映画「ラ・メゾン 小説家と娼婦」を観た。
哲学的であり、蠱惑的な作品だ。とても面白かった。
秘密は、他人に告げた瞬間から秘密でなくなる。死ぬまで秘密にしておきたければ、一生誰にも言わないことだ。人に話すのは、秘密にしておけないというよりも、共感を得たいからで、本当に秘密にしておきたいことは、共感など必要としない。死ぬまで誰にも喋らないことは、誰でもひとつやふたつはあるだろう。人類を殲滅させる妄想などは、話したら最後、頭がおかしいと思われるから、絶対に人に言えない。セックスの性癖なども、特別なセフレができたら話すかもしれないが、そうでなければ一生、他人には話せない。
しかし小説家は小説の中で、誰にも話せない秘密を、登場人物の口を借りて吐露させる。その秘密というのが、人間の心の闇を炙り出すとき、その小説は優れた小説となって、皆に読まれる。小説家は身を削って書いているから、褒められても苦しいし、貶されると自分の存在が否定されたように思う。
本作品のエマは、自分が娼婦を体験中の小説家であることを、作品中で少なくとも3人に話す。もはや秘密ではない。それは必ず小説を書き上げる覚悟の現れでもある。他人に話すことで自分を追い込むのだ。小説を書く作業は、とても苦しいことだから、自分を追い込む必要がある訳だ。
人間は年がら年中発情している動物だが、セックスは他人との共同作業だから、はじめるには交渉が必要だ。手っ取り早く性行為をしたい人も多いだろう。売春婦が世界最古の職業だと言われるのも頷ける。
世界中に売春やそれに類する商売がある。日本ではソープが売春の主流で、高級店になると、ソープ嬢はみんなピルを飲んでいて、生の中出しの店もある。ピル休暇の取得が必須になっているなど、ソープ嬢の健康管理はしっかりしていて、必ずしもハードワークとは限らない。廉価店は、高級店に比べると労働環境は劣ると思う。
本作品のラ・メゾンは、多分公認の管理売春施設だ。ドイツでは売春が合法なのである。当局の摘発を恐れずに仕事ができる点は、日本とは随分と異なる。しかし売春が合法だからといって、娼婦の立場が向上したかというと、それはそうでもないようだ。
世の中のパラダイムは、依然として売春には否定的である。フランス人はセックスにはおおらかで、付き合うかどうか、セックスしてから決めるという人もいる。ちなみに、フレンチキスという言葉は、舌を絡め合い唾液を飲み合う濃厚なキスのことだが、日本では軽いキスのことみたいに誤解されている。本作品でエマが彼氏と交わしたのがフレンチ・キスだ。
同じフランス人であるエマの妹は、売春には悪いイメージを持っているようで、姉の体験について否定的だ。妹はまだ自分で深く物事を考えたことがない。哲学がないのだ。だから世間のパラダイムで姉のことを断じてしまう。
売春は、何を売っているのか、何を消耗するのか、そして、何を失うのか。セックスは人間に何をもたらすのか。卑近で日常的なテーマではあるが、同時に哲学的でもある。小説家のエマが、売春婦を体験したいと思うのは、ある意味、当然の話である。この体験を経て、エマがどんな小説を書いたのか、とても気になるが、それは本作品とは別の話だ。
余談だが、エマの彼氏が作っていた「ブランケット・ド・ヴォー」というフランス料理は、仔牛のクリーム煮である。仔牛肉は高級品だから、滅多に食べることはないが、鶏のクリーム煮の「ブランケット・ド・プーレ」なら、フレンチ店のランチでたまに食べることがある。繊細だが簡単で美味しい料理なので、当方もときどき自宅で作っている。
映画「スライス」を観た。
前知識なしだと戸惑う。人間と幽霊と魔女と狼男が共存している街というのが考えづらいし、市長が幽霊に向けた演説をするのもコミカル過ぎる。
しかしなんでもありのカオスな街だという前提で見れば、スラップスティックに笑える。意外にドギツいゴア描写も、それなりに楽しめる。その場しのぎの人々のお気楽で大胆不敵な生き方には、ある種の爽快感があった。傑作ではないが、ケッサクである。
