三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Denial」(邦題「否定と肯定」)

2017年12月31日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Denial」(邦題「否定と肯定」)を観た。
 http://hitei-koutei.com/

 当たり前のことのように思っていてもいざそれを証明しろとなると結構大変だ。地球は丸い、プレスリーは随分前に死んでいる、そんなことは証明するまでもなく誰もが知る事実だ。しかしそれを証明しろとなると、途端に難しくなる。ましてや法廷で証明するとなると、どんな展開になるのか見当もつかない。
 ホロコーストがテーマの映画は2か月前に「ブルーム・オブ・イエスタデイ」を観たが、登場人物はそれぞれの価値観で過去としっかり向き合っていて、過去の事実をなかったものとする考え方は登場しなかった。しかし考えてみれば恐ろしい。過去の事実をなかったことにすれば戦争犯罪そのものを否定できることになる。
 日本でも南京大虐殺や従軍慰安婦をなかったことにしようとする動きがある。極右団体の日本会議や暗愚の宰相アベシンゾウなどが明に暗にそう主張している。
 アメリカが、広島や長崎の原爆投下などなかったと主張したらどうなるのか。原爆資料館にあるものはすべて捏造だと主張したら、資料のない我々は説得力のある反論ができないかもしれない。専門家の反論を期待するだけになる。
 この作品では、ホロコーストをなかったことにしようとする仰天の説を堂々と大々的に喧伝する歴史学者とそれを否定する歴史学者の争いであるが、学術論争ではなく法廷闘争だから裁判の進め方や陪審員制にするしないなどで、テクニカルな駆け引きがある。観客は主人公と同じ立場で弁護団の戦術を固唾を飲んで見守るだけだ。

 それにしても国家主義者たちのごり押しは世界的に猖獗を極めている。白を黒と言い張るのだ。金正恩、アベシンゾウ、トランプなどの頭の悪い指導者がいること自体、信じがたい話である。世襲の金正恩は別として、アベもトランプも選挙で選ばれたナショナリストだ。つまりアメリカ国民と日本国民がそれを望んだのである。アベはモリカケ問題を説明すると言いながら、結局国会でも選挙でも説明せず、総選挙で大勝した後は、すでに説明してきたと開き直った。こんなのが日本の総理大臣なのである。来年もお先真っ暗だ。

 
 

映画「オリエント急行殺人事件」

2017年12月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「オリエント急行殺人事件」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/orient-movie/

 推理小説が原作で、観客は犯人が誰かを考えながら見る映画だ。殺される役をジョニー・デップが演じるというので少し驚いたが、登場人物のフラッシュバックもあって、とても重要な役だった。さすがの配役である。
 冒頭のいくつかのシーンで名探偵ポアロが恐ろしく頭の切れる人物であることがわかる。そして旧知の人物に逢ったとき、同伴の女性に向かってprostituteみたいな言葉を平気で言うことができる図太い神経の持ち主であることもわかる。人物像はこれで十分だ。
 そして事件は起きる。ポアロは天才的な探偵だが、超能力者ではない。杉下右京みたいに、鑑識が奇跡的に見逃した決定的な証拠を都合よく発見したりすることはない。彼は地道に物を調べ、証言を積み重ねていく。
 観客は登場人物たちの相関図を頭に描きながら、犯人は誰なんだろうと想像を巡らせる。しかしその間にも証言は積み上げられ、頭の中の相関図も怪しくなる。登場人物の価値観の差や思惑の違いなどによって事実はゆがめられていくが、ポアロはその力の向きと強さを冷静に見極めて真実に迫っていく。
 見終わるときには頭の中の相関図もあちこち線が途切れているが、長編小説を読破したような満足感がある。続編があれば是非見たいと思わせる傑作だ。


映画「8年越しの花嫁 奇跡の実話」

2017年12月26日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「8年越しの花嫁 奇跡の実話」を観た。
 http://8nengoshi.jp/

 主演の佐藤健と土屋太鳳がこれでもかとばかりテレビで宣伝しまくっていたので、逆に眉唾な印象が先立ち、大した作品ではないだろうと思いながら鑑賞した。
 出会いのシーンはどうだったんだろうか。土屋太鳳が人の事情や気持ちを察しない、独りよがりで無神経な女の子に見えて、そこから病気の発症に至るまでが、なんだかマイナスを取り戻すような流れに思えてしまった。人間としての魅力に欠ける出会いのシーンのおかげで、最後まで土屋太鳳には感情移入できなかった。
 両親役の薬師丸ひろ子と杉本哲太がリアリティのある演技で娘への愛情にあふれた普通の両親を演じたおかげで、作品に深みと奥行きが出た。佐藤健は去年の「世界から猫が消えたなら」や「何者」あたりから「るろうに剣心」のとぼけた演技を脱して、人間の苦悩を演じられるようになってきたと思う。本作品では実直で一本気な青年を演じ、どこまでも献身的に無償の行為を続ける姿が見事であった。
 この3人には登場してからすぐに感情移入してしまった。何気ないシーンでも希望と絶望の混ざった複雑な思いが伝わってきて、知らず知らずに涙が溢れてくる。土屋太鳳も後半の演技はなかなかよくて、ようやく佐藤健に釣り合う程度になった。もしかしたらこの女性の精神的な成長も表現したかったのかもしれないが、それにしても前半の人物像が軽すぎたせいで、後半に成長を感じるほどではなかった。

