三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

レース結果~宝塚記念

2016年06月26日 | 競馬

宝塚記念の結果

1着マリアライト    無印
2着ドゥラメンテ   〇
3着キタサンブラック 無印

私の印
◎トーホウジャッカル  15着
〇ドゥラメンテ     2着
▲ステファノス     5着
△サトノノブレス    8着
△ラストインパクト   7着

馬券は1着のマリアライトと3着のキタサンブラックがヌケでハズレ

稍重馬場にしてはペースが速いという実況でした。G1レースなのでそれほど速いとは思いませんが、追走した馬たちは悉く後方に敗れ去ってしまったことを考えると、なし崩しに足を使わされるペースだったと言うことができます。従って、逃げたキタサンブラックが3着に逃げ粘ったのは抜けた力を発揮したものと思われます。
勝ったマリアライトは中段から外外を進み、3コーナー過ぎから仕掛けていきました。かなり気合をつけてのまくりで、4コーナーでは鞭が入っていました。普通ならどこにもない展開ですが、直線でもじわじわと伸びてきて、キタサンブラックを捉え、ドゥラメンテの追撃を振り切りました。エリザベス女王杯勝ちと有馬記念の0秒1差4着という実績がものをいったのと重馬場も向いていたと思われますが、438キロの牝馬が56キロを背負ってこの競馬ができたのは頭が下がります。果てしない馬力とスタミナを兼ね備えた牝馬です。秋のジャパンカップが重馬場になったら一躍本命になるでしょう。
ドゥラメンテはスタートで安目を売ってしまったので後方から。宝塚記念の位置取りとしては非常に不利で、4コーナーを回ってもまだ前が壁のままでした。よく2着に来たものです。さすがの底力でしたが、故障を発生したようで残念です。
トーホウジャッカルアンビシャスの15着、16着惨敗はさっぱり原因がわかりません。力の要る馬場を先行して早々とバテてしまったようですが、なんとも情けない競馬でした。

さて今年は前半を終えて、的中は弥生賞の一鞍のみという結果になりました。これほどまで当たらない年も珍しい。仕事も競馬も絶不調ですが、後半の巻き返しのために、レースビデオをじっくり見る日々を送る夏にしようと思います。

 


宝塚記念~トーホウジャッカル

2016年06月25日 | 競馬

宝塚記念G1です。

◎トーホウジャッカル
〇ドゥラメンテ
▲ステファノス
△サトノノブレス
△ラストインパクト

馬場は土曜日のレースでは重馬場まででしたが、日曜日のメインまでにはある程度回復して稍重か、稍重に近い良馬場でレースが出来そうです。重の巧拙を考慮する必要はないでしょう。

トーホウジャッカルの復活に賭けます。デビューから菊花賞までは一気に坂を駆け上るように出世しましたが、その無理のせいなのか、順調さを欠くレースが続きました。しかし18キロ増の阪神大賞典で復帰した後、前走の天皇賞は不向きな流れながらまくりをかけてきて0秒3差の5着になりました。復調気配です。これなら菊花賞のようにまくりが成功すると見ます。
相手は順当ならドゥラメンテが一番強いとは思いますが、関東馬で三ヶ月ぶりというのがマイナス。しかし実績からして対抗以下には落とせません。
鳴尾記念組が連対候補で、去年の天皇賞秋で2着だったステファノスと鳴尾記念勝ちのサトノノブレス。両馬ともディープインパクト産駒です。
そしてもう1頭、ディープ産駒のラストインパクトが連穴。前走のシーマクラシックではゴール前でドゥラメンテに迫る勢いでした。
上位人気の馬では、キタサンブラックは今回は目標になってしまい、絡んでくる馬に消耗を強いられそうです。アンビシャスは買いたい馬の1頭ですが、2000mを超える距離を一度も走っていないのが気になりました。ラブリーデイは一時の勢いが止まった気がします。シュヴァルグランは長距離実績がありすぎるのが逆にウィークポイントになる気がします。 

