的な整合性が得られないままに終わるのかと思っていると、だんだん光が差して設定が明らかになる。その過程で、桃井かおり演じるケイコの心情が浮かび上がってくる。
 最初から設定を明らかにしてしまうと、観客にバイアスが働いてしまい、複雑なケイコの心理状態に踏み込む前に勝手な解釈をしてしまったかもしれない。このあたりの作りこみは非常に卓越している。

 リガは低い街並みに緑と水が豊かに合わさった美しい都市だ。日本の着物がよく似合う。街並みを守ろうとする姿勢と、着物ショーなど、他国の文化を受け入れようとする進取の精神がこの町の文化を維持しているように見える。この町を旅したケイコの心が次第次第に素直になってゆくのは、この町が持っているおおらかな精神性による気がする。

 桃井かおりはやはり大女優である。役柄をしっかりと演じながら、自分の世界を表現する。ケイコはあちこちで色々なものを食べる。それはレストランの食事だったり、公園でのおにぎりだったり、市場で買ったものだったりする。食べるシーンが多い理由は、作品が進むにつれて明らかになっていく。生きることは食べることなのだ。
 静かに進む映画だが、見終わるころには生きつづけてゆく気力が湧いてくる、とてもいい作品である。


映画「John Wick: Chapter 2」

2017年07月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「John Wick: Chapter 2」を観た。
 http://johnwick.jp/

 前作同様、兎に角たくさんの人を殺しまくる映画だ。殺すことに慣れすぎて、もはや流れ作業の感さえある。

 そのたくさんの殺戮を見ていて気づいたことがある。ジョン・ウィックが敵よりも先に撃つことができるのは、一瞬の見極めの時間がないからだ。ボクシングの井上尚弥の試合を見たときも同じ印象を受けた。それはボクシング漫画によくある「いまだ!」という一瞬がないことである。つまり、敵との間合いやタイミングを見計らいながら、打つべきときに間髪を入れずに打てば、「いまだ!」と思っている敵よりも一瞬早く打てる。「いまだ!」は戦いにおいては無駄な時間なのだ。

 ましてや銃撃戦である。拳銃の弾丸は時速1000キロを超える。射出されてから5m先の敵に着弾するまでには0.02秒もかからない。「いまだ!」と思ってから撃つのと何も考えずに条件反射的に撃つのでは、少なくとも0.1秒、遅ければ0.5秒以上もの違いがある。タイミングを見極めて「いまだ!」と思ってから撃つ敵は、「いまだ!」と思っている間にジョン・ウィックに撃たれてしまう。

 本作のジョン・ウィックは前作同様に準備万端で殺しに向かう。武器商人から銃器からアーマーまでひと通り調達する。武器マニアにはたまらないラインナップではなかろうか。そういえばサンティーノが主人公の家を燃やすのに使ったのは、グレネードランチャーだった。マフィアも米軍御用達の武器を持っているのだ。

 ジョン・ウィックが使う金貨だが、かなり大きいほうなのでおそらく1オンスのメイプルリーフかと思われる。取引価格は1枚15万円ほどだからかなりの価値だ。偽の金貨かもしれず、受け取る前に疑うのが自然だと思うが、みんな黙って受け取っている。誰もが金貨の真偽を疑うことなくジョン・ウィックに協力するのは、伝説のブギーマン(殺人鬼)に対するある種の信頼なのだろう。ジョン・ウィックは恐ろしい殺人者だが、嘘はつかない。

 何も恐れず、躊躇いもせず、情け容赦もなく、無念無想で殺戮を実行する主人公は、見ている分には非常に爽快だ。大勢から狙われる孤独な殺し屋は、観客にとって判官贔屓の対象とならざるを得ない。それが敵よりも一瞬早いという稀有の能力を持って戦うさまは、痛快そのものである。見終わってとてもスカッとする作品だ。


映画「Chiamatemi Francesco - Il Papa della gente」(邦題「ローマ法王になる日まで」)

2017年07月05日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Chiamatemi Francesco - Il Papa della gente」(邦題「ローマ法王になる日まで」)を観た。
 http://roma-houou.jp/

 キリスト教は自由と平等と寛容を説き、欲望を超越することで魂の平安を得ようという宗教である。教え自体は仏教とあまり変わらない。違う点は布教の姿勢だ。仏教は布教よりも修行を重んじるのに対し、キリスト教は布教を熱心に行なう。イスラム教も布教には熱心だ。
 それは教義の違いに由来する。仏教は菩提薩埵が修行を通じて涅槃を極めたのに習い、般若波羅密多を唱えて恐怖を克服する修行を行なって悟りに達することが目的とされる。しかしキリスト教では、聖書に「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とある通り、寛容の精神を説く。できれば多くの人々に、互いに寛容になってほしいのだ。そのためには不寛容で頑なな人々を啓蒙し、教え導く必要がある。
 ところが、宗教活動が社会的になると、布教や伝播という目的のために人を組織する必要が生じる。そして組織は権威と服従の構造を生む。

 宗教のはじまりはすべて個人の活動だった。経典などはなく、口伝で広まった。歌を歌っていたという説もある。誰かが後世に残そうとして聖書や経典を書き残してから、宗教には文化の色が付きはじめた。同好の士が集まって活動を盛り上げようとすれば、おのずから組織が形成され、権威と服従の構造が生まれていく。複数の組織が形成されると、複数の権威が生まれる。すると今度は権威同士の争いとなる。
 原始キリスト教、原始仏教の教えはどこへやら、自分たちの正当性をひたすら主張する俗物たちの舞台となってしまうのだ。

 つまり宗教は、聖書や経典が作り出され、組織化されたことで、本来の個人的な救済から遠く離れ、儀式と偶像崇拝に堕してしまったのだ。形骸化して権威同士の争いとなり、紛争を防ぐどころか、逆に戦争の主因ともなった。代々のローマ教皇がいかに政治的であったかは、高校の世界史の授業でも教えている。
 権威が成立する原因は人間の弱さにある。権威は組織から生まれ、組織は神ではなく人間が作り出したものであるにもかかわらず、人は自由の重味に耐え切れず、権威の前にひれ伏してしまうのだ。

 本作は独裁政権のアルゼンチンを生き延びてきた非暴力の神父の生涯を感動的に描いている。しかしそこかしこに、キリスト教の権威が見える。管区長の権威、枢機卿の権威、そしてローマ法王の権威。
「今から枢機卿がミサを行うから、ありがたく聞きなさい」
 そんな風なシーンがある。そこにイエスがいたら、どのように反応するだろうか。仰々しい着物を着て、多くの飾りや讃美歌の合唱などの舞台装置を備えた上でのミサ。襤褸をまとって裸足で歩くイエスには、それが自分の教えを受け継いだ者たちに見えるだろうか。

 この映画が作られた精神的な背景には、権威に対する屈服がある。誰も自分たちが屈服していると思っていないところが恐ろしい。コンクラーベがAKBの総選挙と構造的には同じであることに、誰も気づかない。