映画「ショーイング・アップ」を観た。
長屋の人々が登場する落語の人情話みたいな映画だ。
ケリー・カイラート監督は、2019年の前作「ファースト・カウ」では、食い物と女と金儲けのことしか頭にない男たちの様子を思い入れたっぷりに描いてみせたが、本作品では女たちが中心人物で、迷惑を掛け合いながらも、互いの存在を受け入れながら暮らす様子をユーモラスに描いてみせた。
男たちは相変わらず自分勝手だが、悪意はない。主人公リジーの兄や父も例に漏れず、自分勝手で我が道を行くタイプだが、やはり憎めない男たちだ。登場するのは芸術系の学校の教授と学生で、芸術家は大抵がゴーイングマイウェイである。人のことを気にしないし、ひとから世話を焼かれることに抵抗がない。
しかしリジーは芸術家でありながら、世話女房のようにあれこれと気を遣う。それはそれで幸せなのだろう。同じように身勝手なアジア人女性の大家とは、怒鳴り合ったりもするが、それでも仲はいい。やっぱり長屋の人情話である。
映画「エターナル・ドーター」を観た。
音楽と映像はホラーみたいだが、マーティン・スコセッシが製作総指揮に名を連ねていることから、ホラーではないと思う。
ティルダ・スウィントンが演じた主人公ジュリーの内面世界を、彼女の一人二役で現実のホテルとその周辺にイメージとして思い切り膨らませてみせた作品である。
初老を迎えようとしているジュリーの孤独と喪失感が、モノクロに近い淡い色彩の映像から透けて見える。深い後悔や不安もある。母の記憶と、できなかったことが実現していたらという妄想と、それに現実とが、互いに境界線を曖昧にして、主人公の周りに広がっていく。
それは心のなかに溜まった澱のようなもので、捨て去らなければ前に進めない。そのためにこのホテルに来たのだ。孤独に自分の心の闇と対峙する姿はとても凛々しくて、ティルダ・スウィントンに相応しい役柄だった。オープニングは嵐の夜のようだが、エンディングには晴れた朝を迎えたような爽快感がある。
映画「ファースト・カウ」を観た。
ケリー・ライカート監督の感性が面白い。登場人物はほとんど男で、開拓時代の男たちの頭の中には金儲けと食い物と女のことしかない。それに暴力で他人を蹂躙することだ。他人に暴力を振るうことのハードルが現在よりもずっと低かった時代である。人の命も軽かった。
料理以外に何の取り柄もないクッキーは、人から雇われるだけで生きてきたが、商売上手な中国人がクッキーの料理で儲けることを思いつく。しかし金はない。ではどうするか。
単細胞の男たちの裏を書いて商売するところは面白いが、危険だからいつまでも続けてはいられない。元手ができたら西海岸の都市に行って商売を広げようとするのだが、最後のひと稼ぎの準備をしているところに陥穽が待っている。
人生はうまくいかないものだ。それでも生き延びて一旗揚げてやろうという男たちの姿は、愚かではあるが愛おしさもある。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。中には命がけで成功する者もいるだろうが、命を失う者たちも数多くいた。死んでいった無名の男たちにも、それなりの人生があったのだ。
本作品は2019年に製作されている。なかなか味わいのある作品だ。同じライカート監督で2023年に製作されたミシェル・ウィリアムズ主演の映画「ショーイング・アップ」も観てみようと思う。
映画「PERFECT DAYS」を観た。
都会の片隅にある公衆トイレの清掃員は、見えているのに見えない存在である。制服を着る仕事の多くは、スキルを求められても、個性を求められることはない。しかし主人公平山にとってはそのほうが居心地がいい。
諸行無常と一期一会。それが本作品の世界観だと思う。人生は出逢いと別れの繰り返しだ。しかし決して不幸なことではない。仏教の世界観に似ているが、平山に説教臭さは皆無だ。そのあたりがとてもいい。