馬券は3連単フォーメーション◎〇-◎〇▲△△(9、11-6、8、9、11、12)24点勝負


厚顔無恥の都庁職員と偽装の菓子屋

2016年06月18日 | 政治・社会・会社

都知事の舛添が辞任することになった。都議会での舛添の「不信任案が可決されたら辞職するか議会を解散するかになり、いずれにしても選挙になる」という発言から、やけくそで都議会を解散するものだとばかり思っていたので、発言の翌日の自発的な辞任は意外だった。参院選とオリンピックを控えたこの時期で、政治的には各団体の様々な思惑が交錯し、いろいろな方向から相当の圧力がかかっていたことだろう。

どんな圧力がかかったのかは不明だが、脅迫めいた接触があったのは間違いない。自民党をはじめとした他の政治家が一番恐れているのは、舛添による内情の暴露だ。特に東京オリンピックは利権まみれだから、内実がぶちまけられてしまうと、困るのは森喜朗をはじめとする悪徳私腹集団であり、電通をはじめとするハイエナ企業集団である。そのあたりを中心に、何も言わずに辞めろという圧力が舛添を締め付けたであろうことは想像に難くない。きれいごとの理由で辞めたとは誰も思わないだろうが、想像以上に腐った構造が今回の都知事辞任の背景にある。

選挙のときに舛添をテレビや新聞で応援していた人たちが、手の平を返したように「あんな人だと思わなかった」と言って批判しているのは前に書いた。自分で応援し、投票しておきながら、その責任を回避する発言だ。それらの人々の責任について言及する人はいたが、とことん追及するスタンスではない。

そして誰も言及さえしないのが、都税を使い放題にしていた舛添を補佐していた都庁職員の責任だ。舛添はたしかに無用のファーストクラスに乗っていたかもしれないが、都庁職員だって幹部はビジネスクラスに乗っていたのだ。その連中が、舛添を批判する。明らかに天に唾なのに、マスコミが報じないから唾が本人に降りかからず、のうのうと都民税が原資である給料を受け取っている。舛添も都庁の幹部職員も同じ穴の狢なのだ。辞任すべきは舛添だけではない。

舛添が配ったとされる菓子を製造した大藤という菓子屋も酷いものである。安倍の饅頭を作ったりして、権力に擦り寄る無節操な会社だ。以前には食品偽装で騒がれたこともある。かつては小泉の饅頭や谷垣の饅頭も売っていた。自民党の応援団でもある。こんなものを買うのは無知で馬鹿な人間にしかいないが、この会社は国民が無知で馬鹿ばかりだと高をくくっているに違いない。実際に売れていたことが本当に情けない。

国家という共同体を大義と考える無知蒙昧な人間の集まりが人類だ。共同体を意のままにしたいと願う権力亡者と、そのおこぼれで儲けようとする金の亡者と、支配されたがる無知な国民というのが、この国の本質的な構造だ。過去もそうだし、現在もそうだ。そしてこれからも変わらない。日本には断じて未来などない。


舛添はトカゲの尻尾

2016年06月06日 | 政治・社会・会社

都知事の舛添が連日のように責められている。やったことは確かにせこい。都民の税金を何だと思っているのだとは誰もが思うだろう。
しかし責めている側の論調に、何かがすっぽり抜け落ちているような違和感がある。それが今日報道された辞め検弁護士の話で明らかになった。
政治資金の使い道はすべて違法ではないという。そして論点はすぐに、違法でなければいいのかという話になっていく。ちょっと待っていただきたい。政治資金の原資は言うまでもなく国税や地方税だ。もともと国民のお金なのだ。それをどう使おうが違法ではないという、そのことが実は問題ではないのか。
政治家は誰もその論点に触れない。当たり前だ。天に唾で、政治資金の使い道を制限する法令を作る提案などをしてしまったら、自分自身も政治資金を自由に使えなくなる。今回の件は気の毒な舛添がさらし者になってしまったので、可哀想だが犠牲になってもらって幕引きにしようという態度である。
権力がよくやるごまかしで、構造的な問題なのに、個別の運用の問題にする。そして洞察力の欠如した国民は、舛添だけを責めて溜飲を下げる。国を挙げてバカ丸出しだ。政治家と報道と、国民が一緒になってトカゲの尻尾きりをしたのが今回の件の本質だ。