 この映画には悪人はひとりも登場しない。登場人物の誰にも、ひとかけらの悪意さえない。みんなが主人公を応援し、共に喜び共に悲しむ。現実にはなかなか難しい設定だが、役者たちの自然な演技のおかげで物語がリアリティを得ることができた。傑作である。


映画「DESTINY 鎌倉物語」

2017年12月19日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「DESTINY 鎌倉物語」を観た。
 http://kamakura-movie.jp/

 幽霊や妖怪が跋扈する鎌倉。現実の鎌倉に非常によく似ているが、別の鎌倉で、しかし登場人物たちが住んでいるのは実際の鎌倉という、かなり強引な設定だ。役者の力量が問われると言っていい。
 その点、堺雅人と高畑充希は安心して見ていられる。特に高畑充希はアニメのキャラクターが人間になったような感じで、喜怒哀楽の典型的な表情がとても上手だ。
 堤真一と安藤サクラがおとぼけキャラで脇道に逸れたり物語を進めたりするのが非常に愉快である。
 大人も子供も一緒に楽しめる、悪意のないほのぼのするファンタジーだ。たまにはこういう映画もいい。都会生活でギスギスした気持ちをリセットしてくれる。


映画「Logan Lucky」

2017年12月18日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Logan Lucky」を観た。
 http://www.logan-lucky.jp/mobile/

  ローガン兄弟が窃盗をする話である。映画の前半は、決行に至るまでの事情や動機、兄弟それぞれの特徴や特技などを紹介して、ドラマにリアリティを持たせると同時に結末への伏線としている、ように見える。しかしそれがなんとも説明的なのに加えて、過去の映像がないから説得力に乏しい。結果的に、ダラダラとストーリーが進んでいくようにしか感じられず、退屈になってしまう。
 ダニエル・クレイグが登場した辺りから少しスピード感が出てくるが、ダラダラ進むことに変わりはない。素人が計画を実行している感じを出したかったのかも知れないが、だとしたら見事に失敗している。
 後半で盛り返して、なんとか映画としての体裁を整えた格好だ。見ている最中も見終わってからも、あまり面白いとは思わなかった。エンターテイメントとしても不出来な作品である。


 

映画「The Circle」

2017年12月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Circle」を観た。
 http://gaga.ne.jp/circle/

 かつてジョージ・オーウェルは「1984年」で強権による超管理社会の到来を予言したが、この映画は、権力による強制ではなく自発的なSNSが超管理社会をもたらす可能性を描いた作品である。あまり出来のいい作品ではないが、世の中に警鐘を鳴らすという点では一定の評価をしなければならない。

 人間は一匹狼よりも群れた羊になりたがる。孤立を怖れるからだ。孤立すれば生活はもとより、生命や身体、財産の安全さえ保証されなくなる。

 SNSに記事や写真をアップロードすることは価値観そのものを発信することに等しい。いいね!をもらうことでささやかな承認欲求を満たすことができる。それを生き甲斐にしている人さえ存在する。
 ちなみに映画では、SNSの投稿に対するリアクションを「ニコ」と「ムカ」と翻訳していたが、一瞬意味が分からなかった。普通に「いいね!」と「ひどいね!」でよかったと思う。
 いいね!をもらうためには、なるべく多くの人と同じ価値観で発信する必要がある。少数派の価値観の投稿は袋叩きにされて炎上するからである。本来は自由な価値観を発信するはずのSNSが同調圧力の場と化しているのだ。

 異端を許容し多様性を認めることが民主主義の根幹だとしたら、SNSには民主主義はない。ぬるま湯の中での承認欲求の充足と、少数派を叩くことで自分が強者になった勘違いをすることが、大多数の目的である。村八分が猖獗を極めた時代と寸分違わない。文明が発達し技術が進んでも、人間は一ミリも進歩していないのだ。

 エマ・ワトソンは演技派のトム・ハンクスを相手に見劣りしない演技をした。価値観が変化していく時間が端折られて唐突な感じが否めないラストだったが、ひとりの一般女性ができることとしては最大の勇気を発揮したと言っていい。
 しかし個人を糾弾しても、誰かに取って代わられるだけだ。新しい支配層がマジョリティを支配し、異端や少数派は常に迫害され続ける。このあたりの解決がないと、インターネット社会での民主主義の実現は困難だ。作品としてもう少し掘り下げて欲しかった。