タカシは、朝イチのトイレは最悪だと言うが、昨日の朝イチのトイレと今日の朝イチのトイレは、決して同じではない。僅かな違いがある。
24時間が経てば、人も、木も、トイレも、何もかも、昨日とは違うのだ。東へ向かう車に差し込む朝日も、昨日の朝日と同じではない。我々の毎日は、常に一期一会なのだ。
どうせまた汚れるんですよとタカシは言う。そんなことは分かっている。人が使えば、トイレは汚れる。しかし汚れたら、また清掃すればいい。使うのは同じ人かもしれないし、別の人かもしれない。使う人たちは気づいていないが、常に違うトイレと遭遇しているのだ。
人は人生の舞台を演じる役者だ。芝居は毎日変わるが、舞台装置は、常に完璧でなければならない。平山は今日もトイレを磨く。
朝には朝の邂逅があり、夕には夕の邂逅がある。とても楽しくて、ワクワクするし、ウキウキもする。しかしあくまでも個人的な楽しみだ。他人(ひと)と共有することは出来ないし、しようとも思わない。他人は他人、自分は自分だ。語ることは何もない。
役所広司は見事だった。表情や仕種に、平山の抱えている無常観が滲み出る。それに寛容と優しさも。平山は大きな人だ。寡黙で、誰からも愛される。この役を演じられる役者は希少だ。
希少と言えば、ホームレスのダンサーを演じた田中泯が凄かった。あの役を演じられる俳優は、舞踊家でもある田中泯の他にいない。唯一無二の存在であり、樹齢数百年の大樹のような存在感があった。
余談だが、平山の軽バンのメーカーはダイハツだった。映画の公開の直前に、ダイハツによる大規模な試験不正が大きなニュースになった。なんとも皮肉な話だが、平山はそんなことは少しも気にしないだろう。日日是好日である。
映画「ティル」を観た。
以前、クレーム対応の仕事をしていたことがある。対応する際の基準としたのは、先方にどんな被害があったかということである。実害だけでなく、時間のロスなども含めて、被害であることが認められる場合は誠実に対応したが、単に感情を害したという場合は、平謝りするだけで済ませた。それでも納得しない相手も多かったが、最後には「どんな被害があったのか、ご説明いただけますか」と、最後通牒を伝えた。物別れに終わることもあったが、それでもよかった。理不尽な精神性の人間にいつまでも付き合うのは時間と労力の無駄である。
この経験から学んだことは、他人に対して怒りを覚えそうなときに、自分はどんな被害を受けたのかと自問することである。被害がないのに腹を立てるのは、理不尽な精神性が自分の中にも残っているのだと反省する。あるいは不寛容を反省する。この自問を日常的に使うようになってからは、滅多に怒りを覚えなくなった。
さて、本作品の白人女性は、どんな被害を受けたのか。黒人少年から美人だと言われた。口笛を吹かれた。それがどんな被害なのかは、女性本人にも説明できないだろう。理不尽な差別意識に由来することは明らかだが、おそらく本人は認めない。
不寛容と差別意識を白人社会が共有して、それを是としているところが恐ろしい。共同体を自分たちのものと勘違いしている訳だ。全体主義者の精神性である。差別主義者は同時に全体主義者でもあるのだ。
南北戦争のあと、黒人の参政権が認められたが、実際は白人の妨害で、100年近くの間、選挙権を行使することができなかった。ケネディが公民権法の成立を進めていて、暗殺されたあとに成立した。エメット少年が殺された9年後の1964年のことだ。
人類が参政権の差別を取り払ったのは、20世紀後半である。本作品で紹介された事件を元に、私刑(リンチ)を禁ずる法律「エメット・ティル反リンチ法」が成立したのは、なんと2022年のことだ。差別解消の歴史は、まだ始まったばかりと言っていい。
世界全体が右傾化しているというニュースをよく耳にする。人民がいちばん大切だという考え方が民主主義、国家がいちばん大切だという考え方が国家主義であるとすると、右傾化しているということは、人権が蔑ろにされようとしているということだ。