報道も政治家を気遣っているのか、政治資金の私的流用が違法でないことを問題視しない。これが悪名高き日本語「忖度」というやつなのか。政治資金規正法の条文をひとつひとつ挙げて問題点を明らかにする気骨のあるジャーナリストはもはやいない。気骨という言葉はすでに死語なのかもしれない。権力に逆らう報道をする者さえいない。ジャーナリストという言葉も同様に死語なのかもしれない。

政治資金規正法がザル法であり続ける限り、第二第三の舛添どころか、千人も万人も舛添が出続けるだろう。すでに現在の政治家のほとんどが舛添予備軍だ。発覚していないだけの話である。

このような腐敗の構造を一掃しようという者は誰もいない。この国は中央の政治家から地方の子供たちまで、大きなことから些細なことまでコネクションを利用したがる人間ばかりで、誰もそのコネクションを放棄しようとは思わない。国の隅々まで、腐敗の構造にどっぷり浸っているのがこの国なのだ。


レース結果~安田記念

2016年06月05日 | 競馬

安田記念の結果

1着ロゴタイプ 無印
2着モーリス  ◎
3着フィエロ    ▲

私の印
◎モーリス     2着
〇リアルスティール 11着
▲フィエロ     3着
△サトノアラジン  4着
△イスラボニータ  5着
△ロサギガンティア 9着
△コンテントメント  12着
△ディサイファ    6着

無印にしたロゴタイプが勝ちました。馬券はハズレ。このメンバーでロゴタイプの頭はなかなか買えません。展開に左右されたレースで、モーリスはスタートから相当にかかっていました。ベリー騎手が馬にまかせて行っていたら、同然ロゴタイプの頭はなかったでしょうし、レースはどう転んでいたかわかりません。あれほど腕力に任せて馬を押さえつけてしまったら、最後の脚がなくなるのは当然です。よくあの展開で2着にこれたものだというのが正直な感想です。
今回のモーリスは騎手のせいで実力を発揮できなかった気がします。

さて連続G1も一段落しました。次は宝塚記念ですね。 


安田記念~モーリス

2016年06月04日 | 競馬

安田記念G1です。

◎モーリス
〇リアルスティール
▲フィエロ
△サトノアラジン
△イスラボニータ
△ロサギガンティア
△コンテントメント
△ディサイファ

G1を4連勝のモーリスには逆らえません。鞍上がやや心配ですが、格の違いで押し切るでしょう。相手もほぼリアルスティールで決まりだと思いますが、少し距離が短い気もするので、フィエロサトノアラジンに先着を許す場合もあるかもしれません。 
馬券は◎モーリスを頭の3連単フォーメーション(8-7、10、11-3、4、5、7、9、10、11)の18点勝負。 


本当に見つかってよかったのか

2016年06月04日 | 政治・社会・会社

北海道で置き去りにされていた男の子が無事に見つかった。

テレビや新聞は無事でよかったの大合唱だ。報道され始めた最初から、早く見つかってほしいの大合唱だったから当然の話ではある。テレビの評論家も捜索している人も子供の家族もみな、早く見つかってほしいと口をそろえていた。驚いたことに、海外でもこのニュースは報道されていたらしい。

しかし最初から違和感があった。彼らは本当に見つかってほしいと思っていたのだろうか。見ず知らずの子供が死んだり行方不明になったからといって、どこまで同情するだろうか。「へえ」と言って終わりではないか。報道されて名前を知ったから、そこに僅かな愛着(執著)が生まれたために早く見つかればいいとなんとなく感じているだけなのだ。他人の猫や野良猫が死んでもちっとも悲しくない人も、自分の飼い猫が死んだら死ぬほど泣く。
この心理は報道の側にもある。海外で大量死亡事故があると必ず報告されるのが、乗客には日本人はいなかったという話だ。そうか日本人はいなかったのか、よかったねとでも言いたいのか。事故で死んだ外国人の家族がその報道を聞いたら、おそらく不快感を感じるだろう。