映画「Get out」

2017年12月08日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Get out」を観た。
 http://getout.jp/

 ドナルド・トランプが大統領になって以来、アメリカはどこかおかしくなったと思っている人は多いのではないか。大統領としての重みどころか人間としての重みにさえ欠ける彼の言動は、世界の暗憺たる行く末を明示している。
 しかしアメリカの有権者が彼を選んだのは紛れもない事実。世界の未来や自分の将来をトランプに賭けたのだ。彼が大統領になって喜んでいる人もまた、沢山いるのだ。特に白人至上主義者たちのはしゃぎようは尋常ではなく、KKKの衣装を臆面もなく被り、昼間から怪しい儀式をしたりする映像は何度もニュースで流れた。
 民主主義は多様性を認めることを基本とする。認めないのは全体主義で、画一性をよしとする。軍隊の一糸乱れぬ行進を満足げに閲兵するのが典型的な全体主義者だ。金正恩やアベシンゾウ等々、世界は頭のおかしい連中で満ち満ちている。
 そう考えると、この映画の登場人物たちはそれほど珍しい存在ではなく、人物造形にはあまり想像力を必要としないのかもしれない。作品の下地となる状況はすでにある。
 主人公は無辜の国民である。一部の特権階級のために国の指導者層が国民から何もかも取り上げる。
 有名俳優も出ておらず、予算もあまりかけていないようだが、プロットを工夫したとても面白い作品だった。時代を象徴するかのような映画である。


映画「光」

2017年12月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「光」を観た。
 http://hi-ka-ri.com/

 「光」というタイトルの映画を観るのは今年二度目だ。ひとつ目は永瀬正敏が目が見えなくなっていく写真家を好演した映画で、カンヌ映画祭でスタンディングオベーションが10分も続いたことで有名な傑作である。
 そしてもうひとつ目が本作だ。世界観が全く違うので単純に比較することはできないが、永瀬正敏の「光」は盲目の登場人物たちによって浮かび上がる、文字通りの光を描いており、本作は逆に影を描く。光が強いほど影は濃くなり、やがて闇となる。

 かつて暮らしていた、月光が怪しくも美しく海面に反射する島。そこには貧しさだけがあり、貧しさ故にむき出しになった原始的な欲望がある。虚飾に満ちた都会生活では、その記憶は光を当ててはいけない闇の記憶だ。
 出してはいけないものを無理に引きずり出されることで、闇の記憶とともに心の闇が溢れ出す。一旦溢れ出した闇はもはや止めようがない。闇を葬り去るには自分が殺されるか、または殺すしかないのだ。
 かくして登場人物たちは一本道のストーリーを進むことになる。耳障りな不協和音みたいなBGMは、闇の叫びの周波数を持っている。これによって観客は登場人物たちと同じ不快感を共有することになる。誰もが心に闇を抱えている。日常生活に紛れて向き合おうとしなかった闇を、この映画が引きずり出す。観客は否応なしに自分の闇と向き合わざるを得なくなるのだ。

 井浦新と瑛太は闇を抱えた人物を存分に演じていたが、長谷川京子は役者不足。怪物みたいな心の強さを持つ美しい女を演じることができる女優は他にいたはずだ。橋本マナミは好演。こちらは普通の主婦が普通に抱える生活の物足りなさを、普段着で演じた。裸の後ろ姿の下がり気味のお尻が、生々しい猥雑さを感じさせる。


映画「ブレードランナー2049」

2017年12月02日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ブレードランナー2049」を観た。
 http://www.bladerunner2049.jp/

 アメリカではドナルド・トランプが大統領になったことで白人至上主義者が勢いづいているという話だ。人種の坩堝、多様性の集積みたいな国であるアメリカで、民衆の精神が全体主義、画一主義に傾いているというのは、まさに不穏な現代という時代を象徴している。
 本作品は白人と黒人の対立図式のように、人間とレプリカントの差別構造を描く。小競り合いが長期にわたって延々と続くような中途半端な対立ではなく、どちらが生き残るかという究極の争いになるところがアメリカらしい。アメリカという国は精神性の深いところにレイシズムが横たわっていることがよくわかる。
 ヴィルヌーヴ監督は「メッセージ」という思索に満ちた傑作で哲学的な世界観を披露した。この作品でも人間のアイデンティティについて最終的な問いかけをしている。
 その答えが、家族や血の繋がりといったアメリカ人の大好物に近づいていくところは不満だが、必ずしも主人公の目的や行き先がはっきりしておらず、ベクトルのままでストーリーが終わるところは「メッセージ」の手法と似ていて、観客に多様な解釈を許す。「メッセージ」には及ばないものの、こちらもスケールの大きな傑作である。