日本でも同様である。被害ということで言えば、健康保険証がなくなるとたくさんの国民が困る。つまり被害を受けるのだ。被害を与える政治家がいまだに当選し続けているのはおかしい。他にも人権侵害の発言を繰り返す国会議員もいる。
日本の有権者の多くは、本作品に登場するミシシッピ州の白人たちと同じ差別主義者であるということだ。本作品で紹介されたのは、他国の過去の出来事ではない。現代の世界の歪んだ精神性がさらけ出されたのだ。
映画「屋根裏のラジャー」を観た。
原作小説のタイトルは「The Imaginary」である。中学生の英語で習ったように、the+形容詞ということで直訳すると「◯◯な人々」で、imaginaryは想像上のという意味だから、「想像上の人々」というのが原作小説の直訳だ。本作品では「想像上の存在」だろう。
Rogerは人名のロジャーだが、米兵が通信で了解のときにも使う。そちらの発音はラジャーである。アマンダは元気よく返事をしてくれる友だちを想像して、ラジャーという名前をつけたに違いない。想像というよりも、妄想に近い。
妄想するのは子どもだけとは限らない。大人でもよく妄想する。大抵の場合は被害妄想で、受けてもいない被害で怒ったり、悩んだりする。しかし前向きな妄想もある。空を飛ぶ、地球の裏側にいる人と通信する、月に行くなど、多分最初は妄想から始まったはずだ。それを否定しない豊かな心の持ち主が、科学者となって妄想を現実に変えたのだ。
子どもの妄想は、普通はその子どもの心の中だけで完結する。他人には話さない。縦だけの関係だ。しかし本作品は、妄想同士が触れ合い、コミュニケーションを取り合えば、面白いファンタジーになるだろうという妄想で作られている。横の関係である。妄想たちはコミュニティを作ることもあるかもしれない。猫の会議みたいなものだ。野良猫と飼い猫が一堂に会して、情報交換をする場である。猫たちは、飼い主の噂をしたり、じゃれ合ったり、悩みを話したりするのかもしれない。妄想たちも同じようにしていると考えれば、世界が広がっていく。
妄想は現実には勝てないと、Mr.バンティングは言う。そうだろうか。現実を辛く感じている子どもは、妄想にこそ、生きる意味を見出していることもあるだろう。妄想が現実を支えているのだ。人間の無意識の世界は広大である。精神世界の大半は無意識で、意識は広大な海に浮かぶ小さな島のようなものだという脳科学者もいる。夢を見る脳の働きを担っているのは、殆どが無意識の領域だ。
悪魔の物語をするときに、悪魔がどういう理由で存在しているのかを説明することはない。Mr.バンディングは悪魔のようなものだろう。想像するから、存在するのだ。説明不要の絶対悪の存在である。ファンタジーには必要な要素のひとつだ。
そんなことを前提にして、本作品の物語は様々な方向に展開していく。空も飛べるし海にも潜れる。自由自在なのが妄想だが、必ずしも自分にだけ都合がいいとは限らない。そこが潜在意識の面白いところで、都合が悪くなる状況も同時に想像する。ファンタジーはどこまでも広がっていくのだ。
どういうふうに収拾をつけるのか、作者次第であるが、どんな結末でも、子どもたちは受け入れるだろう。子どもたちの想像力は意外と複雑で、必ずしもハッピーエンドを求めている訳ではない。不幸な結末でも、それなりに受け入れるのだ。
寺田心くんはやっぱり上手い。安藤サクラ、山田孝之、杉咲花といった大人たちが脇を固める中で、微妙な立場にあるラジャーの心を繊細に表現していた。演出も音楽もアニメーションもとてもよくて、大人も楽しめる上質なファンタジーに仕上がっていると思う。
映画「Le pot-au-feu de Dodin Bouffant」(邦題「ポトフ 美食家と料理人」)を観た。