子供は世界中で毎日たくさん死んでいる。虐待で殺されたり、重労働で死んだり、または爆撃や銃撃で死んだりしている。日本でも毎日死んでいる。親に殺されたり、同級生に殺されたり、交通事故で死んだりする。自殺する子供も多い。日本の自殺者数の50人に一人は未成年だそうだ。日本における年間の実際の自殺者数は警察庁の発表の約2倍の6万人ほどだから、未成年者の自殺は年間で1,200人。毎日3人以上が自殺している訳だ。
世界の紛争地域で死んでいる子供たちの数となると、想像もつかない。

今回、子供が無事でよかったと発言している人たちは、世界中で毎日死んでいる子供たちについては多分何も考えていない。知らないからわからないのだ。知っていることだけに感情が動く。当然のことなのかもしれないが、本当にそれでいいのか。

今日も世界中で無名の子供たちが、理不尽に死んでいる。そのことに思いを馳せる者は誰もいない。


大和という名前の子供

2016年06月01日 | 政治・社会・会社

自分の子供に大和=ヤマトと名づける親のメンタリティはどのようであろうか。

大和とは日本という国のことだ。日本は魏志倭人伝の昔から倭の国であり、倭はヤマトとも読む。ヤマトタケルノミコトを漢字で書くと日本武尊だ。和の一文字でもヤマトと読む。和と書いてヤマトと読む名前の高橋という将棋の女流棋士がいた記憶がある。大日本帝国と同じように、和に大をつけたのが大和で、大は自尊の接頭語と考えられる。日本はすごいのだ、という自己陶酔型のナショナリズムの表れが大和である。そういえば中曽根大勲位なんてのもいたな。あれがどうして「大」勲位なのか意味不明だが、政治家のお手盛りで叙勲されたと考えれば合点がいく。大江健三郎は文化勲章を拒否した。

ほとんどの人間は国家や地域という共同体に精神的に依存している。共同体に精神的に依存するというのは、自分で物事を考えて価値観を会得するのではなく、共同体の価値観に降伏することだ。降伏するというのは人間にとって面白くない事態だが、本人に降伏しているという自覚がなければ不快感はない。そして子供にヤマトという名前をつけるのはそういう人間が親になったときだ。

共同体に魂を売ってしまった人間にとっては、共同体に認められることが生きがいとなる。会社や役所や団体の中で出世したり、スポーツや文化、芸術で認められたりすることだ。共同体の価値観の中で生きている限り、何の迷いもなく生きていける。そういう人間の子供が、共同体のルールに従わない行動をしたらどうするか。ヒステリックに子供を殴打するだろう。または押入れに閉じ込めたり、あるいは森の中に置き去りにするかもしれない。共同体の中での自己保身のためだ。

そして子供が死んだり、行方不明になったら世間は親を非難する。親の資格がないとか、酷い仕打ちだとか言って責める。非難する人間たちも共同体の価値観に蹂躙されているのだが、生憎彼らにはその自覚がない。非難される親も、非難する世間の人間も、実は同じ穴の狢なのだ。

北海道で親に置き去りにされて行方不明になった子供の名前も大和くんだ。親としての無条件の愛情よりも、共同体の価値観を優先して子供に接した結果、反抗的な子供に育ったことは容易に推測できる。もし戻ってきても、大和くんのせいで共同体から非難を浴びた親は、自分のしたことを棚にあげて子供を責め続けるだろう。大和くんが中学生くらいになったら、そんな親を殺してしまうかもしれない。そういう事件はいたるところで起きている。

日本という共同体に精神的に依存している国民だから、こういうことが起きる。自分は自分、共同体は共同体、そして子供は子供として、それぞれの存在に対して客観的な見方や接し方をすることは、日本人には百万年経っても無理だろう。これからも子供は、親の共同体に対する自己保身のために人権を蹂躙される。そしてそういう子供が、自分がされたと同じように子供を蹂躙するのだ。いつまでもこのループが続くのが、この日本という国である。