冒頭から延々と料理のシーンが続き、終わったと思いきや、今度は食事会が始まり、またしても料理のシーンが続く。これがとても楽しいから不思議だ。食べることはほとんどの人が好きだから、大抵の人は私と同様に、美味しそうに作る料理と、美味しそうに食べる食事のシーンを楽しく感じると思う。
原題は映画サイトでは「Le pot-au-feu de Dodin Bouffant」(ドダン・ブウファンのポトフ)となっているが、オープニングに出るタイトルは「La Passion de Dodin Bouffant」(ドダン・ブウファンの情熱)である。多分こちらが正式のタイトルなのだろう。ポトフはドダンの挑戦のひとつではあるが、主なテーマはドダンの料理に対する情熱だ。それに愛。
ジュリエット・ビノシュが料理人のウージェニーを演じているのだが、映画「Winter Boy」で演じた愚かな母親とは打って変わって、ウージェニーは、知恵と料理人としてのポテンシャル、それに優しさに満ちた、人間的に深みのある女性である。素晴らしいお尻の曲線も含めて、満点の演技だった。
相手役のドダンを演じたブノワ・マジメルもよかった。いっときは一緒に暮らして子供も出来たジュリエット・ビノシュと恋人役で共演するのは、心の整理が大変だっただろうと思うが、映画ではそんなことは微塵も感じさせず、ひたすらドダンに徹している。プロの俳優の矜持を感じた。
オーギュスト・エスコフィエの名前が話の中で出て、38歳と紹介されていたから、本作品の時代は1884年か1885年だと推測される。打ち出しの銅鍋や銅のボウルが使われていて、ステンレスが普及した今となっては、逆に高級な調理器具となっている。ソースをきちんと作る時代だから、残滓を濾すシノワが大活躍している。そういった調理器具のひとつひとつや、燃える炭を使うコンロやオーブンなど、時代を感じさせるものがたくさん登場するのもいい感じだ。この時代はこの時代なりに工夫して調理をしていた訳だ。素材をやっつけすぎた料理の次は、ただ焼いただけの丸鶏を堪能したりしているところに、登場人物たちの食通らしさが浮かび上がる。彼らの気持ちが凄く分かる。
アメリカ映画みたいな華々しい展開はないが、四季の食材を使って料理を作る喜び、食べる喜びと食べてもらう喜びが存分に感じられる。食を通じて、生きることを力強く肯定した傑作だと思う。
映画「最悪な子どもたち」を観た。
オーディションで選ばれた子どもたちが、映画に出演して演技をする中で、日々の葛藤や悩みなどが噴出して、ひとつ成長するという物語だが、それを演じる子どもたちが、実際にオーディションで選ばれた子どもたちだという、二重構造になっている。とても面白い。
作中の映画の監督やスタッフはみんな俳優が演じている。それを踏まえて鑑賞すると、子どもたちの演技が驚くほど上手いことが分かる。
子どもたちは、自我が目覚める2歳頃から、周囲の人間との関係性を推し量りながら生きている。イエスもノーも、周囲の大人たちの反応を見ながら、どちらがリスクが少ないかで選んでいるのだ。つまり日常的に演技をしている訳だ。
大人でも、多かれ少なかれ、日頃の生活で演技はしている。台詞を考え、表情を作る。どうすれば利するだろうか、どうすれば笑われないで済むだろうか。本当のことを言うことは滅多にない。それは大抵の場合、損をするからだ。
しかしそれでは人生が楽しくない。たまには本音を吐露して、人生の傍観者から当事者になることが大事だ。傍観者で生きていると、自分の人生さえも傍観してしまう。喜怒哀楽から一歩引いた人生になる。
大人になってからはそれでもいい。しかし子どもの間は、感情を解き放つことをしないと、感情自体が乏しくなる。人生の味わいを失ってしまうのだ。
そこで子どもたちに演技をさせる。演じることで無意識の自己抑制を解き、感情を自由に表現させる。それが本作品のテーマであり、ロジックだと思う。情操教育のひとつのあり方を示したとも言える。意義のある作品だ。